やわらかな風に吹かれる帝國図書館の長い渡り廊下を、のんびりとした歩調で進んでいく男がいる。榛色のような明るい色の髪は短くふわふわとしており、長く伸ばされてひとつに括ってある後ろ髪は風に遊ばれてまるで尻尾のようによく動いていた。肩に担いでいる金属バットのつやつやした照り返しがすこし後ろを歩いていた夏目の視界で光り、そのまろい眩しさに目を細めながら、正岡、と声をかけて距離を詰める。呼ばれた親友は「ん」と一度立ち止まり、夏目が隣に並んだところでまた歩き出した。どこかすっきりとして見える横顔を何か言いたげな顔で見つめたものの、結局ほんとうに言いたいことは口から出ることはなかった。代わりにできうる限り如才ない声色で「まったく君は勝手なんだからねえ」と呟くと、いかにも待ってましたと言いたげな明るさで正岡は笑った。
「本当のことだからいいだろ?」
「そうは言っても、僕らのほうから会派編成に要望を出して気を悪くされなかったか心配ですよ」
「お前は別についてこなくてもよかったんだぞ、俺が言い出したんだから」
「いえ、それはそれで心配と言うか」
 君が何を話すか気になってしまって。と続けようとした言葉を飲み込み、曖昧に笑う。正岡は少しだけ心外だというような顔を作って見せたが、すぐにどうでもよさそうに前を向いてしまった。夏目はゆっくりと歩調を緩めると、斜め後ろに下がって彼の横顔を再びさりげなく見つめた−−隣に並ぶよりも見やすいのだ−−。歩く正岡の向こう側には鮮やかな新緑が広がり、花盛りの雪柳がそよそよと風を受けてなびき輝いている。逆光になって少し翳りのある友の顔はやはりすっきりと晴れやかに見える。
 他に通る者がいなかったから、周りも気にせずに夏目は正岡を観察することができた。明るく、こんなうららかな陽気のよく似合う彼の面立ちの奥にあるものを見逃すまいとするように、渡り廊下を抜けるまでのあいだをずっとそうして過ごした。視線に気づいているのかいないのか、正岡が昼食の話やべーすぼーるについて熱く語り続けてくれていたことが有難かった。

 このところ、有碍書に潜っても正岡に「君の出番だよ」と言わなくてもよくなってしまった。夏目が声をかけるよりも先に、正岡が侵蝕者に向かって飛び出していってしまうからだ。通常ならば弓や銃などの飛び道具を使う者は後方で援護するかたちで構えるものであるのに、こと夏目と一緒に潜書するときに彼はそのセオリーを守らない。自分を侵蝕者から遠ざけるように走り出し、勇ましく撃ちかける後姿を、いつも夏目は複雑な思いで見ていた。戦闘力において大きな差があるわけではないし、守られるほど頼りない戦いをしているつもりもないのだが、その主張をこれまで正岡に対してぶつけることはできなかった。彼がそうなった原因は自らにあるのだと、情けなくもよく理解しているからだった。
 そうこうしているうちに、有碍書に潜るときは夏目と自分を同じ会派にしてほしい、とまで正岡は司書に頼んでしまった。つい先ほどのことである。昔からの親友で息を合わせるには一番適任だからというのが正岡の言い分であったし、司書もそれについて納得したふうに頷いてくれはしたが、実際のところ正岡がどういうつもりで頼んでいるのか司書には分かっているはずだ。それだからこそ夏目は何も言えなかったし、「ほんとうに貴方たちは仲が良いね」と皮肉交じりに助手の徳田に言われても、へらりと笑う正岡の横で苦笑を漏らすことしかできなかった。

−−数日前、夏目は潜書中にひどい侵蝕を受けて血を吐いた。それも生前胃病のため命の瀬戸際に立ったときにも匹敵するほどの喀血量で、あたりは黒い血の海といった惨めな状態だった。とはいえ絶筆のおそれはなかったし、これくらい血を吐くこともあろうと夏目自身は覚悟をしていたこともあって、他の文豪たちに迷惑をかけること以外は問題もなかろうと思っていた。
 しかし、それが違った。この様子を見ていた正岡が、それはもう驚くほどに取り乱したのだ。夏目が胃病で死んだということは知識として知っていても、このように血を湯水のごとく吐き出すとは知らなかったのだろう。己の肩を抱き、悲痛にゆがんだ必死な顔で夏目夏目と呼ぶ友の顔を、夏目はおぼろな意識の中でなにか可笑しいような心持ちでながめていた。自分のほうがもっとひどい喀血をしていたはずじゃあないか、と軽口をきいてやりたかったのに、どうしても声が出せなかったことを今では後悔している。正岡が尋常でないほど過保護になったのは、それからのことだった。

「あのね正岡、もう何ともないのだから心配せずとも大丈夫だよ」
 むしろ僕は君のほうが心配だ、という意味を込めてそう言うと、自室に入りかけていた正岡は振り返ってすこしく眉を下げて笑った。その表情はどこか聡く、自身のしていること、それが夏目や周囲にどう見えているかということをしっかり理解しているものであった。夏目は嘆息したい気持ちを抑え、正面から友のかんばせと対峙した。かくも厄介な男であると思い知らされている。いっそ何も自覚していなかったならば言葉であやつることもできたかもしれないのに、彼は昔から頭の回転が速く、そして的確であった−−おそらく夏目よりも、ずっと。
「お前のためじゃない。俺がやりたいようにやってるだけだ」
「またそういう風に言って、君は」
「いいからいいから、じゃあまた後でな。俺ちょっと寝るわ」
 正岡は常に比べてずいぶんと静かな落ち着いた声色で告げると、ひらりと手を振って自室の扉の向こうへ消えてしまった。ラッチの噛み合わさる音がいやに大きく響いた。閉じられた部屋の前で立ち尽くしたきり、夏目はしばらく黙って扉の木目をねめつけるようにしてから、やがて深くため息をついた。戦闘中や日常の何気ない瞬間にはあんなに気遣うそぶりをするくせに、こういう時は優しくないのだ。否これが彼にとっての優しさであると分かっていても、夏目にはもどかしくて仕方がなかった。



 自室に戻る気分ではなかったため、夏目は宿舎棟から再び出ると中庭に面したラウンジへと向かった。建物の外ではあるが屋根があり、いくつかの小さな椅子とテーブルが置かれているために文士達、こと愛煙家には気に入られている場所だ。この時期は芽吹き始めた木々の鮮やかな緑と、植え込みの花の色どりの賑やかさを楽しむこともできる。そこでひとりの長身の若者を見つけて声をかけると、彼は椅子に気だるげに背を預けていた姿勢を正して立ち上がった。
「やあ、龍之介くん」
「夏目先生! ……どうかされましたか、浮かないお顔ですね」
「いえ、少し困ってしまいましてね」
 隣に腰を下ろすと、心配そうに自分を見つめる弟子に笑顔を向けてから、夏目は正岡のことをかいつまんで話した。侵蝕のせいで喀血したことは芥川も知っているし、それ以後の正岡の様子についてもどうやら大まかには把握していたらしい。一体どれだけの文士に承知されているのかと気恥ずかしくなりながら、夏目は膝の上で組んでいた手の指をもどかしげに動かした。「少し度が過ぎているのではないかな」と同意を求めた師に対して、ううん、と困ったように唸って芥川は口元に手を当てた。
「先生が絶筆してしまうのではないかと、不安に思われているのでしょう。僕もそうですから少しは分かるつもりです……心配する必要はないと頭では分かっていても、そう割り切れるものではありませんから」
「私もそれは覚えがありますよ。ですがあれは勝手なのです、自分は心配をかけるくせに私にはかけさせてくれない」
 うつむきがちに拗ねたような口調で話す師を、芥川はどこか珍しそうに見つめた。生前よりもずいぶんと物腰穏やかではあれ、芯の部分では頑固さを失くしておらぬ夏目が、自らの意志をたゆませてまで余人の身勝手さを憂えるさまを呈するのは稀であった。
 無論すすんで心配をかけたいわけではないのだが、自分は正岡にあそこまで強く過保護に出ることができないという苛立たしさが胸にわだかまっているのだ。彼のしたいように、できるだけさせてやりたいという気持ちがある。それが結果的には正岡に守られ庇われるような状態をつくり出しているのだとしても、やめてくれときっぱりと告げることはできない。告げたらおそらく傷ついたような顔をするであろう友の顔を想像するだけでも、夏目にとってはひどく苦しかった。
「それにしても、あのような扱いはまるで……」
 言いかけて口を噤むと、ゆるく頭を横に振って夏目は苦笑がちに目を細めた。居たたまれないように眉を八の字にしている。何かを誤魔化した顔であった。口髭を綺麗に整えた紳士然とした彼が、ずいぶんと年若い苦悩を抱えているのだということをその表情から読み取った芥川は、その面差しをかすかな眩しさと思案を含めた笑みで見つめてから、ふっと流れるように目を逸らした。午後の日差しは燦々と降りそそぎ、若草色の芝生が広がる中庭は、屋根の影によって陽光の遮られたこのラウンジとはぶっつりと遮断された別世界のように見えた。あの人はあちら側の人間なのだ、とぼんやりと考えながら、芥川は懐から煙草の箱を取り出すと夏目に差し出した。
「先生もいかがですか」
「ありがとう、ですが遠慮しておきますよ。馴染みの煙草がなくなってしまったというので、吸う気が起こらなくなってしまってね」
 顔を上げ、にこりと普段のようにほほ笑んだ夏目に芥川も笑みだけを返して頷くと、箱を再び懐へと仕舞った。このいらえには予想がついていた。人には今のように話しているが実のところ、親友の肺のために煙草をやらないのだということを芥川は知っていた。



***


 その日の浄化を終えたとき、最も侵蝕が重かったのはやはり正岡であった。夏目の分まで半分以上の攻撃を食らいながら敵に銃弾を撃ち込んでいるのだから、当然といえる。正岡はここ数か月は最初に補修を受けさせてもらうのが常のごとくなっていたが、終えてみると一番最後まで寝台に残っていたということも少なくなかった。戦闘力の高さと侵蝕の深さがそうさせているのだった。
 いつもならば補修が終わるまで正岡に付いていることが多い夏目だが、今日は司書の仕事の手伝いがあるため近くには居ない。すまなそうに医務室を後にする夏目を笑って送り出してからもうどれくらい経ったのか、時計の見えない寝台からでは分からなかった。
 長時間の補修ももうすっかり慣れたものだ、句でも作っていれば暇など感じることもない。そういった心持ちで洋墨の点滴に繋がれ、補修用の寝台に横になって言葉をこねくり回しながら天井を眺めていると、シャッと音を立てて誰かがカーテンの内側へ入ってきた。首をめぐらし揺れる白衣を見て起き上がろうとした正岡を手で静止すると、森は静かに溜息をつき、カーテンを閉めて寝台脇の椅子に腰を下ろした。一緒に潜書した面子の補修はもうすべて済み、医務室に残っているのは自分だけであるのだと、森がやって来たことで正岡はそう判断した。確かにあたりはしんと静まっている。発句に集中しすぎていて、周りの様子に意識が向いていなかったようだ。
「無理は禁物だと、いつも言っているはずだが?」
 森が、すっかり医者の顔をして言った。
「じっとしているほうが俺にとっちゃ苦行ですよ」
 すみません、と謝りながら笑う顔からは森への申し訳ないという気持ちは感じられても、己の戦い方について反省している色はまるで見られない。半ば予測していた答えに眉をひそめながら、森は少し間を置いたのちに口を開いた。
「それで、結果的に漱石殿が辛い顔をしてもか」
「……あいつが血を吐くところなんて、もう二度と見たくないんです」
「むこうも同じことを言っていたぞ」
 咎めるようでいて険しくはない声で返してきた森の顔をまじまじと見上げてから、へえ、と困ったふうに正岡は笑った。できるならそれは本人の口から聞きたかったと思ったけれども、夏目が自分には弱い面を極力見せないように努めていることも知っていた。
 生前の、それも正岡が結核に臥せるよりも昔のように、何のしがらみも遠慮もなく軽口を叩きあっていられる関係を保つことに固執しているきらいが夏目にはあるのだ。それでいて、正岡が少しでも咳をすればまるで親か教師のように心配し、説教をしてくる。年上ぶったその態度が少し気に食わなかった。だから夏目があんなにも大量の血を吐いた時、もちろん恐怖や驚きが先に湧き上がったけれども、心のどこかで人のことを言えた義理か、と思ったことを覚えている。俺よりお前のほうが先に血を吐いたじゃないかと、あの時夏目を抱きとめながら、心臓が潰れるような苦々しさで顔をしかめたのだ。それから、これまで夏目の身を慮らなかった自分を殴ってやりたくなった。彼もまた病に侵されながら生きそして死んだのだと、体感で理解したのはおそらくあれが初めてだった。
「俺は夏目が大事ですよ。多分、多分ですが、友達としてはよくない感情まで持っちまってます。だけどあいつとの関係は壊したくなかったから、伝えるつもりはなかったんです。……それが、あいつが死ぬと思った時からどうでもよくなって、伝わったって構わないと思うようになった。悔やまないようにしたいって」
 天井を見上げながらとつとつと話す正岡のまなざしは、これまでに見せたことのないような真摯さと熱を帯びている。軽く眉根を寄せた表情に森は、いつも快活なこの男のままならぬ内心を垣間見たような気がした。いつから、どれだけ思い悩んでいたのかを知る者はおそらく誰も居ないのだろう。ひとりでその感情を飼い慣らして笑っていようと決めてしまった正岡の心を決壊させたのが、他ならぬ夏目であったことに森はわけもなく納得する。本人達は辛かろうが、なるべくしてこうなったのだろうという感慨がどこかにあった。
「お前は、昔からそうだったじゃないか」
「……へへっ、そうでした」
 ここで初めて呆れをない交ぜにした笑みを見せた森に、正岡もはにかむように破顔した。少年めいた純朴さと老成した達観の、どちらをも内包しているかんばせであった。



 
 頭上には快晴が広がっている。
 さわさわと風にそよぐ若草の海に仰向けに寝そべって、正岡は澄んだ明るい水色を視界いっぱいに満たしていた。
 ようやく補修を終えて医務室を出たものの、どうも自分は疲れた顔をしているらしいと森が教えてくれたので、夏目に会えばまた何か言われるかもしれないと思い、彼を避けて外に足を向けたのだ。素振りでもしようかとバットもちゃんと持って来たけれども、溜まっていた疲労には勝てなかった体は暖かな芝生に寝転ぶことを選んだ。これじゃあ医務室と同じだ、と我ながら笑ってしまうも、五感に訴えてくる生命の息づかいは真っ白いシーツよりも遥かに疲労を癒してくれているように思われた。

「正岡!」
 まどろみ始めていたところへ声が届き、はっと目を開く。頭をのけ反らせてみると、夏目が小走りにこちらへ駆けてくるのが見えた。ああ見つかった、と顔を気まずげにしかめながら起き上がるよりも早くやって来た彼は、いかにも心配していますという様子で芝生に膝をつくと顔をのぞきこんできた。おおかた森さんあたりが何か教えたのだろう、と思った。逆光のなかで揺れている琥珀色の瞳がきらりと光るのを、なにかいけないものを見たような心地で視界に収めた。
「具合が悪いのかい」
「違うって、気持ちいい天気だから昼寝してたんだよ」
 笑って答えると、正岡は真上から見つめてくる夏目をやんわりと遠ざけようと手をかざした。夏目にこんな顔をさせたくなかったし、少し顔が近いように感じたのだ。少なくとも今の自分には毒になる、そういう距離だった。
「って、おい、夏目?」
 大人しく退いてくれると思っていた期待は裏切られた。夏目は黙って正岡の後頭部のところに手を差し入れると、浮かせた隙間に自らの折り畳んだ脚を挟んだ。いわゆる膝枕というやつだった。肉の少ない硬い感触に、ああ夏目の脚だと思いながら目をしばたかせる。相変わらず真上からじっと視線を落としてくる夏目の顔つきは柔らかくも真剣なもので、決してふざけているわけではないということはすぐに知れた。「聞いてくれるかい、」と振ってきた声はずいぶんと心許なさそうに聞こえたが、正岡が膝にゆっくりと重みを預けると安堵したように夏目は目元を緩ませた。
「僕はきみが大事だよ」
 は、と目を見開く。ずいぶんと聞き覚えのある響きだった。
「いつも体を気遣ってくれる君の気持ちは嬉しかった。だけど、君に庇ってもらうようでは自分が情けなくて嫌になる……だからもう、無茶はしないでください」
 君と並んで戦っていたいんだ。
 そっと明るい色の髪に触れながら笑った夏目の面差しがあまりにも優しげで、正岡は思わず青空へと目を逸らした。陽光あふれる空に網膜がかすかに焼けるような心地がした。こんなにも素直な物言いをしてくる夏目は、ひどく珍しかった。突き放しているとも取れる言葉であるのに、甘えられているような錯覚をおぼえた。確かに声色にはそんな甘やかさが含まれていた。
「お前はずるい」
 湧き上がる照れやら、嬉しさやらというものを誤魔化して正岡が少しいびつに笑うと、ふ、と短く息を吐き出して夏目は肩の力を抜いたらしい。安堵が指先から触れているところに伝わってきた。ゆるやかに笑みのかたちをつくった顔つきは、髭を除けば元より幼げな顔つきをいっそう幼くさせている。夏目のこういう笑顔を見たのはずいぶんと久しぶりだった。正岡が態度を変えてからずっと、どこか陰のある顔をしていたからだ。例え夏目がほんとうに望むことではなかったとしても、こいつを守ってやりたいと思っていた。けれどもやはりこの笑顔が見たいのだ、と正岡は心の底から思った。

「……だけど、本当に俺の気持ちが分かるのか」
「え?」
「俺は、お前が好きなんだぞ。お前の得意な英語で言うなら、あいらぶゆーだ」
 そのぶっきらぼうとも言える告白にぽかん、と口を少し開いた夏目は、数秒してから吹き出してしまった。少しだけもしかしたらと予測はしていたものの、まさかこうくるとは思っていなかったのだ。赤い顔をぶすっとさせる正岡にごめんと謝りながら、頭をぽんぽんと撫でる。その手を掴んでぎゅう、ぎゅう、と握ると正岡は「俺だってもっと恰好つけて言いたかった」と不貞腐れたように付け足し、夏目の手を自分の右腕で抱えるようにした。自然と引っ張られ、夏目は背をぐっと丸める。互いの顔はいっそう近くなった。
「いいのかい、君の第二の人生を僕がひとり占めしてしまっても」
「ひとり占めなら、俺のほうがしたいぞ。お前はいつも色んな奴に囲まれているからなあ」
 人間って欲張りだよなあ、としみじみ呟いた正岡に、そうだねと頷く。再び出会えたこと以上の幸いがあろうとは、今日の今日まで考えていなかった。伸びてきた正岡の左手から逃げきれずに、熱いその手のひらが耳を撫で、頭をぐいと彼の側へ寄せようとする力に大人しく従う。背骨がさらに丸まって少しばかり痛かったけれども、今は気にならなかった。



***


  探していた人影を視界にとらえ、通り過ぎようとしていた食堂の入り口まで後ろ歩きでそそくさと戻ると、夏目はゆっくりそちらに近づいた。俯きがちの顔は真剣みを帯びている。潜書のない空き時間だというのに珍しく素振りも壁打ちもしていないと思ったら、どうやら句を詠んでいたらしい。食堂の隅、陽当たりの良い窓際で筆と紙を手にうんうんと真剣に唸っている親友を見つめた夏目は、厨房のカウンターへと一度寄ってから、できるだけ邪魔にならないよう静かな足取りで歩み寄ると、向かいの席にそっと腰を下ろした。
「お、夏目」
「お茶だよ」
「すまんな、ありがとう」
 湯呑みを差し出すと、正岡はにかりと笑ってそれを受け取る。今しがたとは打って変わった嬉しそうな表情だった。以前はこの笑顔を見るたびにほっと気持ちが緩む心地がしていたというのに、少し前にこの男との間柄が変わってからは、逆にそわそわと落ち着かなくなるような、しかしやはり安堵するような、不思議な感覚が胸を支配するようになった。まろく湯気を立ちのぼらせている緑茶を一口飲んで、夏目は卓上の和紙に目をやった。ぐちゃぐちゃと墨で何かを書いては塗り潰した跡が所狭しと広がっている。
「良い句はできたかい?」
「んー、どうもなあ、こういうのは得手じゃないから」
「こういうのとは」
「恋文だよ」
「は」
 ぽかんとした夏目の眼前で、正岡は乾き気味の筆をくるくると回した。
「お前への恋文」
「……すみません、僕はこれで」
「だめだ」
 あまりに予想外の答えに思わず立ち上がろうとしたのを、正岡は声だけで制した。掠れた低めの声にぎくりとして、夏目は動けなくなってしまった。この声にはいつも敵わない。愛嬌がある声色をしていたと思ったら、いつの間にか脳をしびれさすような男の声に変わっているのだ。
「俺の傍にいろ」
「あ、あのねえ……恋文を送る相手の目の前で書く奴がいるかい」
「だってさ、お前を見ていたほうが良いもんが書けそうなんだ」
 墨壺に筆を突っ込んで何かを書かんとしている正岡の楽しそうなまなざしを受け、夏目はうっと顔を赤くして口を噤むと、やがて諦めたように椅子に沈み込んだ。それくらいなら直接言えばよかろうとも思うが、文士としては書にしたためたい気持ちも分かってしまうのが厄介であった。さらさらと調子よさげに筆を滑らせてゆく手つきを眺めながら、一体どれだけこの恥ずかしさを味わえばよいのだろうと頭を抱えたくなった。




/わたしは人間でした