セントラル・ステイションへの道


 駅へと続く町のサブ・ストリートを行き交う人々の狭間を縫うように、凍えるような北風が吹き抜けてくる。思わず目をつむり、首に巻き付けているカシミヤのマフラーを引き上げた。それでも覆いきれないむき出しの耳や、風をもろに受けた鼻はひりひりと痛んだ。吐き出す息は白く、冬晴れの空にあっという間に散っていく。分厚いブーツを履いていても爪先からのぼってくる冷たさに感覚が麻痺してしまわないよう、足の指に力を入れながらグレゴリーは歩いていた。こうして力を入れていないと、そこかしこに残った雪に足を取られる可能性もあった。越してきた当初は雪深い土地の歩き方がいまいち分からなかったものだが、今ではずいぶんと慣れたと彼自身思っている。もっともその習熟も、今日限りで無用となってしまうかもしれなかった。引きずるキャリー・ケースの車輪がごろごろと後ろをついてくる。

 グレゴリーがサウスパークに越してくると告げると、「冬のコロラドはとにかく寒いから気をつけろ」とだけ電話口で忠告してきた奴がいる。不愛想な掠れ声はいつも電話越しでは少し聞き取りにくいのだが、その時は比較的はっきりとした声だったように記憶している。思えばあの忠告はあまり役に立たなかったな、ここは冬じゃなくても寒かったじゃないか。と笑いになりきらない息を吐くと、グレゴリーは車道を隔てたあちら側に立つ少年の姿を見遣った。モスグリーンのシャツはひどく寒々しく見えた。
「本当に来るとは思わなかったよ」
「お前が時間まで言うてきたんやろ」
 この町を出て行くことになったとモグラに伝えたのは、昨日の晩のことだった。二十一時は回っていたはずだけれども、電話を受けた彼の母親は話し手がグレゴリーだと分かるととりたてて機嫌を損ねたふうもなく、すぐに息子を呼び出してくれた。グレゴリーは彼女に気に入られている。どうやらまた外出禁止を食らっていたらしいモグラがこうして外に出ることができたのも、見送る相手が自分だったからだろうとグレゴリーはほとんど確信している。ただ外に出たかったのかもしれないし、彼なりの律義さで待っていてくれたのかもしれない。グレゴリーにとってはどちらでも大差はなかった。

 しばらく世間話をしながら、並んで歩いてゆく。針葉樹のコニファーが重たげに雪を被り、低いビルや個人経営店の合間を埋めるように静かにたたずんでいる。サウスパークはどこを見ても同じような樹ばかりが植わっていて、そうしてどこを見ても景色は変わり映えがしなかった。偏屈で差別的な思考がすくすくと育つわけだと、街路を通るたびにグレゴリーは納得する。旧時代的な思想は嫌いだった。だからあのカナダ人どもが巻き起こした国家規模の騒動にあたって、僕がこの町に越してきたのはこのためだったのかと合点がいったのを覚えている。まるで水を得た魚のようだったことだろう、あの時の自分といったら。
「それなりに楽しかったよ、君も居たし」
「こっちはとんだ迷惑だったがな」
 横目でモグラを窺うと、どこか遠い目をして表情に乏しい。仕事をしていない時のモグラは大抵こうだった。典型的なワーカホリック、そう勝手に判断している。この歳にして難儀なことだ。
まあ人のことを言えたものではないけれど。
「でも君はよくやってくれたじゃないか」
「知るか。アホガキどものせいでこっちは地獄見たわ」
 ぶつぶつぼやいているモグラをふたたび一瞥してから、グレゴリーは少し黙った。
 彼は知らない。あの日、金網のそばで雪に埋もれるようにしてこと切れているモグラをグレゴリーは見つけていた。白い雪にはまだ新しい鮮血がおびただしく染み込んで、そこだけ目に痛いほどに赤々としていた。グレゴリーはどこか浮遊感を感じながら彼の傍らに膝をつくと、生気のない頬に触れようかと一瞬考え、しかし実行には移さなかった。手袋を片方だけ外し、微動だにしない胸をじいと見つめ、鼻と口に手をかざして全く呼吸をしていないことを確認して、それだけですぐに戻って来たのだった。彼の死を確かめるのには十分だった。今こうして平気な顔をして隣を歩いているモグラはあの時に一度死んだのだと、だからグレゴリーは理解している。地獄を見たというのはひょっとすると文字通り、ほんとうに地獄まで行ってきたのかもしれない。
「モグラ、ぼくは」
 抑揚少なく言いかけた時、グレゴリーの腰のあたりに何かがぶつかった。

「わ、」
「なんや?」
 見ると一年生くらいかと思われる女の子が、半泣きでこちらを見上げている。コスモス色のワンピースを着て、明るい栗毛をおさげにした可愛い子だ。バランスを崩したものの、どうやら倒れることは避けられたらしい。「ごめんよ、大丈夫だった?」そう言ってグレゴリーが膝を屈めて目線を合わせようとしているうちに、女の子はモグラを見て更に顔をくしゃりと歪ませてべそをかきだした。ふええ、というか細い声とともに、大きく澄んだ両目に涙が盛り上がってくるのが見えた。
「……おい、俺が何したっていうんや」
「きみ怖いし煙草臭いんだよ、多分」
 苦笑を浮かべながら女の子の頭をそっと撫でるグレゴリーを見下ろすと、モグラは面倒くさそうに、少し困ったふうに顔をしかめて体ごとそっぽを向いた。
「ママとはぐれたのかな」
「うん……」
「じゃあ、少し一緒に探してあげよう」
「おい」
 頷く女の子に笑みを向けてそうあっさりと宣言する連れに、モグラはあからさまに不服そうな声をあげた。またしゃくり上げる声が聞こえそうになったので、「時間はええんか」とたじろぎ気味に付け加えてくる。どうせ決まった時刻に発たなければいけないわけではないから、と肩を竦めると、グレゴリーはモグラにだけ見える角度で皮肉めいた笑みを湛えた。
「ここの警察は役に立たないだろう」
 それを言われては、モグラも黙って承諾せざるをえなかった。



 女の子はヘレンという名前らしい。グレゴリーに手を引かれ、きょろきょろと周囲を見回しながら歩いている。駅から南西に伸びる通りとは一本隣の商店街は、先程の道とは比べ物にならないほど通行人が多かった。時刻は十五時を回ろうとしている。田舎の商店街といえど、休日の夕刻時にはこんなに人で溢れているのだとグレゴリーは少々感心した。これでは迷子も多かろう。
「おうちは郵便局の近くなんだね?」
「うん、お使いも行くんだよ」「そうなのか。偉いんだね」
 ずいぶんと落ち着きを取り戻したらしいヘレンは、自分のことについてぽつぽつと話し出していた。ウォルマートで買い物をしてから歩いて遅い昼食を食べに来て、その帰りに母親とはぐれたらしい。どのあたりではぐれたのかが分かれば探しやすいと思ったのだが、周りに人が多かったためかそこまでは覚えていないようだった。確かにグレゴリーとモグラから見ても、ざわざわと行き交う大人たちに視界を遮られることはままある。ふたりよりも更にずっと背の低い少女にとって、この人ごみはさぞ不安を掻きたてたことだろう。なんとか商店街から抜け出そうと歩いて、ひとつ隣の通りに出たところでグレゴリーにぶつかったということのようだった。
 娘が迷子になったのならば大声で呼んでいるかもしれないと踏んでいたのだが、予想に反してヘレンを呼ぶ声はどこからも聞こえなかった。そうして歩いているうちに商店街を抜けてしまい、雑踏は穏やかになってゆく。通行人の数と反比例するようにコニファーの数は増えてゆき、車道は少しずつ広くなる。ここからしばらく続くオフィス街を抜けるとウォルマートに出るのだ。
「車はまだ動かしていないだろうけど、どうしようか」
「戻っとるとは限らんやろ。子どもがおらんようになったんならまだそこらへんにおる可能性のほうが高いんとちゃうか。店ん中を見とるとか……まあよう知らんけど」
「そうだね。仕方ない、不安だけれど警察に頼むか。母親も心配しているだろうし」
 小声でそう話してから、グレゴリーはヘレンに向き直って警察署まで行くという旨をできるだけ噛みくだいて説明した。彼女は多少不安そうな顔を見せたが、ママに会いたい気持ちが強いのだろう、グレゴリーの手をぎゅっと握ると存外しっかりした様子で頷いて見せた。きみは偉いね、と頭を撫でると彼女はほんのわずかにだが笑った。

 警察署へ行くためには、元来た商店街を抜けて北側の通りへ出なければならない。またあの人ごみを縫っていくわけだが、歩いているうちに問題が起きてしまった。ヘレンがどうやら靴擦れをつくってしまったらしく、足が痛いと言い出したのだ。しゃがんで見てみると、踵のところに赤く擦れた部分がある。外行き用の慣れない靴で長時間歩いたのが原因かもしれない。これは歩けないなと眉をひそめていると、グレゴリーとヘレンの頭上から掠れた声が降ってきた。
「しゃあない、乗れ」
 少なからず驚いた表情をしていたのであろう。モグラはグレゴリーに歯を見せるようにしてわざとしかめつらしい顔をしてから、少女の脇に背を丸めた。ヘレンは初め恐る恐るといった様子でモグラの背に乗っていたが、次第にリラックスしたのだろう。疲れもあってか商店街を抜ける頃には寝息をたて始めていた。寒さのためか赤みがかっていた丸い頬が、眠りにおちたためにいっそう赤々としている。ずっと緊張していたのであろう小さな体がすっかり力を抜いているのをほほえましく感じた。
 いくら年下だとはいっても子供が子供を背負っているのだから大変だろうと思うが、そこは傭兵としての鍛え方が功を奏しているのか、モグラはくたびれた顔もせずに淡々と歩き続けている。ごろごろとキャリー・ケースを引きながらそこに並ぶグレゴリーは何度か「代わろうか」と提案してみたが、結局キャリー・ケースを引かせることになるのだから変わらないと断られていた。
「それに俺のほうがお前よりは力あるやろ」
「まあ、否定はしないでおこう」
 東に向かう細い通りを過ぎると、遠くまで視界が開けた。冬の高い空を支える濃緑紺の山脈に、白っぽく輝く太陽が差しかかり始めている。風はますます冷たさを増し、やがて転がるように辺りは暗くなってゆくだろう。腕時計をちらと見てから「こんなに長く外出して大丈夫かい」と尋ねるグレゴリーに、モグラは何も答えなかった。相変わらず表情に乏しいが、グレゴリーとふたりで居た時よりも強張っている。その顔つきは、ヘレンと出会ってからずっと緩まることはなかった。

 昔からモグラは女性が苦手であった。それも同年代や年下ならばまだマシな方で、年上になるほど避ける傾向にある。母親への苦手意識が如実に表れているのだろう。嫌っているとか怖がっているとか軽蔑しているというよりも、どう接してよいのか分からないというほうが正しいようだった。生きていくうえで出来るだけ関らないでいたいという強い意思を、はしばしに感じるのだ。
 モグラ――クリストフのこういった一面を見る時、グレゴリーはひとつ年上の彼がまだ幼い子供なのだということをしみじみと感じ、そうして自分も彼と同じ子供なのだと思い知らされる心地がする。こと女性に対しては必要以上にソフトに優しく接するのが当たり前だと思っているグレゴリーもまた、物心ついた時から親には構われない暮らしをしてきた、まだ八歳の子供でしかないのだった。愛されていないとは思わないが、それを言うのならモグラだって同じなのだろう。ひとつでも満たされないものがあれば、人はそれをどうにかして埋めようとするものだ。もしかしたら僕と彼もまた、互いを埋めあっているのかもしれない。グレゴリーはときおりそう考えるのだった。
「ねえ、お兄ちゃんたちって」
 え、と顔を上げる。いつの間にか目を覚ましていたらしいヘレンが、モグラの背に頬を乗せたままぼんやりとハシバミ色の瞳を向けてきた。その眼差しのやわらかさに驚く。すぐにでもふたたび寝入ってしまいそうなとろんとした瞳をグレゴリーに向けながら、やはりとろんとした声色で、彼女はこうのたまった。
「パパとママみたいね」
「「――――は?」」



 警察署のエントランスへ入ると、すぐに若い女性がものすごい勢いで走ってきてヘレンを力いっぱい抱きしめた。巻き添えを食って一緒にホールドされそうになったモグラが慌てて女性にヘレンを押しつけるのを笑いながら眺めていたグレゴリーは、なるほどと腑に落ちて眉根をほどいた。あの後すぐに眠ってしまったヘレンを起こすわけにもいかずにずっと悶々としていたわけだが、彼女の発言について、明瞭な答えがそこにあったからである。涙目で娘を抱きしめる女性の髪は、グレゴリーのものとよく似ていた。柔らかそうな、オレンジがかった蜂蜜色のブロンド。
「つまり、きみがパパというわけだね」
「あ? ……なんやそういうことか」
 グレゴリーの視線の先を見遣ると、モグラはどこかしらの安堵を込めて呆れたように顔をしかめた。そうして大きくため息をつく。さすがの傭兵でも今回は疲れたのだろう。肉体的にというより、精神的な部分が大きいかもしれなかったが。

 今度は母親に背負われて遠ざかっていくヘレンに手を振って、グレゴリーは一足先に歩き出していたモグラの後を追った。見上げればもう空は夕焼け色に染まっており、あとは夜の帳を待つばかりとなってしまっている。さてどうしたものか、とグレゴリーは口元に手をあてて思案した。今サウスパーク駅を出ても、今日中に新居のある州に到着するのは不可能だろう。両親はもう先に着いてしまっているし、引き払った家に戻るわけにもいかない。「おい、間に合うんか」「無理だろうね」考えながら答える。さほど悩んでいる様子でないことはモグラにも分かったのか、彼は一度傍らを見ただけですぐに視線を前に戻し、ポケットに手を突っ込んでごそごそと中身を探り出した。
「歩き煙草は感心しないな」
「黙っとれ。……グレゴリーお前、今夜はうちに泊るんやろうな」
「え?」
「こないに遅うなったんや。お前から説明せい」
 自分の母親がグレゴリーには甘いことをよく知っているモグラは、有無を言わさぬ口調でそう言うと煙草に火をつけた。嗅ぎ慣れた煙のにおいがすぐに鼻梁を覆った。素直じゃないな、と少し唇を尖らせてその横顔に返してやりながら、グレゴリーはモグラの母のご機嫌をうまくとる算段を始めた。

 頭上では、夕陽が闇に追い立てられて西の山脈へと隠れてゆく。自分達の足から伸びた長い影は、もうじきに見えなくなってしまう。夜が来ると思い出すのは、広がる白雪とそれを汚す血の色だ。君が居なくならなくて僕がどんなにほっとしたか、君は知らないだろう。そういつまで経っても言えない自分もまた素直ではないのだと、笑いだしたいほどに分かっている。




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109.32はコロラド州の経度