・もりなつ


 悪夢に溺れる森はひどく苦しげに相貌を歪ませ、額には油汗が滲んでいる。わななく唇から何か意味のある言葉が飛び出したならすぐにでも起こしてしまおう、そう定めて様子を見守っていた夏目は、しかし一向に言葉を紡がぬまま呻く森をこれ以上見ていられなかった。肩に手をかけ、数度揺さぶる。鴎外さん、鴎外さん、と呼びかけていると、やがて弾かれたように覚醒した体が反射的に強張った。灰色のまなこが暗闇できりきり動いた。
「大丈夫ですか」
 尋ねると、未だ悪夢の余韻を引きずる彼は精悍なかんばせに怯えと苦悩を滲ませた。
「俺は、本当は医師など任せられる人間ではないんだ……俺など信じてはいけない」
 拳は握り締めすぎて白くなっている。夏目は森の悲痛を聞くとゆうるり目を細め、優しく微笑みながら握り拳にそっと手を重ねた。
「大丈夫ですよ、私は誰も信じておりません…ご安心くださいね」
 森はそれを耳にすると、はたと頤を上げ夏目を見つめた。迷い子が道を見出したがごとき輝きが瞳のほとりに宿った。そうして心底安堵したように眉を緩やかにすると、よかった、と呟きふたたび眠りに落ちていった。

 夏目は掛け布団を直してやると、愛しげに森の額の汗を指先でぬぐった。可哀想な人だと憂うのは、この人の二度の生に対して礼を欠く行為だと分かっている。憐れみも許しも、彼が求めるものではなかろうと思われた。
 もはや贖えぬ罪をそれでも抱え、森林太郎は役目を終えるまでもがき悩みながら生きていくだろう。己の判断、ほかの人間の判断、すべてを懐疑し見極めては過たずに済んだことに胸を撫で下ろし、それを繰り返してゆくのだろう。
 穏やかに人好きのする笑みを浮かべているもののその実、腹の底からは何ひとつ信頼できぬよう創られた夏目は、いつか森のそういった誠実さに身を委ねられる日を待ち望んでいる。彼が夏目に他ならぬ信頼を求めたとき、何かが変わるかもしれない。それまでは彼の悔恨に寄り添っていたいと思うのだった。


/脚気惨害の罪にさいなまれる森先生と、作品のミームが強い夏目先生



--------------------------------------------------------------------------------




・なんでもない余裕派



 頁を進める小さな音だけが、昼下がりの明るい開架に静かに波を立てている。布越しでは捲れないために右手だけ手袋を外し、常人よりもずいぶん速いペースで森が読み進めているのは、この図書館にある中で最も出版日が新しい医学書であった。時折メモを取りながら真剣な顔つきで頁を下ってゆく彼は近寄りがたい雰囲気を放っており、その周りだけ空間が切り離されたかのようで、通りかかる文豪がいても誰も声をかけたりはしなかった。
「捗っていますかな」
 その静寂をすべらかに破ったのは夏目だった。顔を上げると、帽子と杖を手にして腰をすこし折り、森の手元を面白そうに眺める夏目が立っている。ああ、とおざなりないらえを漏らして森は己の眉間を指のはらで揉んだ。気づかぬうちに随分と皺を寄せていたようだ。
「森先生ほどの人でも、学びたい欲は尽きませんか」
「俺の知識は百年も古いものだ。医学は常に進歩しているからな……ここで医師を任されている以上、頭に入れておかなければならない」
 なるほど、とうなずいて夏目は口髭をちょいちょいと撫でた。前時代の人間にはなかなかに荷が重い仕事ではあるが、森の顔つきを見ていると満更ではないのだろうと窺い知れる。役目を与えられていること自体を拠り所にしているのかもしれない。ワーカホリックの類いであろうか、と夏目は日頃から密かに思っていた。口に出したことは勿論ない。
「漱石殿は、どこかへお出かけでも?」
「ええ、まあ……そのようなものですね」
 苦笑がちに答えた夏目に、森は意外そうな目を向けた。穏やかながら流暢に言葉をあやつるこの男が、こうして言葉を濁すのは珍しいことだったからだ。
「おっいたいた! おーい夏目行くぞー!……って、森さんも一緒でしたか!」
 そこへ、よく通る声が飛び込んできた。見れば正岡がいつも通りの出で立ちで、金属バットをしかと肩に担いで大股に歩いてくる。待ち合わせだったのかと合点して夏目を見ると、苦笑のかたちのままゆるゆると手を振って応えている。「ついに草野球の誘いを断りきれませんでした」と森にだけ聞こえるような声色で漏らし、彼は息をついた。
「なるほど、準備運動は怠らないように」
「そうですねえ」
 夏目はまた改めて笑った。

「森さんもよかったらどうです、子どもたちとの草野球だから気楽に楽しめると思いますよ」
 にこにこと言い置いて、しかし返事を待つことなく正岡は夏目を引きずるようにして開架を出ていく。べーすぼーるを野球と呼ぶのにも慣れてきたようだ、とその進歩に目を細めながら二人の後姿を見送った。扉を閉めるとき、夏目がなんらかの意識を伴ってこちらをちらと振り向いたのが分かった。森は彼のかんばせがうつったかのような心地で、医学書に栞を挟むと息まじりに苦笑を漏らした。
 ふたたび訪れようとしている静けさのほとりでカタリと椅子を鳴らし、白衣を肩から脱ぐと、一度背筋をぐっと伸ばす。一番の生きたがりは誰だろうかと森は思った。考えるだに閃なきことではあったが、彼らや、この図書館で命を得た者どものことを想起すると考えずにはいられない。そういう性分であった。
 真昼の河川敷は暑かろうな、この格好で外出するわけにはゆかぬから、着替えて出なければならないだろう。と、窓外のまぶしい景色に顔をほころばせると、森は医学書の山の脇に白衣を置いてその場を後にした。




--------------------------------------------------------------------------------




・もりなつ / 喪失すると『こころ』の先生と同化してしまう夏目先生



 ゆらめく水面に腰まで浸かる。海と違って波打たない水はひどく穏やかで、あの時のように飲まれ流されどこかへ消えてしまえそうな心地はしなかったけれども、暗い淵に沈んでもう二度とうつつとは混じり合わずに済むかもしれない、という平静を与えてくれた。月を空を映した池をじいと見つめながら、ゆっくりと歩を進めてゆく。ずぶりずぶりと泥に沈んでいた靴底が次第に水の浮力でよりどころを失って彷徨い、やがて靴だけが脱げた。冷たい水と布地が肌にまとわりつく感触が煩わしく、もう早く深みに潜ってしまいたいという思いで歩幅を広げた。踏み出した爪先はただ水を掻き、なにも踏みしめることはなく、ずずと顎のところまで水が迫って嗚呼これで、と目を瞑った。そのときだった。
「漱石殿!」
 ものすごい力で腕を引き上げられ、羽交い絞めにされて身動きが取れなくなる。私が抵抗をする様子がないと分かると相手は拘束を弱め、ざぶざぶと殆ど私を引きずるように浅瀬のほうへ移動してから、体の向きを変えて顔を覗き込んできた。水面は腰のあたりまで下がっている。ぼんやりと己の死を妨げた男を見つめたが、どうも誰なのかが思い出せない。私は首を傾げると、どなたでしょうかと尋ねた。将校のような白い軍服を着ているから、通りすがりの日本軍の誰かが義憤から助けようとしたのやもしれぬと思った。
「しっかりしろ、漱石殿。あなたは侵蝕されて自分の小説の登場人物と自分を混同しているだけだ。こんなことをする必要はない」
「そうせき……? あなたは誰かと人違いをしておられませんか。私は×××です」
「違うと言っているだろう。思い出せ、あなたは夏目漱石、いや金之助だ。正岡殿も芥川君も心配しているんだぞ。早く図書館へ帰ろう」
 肩を揺さぶり真剣な表情と声でそう諭そうとしているらしい男は、月明かりに照らされたかんばせを険しくして私の脇に腕を回すと、抱きかかえるようにして岸辺へと進み始めた。私は初めて抗おうとしたが、靴がなく足に力が入らなかったし、男のほうが体躯もあり力では敵わないとすぐに諦めた。代わりに、いま耳にした名前を口の中で反芻する。まさおか、あくたがわ。彼らはそんな名前だったろうかと疑問をおぼえたものの、ひどく懐かしく無性に泣きたいような気持ちになった。
「あなたはご存知ないでしょうが、彼はもうこの世に居ないのです……彼の死に私が関わらなかったと誰が言えましょう、私にも言えないというのに……私は早く、彼のところへ行かなければ。十万億土で苛まれなければなりません」
 男はもう何も言わなかった。
「それに、あの子にはちゃんと文を出しましたから心配は要りませんよ……私はあの子を信じたのです、可哀想なことだとも思いますが、きっと彼ならば大丈夫でしょう」
 ばしゃりと大きな水音が鳴って、男の歩みが止まった。向きを変えた黒髪が月明かりにつやりと煌めくのを見た。慣性で波打つ池の水が、私たちの膝から腿までを荒々しく叩いた。そうせきどの、とまた知らない名を呟くと、男はやおら私を抱きしめてしばらく静止した。耳障りだった水音がやがて治まり、木々をくすぐるかすかな風と、なにやら知れぬ虫の声が遠くに聞こえるようになるまで、軍人らしき彼は息を潜めるようにしてじっとしていた。私は彼の濡れた衣服から染み入ってくるおぼつかない熱を感じながら、なにか不思議な感覚に思考をはばまれていた。こんなふうに抱きしめられたことはもう何十年もなかった、という仄暗い述懐が知らぬうちに長い溜息をつかせた。
「俺はあなたを愛している」
「……?」
「あなたが補修中に消えたと聞いて、肝が潰れる思いがした。俺の責任だ。すまなかった」
「失礼ですが、何を仰っているのか」
「思い出してくれ、あなたの名前を。俺のことを」
 首をめぐらし、耳元でひどく切なる声色をつむいだ男の顔を改めて見つめる。心痛を滲ませたような面差しがあまりに痛々しく、歪んだ目元に手を伸ばすと胡乱なままそこに触れた。触れてから手がずぶ濡れであったことに気がついたが、もう遅かった。彼も気にしていないらしかった。この人は誰であったかと思い出そうとし、記憶の果てまでさらっても、どうしてもこのような軍人を思い出すことはできなかった。私にこんなにも真摯に愛を囁く人間などいるはずもなかった。若くして痛ましい死を遂げたかつての友でもなく、私を慕ってくれるあの子でもなく、無垢なまま私に添い遂げようとしてくれた妻でもない。

−−この人は誰だろうか?





--------------------------------------------------------------------------------






・もりなつ


 紙を捲る音がしんとした室内に時折鳴るほかにはひとつも鼓膜を揺らすもののない、大層静かな部屋であった。基本的に騒がしさは好まないが、こうも音がないと逆に眩暈や耳鳴りに悩まされるので静かすぎるのも問題だ、とふらつく頭で考えながら紙の束を整える。普段嵌めている手袋に覆われていない素手は適度に紙に吸いつくため、捲るのには都合が良かった。
 少し頭を動かすとぐわんと鈍痛が走り、思考を波打たせるように遮ってくる。これは静寂のせいではなく、己の体調の問題であった。否、そもそも眩暈や耳鳴りといった症状もすべて俺に起因しているのだろう、森はそう今しがたの認識を改めると情けなさに深く息をついた。胸をのぼってくる吐息は常よりも熱く感じた。
「こら、また起きているのですか」
 背後からの声に振り返ると、いつの間にか部屋に入ってきていた夏目がたしなめるように眉根を寄せてまっすぐに森を見ていた。両手には盆を持っている。こら、などと叱られたのは百年以上昔のことだと懐かしみをおぼえたが、表情に出せば機嫌を損ねるであろうから堪えた。「すまない、しかしこの資料を、っごほ」言いかけて数度咳ばらいをすると、森は喉を抑え顔をしかめた。「ほら御覧なさい」と気づかわしげに夏目が歩み寄ってくるのを手で制しながら、口をおさえ、喉のいがらっぽさを払うためにさらに何度か咳をする。森が今回やられた風邪は咳はさほど出ないが、喉の痛みと声の掠れがひどかった。

 やがて咳が治まると、寝ていなければ駄目です、という説教を受けたのちに森はベッドへと追いやられた。「失礼しますよ」と言いつつ夏目が額に手を当ててきたので、そのひんやりとした感触に目を細める。夏目はいつも森よりも基礎体温が低いから、今はなおさら温度の差が顕著に感じられた。
「まだ熱いですね」
「さきほど計った時は七度八分ほどだった」
「そんな熱で起き出すから、いつまでも下がらないのでしょうに」
 やれやれと困ったふうに首を振った夏目は、持参した盆を持ってベッド脇の椅子に腰かけた。食堂で使われている見慣れた盆の上には粥、苺の砂糖煮、薬、白湯が乗せられている。食堂棟からわざわざ持って来たのだと思うと頭が下がった。「正岡も来たがったのですけれど、あれは先日風邪をひいたばかりですから」眉を下げて笑う夏目に、森は黙って似たような表情を浮かべ頷いた。せっかく治った正岡にまた咳を出させては、医者としてこれ以上申し訳のないことはない。こうして近くに置いてしまっている夏目とていつ感染するかは分からないが、その時は俺が手厚く看病しようと森は決めていた。
「食べられますか」
「ああ……食べなければ、薬も飲めないからな」
 掠れた声はいかにも食欲がなさそうで、夏目はやわらかく苦笑した。
「これは、もしかして俺のために?」
 森が苺の砂糖煮を目で示した。
「ええ、森さんはそうやって食べるのがお好きだというので、幸田さんが作ってくださいました」
「あいつか……後で礼を言わねばな」
「そうしてください。ところでその苺、私の郷里から取り寄せたものなのですよ」
「ほう、漱石殿の」
 顔を上げると、どことなく嬉しそうにほほ笑む夏目と目が合った。昼下がりの白んだ明るさにその表情はよく馴染んでいるように見えた。少しの間黙って森を見つめてから、ふと自然なしぐさで逸らされた眼差しを、森は不思議な心地で追いかけた。その笑みの意図がいまひとつ分からないのはやはり己が熱に侵されているためであるのか、あるいは夏目が悟られないようにしているのか、ついぞ判断がつかないままに粥の椀が膝の上に置かれたことで、注いでいた視線は途切れてしまった。

 ゆっくりと粥を食べる森を、とくに話しをするでもなく夏目は黙って見守っている。ものを食べているところをただ見られているというのは普段ならば落ち着かないはずだが、今はさほど気にならなかった。かえって、こうして臥せっている時に傍に誰かがついていてくれるのは心強いものであると教えられた心地さえした。夏目の無粋でない、程よく焦点をずらしたまどらかな眼差しに安堵しているのだろうと、森は自らを推察した。
「あなたにまで迷惑をかけて、申し訳ない」
「……森さん? 病人はそのようなことは考えずともよいのです」
 医者の不養生とはまことに上手く言ったものですねえ、とどことなく揶揄するような口調で、しかし優しげな響きで言ってから、夏目は森の額にわずかに滲んでいた汗をタオルで拭った。さりげなく近づきまた離れていく手を視線で追い、森は目元を緩めた。こちらに対して何らかの世話を焼こうとするとき、例えば白湯を差し出す、咳をすると静かに背中をさする、そういうときに彼は言葉はほとんど発しない。それでも互いに不自由はなく、むしろ心身が弱っている森としては有難かった。この人はどう看病されたら楽であるかを身をもって知っているのだろうと、最後の粥を咀嚼しながら思った。
 粥を食べ終わると、体がじんじんと温まっているのを自覚した。発汗すればそれだけ早く熱も引くだろう。森は寝間着の衿をくつろげながらそうぼんやりと考え、傍らで苺の器を持ち上げている夏目を見やった。
「食べさせてくれないか」
「ふふ、さっきまで一人で食べられていたのに」
 可笑しそうにそう返すと、器を持ち直し、匙に乗せた苺に砂糖の溶けたシロップをよく絡めて夏目はそれを差し出した。口に含むと濃厚な甘さとやわらかい酸味が広がった。「美味しいですか」「ああ」そう頷くも、鼻が詰まっていなければもっと味わうことができたろうと残念に思った。森がゆっくりと味わうように咀嚼している間、やはり夏目は何も言わずに、次の苺をシロップに絡めながら待っていた。やがて飲み込んだ後もその細い手の動きを見ていると、気づいた夏目が匙を差し伸ばしてくる。そこで雛鳥のように口を開き顔を寄せると、口の中にふたたび甘酸っぱさがやってきた。唇を開き、そこに好物が与えられる瞬間、森はまるで幼子に戻ったような奇妙な感覚に覆われた。手放しで甘やかされるということを最後にしたのはいつだったのか、もう思い出せなかった。

 薬を飲みベッドに横になると、夏目は少し身を乗り出して森の顔を覗き込んだ。
「あなたが眠るまで、ここで見ていますからね」
 そう言った夏目の声に苦笑を漏らす。弱っている自分にとっては嬉しい言葉ではあったが、また起き出して仕事を始めないように、という意図が込められていることは分かっている。しかし同時に、気を遣わせぬための方便という向きもあるのだと理解していた。森は薬のためにおぼろになりつつある意識を傍らの人にかたむけ、いつになくやわらかい声を出した。
「心配なら、起きるまで居てくれればいい」
 手を伸ばし、ベッドの縁にかけられていた夏目の手を握ると、森はとろとろと目を瞑った。置き土産のように寄越された言葉と手を包む熱い体温に驚いて目を瞬かせながら、穏やかな寝顔を見つめ、それから少しはにかむように目を伏せて、夏目は森の手を握り返した。もちろん心配ですよ、と囁かれた声はぽつりと浮かび上がり、訪れた静寂の中にいつまでも残っていた。



--------------------------------------------------------------------------------



・もりなつ(もり→なつ)



 横たわる体に布団を被せる森の背を見つめ、正岡は潜めきれなかった息を短く吐き出した。喪失した夏目の肌は紙よりも白く、そこに明滅する淀んだ墨文字は彼の侵蝕の深さを物語っていた。
「こいつ、無理して潜書していたんですよ。痩せ我慢ばっかりするからこういうことになるんだ」
「正岡殿、そう言う君が今度は無理をしないよう気をつけることだな」
「いや森さん、俺が調子悪けりゃ貴方は気づくでしょう。夏目は貴方にも気づかせなかったじゃないですか」
「……それは確かに、俺の不徳の致すところだが」
 森がぐっと押し黙った時、ふいに弱々しく白衣の裾を引く力を感じた。見ると寝台で眠っていたはずの夏目がいつの間にか目覚めており、未だ深い侵蝕のために虚ろなままの双眸を二人の方へと向けていた。「漱石殿」「夏目、お前大丈夫か」被さるように呼びかける声に、しかし夏目は反応を示さない。代わりにくしゃりと眉根を寄せて、力なく頭を傾けると、
「私の正岡を、とらないでください」
 と言いながらぽろぽろと涙を零し始めた。
 ギョッとしたのは森も正岡も同じであったが、その驚きの質は大いに異なるものであった。夏目がこのように泣く姿を目の当たりにしたことのなかった森は一寸戸惑いがちに正岡を見て、それから正岡がやはり戸惑った顔をして夏目に声をかけあぐねているのを悟ると、白衣の裾を掴んでいる手を自らの手で静かに覆った。侵蝕の重い者の肌はみなひやりとして死人のようで、触れた肌も例外ではなかった。夏目の瞳は涙で濡れていくつも光を反射してはいるものの、やはり森や正岡に焦点を合わせてはいない。嗚咽も漏らさずただ流れる涙は、人としての何かが決壊してしまったかのような異常さを呈しているように思われた。
「漱石殿、俺が分かるか」
 呼びかけた声に反応を見せないまま、夏目は掠れがちの声を虚空に溶かした。
「……お願いです、正岡は、ぼくの」
 瞬きをするたびに寄せ波のごとく溢れる涙は、そこまで言葉を紡いだところで一度ついえた。力尽きたのか、夏目が目蓋を閉じたきり目を開けなくなったからだ。
「おいっ、夏目?」
 慌てて顔を寄せた正岡の声を聞いてか聞かずか、空気をかすかに鳴らす程度の声が継がれた。
「……ぼくの、……は、正岡だけなのです…」
 かろうじて動いていた唇は、ここでとうとう沈黙した。白衣を掴んでいた手がずるりと脱力し、森の手に完全に委ねられる格好となった。森は夏目の骨ばった手を握り直すと、殆ど無表情に近い顔つきで眉だけを険しくしてじっと彼を見つめた。
 どうやら記憶が生前のものと混濁していたらしい、とひどく冷静に考える脳の片隅で、遣る瀬無い思いが首を擡げるのを森は感じていた。俺が何をしたというんだ、という稚拙な憤りが喉元で行き場を失っているのが分かった。
 視線の先では正岡が手を伸ばし、夏目の涙を拭ったり頭を撫でてやっている。それでも夏目の閉じた目蓋を縫って流れてくる涙の筋を、傷ましさともどかしさの内に眺めて息をついた。あれを流させたのは他でもない己なのだという事実が、森の精神の理知的でない部分を暴いては嘲笑っていた。



/喪失した夏目先生



--------------------------------------------------------------------------------




・喪失した正岡、夏目と森とネコ




 ぼたぼたと黒墨が板張りに落ちては木目を汚していくのを、翡翠玉のような澄んだ瞳が静かに見つめている。
 この日ネコが潜書に同行したのは有碍書のレベルに見合う文豪が足りなかったためであったが、結局助言らしい助言もできずに終わってしまった、と遣る瀬無さに目を細めた。侵蝕者の力が予想外に強力であったのだ。
「ごほっ、う、」
 脚に力が入らないのか、膝をつき咳き込むごとに正岡の口や腹、そのほかの傷口からしとどに血のごとき洋墨が噴き出して彼の衣服を黒く汚した。彼の背に腕を回して支えている夏目も全身が黒濡れになってはいたが、こちらは大半が侵蝕者、または正岡のものであるようだった。
「ああ、洋墨と包帯の準備を頼む。急いでくれ、我々もすぐに行くから」
 司書と矢継ぎ早に話をしていた森は、そう言って司書を先に医務室へと向かわせると正岡へと向き直った。夏目一人では支えきれぬほどに正岡の侵蝕は激しく、反対側から脇を支えてようやく正岡を立ち上がらせると、「待たせたな」と森は気遣わしげに正岡の顔を覗き込んだ。しかし、常ならば光を宿して明るく輝きを放っている彼の双眸は、今は虚ろに伏せられて視線を合わせてくることはなかった。
「さあ正岡、医務室へ行きますよ」
「っ……まだ、駄目だ」
 夏目の声に掠れたいらえを寄越すと、それが引き金となってまた咳き込む。げほげほと痛々しい音が潜書室に響き、また床は穢れた洋墨でどす黒く濡れた。
「おれには、時間がないんだ……っから、まだ、」
「正岡殿、しっかりしろ! 補修をすればすぐに良くなるんだぞ」
 抱えるようにして連れて行こうとするが、正岡は残っている力で抵抗した。ここがどこであるか判然としていないにも関わらず、連れていかれる場所だけは理解していて、本能で拒絶しているかのようだった。
「やりたいことがあるんだ、まだっ、……うう、ぐ、ゴホッ!」
 肩で息をしながら喋り、ばしゃりと墨を吐き、息苦しさからか涙をにじませる正岡を見ていることができずに、森は夏目に視線を向けた。戻ってきてからずっとこの調子であった正岡を、夏目はほとんど何も言わずに支えていた。森が見た時もじっと眉根を寄せて喪失した親友を見つめていたが、視線に気づくとつと顔を上げ、苦しげな微笑を浮かべてゆるく首を横に振った。こうなってはもう聞く耳は持てないと、同じ転生体であるゆえによく分かっているのだ。
「……正岡、もう焦らなくていいんだよ。時間ならたっぷりあるのだから。べーすぼーるも俳句も、好きなだけできるんだからね」
 未だにぜいぜいと息をしながら二人に抗おうともがいている正岡にそう語りかけながら、夏目は空いた手でネコに手招きをした。ネコは座っていた姿勢から跳ねるように床を蹴り、床の墨を器用に避けて夏目の傍まで歩み寄った。
「ニャんだ」
「すみませんが、補修をここでしたいと司書さんに伝えてくれませんか。…森さん、そのほうがよいでしょう?」
「ああ、そうだな……大箱ひとつ分でおそらく足りるだろう。司書殿を呼んできてほしい」
 頷きながら答える森の姿を眺め、ネコは静かに嘆息した。白い軍服も白衣も、今や黒墨で汚れきっている。寸拍置いてから「分かった」とだけ言うと踵を返し、扉の手前まで行ったところで、ネコは一度だけ振りかえった。澄んだエメラルドグリーンがつやりと光った。
「夏目、この間とはまるであべこべニャのだな」
「……いいのですよ、これで」
 にこりと笑った夏目に何も返さぬまま、ネコはするりと扉の隙間を抜けて行った。しなやかな灰と白の尻尾が消えた先を静かに目で追う夏目の横顔を、森はいぶかしげに見つめていた。


 補修に入り、意識を失った正岡を床に敷いた毛布の上に寝かせると、彼を司書に任せて夏目と森はひとまず着替えをするために潜書室を出た。森は白衣を、夏目は背広を脱いではみたが、全身を汚す墨は未だによく目立つ。誰かとすれ違わないことを願いながら二人は苦笑を漏らした。
「……漱石殿、先ほどのことだが」
「ネコさんの言ったことですか」
「ああ」
「いえ、少し前にお聞きしたのです。政府は全てが終わった後、私達をどうするのか」
 森ははっと息を呑んだ。それはこの図書館に転生した誰もがどこかで抱きながら、口にすることを先延ばしにしている問いであった。
「みな、この戦いが終わったらしたいことを口々に語らいながら、心のどこかでは分かっているでしょう。私達は駒に過ぎない。用が済めばまた、本の中で眠りにつくだけかもしれないと」
「……それで、ネコ殿は何と」
 潜めがちに森が尋ねると、夏目は目元を緩めて微笑んだ。ふっふ、という彼独特の笑い方だった。
「自分はただの伝達役だから、といって答えてもらえませんでした。本当に知らないのかもしれませんが、彼は気持ちが読めませんから」
「そうか、」
 しばらくの間、二人は黙ったまま長い廊下を歩き続けた。誰ともすれ違わなかったのは幸いであった。傾きかけた日差しが窓から差し入って、森と夏目の影を壁から天井にまで伸ばしていた。
「……私はその時言ったのです。我々に残された時間はほんとうは僅かなのかもしれないですね、と。あなた方にとっては、それが何よりでしょうと」
 足音よりも小さな、囁くような声だった。この世の誰にも、今ここにいる二人以外には聞かせまいとしているのだろうと森は思った。
「確かに、そうかもしれないな」
 森も夏目に倣い、囁くように応えた。軽く目を伏せたかんばせは穏やかなものだった。
 そう、誰しも本当に分からないわけはないのだ。それでも正岡にとっては、この図書館で過ごす時間は無限に広がっているように感ぜられるだろう。明日も明後日もわが身が健やかであること、それが保証されているだけで、見えない未来はまばゆく輝く。
「しかし、夢を語るのは自由だ。例えどんな状況であろうと……そうだろう、漱石殿」
「……ふふ、そうですね」
 眉を下げてすまなそうに笑うと、夏目は自らの髭をちょいちょいと撫でた。何かを取り繕っているような、照れ隠しのような雰囲気がそこにはあった。
 正岡が元気になったら、また彼は何事もなかったかのように未来の話をするだろう。胸の内の諦念をすべて仕舞って。森ははっきりとそう予期すると、夏目から視線を外して窓外を遠く見やった。内庭の鮮やかな色彩が目にしみた。その時にはせめて自分も思いきり未来の話をしよう、と思いながら目を閉じる。光の残滓がちかちかと瞼の裏で踊っていた。



/正岡のためなら




--------------------------------------------------------------------------------




・もりなつ / 鴎外と林太郎の魂がわかれている




 よどんだ意識のしじまを音もなく、滑るように歩いてくるものがいる。凪いだ夜の海を思わせる暗い波間から現れたそれは、碧落のかなたに影絵のように浮かび上がり、やがて手の届く距離にまでひたり、ひたりと近づいてくるのだ。まとわりついていた墨よりも黒い闇が、尾を引きながら剥がれてゆく。そうすると見えてくるのは、熱を持たない陶器のごとき肌であり、光を持たない泥のごときまなこであり、色を持たない雪のごとき指先であった。
 その姿を感ずるとき、鴎外は決まって諦念にも近しい安堵とともに深く、長い呼吸をする。凍てつく氷海に引き込まれた心地がするというのに、ここでしか息ができないことを思い出す。あれは俺が最後に殺めた男だ、という認識をした瞬間に怒涛のように流れ込む、記憶、感情、矜持−−そうしてあてどもない悔恨。すうと伸ばされた白い手から注がれたそれらに打ちやられるままに、鴎外は崩折れるように意識を失った。途切れる一瞬、ずぶりと男の肢体が自らのはらわたに融け入るのを、朧げながらに感じていた。

「林太郎さん」
 穏やかな声が、ひとつの音ごとに何かを確かめるような響きで名を呼んだ。語尾を少し上げているところに彼の気遣いと不安がうかがえる。耗弱のために穢れた気怠い体を無理に起こそうと力を入れたが、体の向きを変えたところで痛みに呻いてしまい、それを見た夏目がたしなめるように森の肩を寝台に押し戻した。まだ安静にしていなければいけませんよ、と優げに囁きながら布団をかけ直そうとする手を、森は遠慮のない強さでぎゅうと掴んだ。そうして驚きに強張った細い手首の、内側の血管にくちづけをした。
「漱石君」
「やはり、あなたでしたね。林太郎先生」
 いらえは静かなものだった。脈打つ肌に唇を押し当てたまま、森は夏目の戸惑いがちな、それでも逸らさずに自身を見つめる瞳を見上げた。この男が情を向けているのは俺ではないが、俺である。そう理解しているから迷いなく困らせてやることができた。夏目のこの不可分たる情の在り方が、暗い氷海に眠る己を人間たらしめようとしているように思った。
 体内をぞろりぞろりと汚濁が流れめぐっている悪寒と痛み、それから侵蝕によってもたらされる暗く冷たい心持ちに顔をしかめながら、森はつと視線を周囲に向けた。枕元には几帳面に畳まれている白衣、手袋、いくつかの装飾品などが重ねて置いてある。有碍書の中で喪失状態になってからこちらの記憶はおぼろげであったが、正岡に担がれて戻ってきたのは覚えている。彼は今は近くに居ないようだから、後で礼を言わなければ、と考えて森はどこか遠くを見やるように目尻を持ち上げた。――その時の自分は、鴎外であるかもしれないが。
 こうして林太郎として意識を有しているものの、鴎外とは完全なる別の人格というわけではないのだ。互いの意識も記憶もほとんど共有しているし、どちらも自分であるという認識が確かにある。ただ、魂は異なっていた。石見人林太郎として死にたがった魂を護るように、また食らうようにして、鴎外の魂は常に林太郎の魂のかたわらにあった。こうして転生してもそれは同様であったし、文豪として呼ばれた以上、平時は鴎外の魂が林太郎の魂を包むようにして暮らしている。軍医としての森に今も重くのしかかる後悔の念を、林太郎の魂はすべて背負って暗い氷海にいる。そうしなければ森という男の心の均衡が保てないことを、よく分かっていた。林太郎を死なせてやりたいという思い、罪の意識に苛まれる苦しみ、そうして文豪としての矜持が鴎外を生かしているのだった。
「これは、逃げだと思うかね」
 倦怠そうに枕の上で首を傾け、森は夏目にそう尋ねた。夏目は脈絡のない問いかけにすこしく眉をひそめたものの、意図が分からぬわけではないらしく、思案気な面持ちでしばらく黙っていた。こうして会話をしていること事態を案じているような目つきをしてはいたが、気づかないふりをして森は視線を合わせ続けた。林太郎として漱石と話しをする機会は限られている。軍医として仕事をしている時は鴎外と意識が混在しているために、林太郎が言いたいことを鴎外が言わせないというようなことがままあった。こうして鴎外の魂が重い侵蝕を受けた時くらいにしか、林太郎の魂がまるごとこの体を自由にできることはない。
「私も神経衰弱で人が変わったようになることがあったといいますが、あまりに苛烈な言動をした時のことは、自分でも覚えていませんでした。……己を守るためなのでしょう。あなたも、そうではありませんか」
 もっともあなたは私と違ってすべて覚えているのですから、私とはまた立場が違うでしょうけれど。そう小さく言い加えると夏目は口を噤んだ。わずかに上瞼を伏せただけで否定も肯定もせずにいる森の、垂直に差し入れるような眼差しが夏目の琥珀色を撫でた。はじめから応えだけを聞きたくて、その正否などは明らかにする気がなかったのだろう、と森は他人事のように思った。やがて衣擦れの音が沈黙を破り、森の頬に手をあてると夏目は「辛いですか」と静かに尋ねた。
「だいぶ補修が効いてきたようだ」
「そうではなくて、」
「漱石君」
 かぶりを振りかけた時、いやにはっきりとした声で呼ばれて夏目は静止した。森がどこかニヒルな、苦しげな笑みを浮かべて手首をきつく握り、その強さのために皮膚の下で脈がどくどくと弾んだ。素手の爪が食い込むちりりとした痛みが火花のように散った。
「俺にそのような言葉を、かける必要はない」
「おや……そうでしょうか」
 そんなお顔をしているのに。
 言外に呟くと、夏目は手首から視線を森へと戻してほほ笑んだ。眉を寄せた苦笑がちなものではあったが、森の表情はそれを見ていくらか和らいだ。遣る瀬無さげに一度瞼を閉じてしまってから、息をつき、やがてもどかしさを混ぜ込んだ声色がぽつりと言った。
「君の言葉は肌触りがいい。――恋しくなるほどに」
 その、ひどく辟易とした、それでいて真摯さの垣間見える言葉に夏目は驚いた。彼がこのような物言いをしたのは初めてだったのだ。つとめて己の感情を表さぬようにしているらしい森、いなや林太郎の稀な告白をじっと胸中で反芻する。嘘のつけるような人ではない。つけるならばこのような、魂がふたつに分かれるようなことにはならないはずだった。
「恋しがってくださるのですか」
 囁くばかりの声でいらえた夏目に、森はなにも返さなかった。元より疲れに支配されていた肉体が、今しがたの感情の吐露でついに覚醒していることを疎んでしまったらしかった。ただ握っていた細い手首を自らの耳に押し当てると、彼はもう一寸も動けないという様子でじっとして、夏目の脈を聞くようにしながら眠りについてしまった。
「庭の、石楠花」
 かすかに聞き取れるかどうかという響きで森が残したのは、ただのそれだけだった。



 ふたたび目覚めた時、彼は鴎外であった。すっかりと補修された健やかそうな顔色で、しかし眉をひそめて森は夏目の手首の赤い跡を撫でてすまないと言い、それからありがとうと頭を下げた。爪の食い込んでいたところに口づけをする仕草に、夏目は林太郎の面影を見た。忌々しげな顔をしてはいるが、妬いているわけではないのだと、ずいぶん前に彼自身が述べていたことを思い出す。妬くにはあまりにも近しい存在であり、ほとんど己がしたことのように感じるということだった。自らの肉体が夏目を傷つけたという事実が申し訳ない、という意識に支配されているのだろう。「すぐに消えてしまいますよ」と笑ってゆるりと手首を離させると、名残惜しそうに森はそれを目で追った。
「庭のシャクナゲ、と言っていましたが、覚えていますか」
「ああ……そうだな」
 何かを思い出したふうに目を開いたのちに、森はようやくふっと笑みを見せた。
「貴方に見せたいものがある」

 連れられるままに辿り着いたのは、内庭の花壇であった。初夏の日差しにきらめく新緑の海で、色とりどりの花が花弁をいっぱいに開かせている。ここの一画を任されている森が、はびこり始める虫たちを気にかけていたことを夏目は思い出した。普段の仕事だけでも忙しいであろう彼が花壇の世話までも、と初めのうちは舌を巻いていた夏目も、今ではそれがむしろ彼にとっての息抜きのものであると知っているために微笑ましく話を聞いている。前にも一度花壇に行かないかと誘われたことがあったのだが、夏目はなにか都合があって断ってしまったのだ。だから彼が実際に花のもとに背を屈めているところを見るのは、これは初めてだった。
 緋色に紫を混ぜたような、鮮やかな花弁の色が目にしみる。ツツジよりも一回り大きく派手に見えるシャクナゲは、ちょうど満開の時期を迎えて花壇の半分ほどを埋めるように咲き渡っていた。その数本を花切狭で静かに切ると、森は持ってきていた新聞紙にくるくると包んだ。白い彼の軍服に、シャクナゲの色味はたいそうよく映えた。
「これを貴方に」
 差し出された鮮やかな花束に、え、と夏目は瞬きをした。誰かに頼まれでもしたのだろうかとぼんやり眺めていたところに前触れなく寄越されたので、虚を突かれたのだ。そうでなくとも、驚いたことに変わりはなかっただろうけれども。
「花が開いたら漱石殿にと、少し前から考えていた」
「それは、ありがとうございます。ですが私にうまく手入れができるか……よろしければ貴方の部屋か、医務室に飾ってくださいませんか」
 夏目が恐縮しながら提案をすると、森は気を悪くする様子もなく表情を和らげた。
「ではそうしよう、貴方が毎日見に来てくれるなら」
 シャクナゲは夏目の手から森の元へと戻され、ふたたび鮮やかなコントラストを描いた。やはり彼のほうが似合っているように夏目は思った。新聞紙の花束を抱えながら軽やかに踵を返す森の後について歩くと、かすかに甘い香りが自分のほうへ流れてくるのが感じられた。
「言い忘れたが、あの花壇の世話をしているのはほとんど林太郎のほうだ。自然とそうなっている……領分というのがあるのだろうな」
 彼について話すにしては穏やかな声色でそう告げた森に、おやと眉を上げてから夏目は目を細めた。喜色を浮かべてよいものか測りかねたが、森自身がそれを許してくれているような気配がしたので、口髭に隠すようにしてふふふと小さく笑った。これから毎日、花瓶の水を変えに森のところへと通ったならば、そう遠くないうちにまた話くらいはできるかもしれない。