放課後を迎えるチャイムが鳴りやむのも待たずに、騒がしくはしゃぎながらクラスメイト達が教室を出て行く。その速さといったらまるでSF映画で宇宙船に穴が空いてしまった時に宇宙空間に吸い出されるクルーのようで、みるみるうちに教室はがら空きになってしまった。
 週末のお泊り会のことで持ち切りの女子の集団は、きゃあきゃあと小鳥みたいな声をひっきりなしに上げながら廊下でひとかたまりになって、持ち寄るお菓子について相談しあっている。
スタン、カイル、カートマン、ケニーの四人はまた何かをやらかしたのか昼休みにもマッケイさんに校内放送で呼び出されていたけれど、授業が終わると同時にギャリソン先生に釘を刺されてげんなりとカウンセリングルームへ向かって行った。どうせまた居残りだろう。同じように四人のしょぼくれた背中を眺めていたケビンが「今度は何週間かな」と面白がるように小声で言ったので、俺は希望を込めて三週間と答えておいた。あいつらは本当に懲りない連中で、いくらお仕置きを受けたってそのうちまたバカなことをしでかすんだから居残りなんて効果はないと思うけれど、と内心で付け加える。居残りを受けている奴らは皆どこかしら頑固というか、何度も繰り返しカウンセリングルームに送られていてそれでも懲りないのが多い。たとえば俺の幼馴染もそうだった。別に大した問題を起こすわけでもないが、昔から口が悪くてすぐに中指を立てるものだから、今では有名な問題児扱いをされている。もちろん居残りの常連でもあった。

「クライド? 聞いてる?」
「え、ああごめん」
「算数の宿題ってさあ、何ページまでだっけ」

 俺の顔をのぞきこんで教科書を見せてくるケビンに謝りながら、記憶をたどって思い出そうとする。たしかここからここまで、と捲っている間にトークンが帰る準備をしてやって来たので確認すると、どうも一ページ間違えていたらしくてケビンにジト目で見られてしまった。なんだよ、だって俺もトークンに聞くつもりだったんだからしょうがないだろ。

「それって威張れないよクライド」

 呆れたふうに笑うトークンに適当に笑い返して教室を出ると、生徒達でごちゃごちゃとしている廊下を歩きはじめる。ロッカーのところで何かを探しているらしいバターズと、それに付き合ってやっているジミーに手を振って通り過ぎる。ジミーって良い奴だよな、と三人そろってしみじみと頷きあった。
 ちょっと前までこういう時は大抵クレイグが一緒に居たのになあ、とぼんやりと思う。ゲイ騒動があってからというもの、あいつは俺達と一緒に帰るどころか、つるむこともほとんどなくなっていた。帰り際にちらと見かけたクレイグの隣には今日もやっぱり「恋人」のトゥイークがいて、手を繋いで歩いていた。あの二人は騒動の後からずっと、それこそ授業のとき以外は見かければいつも手を繋いでいるか隣同士で、なにか他人を寄せ付けないような雰囲気がただよっていた。
 もともとクレイグとトゥイークが本当にゲイではないことは、俺にだって分かっている。ゲイじゃない男同士を勝手にくっつけて楽しむのがアジアンガールズなんだとカイルが調べてくれた。それでもああして付き合ってる体裁を保っているのは、周りにあれこれ騒がれるのが嫌だからなのだろう。クレイグもトゥイークも、厄介事を避けたがるところは似ているから。

(それとも、今では本当につきあってるのかな)

 この頃、そういうふうに考えることが多くなってきた。初めのうちはヤオイアートを見て面白がっていたくらいだったのに、最近は二人を見ても愉快な気分にはなれなかった。いつもみたいに一過性のバカ騒ぎで、こんなに長くあのゲイカップルごっこが続くとは思っていなかったんだ。なんだか変な夢でも見てるような気分のまま、俺はこの数週間をやり過ごしていた。

 クレイグと俺は幼馴染だ。狭い町だから当然かもしれないけれど幼稚園も同じで、小さい時からとにかく自然と近くに居たのがクレイグだった。家も近いから帰る時は大抵一緒で、学校でも遊びでも一緒のグループに居るのは当たり前のことだった。
 だけどクレイグとトゥイークがああしていつでも隣に居るようになってから、二人はそれまで仲の良かった俺やトークンやジミーとも距離を置くようになって、一緒に帰ったり遊んだりすることはほとんどなくなっていた。俺はトゥイークとはそこまで仲が良いわけじゃなかったけれど、それでもたまに遊んだりつるんだりは普通にしていたのにそれもなくなって、一度に二人の友達がいなくなったみたいな空しさを感じた。クラスには当然毎日いるし必要があれば喋るのに、どことなくよそよそしいクレイグとトゥイークを見ているとなんだか別人みたいに思えた。ケビンと別れてトークンと二人になった後、ふとした拍子に会話が途切れてなんとなくそのまま黙って歩いた。クレイグがつるまなくなってから俺とトークンは二人でいることが前より多くなって、こうして不意に二人して沈黙することが時々あった。そんな時は多分同じことを考えているんだろう、と俺は勝手に思っているのだが、そういえば今まで聞いてみたことはなかった。

「なぁトークンさあ、寂しくないのか?」
「だって、しょうがないよ」

 何がと言わなくてもすぐに返事をしたトークンに、ほらやっぱり同じことを考えていた、とちょっとだけ笑って隣を見る。うつむきがちに、けれど視線だけは前を向いて何かを考えている様子のトークンの真っ黒い目がこちらの視線に気づいて俺のほうを見た。寂しそうではあったけれど、たしかに「しょうがない」と思っていそうな目をしている気がする。なにか心許無い気持ちになってリュックサックのバンドをぎゅっと握った。

「……僕はしょうがないで済むけど、クライドはそういうわけにはいかないだろ」
「え、どういう意味だよ」
「だって、クライドはクレイグと親友だし」

 ぽんと当然のように出てきた親友という言葉に新鮮味を感じて、目を見開く。しんゆう。それって、例えばスタンとカイルみたいな関係のことだ。自分とクレイグがあいつらと同じ関係性だとは思えなかったが、周りから見れば似たようなものなんだろうか。クレイグが傍に居るのはあまりに当たり前のことだったから、親友だとか考えたことがなかった。
俺とクレイグがどうも親友らしいというのは、十年間生きてきて初めて知る発見だった。そりゃあ急に親友と疎遠になったら寂しいよな、とまるで他人事みたいに考える。これまで自覚していなかっただけで、俺はクレイグを親友だと思っていて、だからこんなに空しいし寂しいのかもしれない。――けれどそうだとすると、クレイグはどうなんだろうか。クレイグも俺のことを親友だと思っていて、俺と遊んだりできなくなったことを寂しいと感じているのだろうか。どうもその点について、俺は自信がなかった。このままクレイグと俺の友情がフェードアウトしてもあいつは案外平気でいるような、そんな気がした。



 家までもう少しというところで、遠くに見えた人影にゲッと小さく声を上げてしまった。向かい合って喋っている、見慣れた青い帽子と黄色い髪。クレイグとトゥイークだ。わざわざトークンの家のほうを回って寄り道して帰ってきたっていうのに、まだあんなところで立ち話をしてるなんて。
 どうせならクレイグんちに入って喋ればいいだろ、とひとり言を言いながら、俺は自分の家へと早足に歩いていく。幸いなことに俺の家はクレイグの家よりも手前にあるので、二人を通り越すという事態にはならないで済む。玄関まであと百メートルくらいのところまで来た俺は、こっちに気付いた様子の二人を見ないようにしてダッシュした。おいこれじゃあ俺のほうがあからさまにあいつらを避けてるじゃんか、と内心思ったものの、なんだか今日はできるだけ顔を合わせたくなかった。いつもは薄情な奴らだなんて思っているのに、おかしなことだけれど。
もうすぐ、もうすぐ、ドアまで目と鼻の先、あとちょっと、

「おい! クライド!」

そこで耳に飛び込んできた声に、俺はすっ転びそうになった。
 急ブレーキをかけて、声が聞こえたほうに目を向ける。走っていたせいで心臓がバクバク鳴っている。今呼んだのがクレイグだっていうことは分かっているが、結構大きな声だったような気がして妙にびっくりした。あんなふうに呼ばれるのは、バスケやフットボールの練習と試合の時くらいだ。
 クレイグは体の向きを変えて真っ直ぐこちらを見ている。表情までは、よく見えない。距離はあっても目が合ってしまったので、観念した俺はおとなしくクレイグのほうへ足を進めた。膝から下がやけに重い。無視して家に駆けこもうとしたら呼び止められたなんて、めちゃくちゃ気まずいだろ。こんなことなら普通によおDUDEって声をかけておけばよかった。
 普通に声が聞こえる近さまで来た辺りで、

「じゃあ僕は帰るね」

 と言いながら、トゥイークがちょっと笑顔を浮かべて俺に手を振ってきた。つい反射的に手を振りかえしてしまってから、「なんだよそれ」と慌てて引き留めようと意味もなく手を伸ばしたが、トゥイークはクレイグにも似たように手を振ると、そのまま小走りであっという間に行ってしまった。あいつらお別れのキスなんてしないだろうなと一瞬身構えたけれど、それはなかった。

「よおクライド」
「な、なんだよ」
「何ってべつに、最近喋ってなかっただろ」

 なんでもなさそうな目で見てくるクレイグに、俺は少しだけイラだちを感じた。お前ら二人に遠慮してるトークンやジミーや俺がバカみたいだと思ったのだ。口には出さなかったけれど。

「オレと喋ってたらまた浮気だって騒がれるんじゃねーの」
「さすがに、そこまで過敏じゃねえよ」

 上着のポケットに手を入れると、クレイグは顔を苦くしながら低く皮肉っぽく笑った。その表情はよく知っているクレイグのものだったから、久しぶりに本物のクレイグと会ったような気がしてやけに安心している自分に気がついた。イラついているのにホッとしている。我ながら変な気分だった。
 それからしばらく、クレイグと色々な話をした。色々と言ったって学校のこととか宿題のこととか最近出たゲームのこととか、ブロンコスのこととかストライプのこととか、大した話じゃない。つるまなくなる前にもしていたような内容だ。それでも何週間もまともに喋らなかったので、ずいぶんと楽しく感じて驚いた。今日の授業でギャリソン先生がしていたくだらない話について喋っているだけで嬉しくなる日が来ようとは、つい数分前の俺には信じられないだろう。だけどそうやって会話しているうちに、同時に胸が苦しくなってくるような、息が詰まるような感覚がじわじわとせり上がってくるのが分かった。こんなことで嬉しくなるっていうことは、それだけクレイグと離れて、こたえていたっていうことだ。クレイグが一緒に居ないことがここまで寂しかったなんて思っていなかった俺は、情けない気分になってうつむいた。
 じんわり視界が滲んでくる。

「……おい、どうした?」
「なんでもないっ」
「だって泣いてんじゃ……」
「う、うるせ! じゃあまたな!」

 なんて言ったところで、明日からまたクレイグはトゥイークとべったりで俺のことなんて気にしないんだろう、と心の中で呟いた。鼻水が出てきてしゃくり上げそうになる前に、踵を返してまた走る。眼球の表面に溜まっていた涙が地面へ落ちていくのが、視界の端にぼんやりと見えた。「待てよ」と驚いたように呼ぶ声が追ってきたけれど、今度は止まらない。涙も止まらない。こんなに自分の涙腺の弱さを恨めしく思ったことはない。止めたくても、止まらなかった。たとえクレイグとトゥイークが本当に付き合っていないとしても、ああやっていつも一緒に居たらほんとうに好きになってしまうかもしれない。それがとても怖い。友達を、親友をとられるのがこんなに寂しくて苦しいことだったなんて、知らなかった。
 トゥイークとだって友達でいたいのに、このままじゃ俺はトゥイークを嫌いになってしまうかもしれない。

「待てって言ってんだろ!」
「どぁ!?」

 ぐんと腕を引かれ、上半身がものすごい勢いで反転した。力任せに引っ張ったらしいクレイグは俺がそのまま倒れ掛かるとよろめいたが、どうにか後ろには倒れずに俺を支えた。
肩に鼻をぶつけるかたちで固まってから、顔を上げようとしてハッと考え直す。こんな泣きべそをかいた顔を見られるのはいやだ。どうせならクレイグの服で拭いてやろうと思い、逆におでこをクレイグの肩にぐりぐりと押し付けた。そうやっているうちに、クレイグは俺の腕を離してリュックサックの上から俺の背中に腕を回したようだった。ゆるく体が圧迫される。

「なんで泣いたんだ」
「だ、だからなんでも」
「トゥイークのことか」

 また涙がにじみ出てくる。それを手袋で拭ってどうにか頭を上向けたが、クレイグの顔が見られなくてうつむいたまま顔を逸らした。クレイグがトゥイークの名前を口にするだけで喉元が苦しくなる。せめて首を横に振るとかしなければ肯定しているのと同じなのに、体は鉛みたいに動かなかった。
なんだよこれ、俺ちょっとおかしいんじゃないのか。

 「……勘違いすんな、俺とトゥイークは付き合ってるふりしてるだけだ。べつに本当に好きなわけじゃない」

 クレイグが気まずそうにそう言うと、顔がカッと熱くなった。

「き、聞いてねーだろそんなこと!」
「お前のことくらい見りゃ分かるんだよ!」

 珍しく大声を上げたクレイグにぎょっとして、思わず顔を上げる。いつの間にか背中ではなく両肩を掴んでいた手の力が強くなり、服の上からでも痛いくらいだった。
 分かる? なにが分かるっていうんだ。
 お前とつるめなくなって、一緒に帰れなくなって、家に遊びに行かなくなって、こんな毎日がいつまで続くのか、もしかしたらずっとこのままなんじゃないかって絶望的な気持ちになっていた俺のこと、お前は本当に分かるのか。
怒涛のごとく押し寄せてきた気持ちを全部言ってしまいたかったけど、うまく声が出なかった。代わりに涙が後から後から流れ出てきて、顔面はもうひどいことになっていた。

「分かるんだよ」

 そのみじめな顔から何を読み取ったのか、クレイグは今度はぼそっと呟くように言うと、戸惑うような力で俺を抱きしめた。さっきはすごい勢いで引っ張ってきたくせに、こいつの力加減が分からない。抱きしめるというには弱いから、俺もまた顔を押しつけるようにしてクレイグに抱きついて、そのまま涙が止まるまで泣いた。
 幼稚園くらいの頃も、そういえばこうやってクレイグに抱きついて泣いていたような気がする。もっともあの頃はクレイグだってちょっとしたことで泣いていたけれど、いつの間にか泣かなくなって、俺だけが今でも泣き虫のままだ。

「なあ、もし俺が本当にゲイだったらどうする」
「どうって」

 視線をそらしてそう呟いた声に、何と返したらいいのか分からなくて眉をひそめる。質問の意図がよく分からない。「軽蔑とかはしないぞ」「……そうじゃねーよ」涙は止まっても厚ぼったいまぶたを持ち上げてクレイグを見つめると、ちょっと唇をむずむずとさせて怒ったような、照れたような顔をしている。もどかしいけれど、痛くはない沈黙だった。

「だから……お前俺とつきあえるのかって聞いてんだよ」

 いっそう声は低くなった。まじまじと凝視すると、一瞬だけ鳶色の目がこちらを見て、またどこかへ視線をそらしてしまった。そういう言葉が寄越されるとは思っていなかったのに、言われてみると確かにそういう顔をしていた、と今しがたのクレイグの表情を思い出す。だんだんと俺も照れくさくなった。
 俺は女の子が好きだ。これは間違いなく真実だし、ゲイかと聞かれたらノーと即答できる自信がある。でもクレイグの問いはずるかった。だって俺は今日、つくづく気づいてしまったのだ。

「……クレイグ、お前ゲイなのか?」
「……それは分かんねえ」

 思わず気が抜ける。ちょっと前、ヤオイアートが学校に氾濫していた時には「俺はゲイじゃねえ!」と断言していたクレイグが、わずか数週間で自分の性について死ぬほど考えたのだと、今の言葉と表情がありありと物語っていた。
 俺は気が抜けてそして、

「その質問、トゥイークにもしたか?」
「は? してねえよ」

 心外そうに寄越された返事に、また泣きそうになるくらいほっとする。まだ中間地点でも、クレイグが悩みに悩んで進んできた先に居たのが俺だと思うと、どうしたらいいか分からないくらい嬉しかった。俺はつくづく気づいてしまったんだ。クレイグのことが大好きだって。

「付き合えると思う、クレイグなら」

 言いながら、どんどん顔が熱くなるのを感じた。こんなに恥ずかしいかんじで答えるつもりはなかったのに、自分の思うようにはならない。泣いたせいか緊張しているのか知らないけれど、語尾が上ずって変な声になってしまった。
俺の返事を聞くと、ずっと顔をしかめていたクレイグはようやく安心したように笑ってから背中を向けた。寂しがっていたのも泣いてたのも俺のほうだったのに、なんでクレイグまでそんな顔をしているのかと一瞬考えて、俺もつられるようにして笑った。また少しだけ目の前がにじんだ。

「なあ、お前も寂しかったのか?」

 クレイグの後ろから回り込んで顔を覗くと、赤い顔で視線をうろつかせたクレイグは少し口ごもってから、

「当たり前だろ」

 とはっきり答えた。
 それだけで俺の数週間分の空しさはすっかり埋められて、体に収まりきらなかった嬉しさがあふれるように、頬が自然と上がって笑顔になるのが分かった。
 俺の顔を見たクレイグはやっぱり照れたように口ごもったけれど、数秒何かを考えるような目をした後に俺の肩、というより首に腕を回して引き寄せた。ちょうどバスケで味方チームがシュートを決めて喜び合う時みたいな恰好だった。さっきとは比べ物にならない強さに痛い痛い締まる、と蛙の潰れたような声を出す俺のこめかみの辺りに、熱い息がかかる。それからすぐに、乾いていて、でもちょっと湿ったものが押し当てられた。

 キスをされているのだと、少し遅れて気がついた。