なで肩の細い後姿を、ぼんやりと眺めていた。
 コーヒーを淹れている時のトゥイークの背中は、どんな時よりも安堵しているように見える。たとえ自分の部屋に居たってどことなく不安にさいなまれているような雰囲気のある頼りない輪郭が、コーヒーを抽出している間だけ周りの風景に溶け込んで、地に足をつけているように映るのだ。クレイグがそのことに気がついたのは、こうして頻繁にトゥイーク家に出入りするようになってからずいぶん経った後だった。なにもトゥイークを見ていなかったわけではない。トゥイークの父親か母親が居る時はどちらかがコーヒーを淹れるから、トゥイークがコーヒーを淹れている姿というのを間近で見る機会はそれほど多くなかったし、そもそもクレイグはコーヒーに興味がなかっただけのことだ。今もそれは、大して変わってはいないけれど。
「ミルクと砂糖入れろよな」
「でも、ブラックが一番おいしいから……」
 この家に山ほどあるコーヒーマシンのひとつに体を向けたまま、ちらと首だけ捻って振り返るとトゥイークは困ったようにそう言って、またクレイグから目を離してしまった。綿毛のような金髪がかすかに揺れた。くすんだグラスグリーンのシャツに浮き出た肩甲骨は、彼の腕が動くたびに面白いほどに形を変えている。
「ふうん」
 クレイグはただそれだけ返事をすると、もう何も言わずに視線をテレビ画面へと向けた。
 臆病そうでいてなかなかに頑固なトゥイークがこうしてクレイグの言うことに異を唱えることはままあって、ことコーヒーに関してはクレイグの意見が受諾されることはほとんどない。それに特にムカつくでもなく流しているのは、単にもう慣れてしまったからだ。最近のトゥイーク家のコーヒーは別段まずいとは思わないが、それでもクレイグはまだブラックのまま一杯飲み切るほど好きにはなれない。今日もまた半分は残すことになるだろうが、トゥイークはそれを分かっていてもブラックを飲ませたいのだ。ならばそれでいいや、とクレイグは思っているのだった。
「はい、クレイグの」
「サンキュー」
 手渡されたマグから立ちのぼる芳ばしい香りを吸い込む。コーヒーは別に好きでも何でもないけれども、この香りはいつの間にか好きになっていた。好きというよりは、嗅いでいて落ち着くという感覚に近い。気づかぬうちにクレイグ専用になっていたマグも、その親しみを後押ししているようだった。
「なぁ聞いたか、三年生のディーン・スティングスがさ、」
「ああうん、それなら知ってる。たしか先週の試合で……」
 すこし身を乗り出して、トゥイークが頷いた。
 リビングのソファに並んで座り、大して面白くもないテレビ番組を流しながらコーヒーを啜って他愛ない話をする。トゥイークはただの友達みたいな顔をしているけれど、ただの友達には見せないような穏やかな表情でクレイグに相槌を打ったり、喋ったり、ときおり笑ったりしている。そういう瞬間にクレイグは、ああ俺たち最高にゲイっぽいな、としみじみ感じていた。どうせ自分も似たような顔をトゥイークに向けているだろうし、あちらも同じことを思っているだろう。

 以前はこの、十歳にしては穏やかに過ぎる空気感がむずがゆくて仕方がなかったのに、一緒に居るうちにこの穏やかさこそが心地良いような気分になってしまっている。町ぐるみで勘違いをされたあの出来事からずっとゲイを演じているうちに、本当にゲイに片脚を突っ込みつつあるのかもしれない。抗うことをやめて久しいクレイグにとって、それは一抹の危機感を与えないわけではなかったが、とりたてて払拭したいほどのまずい状況だとは思えなかった。
(そのほうが楽だし、実際そこまで悪くない。こいつと付き合ってるとアジア女も静かだし)
 ぬるくなりつつあるコーヒーをずずっと唇の先で啜りながら、クレイグはかつての悪夢のようなヤオイ騒動を思い起こして身震いをした。あんなふうに苛立ちながら毎日を送るなんて、もうまっぴらごめんなのだ。コイビト同士でいればこんなに平穏に暮らせるのだから、今の自分たちにとっては間違いなくベストな状態なんだろう、と信じている。これからもこんなふうに、なんとなく続いていくんだろうと思った。  
 いつかこの田舎町の馬鹿な住民どもが俺たちのことなんかすっかり忘れてどうでもよくなって、俺とトゥイークがそれぞれ適当に彼女を作って歩いていても、誰からも何も言われなくなるような日がくるかもしれないし、こないかもしれない。未来のことは分からないが、いつかその時になれば必ず明らかになることを、今からあれこれ心配するのはひどくくだらない。そうクレイグは考えているし、トゥイークにもそう話していた。今はただこの毎日がなんとなく続いてくれればいいと、こどもながらに真剣に願うだけだった。



 −−しかし、願うことほど叶わないのがこの世の中だ。
 その日はグラウンドが空いていたので、男子みんなでフットボールまがいの緩い遊びをしていた。クレイグは大抵攻め上がるポジションに居ることが多かったから、タッチダウンを決めてやるつもりでトークンやクライドとパスを繋ぎながら敵のフィールド・ゴールに向かって走っていた。
 あっ、という誰のものか分からない叫び声が聞こえたのは、そんな時だった。振り返ったクレイグたちが見たのは、後方に居たあまり運動神経の良くない連中に混じっていたはずのトゥイークがうつ伏せに倒れている姿だった。どうやら上級生が投げたボールが頭に直撃したらしい。当の上級生は謝罪もそこそこにさっさとボールを拾って行ってしまったけれど、誰もそれに対して文句を言おうとはしなかった。ここはそういう学校なのだ。どうせ大したことないだろうとみんな思ったし、クレイグもよくあることだと思っていた。
「あーあ、のびちゃってる」
 気絶しているトゥイークを背負って保健室に連れて行くと、まず「脳震盪かもしれないからすぐに動かしちゃダメでしょ」と先生に怒られた。それから目を覚ますまで安静にさせると言われ、クレイグたちはさっさと追い出されてしまった。そうこうしているうちに休み時間は終わり、男子はみんなぶつくさ言いながら教室へと戻った。せっかく保健室まで運んでやったのに怒られるわ休み時間は潰れるわで、こどもなりの理不尽さがそれぞれの胸に渦巻いて皆を仏頂面にさせていた。トゥイークを心配しているのはバターズくらいで、カートマンなんかは「トゥイークが目を覚ましたら何か奢らせようぜ」などと言いながらヘラヘラしていた。
 
 クラスメイトの予想を裏切り、放課後になっても保健室からトゥイークが戻ってくることはなかった。クレイグが様子を見に行くというと、クライドとトークンとジミー、それからバターズ、そして確実に面白がっているチーム・スタンがぞろぞろとついてきた。
 保健室に入ると、保険の先生の代わりに何故かマッケイさんがいた。いつも通りビッグサイズの頭をクレイグたちに向けると、「ああちょうどよかったよ」と彼はにこりともせずに言った。肝心のトゥイークはベッドで上半身だけを起こしていたけれども、どことなくぼんやりとして不安そうな顔で男子たちを見ていた。
「ンケーイ、みんな落ち着いて聞いてほしいんだよね」
「なんだよ、トゥイークどうしたんだ」
「もしかして打ち所が悪かったの?」
 口々に勝手なことを言いながらベッド周りに集まってくる男子をキョロキョロと見てから、トゥイークは「アッ、僕は大丈夫」と挙動不審になりながら答えた。クレイグはそれを見て、安心するよりも先にあれ、と思った。ここ最近、もっと具体的に言えばクレイグと恋人ということになってから、トゥイークがあんなふうにビクビクすることは滅多になくなっていたからだ。
「なんだよ、元気そうじゃん」
「だから話を聞くんだよ、ンケーイ。脳には別状なかったようなんだけどね、どうやらトゥイークの頭からは最近の記憶がね、無くなっているみたいなんだよね」
「はぁ?! マジかよ!」
「最近ってどれくらいなのさ?」
 詰め寄るクライドとカイルにびくりと肩を震わせてから、トゥイークはどうしよう、というような顔でマッケイさんを見上げた。青緑の目がガラス玉のようにきょろりと動いた。「トゥイーク、今日は何月何日かな」とマッケイさんが尋ねると、トゥイークが口にしたのは今より半年くらい前の日付だった。それより後の記憶が頭からすっぽ抜けたということらしい。そんな映画みたいなこと、と思わないでもなかったが、クレイグも悲しきかなサウスパークの住人であったので、そういうこともあるだろうとすぐに納得はできてしまった。
 ――問題は、その日付がヤオイ騒動よりも前だったことだ。
(おいおい)
 クレイグは内心穏やかではなかった。
 つまり今目の前でキョドっているトゥイーク・トゥイークは、アジア女どもに俺とゲイカップルに仕立て上げられたことも、要らん演技力を発揮して事態をややこしくしたことも、結局なし崩しにゲイカップルとしてやっていこうと二人で決めたことも全部忘れてしまったということか? と、怒りのような脱力感のようなよく分からない感覚に襲われ、それから阿呆らしくなって体から力が抜けた。
「またボールぶつければ治るんじゃね?」
「キスするとかな」
「おいデカッ尻、真面目に考えろよ!」
「オイラは真面目だっつの!」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎながら実のない解決策について話し合うスタン達を置いて、クレイグはクライドたちと一緒にトゥイークを家まで送ることにした。記憶が抜けたことをご両親にも話して迎えに来てもらおうか、とマッケイさんは言ったのだが、トゥイークがそれを拒否したのだ。「そのうち思い出すかもしれないし、別に困らないから」というのが彼の言い分だった。どうも事を大げさにされたくないらしく、保健室に居たメンバー以外にもこのことは知らせないでほしいとみんなに頼んでいた。厄介事を極端に嫌がるのも、昔のトゥイークらしいとクレイグは鼻白んだ。
(まぁ、お前は困らないと思ってるだろうけどな)
 世の中はそんなに甘くないんだぞ。
 そう内心でついた悪態は、ここからしばらくの間クレイグの中でわだかまり続けることになる。

 学校を出た時にはみんな一緒だったけれども、公園を過ぎたあたりからトゥイークの家まで送るのは、自然とクレイグの役目になった。思わせぶりな苦笑いをして交差点を渡っていくトークンやクライドを見送ると、クレイグはため息をつきながらトゥイークと並んで歩いた。しばらくどちらも無言で、特にトゥイークは「どうしてよりによってクレイグなんだろう、大して仲がいいわけでもないのに」というような顔をしてちらちらと様子を窺ってくる。それがいやに鬱陶しかった。よく知っているはずの顔が、まるで見ず知らずの別人のものみたいだと思った。
 クレイグは舌打ちをすると、一度歩みを止めてトゥイークの名を呼んだ。自分を見る瞳は、やはりクレイグの知っている色とは違う。もう少し時間を置いてから話そうかと思っていたけれども、この先ずっとこんな態度を取られると思うと耐えられる気がしなかった。だから早々に、自分たちがゲイとしてつきあっていることをトゥイークに説明した。
「アッ?! なにそれ狂ってるよ!」
「んなことは分かってる。……いいか、女子とくにアジアンには知られるな。できるだけ俺が言う通りに過ごせよ、でないと俺らの平穏が壊れるんだからな」
 俺らの、を強調してそう告げると、トゥイークはまだ信じられないというような青ざめた顔をしながらもどうにか頷いた。ヤオイアートを見た時よりもよっぽど酷い顔だった。
 まあPC校長やらヤオイ騒動やらを覚えていないのに、いきなり俺たちはゲイカップルだから、と言われたらそりゃあ狂ってると思うのが普通だろうな。とはクレイグも思うのだが、これが現実なのだから仕方がない。狂った田舎町の、狂った現実だ。住民の自分たちはできるだけ上手く順応するしかない。そうでなければ、誰もかれも狂い損なのだから。

 それからの毎日は、クレイグにとって決してストレスフリーであるとは言えなかった。まず朝おはようといえばトゥイークは奇声を発し、隣に並べば距離を取られ、いつもの癖で手を繋ごうとすれば反射的に弾かれるといったことが続いた。女子どもにはまた喧嘩でもしたんじゃないのかという目を向けられるし、アジア女たちの間にはそれを餌にクレイグとトゥイークをそれぞれ別の男子とゲイカップルにしようと画策しているような動きまで見られた。そのたびにクレイグは世界中に中指を立ててやりたい気分になりながら目配せをし、クレイグの視線に気づいて途方に暮れた顔で頷くトゥイークの手を引いて、できるだけ人の居ない場所へ連れていくのだった。
「俺はお前の」
「恋人」
「でも俺らは」
「ゲイじゃない」
 言い聞かせるようにそう言わせると、簡単だろ、とクレイグはにたりと笑って見せた。半ばやけになっていた。それを分かってか、次第にトゥイークもまた引きつった笑いを浮かべるようになっていった。そうでもしないととても受け流せない切迫したフラストレーションが、どちらの腹の中にも溜まっていたのだろう。

 こうして一週間ほどが過ぎた。
 どうにか他の男子の協力もあって、トゥイークは少しずつではあるがゲイである自分に順応しつつあった。それでもやはり以前のように自然にクレイグと接することはできず、顔を見ると一度表情を強張らせてから、ぎこちなく笑って近づいてくるような有様だった。そのたびに小さな苛立ちが自分の中に蓄積されるのを感じながら、しかしクレイグはつとめて何でもないような顔をすることにしていた。笑うことができるならとりあえず合格点、というボーダーラインを作ったのだ。事実、だんだん周りの視線は二人から興味を失っているようだった。
「お前ばっかり記憶失くしやがって、俺の面倒が増えた」
「ご、ごめん」
 昼休みになり、二人でだらだらと食堂へ向かいながらぼやくと、トゥイークは俯きがちにぼそりと謝った。謝りはしたが納得はしていない、というような声色だった。まあ気持ちは分かるけどな、と内心で呟くと、クレイグはジャケットのポケットに入れていた左手を出してトゥイークの右手を握った。手は一瞬びくっと震えたものの、すぐにおとなしくなり、クレイグが握るのと同じくらいの強さで握り返してきた。始めは冷たかった手がだんだんと温かくなり、汗ばんでくる。こうやって毎日とりあえず手を繋いでいればそのうち慣れるだろう、というのがクレイグの持論だった。
(傷つけたのなら癒してあげたい、っつったのは誰だよ)
 これじゃあ完全に俺が面倒を見てるじゃねえか、と本人にはさすがに言えない悪態をつきたくなった。
 そもそもトゥイークはここまでどん臭い奴だっただろうか、前はもう少しすんなりと環境に順応できていたような――と考えたところで、クレイグはあの日、自分がトゥイークに言った言葉を思い出した。トゥイークの部屋を訪れて、学校でみんなの前で一芝居打とうと持ち掛けた時のことだ。
 お前は磨けば光る、俺の言う通りにしていればいいから練習しよう、というようなことを告げたらトゥイークは予想外の演技力を発揮してしまったわけだが、結果としてあの時二人で過ごしたことでトゥイークは一皮剥けたようだったし、自分たちの心の距離も縮まったのだろうとクレイグは思っている。
 あの時のやりとりを経ていないからトゥイークはずっとビクビクしたままだし、俺に対しても心を開かないのか。そう思い至ったクレイグは気だるげに顔をしかめると、やがてため息をついて、隣を歩くトゥイークを見やった。周囲の視線を必要以上に気にして顔色を悪くしているさまは不憫だったが、何も言葉をかけたりはしないまま、ただ黙って歩調を上げる。「あ、待って、」と小さく声を上げてついてきたことに、少しだけ満足した。

 食堂に入ると、ほとんど定位置になっているテーブルの一番端の席に落ち着いた。クラスメイトの男子とはそう離れていないが、椅子が一つ二つ空いているという微妙な距離感だった。最初こそその距離を詰めようとしたトゥイークだったが、今ではもう察しているのだろう、クレイグに倣って椅子数個分を開けて座るようになった。これも立派な進歩と言えるだろう。
「べつに、マジで俺を好きになれってくれって言ってんじゃないんだぞ。そういうフリをしろってこと。今までのお前もそうしてたんだ」
 いつもの代わり映えのしないランチを食べながらぼそぼそと話すと、きょとんと驚いた様子でトゥイークは顔を上げた。手にした紙コップのコーヒーが小さく揺れた。そうして少しの間何かを考えているふうに俯いてから、再び顔を上げた。
「わかってるよ。……あの、クレイグ」
「なんだよ」
「ア、ええと……ごめん、君にすごく迷惑かけてるってことは分かってる。できるだけ、うまくやりたいんだ、僕も」
 たどたどしくではあるが、トゥイークはしっかりとクレイグの目を見てそう言った。
 咀嚼していたハンバーガーを飲み込むと、ふうん、あの日とようやく同じになったな、とクレイグは目元を緩めた。妙な話だけれども、おどおどしているトゥイークを見ていた年月のほうがよっぽど長いのに、こうやってまっすぐ目を見て自分の考えを話すトゥイークのことを、クレイグは懐かしいと思っていた。
「……お前ならやれる」
「え?」
「ちゃんと知ってるぞ、お前がやればできるってことは」
 わずかながら無意識に笑みを浮かべてそう告げたクレイグのことを、トゥイークはまじまじと見つめた。全身の動きを止めて目を見開いているさまが可笑しくて、またクレイグは笑ってしまった。

 これまでトゥイークにとって、クレイグというのはこんな笑い方をしてくるような存在ではなかった。その顔はひと言で言い表すなら、優しげな笑顔というやつだった。クレイグの優しさというものを初めて見たトゥイークは、奇妙な落ち着かない気持ちになって眉を下げ、おずおずと視線を逸らした。運命共同体であるからこその同族意識からくる優しさなのだとしても、自分には身に余る優しさのようにトゥイークには思われた。
 気づくと同じテーブルでランチを食べていた男子たちは誰も居なくなっていて、クレイグとトゥイークは周りの空間から切り離されたように、ぽつりと食堂の真ん中に座っていた。ひと言も声をかけてくれなかった友達に戸惑いをおぼえるトゥイークを尻目に、クレイグは慣れた顔で残りのランチを頬張りながら、
「こういうことになってんだよ」
 といつもの低い声で言った。
 トゥイークはその顔を盗み見るようにしながら、何とも掴めない心持ちのままで残りの昼休みを過ごした。


          


 こうしてまた一週間ほどが過ぎた。
「パパ、クレイグとどう接すればいいのかわからないんだ」
 夕食を終えて息子が小さく呟いたその言葉に、リチャードはおやと眉を上げた。これまでにトゥイークが彼のボーイフレンドについて、両親に何かしらの相談してきたことはなかったのだ。これはいよいよ父親の出番か、と一人で頷くと、リチャードは優しげな顔で「どうしたんだい」と尋ねた。
「恋人って、その、どうすればいいのかな」
「今まで通りじゃダメなのか? クレイグと何かあったなら言ってごらん、パパが力になってあげよう」
 肩に手を置くと、トゥイークは困ったように視線をうろうろとさせた。
「あ、えっと、クレイグが優しくしてくれると、どうすればいいか分からなくなるっていうか」
「あら〜トゥイーク、それはとっても幸せなことじゃない」
 突然現れたヘレンがリチャードとトゥイークの間に割って入るように顔を出し、優しくトゥイークの頭を撫でた。「アッ!?」と驚いて奇声を上げた息子を、両親はあくまで穏やかに見つめている。クレイグの話になるとこんなふうに妙にニコニコして猫なで声になる父と母をトゥイークは内心不気味に感じていたが、自分の記憶が飛んでいる期間に何があったのかをクレイグに尋ねる気にはならなかった。
「そうだね、ママだってパパと付き合い始めた頃は同じ気持ちになったことがあったんだよ。そうだろ?」
「ええそうよ、こんな素敵な人が恋人で本当にいいのかしらって不安になったものだったわ」
「それは僕だって同じさ、君はとても人気があったからね」
「アッ! パパもママも、その話はもういいってば!」
「ははは、まあ心配しなくても大丈夫さ。トゥイークは愛されてるんだよ。コーヒー飲むか?」
 感情のいまいち読めない父親の声色に、頭を抱えたくなった。
 その愛されてるという前提が間違っているんだけど、とは口に出せないまま、トゥイークはコーヒーをなみなみ注いだマグを持って両親がイチャつきだしたダイニングを後にした。
(僕ってほんとうはゲイだったのかな……パパもママもそう言うし、町の皆もそう思ってる)
 それに、クレイグが優しいと嬉しい、ような気がするんだ。
 あの日、食堂でクレイグが笑いかけてくれた時から、トゥイークはなぜかクレイグにまたあんなふうに笑ってほしいと思うようになっていた。恋人の振りもだんだんと上手くなった。実際クレイグも笑うまではいかなくても穏やかな顔をするようになったし、トゥイークもクレイグに自然と笑みを向けられることが多くなった。顔を合わせれば手を繋げるようになったし、時間が空くといつの間にか、目がひとりでにクレイグの姿を探すようになっていた。
 事なかれ主義のクレイグがただ、できるだけ平穏に毎日を過ごしたいだけなのだということは分かっている。トゥイークに優しくするのもその一環に過ぎないということも。それでも、突然お前は成り行きでゲイになったと言われ、他の友達から距離を置かれたように感じている今のトゥイークにとって、クレイグの優しさはとても嬉しいものだった。
先ほどの疑問をもしぶつけてみれば、クレイグは「いやお前も俺もゲイじゃない」と返してくるだろう。−−だけど誰よりも優しいのだ。まるで本物の恋人みたいに。その優しさをうまく消化できないから、トゥイークの頭は混乱したまま勘違いをしそうになってしまう。ここ数日は、クレイグと一緒にいると落ち着く、とまで感じるようになっていた。コーヒーとはまた違うけれど、少しずつクレイグが自分にとってなくてはならないものになっていくような気がしていた。それが何故か嬉しくて、同時に恐ろしかった。

「記憶消す薬ってないのかな」
 店のお使いでいつも通りマコーミック家のガレージまで行った帰り、たまたまケニーに会ったトゥイークは彼にそう尋ねてみた。ケニーがあのガレージで製造されているモノについて詳しく知っているとは思わなかったし、トゥイーク自身もよくは知らなかったけれど、なんとなく薬という言葉が口から出ていた。ケニーは特に訝しむ様子もなく、オレンジパーカーの向こうから水色の大きな目でじっとトゥイークを見つめた。
「どうして?」
「……僕だけ忘れて、クレイグが覚えているのは可哀想だから。クレイグもいっそ忘れたらいいかなと、思って」
 そんな都合のいい薬ないよね、とトゥイークが自嘲気味に笑うと、ケニーはどこか困ったように眉を下げてからふうと息を吐いた。歳の割に小さな体つきには似つかわしくない、まるで老人みたいに静かな溜息だった。
「忘れられるっていうのはさびしいよ。クレイグもきっと、さびしいんだ。別に、自分も忘れてしまいたいわけじゃないと思うけどね」
 トゥイークはその不思議と説得力のある物言いを聞くと、はっと目を開いたきり、何も言うことができなかった。これまでクレイグの気持ちなど考えたことがなかった、と思い至った。そうしてできることなら、クレイグの気持ちを楽にしてやりたいと思っている自分に気がついた。記憶を消すというのとは別の、もっと、おそらくは健やかな方法でだ。




 バスケットボールの練習の後、「トゥイークが本気で俺を好きになったかもしれない」とクレイグが相談した時、まずクライドが発した言葉は「なんで俺に言うんだ」というものだった。シャワーと着替えを終えた時のことである。他のメンバーはもう全員帰ってしまって、残っているのは二人だけだった。
「トークンやジミーはリア充でむかつくから黙っといた」
「ふざけんな、俺だってたまたま彼女いないだけだ」
 というくだらない応酬の後、それでもクライドはロッカールームのベンチに腰かけて話を聞く体勢に入った。何かにつけてお調子者で馬鹿で軽いが、根が良い奴というか、お人好しなのだ。
「それで、トゥイークがお前を好きになったってなに? むしろ今までは好きじゃなかったっていうなら驚きだけど」
「いやお前も知ってるだろ、別に俺はあいつを好きじゃないしあいつも俺を好きじゃない。しかもトゥイークは記憶喪失だ。なのに、この間あいつの家に行ったらあいつ、俺にカフェオレを作ったんだ。甘いやつ」
「ふーん、で?」
「これはヤバいことだ、お前には分からねーだろうが」
 あのトゥイークが俺にブラックコーヒー以外を淹れてくれたことなんて、今までに一度もなかった。一度もだぞ。しかも記憶が無くなる前よりなんていうか、俺に優しくしてくるんだ。俺の好物のメニューがあったら自分の分までくれるし、居残りの課題はこっそり手伝ってくれるし、テレビもゲームも俺の好みに合わせてくれてる。記憶が無くなる前だって別に反抗的ってわけじゃなかったし大して喧嘩もしてないけど、最近のあいつは明らかに昔と違うんだ。俺に気を遣ってるのかもしれないけど、やっぱりあいつは俺のこと好きだと思う。
 ここまでを一人で喋ったクレイグは、本気で悩んでいるという顔をして自分の爪先のあたりをじっと見ていた。クレイグがこんなに喋るのを聞くのは初めてかもしれない、と思いながらほとんど聞き流していたクライドだったが、クレイグが黙るとだんだんと半目になり、やがて呆れたような笑いをこぼすとクレイグの肩を数度バシバシと叩いた。
「お前さあ、ほんとに心当たりないの?」
「あ? なんだよ心当たりって」
「ないならいいけど、お前はどうしたいんだよ」
 問われて、クレイグはまた黙ってしまった。どうしたいと訊かれても、ただトゥイークとはこれまで通りに過ごしていられればそれでよかった。限りなくゲイっぽいけれど、お互い別に恋愛感情を持っているわけじゃない、あの独特の心地良さをクレイグは気に入っていたのだ。−−しかし今のトゥイークとの関係は、何かが違っている。
「……クレイグ、お前自分はべつに悪くないって顔してるけどさ、どっちかって言ったら原因はお前にあるんじゃねえのかなー」
「なんで俺に」
「だって優しいじゃん、お前、トゥイークに」
 横目でにやりと笑ったクライドを、クレイグは唖然として見つめた。「は?」と低い鼻声で疑問符を漏らしたが、実際のところ全く心当たりがないわけではなかった。記憶を失くして挙動不審になっているトゥイークをどうにかしてやりたい気持ちはあったし、ゲイカップルを演じていた頃のように自分に笑いかけてほしい、と思っていたのも事実だ。そのためにほとんど無意識のうちに優しくしていたのだろうと、この時ようやく自覚した。その態度のせいでトゥイークが本気で自分に惚れてしまったのだとしたら、確かに自分の責任も無いわけではないのかもしれない。納得はいかないけれど、確かに否定はできなかった。
「いや、だってこの場合しょうがないだろ」
「俺は分かんないぞ、ゲイになったことないし」
「そういうことだから彼女ができねえんだ」
 低い声が刺さったらしい。ウッと胸を押さえるジェスチャーをするクライドを横目に、あああ、と意味のない声を出してクレイグは頭を抱えた。
「いっそ俺も記憶喪失になってりゃよかったかも」
「あはは、そりゃ俺らが寂しいよ」
 笑うクライドの声が明るいのは救いだったけれど、トゥイークのあの態度の原因が自分にあるのだと分かってしまったらもう、平常心がどこかへ飛んで行ってしまって駄目だった。クレイグはがっくりうなだれて頭を抱えたまま、熱くなってくる顔をどうやったら冷ませるのか考えて、結局分からなくて途方に暮れた。
(トゥイークが俺を好きになったのは置いといて、あいつが俺に笑いかけるようになって、俺を見るとほっとしたような顔になるのは正直、嬉しい)
 このまま今の関係が続いたら、きっと行き着く先はひとつなのだろう。わずか両手で足りる年数しか生きていないクレイグでもわかるくらい、明瞭な答えが目の前にあった。そうして、もしかしたらそれも悪くないのかもしれない、と思っている自分に気がついていた。トゥイークが自分の傍にいて笑っていることが、こんなにも自分の日常になっている。再び築いた今の関係をまた崩すようなことは、自分の穏やかな日常に懸けて絶対にしたくなかった。





 クレイグは確かに、こうしてもう一度トゥイークと並んでいたいと決意した。ヤオイ事件の時とは異なり、そこには能動的な感情の働きがあることを自身でも理解していた。――しかしてやはり、思うようにいかないのが世の中だ。新たに営まれ始めた二人の日々のピリオドは、驚くほどあっけなく訪れた。
 常のごとく暇を持て余したのだろう、余計なひらめきを実行したカートマンのせいで、トゥイークの頭に再び流れ弾が命中したのだ。前回ボールがぶつかってから、ちょうど一か月ほどが経っていた。強烈なデジャヴに襲われながらも、男子たちはいっそ淡々と対応した。今度はきちんと保健の先生を呼んだし、スタンたちは興味ないとばかりにグラウンドから動かなかった。ケニーだけが何か考えているそぶりでしばらくトゥイークが運ばれていくのを見ていたが、やがて視線を外して踵を返してしまった。
 放課後までの時間を、クレイグはまんじりともせずに過ごした。

 予期していたとおり、保健室で目覚めたトゥイークには記憶が戻っていたが、記憶を失っていた間のことは逆に忘れているようだった。クレイグは今度こそ中指を虚空に向かって突き立てると、ベッドの上でわけが分からないという顔をしているトゥイークに視線を向けた。するとトゥイークはきょとんとしたあと、唇だけを持ち上げてわずかに笑って見せた。僕は大丈夫だよ、とでも言いたげな穏やかな笑顔だった。
(ああ、俺はもう手遅れかもしれない)
 その笑顔にほっとしながらも物足りなさを感じてしまった自らを自覚して、クレイグは途方に暮れた。記憶を失っている間のトゥイークは確かに俺に恋をしていたのだ、とはっきり分かってしまった。そして今ベッドでみんなに囲まれているあのトゥイークは、恋をしていない。俺を好きだけれど、好きではないのだ。

(「俺はお前の」
 「恋人」
 「でも俺らは」
 「ゲイじゃない」)

 合言葉のようになってしまったこのやりとりを、再びトゥイークと交し合うことができるのか、クレイグには分からなかった。少なくとも笑って言い合える気はしなかったし、たとえできたとしても、トゥイークが浮かべるであろう苦笑めいた淡白な笑みが見たいわけではなかった。今のクレイグが求めているのは、記憶を失くしていた間のトゥイークが見せた、優しいだけではない情の籠った笑顔だった。あの顔をしたトゥイークがもう一度カフェオレを作ってくれるのを想像するだけで、訳も分からないまま心臓が騒ぎ出すのを止めることができなかった。

 ――この気持ちは一体なんだ?

 本当は分かりきっている答えを先延ばしにしたまま、気づけばクレイグはトゥイークに手を差しだしていた。




/OUR BLUE SPRING