ものの色が失われるほどに強い光を放つ太陽が、こめかみからじりじり、じりじりと頭の芯を焼いてくる。深緑色をした木々の葉末を突き抜けたプリズムの木漏れ日はあまりに眩しく、私は瞼を眇めずにはいられなかった。

 夢を見ていた。
 夏だ。
 石壁と煉瓦造りの異国の街並みがあざけるように色の失せた陽炎の中に浮かんでおり、靴底を鳴らして行き交う雑踏の中を一人で立ち尽くしているのは他でもない、若かりし私であった。蝉の鳴かないあの国の夏は嫌いだった。日に照らされた畳の井草も、くゆる蚊取り線香の煙も香らない無味乾燥の夏だった。狂ったように神経を病んでいた自分も、そんな私を遠巻きに眺めていた隣人も、書けないまま引き出しに仕舞われていた手紙も、すべてが記憶に錆びた楔を打ち込んで、私はあの夏から動けない。ひからびた極彩色の中で、ひとり溺れていくような心地がしていた。

 風がざわざわと木々を揺らした。
 木漏れ日が閉じた瞼のおもてで踊った。
 夢を見ている、夢の中で夢を見ている、君が泣きながら血を吐いている。

 僕に骨の浮いた手を伸ばしてくる君は、病人特有のすこし甘いにおいがしていた。日に焼けなくなった白い肌は、光あふれる母国の夏の底で、冷え冷えとした影に飲まれていく。虚ろな目が、こちらを見ている。何かを言っている。――これは、夢だが夢ではない、いつかの記憶であった。あの時君は生気のこぼれゆくただ中で、それでもまだ笑っていた。確かに私にむけて笑ってくれていた。あの日どうやって彼に別れを告げてきたのかを、今の私ははっきりと思い出すことができない。ただ記憶に鮮明なのは、薄暗い室内と目映い庭の緑、その残酷なまでのコントラストと、日焼けした畳のにおいに混じる濃厚な死の香りだけだった。

 視界が一度まっさらに光って、じきに暗くなった。辺りはひたすらに黒く、眼球を失ったかと思うほどの純粋なる闇であった。その闇の中で、おびただしい何かが蠢いている。ざわざわと寄り集まって闇になっているそれは、無数の黒い文字どもだった。穢れた文学の末路、もう崩れて消えてゆくさだめのものども。それが侵蝕者と呼ばれる無粋によって生み出されたものであるということを、私は知っている。
 羽虫のようにさざめく漆黒、その中に君が居る。蠢く黒い群れに飲まれそうになりながら、新星のごとく煌めく瞳で私を見て、笑ってなにかを唇で紡いで、そして消えていく――――




「……ッ!」

 飛び起きた途端、ひゅうと可笑しいほどに下手くそな呼吸が耳についた。動機がひどく激しく、喉元までどくどくと脈打っている。冷や汗が首から背中へと流れるのが分かった。
 真夜中だ。腕を伸ばしてカーテンを指先ですこし開くと、時計を見るまでもなく草木も眠りにつく時刻であろうと判ぜられた。夏目は乱れていた呼吸を落ち着けると、額の汗をぬぐい、寝巻きにしていた浴衣からシャツとスラックスに着替えた。そうして、のろのろとした足取りで部屋のドアへと向かった。どこへ行こうという当てもなかったが、自室に居るのは辛抱ならなかった。まんじりともせずじっとしていたらおかしなことを考えてしまいそうだったし、もう一度眠りについたらまたあの夢を見てしまうかもしれないと思うと更におそろしく、少しでも体を動かして気を紛らわしたかったのだ。
「え……?」
 ドアを開いたところで、廊下の壁に寄りかかっている人影が視界に入った。まさかこんな時刻に余人の姿を見るとは思わなかったために、夏目は警戒と驚きをもって身を硬くした。が、その人物は窓外から降る月明かりを受けていたので、姿かたちはすぐに知れた。そうでなくてもきっと分かっただろう、外でもないその男のことならば、夏目は分かってしまう自信があった。
「正岡、どうして」
「んん、なんか眠れなくてな」
 気安い調子で笑った彼は、トレードマークの金属バットを逆さに持って先端を床につけて立っていた。明るい色の髪が月光にさらさらと輝いている。その姿は、どこか地獄の獄卒を思わせた。まるで自分が部屋から出てくるのを待ち構えていたようだと考えてしまい、当たらずとも遠からずかもしれない、と自嘲がちに夏目は仄かに笑った。
「まだ、怒っているんだろう?」
 微笑をたたえてそう尋ねた夏目に対し、正岡は人好きのする表情を引っ込めると、すこしく眉をひそめてじっと夏目を見つめた。不機嫌そうで、ふてくされているようで、やはり怒っているようにも見えるその表情から、無言のうちに多くの感情を注がれたような気がして夏目はまなこを伏せた。彼にこうして黙って見つめられるのは、いつだって苦手だった。喜びにつけ苦しみにつけ、正岡によってもたらされた感情は身に余るほどに溢れてしまうからだ。









 夕の潜書でのことだった。
 正岡は有碍書の最奥部での同時射撃で重い侵蝕を受け、一気に喪失状態へと陥っていた。司書にも読めないほどの侵蝕力の高さだった。会派筆頭である森が正岡を抱えるようにして退けと叫び、すぐに全員が撤退したが、帰路の中腹に差し掛かった頃にはもう正岡の体は四肢の先から文字となって崩れかけており、絶筆という響きが誰しもの胸によぎった。彼から放たれてゆく夥しい文字、黒くざわめくそれらは死肉にたかる羽虫のようでひどくおぞましかった。

 しばらく走ったのち、移動し続けるのは良くないという森の判断で皆は足を止めた。
 夏目は地に下ろされた正岡の体を支えながら叫ぶように名を呼び続けていたが、その声を遮るように文字群の慣らす雑音がわんわんと風のうなりにも似た音をたて始めていた。もう瓦解は止めることはできない、そう頭のどこかでは悟っていても、到底受け入れることはできないまま形を保っている正岡の胴や頭を強く抱いた。
「萩芒、来年会わん……さりながら」
 その時、あの言葉を正岡が呟いた。掠れた、一音ごとに血を滲ませるような響きをはらんでいた。崩れかけた温度のない手が、夏目の手を強く握った。
 瞬間、ぞっとして夏目はこの上ないほどに瞠目した。
 この句、これは自分に宛てた手紙に書かれていた句だ。
 いつかの秋をつぶさに思い出した。もう再び会えることはないだろうと悟っていた彼の言葉の奔流、まだ日本に居た頃に最後に見た痩せた笑い顔、そうして返せなかった手紙の震えた文字、それらが鮮明にフラッシュバックし、自らの下に底なしの黒穴が大口を開いた確信に震えた。わななき見開いた目の前を、黒々とした文字が嘲笑うように躍った。
 すかさず懐に手を入れると、夏目は掌に収まるほどの赤紫色をした宝石を取り出し、迷わずに正岡の胸に押し当てた。
「漱石殿、」
 森が焦りを含んだ声をかけようとしたが、その肩を幸田が掴んだ。無言のうちに何かを訴える眼差しでもって彼は森を黙らせると、下瞼を持ち上げて夏目の持つ石を見つめた。
 視界の端でその動向をかすかに認識しつつも、夏目は焦点を決して一寸もずらそうとはしなかった。キィン、と高い音が鳴り、賢者の石がまばゆい光と共に割れて正岡の体に溶けてゆくのを、息もしないで眼窩に収めようとしていた。

 皆が見つめる中、黒い文字の波が賢者の石を中心に浄化され、青白い光を纏って正岡の体へと戻ってゆく。侵蝕される前の状態へと文豪を組成し直してゆく、その浄化の光に正岡と夏目の体はほとんどすべて包まれていた。抱きしめる腕に熱が伝わり、温かい生命が彼の内で再び息づき始めたのを感じた。
 ちいさく呻き、薄らと正岡が目を開けた。そこで百年ぶりに呼吸ができたような心地がして、夏目は顔を覗き込むとまさおか、と呼びかけた。
「なつめ、」
 少し掠れた低い声。それだけ聞くと、堪らずに正岡の肩に額を押し付けた。広い背に腕を回してぎゅうぎゅうと臆面もなく抱きしめてくる夏目に驚きながら、正岡は「おい夏目、もう大丈夫だよ」と気の抜けたような声を出して、安心させるように夏目の背をぽんぽんと叩いた。その手から伝わる体温と普段と変わらない声色に、全身の力が抜けていく。涙が出そうだった。しかし涙は流れなかった。泣くことなど忘れるほどに、この男が命を繋いだという現実に安堵していたのかもしれない。
「よかった、本当に……」
 一度顔を上げ、間近にある顔をじっと見つめてからただそれだけを呟いて、夏目は正岡の胸に顔をうずめた。




「困ります、勝手なことをされては」
 潜書室に戻るとすぐに、待ち構えていた司書から説教を受けた。予測していたことではあったが、補修も待たずに叱責されるということは想像以上にに深刻な規則違反であったらしいとすぐに知れた。
 夏目はあの時、自分が持たされていた賢者の石を独断で正岡に使ってしまった。賢者の石は本来、それを持たされた者にしか使うことの許されない貴重な物である。練成には多大なる時間と費用を必要とするため、使用を許可された文豪は希少度の高い者に限られていた。転生確立の低い順に分類されている文豪の中でも、この図書館で賢者の石を持たされているのはおそらく金と虹の二種類にあたる文豪だけであった。夏目はそのうちの一人であったというのに、無地に類する正岡に貴重な賢者の石を使ってしまったというわけだった。
「申し訳ありませんでした。今回の分は私の給金から差し引いてください」
「いや、それなら俺の……」
 慇懃に謝罪を述べた夏目の脇で、声を被せながら正岡が身を乗り出した。その言葉を片手を上げて遮って、司書は困ったようにかぶりを振った。
「そういう問題ではありません、先例を作ってしまうと今後に支障をきたしかねません。私も皆さんが絶筆に陥らないよう最善を尽くしますが、とにかく今後こういうことはしないようにお願いします」
 神経質そうに言葉を選んだ司書は、そう言うと軽く頭を垂れた。今回の正岡の重い侵蝕には自分の判断ミスも原因であったという負い目があるのだろう。その姿に一寸黙ったのち、「すみませんが」とゆっくり前置いて、目を伏せると夏目は静かに言葉を続けた。
「それはお約束できません。あれを聞いて黙って逝かせるくらいなら、私も正岡と一緒に死にます」
 穏やかながら、きっぱりとした物言いであった。その響きの強さにぎょっとする一同の視線を受けても動じる様子もなく、夏目は常と変わらぬ笑みを浮かべて静かに佇んでいた。傍らに立つ正岡はおい、と何事かを反論しかけたものの、静謐なその顔つきがまるで磨き抜かれた鏡のように一切を跳ね返さんとしているようで、ついに二の句を継ぐことができなかった。
 司書はしばらくしてからひとつ溜息をつくと、諦めたように肩を竦めてその場を後にした。









「俺は、まだ怒ってるよ」
「そうですか」
 ぶすりとした声色が寄越された。掠れた声がいつもよりも一段と低く響いた。夏目は薄くほほ笑んだまま困ったように眉を下げ、宛てもなく夜の廊下へと視線を流しやった。
 あの後から正岡はすっかり機嫌を損ねて口をきいてくれなくなってしまい、夕食時もその後も、一言も喋らないまま夜を迎えてしまっていた。彼の性格からいって怒るのも当然だと思ったし、司書に告げた決意は単なる己の独り善がりであるということはよく分かっていたから、夏目は謝るでもなく正岡のしたいように任せていた。明日になったらちゃんと話しをしようかと考えていたのだが、よもやこうして真夜中に会うことになるとは思わなかった。
「眠れなかったのもお前のせいだぞ、お前があんなことを言うから」
「ふふ、まるで睦言のようだね」
「茶化すなよ」
 憮然として大股で近づいてきた正岡から、ほとんど無意識に後ずさって距離をとると、彼は傷ついたような顔をして足を止めた。しまったと思ったけれど、もう遅かった。もう一歩か二歩で額がくっつくかという距離だった。月光を背に受けた彼のかんばせはちょうど影になっていて、瞳に写り込んだ光だけがいやに目立った。
 こちらに転生してから一線を超えて懇ろな仲となった親友の、こうして磔にするかのごとき強さで見つめてくるまなこが、夏目はやはり少し苦手だった。それは睦みあっているような時であっても、こういった真剣にものごとを議論しているような時であってもほとんど変わらなかった。彼は知らないのだ、自分のあまりにも色濃く強い意志の籠る眼差しが、こんなにも相手の深淵までをも焦がすことがあるということを。

「なあ、悪かった」
「……どうして謝るんだい?」
「あの句」
 びくりと夏目の肩が震えた。その隙に数歩を詰めた正岡は夏目の二の腕を掴むと、咄嗟に逃げようとする体をその場にとどめて夏目、と潜めた声で名を呼んだ。懇願するようなその空気の震えにはっとして顔を上げる。あのじりじりと心臓を焼くような視線とぶつかった。
「無意識だったけど、俺があの時あの句を詠んだからいけないんだろ、だからお前は」
「違う、違うんだよ」
「夏目、頼むから一緒に死ぬなんて言うなよ。ほら……俺は万が一絶筆したって転生しやすいらしいから、またすぐにこっちに来れるだろうけどさ、お前は、」
 そこまで言って、正岡は喉まで出ていた声を引っ込めると、半端に開いたままの口を閉じられなくなってしまった。目の前で夏目が突然ぼろぼろと涙をこぼしたからだ。普段泣くどころか取り乱すことも少ない男の双眸から次々あふれる透明な滴を、ただ呆然と見つめる。それは嗚咽も生まない静かな泣き様だった。
 伏したまなこから栓が抜けたように流れる涙に気づいた夏目は、慌てた様子で掴まれていないほうの腕でそれを拭おうとした。だが正岡はそれよりも早く手を伸ばして夏目の両肩を掴むと、なにも言わぬまま夏目を抱きしめた。カラン、と金属バットが板目を鳴らした。夏目の頬やカイゼル髭の上で玉になっていた水滴が上着の布に吸い込まれ、群青色を色濃くさせた。
「すまん」
「……馬鹿ですよ、きみは」
「うん、ごめんな。だけどお前だって馬鹿だろ。俺の気持ちを知っていてあんなこと、普通は言わんぞ」
「君だって、僕の気持ちを知っているくせにいなくなろうと、したじゃないかっ……」
 ようやく正岡の背に腕を回すと、布地を握りしめて夏目は声を詰まらせた。小さく洟をすする音が聞こえた。しばらく抱きしめて頭や背を撫でていても、いっかな止まらない涙はじわじわと正岡の上着を濡らしていった。声をあげることのできない難儀な大人の泣き方だから、いつまで経っても尽きることがないのだろう。目玉がとろけてしまうかというほどに熱く、瞼は腫れぼったくて開くこともままならなかった。
「……俺な、実を言うと少し嬉しかったんだ」
「っえ、」
 耳朶に注がれた言葉に、夏目は耳を疑った。
「お前が一緒に死ぬって言った時さ。もちろん頭に来たぞ、だけど心のどっかで喜んでいたと思う。好きな奴があんなこと言ってくれて、嬉しくないわけがないんだよ。お前を死なせやしないけど、でもお前の気持ちは嬉しいんだぞ、ほんとうだ」
「…………」
「なあ、泣き止んでくれよ」
 泣かせたかったわけじゃないんだと、ごしごし親指の腹で夏目の目じりを拭う。いま耳にした言葉よりも、いっそう正岡の肌は熱く感じられた。そのぎこちない手つきに思わず笑ってしまいながら、夏目は拭われるに任せて目を瞑った。あの決意が空しい独り善がりではなかったことが、こんなにも胸を温かくしている。「僕らは馬鹿ですねえ」「うん、馬鹿だなあ」かたや涙声、かたや潜めた暢気な声でささやきあう。正岡の声がわずかにぬかるんでいることには気づかないふりをした。
 まったくもって、馬鹿だと思った。こうして同じ目的のもとに転生して、一緒に生きるだけでは飽き足らない。情を重ねても、いくら先の世での空白を埋めようとしても飽き足らない。たった今この気持ちを共有してようやく胸の空虚がひたひたと埋まってゆくような、情けなくて馬鹿らしくて愛おしい境涯に二人で飲まれていく。積もり積もった年月を濾過してあふれる涙は熱く、過去と悪夢に苛まれていた感情を洗い流しては、とめどなく正岡の手を濡らした。


「もっと強くならないとなぁ」
 ひとり言のように呟くと、正岡は自らの目尻にほんの少し滲んでいた涙を袖で拭った。もらい泣き、つられ泣き、何と言ったらいいか分からないが、夏目と感情を共有してこうなったのは確かだった。
 ちらと窓を見やる。月はいくぶんか傾いたが、まだ東の空は夜明けの兆しを見せない。腕の中で気まずげに顔を伏せている夏目の顎を持ち上げ、やっと果てを迎えた涙の跡をなぞりながら、そこに啄むような口づけを何度かして正岡はへへっと子どものように笑った。それを片眉を上げて見つめると、夏目はふっと思い切ったふぜいで愁眉を開き、ゆっくりと頷いた。
 そう、強くならなければいけない。
 どうあっても軽々しく死んだりしないように。
 この男を死なせないように。
「今夜は俺んとこで寝ろよ、な」
 いらえも待たずに手を握ると、正岡は自室へと夏目をぐいぐい引っ張っていった。悪夢を見たなんて話はしなかったはずなのに、まるで分かっているふうなのが可笑しかった。夏目はいざなわれるままに歩を進めながら、尻尾のように揺れている薄茶の髪の房をそっと空いたほうの手にのせて、そこに口づけた。もっといいとこにしろよ、と前を向いたまま笑う声がひどく甘く響いた。