(余裕派回想ネタを含みます)





 たなびく雲が暮れどきの終わりを告げている。
 夕刻から没頭していた書き物の手をようやく止め、身の回りを片付けると医務室をよく施錠し、森は食堂へと向かった。窓外では薄紫の空がまばらな星を浮かばせ始めている。次第に宵へと沈んでゆくさなかであった。
 廊下の角を曲がる前からもう、夕餉の芳しい香りが漂ってくる。日頃から仕事に追われて皆よりも席に着くのが遅れがちである森は、たびたび永井や田山などに医務室まで呼びに来られることがあった。今日も遅くなってしまっただろうかと若干の焦りをおぼえたが、角を曲がると、まさに今から食堂へ入ろうとしている文豪たちのどやどやとした賑わしさが目と耳に飛び込んできた。どうやら概ね間に合ったようだと胸を撫でおろし、穏やかな視線を彼らに向ける。するとその集団の中にひとりの人物を見つけ、つと表情を曇らせた。にこやかに談笑を交わして他の面々と食堂へ入ろうとしているその人−−夏目の横顔には、誰に隠せようとも森には隠しおおせることのできない疲労の影が浮かんでいた。
 このところ森は、夏目と会話らしい会話をしていない。互いの暇が重ならず、また重なったとしても夏目は忙しなさげにどこかへ消えてしまうことが多かった。部屋を訪ねても不在のことが多く、専ら食事と潜書の時にだけ顔を合わせるといった具合であった。何か司書から仕事でも頼まれたのかと思いながらも、見るたびに顔色の悪さは少しずつ酷くなっているようで、これ以上改善されないようなら俺から話しをせねばなるまいか、と森は密かに訝しんでいた。

 食堂へ入ると、夕餉の盆をうけとり、もう席についていた夏目らとは離れた席に腰を下ろした。ほとんど同時に入ってきた田山と島崎が「相席いいですか」と訊いてきたので頷くと、少年の姿をした二人はいそいそと森と同じ卓に着いた。普段呼びに来てもらうことのある田山よりも先に食堂に入れたことに心安くなりながら、森はできるだけ何気ないまなざしで夏目のいる方を見やった。夏目は森と過ごす時間が減っただけではなく、どことなく森との接触を避けようとしている向きがあった。目を合わそうとしても、やんわりと自然なていで逸らされるのだ。今もまた一瞬こちらを見たように思われたが、単に隣に座る正岡へ視線を移しただけであったのか、いまひとつ判然としなかった。そういう仕草をするのが、彼はうまかった。
「夏目先生ですか」
 箸を止め、田山が尋ねてくる。森はすぐに向き直ると首を振った。
「ああ、いや」
「喧嘩でもされたんですか」
 軽い調子ではあるが、丸い瞳はいかにも興味ありげであった。けんか、という言葉に少し苦笑を浮かべてしまう。若さと至純さを感じさせる響きだ。夏目はもとより、この図書館に転生してからこちら、森はほかの文豪と衝突したためしはなかった。生前は誰かと論をぶつけ合うことも少なくなかったが、今世では穏やかなものだ。その一因には森の老成した精神のあり方と、文豪たち皆が生き死にを味わっており無駄な諍いを避けようとしているという、ある種独特の空気があるのだろう。
「そういうわけではない、ただ最近忙しそうだと思ってな」
「……芥川なら、何か知っているかもしれませんよ」
 ぽつりとそう呟いたのは、黙って話を聞いていた島崎だった。かすかに眉をひそめた森を一瞥すると、彼は意味ありげな視線を芥川の席へと向けた。藍色の長髪を垂らした後姿が窓際の一画にうかがえる。視線に気取られると剣呑な顔をされるからと、島崎はいつもできるだけ息を潜めて彼を見ていた。ものごとを見透かすような仄暗い、けれども澄んだ瞳はしばらくじいと芥川の背中を観察し、それから目を伏せてつまらなそうな口調で言った。
「最近、よく何かを受け渡ししているみたいなんです」
 夏目先生と。とまでは言わなかったが、文脈からしてそうなのだろうと理解できた。田山が訝しげな笑みを浮かべて「受け渡しってなんだよ麻薬じゃないんだからさ」と合いの手を入れている間も、森は静かな視線を芥川と夏目へと送り続けていた。



 人影もまばらになった食堂で、芥川は窓際に移動してきた夏目の向かいに座って話をしている。師弟ならではの親しげな空気が二人の間には流れており、時折り見せる真剣なまなざしもにこやかな様子も、常の彼らとそう変わりはないようだった。それを遠目に眺めながら、森はあれこれと声をかけてくる文豪たちと会話をするかたわら、次第に気が閉塞してゆくのを感じていた。わずかに湧き上がってくる憤りは、芥川に対してではない。これは夏目に対する不満めいた心証であり、そうしてまた己に対しての苛立ちである。
 夏目は大抵穏やかでゆったりと構えており、人当たりは良いが、ある一定のところまで踏み込むとそれ以上距離を縮めようとしないような性質を持っていた。唯一その距離を感じさせないのは正岡と接している時くらいで、情を通わせている森にも慇懃さとよそよそしさを完全に取り払うことはない。ああして親しく話している弟子の芥川に対しても、おそらく同様であろう。それが彼なりの人づきあいのありよう、誠実さであると思っているし、森も少なからず似たような気質があるからこれまではさほど気にならなかった。しかし今回は違う。明らかに俺は避けらており、今の彼にとってああいった気安い笑顔を向ける相手は俺ではないのだ、という憤りと、自分のふがいなさに対するやるせなさが募っていた。

 島崎の言っていた通り、夏目は芥川からなにかの茶封筒を受け取ると席を立った。あまり良い気はしないながらも後をつけ、寄宿棟に入ったところで「漱石殿」と声をかけざまに腕をつかむ。夏目の返事は待たなかった。ぎょっとした様子で振り返った夏目は、相手が森であると分かると一寸ほっとしたような表情になったが、すぐに気まずげに目を逸らしてしまった。森さんですか、どうしました、と戸惑いがちに尋ねてくる口元がそれでも微笑のかたちを描いていることに、森は無性に腹立たしくなった。
「いい加減にしてくれ」
「なにがです」
「俺を避けているだろう、何かあなたの気に障るようなことをしたか」
 声を潜めて口早に問い詰めると、夏目ははっと少し傷ついたような顔をした。一度森と目を合わせてから、また逸らす。しばらくええと、その、と言葉を探しているようだったが、やがて観念したという顔で息を吐くと、彼は腕の中の封筒を居心地悪げに抱いた。封のされていない上口からよく見知った紙の色が見え、かさりとその紙が鳴る乾いた音がした。
「それは……もしかして、小説か」
「ええ」
「芥川君の原稿を見ているのか」
「いえ……逆です、私が見てもらっているのです」
 気まずげな笑みを浮かべつつ、肩をすくめてから夏目はすっと森に視線を定めた。これまで交わらなかったのがのようにまなかいが生じ、森は内心戸惑いながらも、彼のどことなく気落ちしたかんばせをただ無言で見つめた。
「先日、あなたは私の小説を待ち続けていると言ってくださったでしょう。ですから、つい筆を進めたくなってしまいました……ある程度書けるまでは内緒にしておきたかったのですが、やはり隠せるものではありませんね」
 それを聞き、森は驚きに目を見開いた。確かに少し前、話の流れでそう伝えたことは覚えている。絶筆した彼の小説の続きを待ち続けているのだと。しかしその己の言葉が目の前の身の男の顔色を悪くさせ、またこのような寂しげな表情にさせているのだとは、今この瞬間までついぞ思わなかった。これまで夏目に対して感じていた憤りが、全て自分に跳ね返ってきたような衝撃を受けた。
「……なぜ、俺に黙っていたんだ」
「あなたにお見せできるものが書けるか分かりませんでしたし、変に期待させては悪いでしょう」
「俺はあなたが俺のために執筆してくれているというだけで、十分嬉しいのだがな」
「そう、ですか……それはありがとうございます」
 やっと嬉しそうにはにかむ夏目の顔に、わずかばかりの赤みがきざした。
「ですが、あなたも作家ならば分かるでしょう? 私の気持ちが」
 かたちとして作品を生み出すことができなければ意味はないのだと、彼の声は暗に告げているようだった。首を傾げて優しげな目で森を見つめる夏目の面差しには、若い枝のような柔らかくも強かな意思の気配がある。そこには少しの甘えと、我儘めいた色があった。森は内心でそれが己に向けられていることを喜んだが、わずかに表情を緩めただけで目を逸らした。それ以上見つめていたら、絆されてしまう確信があったからだ。
「否定はしないが、それ以前に俺は医者だ。あなたに無理をさせるようなことはできない」
「無理など」
 夏目は口ごもった。未だに決して良いとは言えない顔色で、拗ねたようなかたちのまなじりと唇をつくり出す。そういう表情を前にするたびに森は、彼の強情さを垣間見るのだ。日頃のほほんとした顔を見せることが多い彼に、こういった面があることは承知している。そこも夏目を好ましいと思う一因となっているし、小説のこともこの態度も、すべて自分のために起こした行動だと思えばいじらしさを感じた。ふう、と潜めもせずに森がため息をつくと、身構えるように夏目の肩が揺れた。
「怒っていますか」
 小さくこぼれた声に、内心笑いたくなってしまう。咎められると思っているのだろう、どこか子供のように所在なさげな表情は、ささくれ立っていた森の精神を鎮めてくれた。
「続きは俺の部屋で書くといい」
「え、?」
「その前に医務室に寄るぞ、胃薬を飲んでもらう」
 掴んだままであった腕を引き、元来た道を医務室に向けて戻ろうとする背に、夏目の戸惑った声がかかる。私は今は胃など、と言いかけて曖昧に小さくなってしまうそれを聞きながら森は笑った。「念のためだ」といらえると、それきり黙って夏目は後をついてきた。



*


 几帳面に壁につるされた品の良いスーツを眺めながら、森は寝台に腰かけたまま上半身だけをゆっくりとシーツに横たえた。髪はゆるく下ろされ、部屋着であるカットソーと薄手の黒のスラックスだけを着ている。つい今しがたシャワーを浴びたばかりで湿り気をおびた肌は室内の空気によって少しずつ熱を失くしていたが、未だにどこといわず全身が火照っていた。それを冷ましたい思いで、ひやりとしたシーツにごろりと寝返りを打つ。視線の先、自室に備えつけられた申し訳程度のユニットバスからは断続的に水音が響いてくる。あそこに夏目がいるのだと思うと、落ち着かない心地がした。もちろん今夜は情事に至るつもりはなかったが、それは関係のないことではある。
 少ししてユニットバスから出てきた夏目は、お借りしましたよと律儀に言って着流しの合わせを正した。彼の着ているそれは森のものだ。夏目の自室もそう離れておらぬのだから取りに行くこともできたが、疲れのせいもあって億劫になったらしい。湯を浴びてさっぱりとした様子の顔色はいくらか血色良くなっているが、やはり疲労はぬぐい切れずに目元に残っていた。

 あれから森の宣言通り胃薬を飲まされた夏目は、やはり宣言通り、森の部屋で小説の続きを書いていた。時おり休憩を挟み雑談などを交わしているうちに夜も更け、大浴場に行くのも大儀だったので二人ともシャワーで済ませたのだ。寝台に腰かけている森と、書きかけの原稿が置かれた書机に目をやり、「まさか読んでいないでしょうね」と確かめるように夏目は顔をつきだした。「誓って読んでいない」と森が真面目に答えると、彼はくすくすと可笑しむように笑った。
「分かっていますよ、森さんですからねえ」
「なんだ、揶揄ったんだな?」
 ゆっくりとした穏やかな口調でそう言った夏目に、森は拗ねたふうな目と声色で応えた。その気安げな雰囲気に何かしらの感慨をおぼえたらしい夏目は、ふと黙ってから改めて整った笑みを浮かべた。
「あなたの、身内にだけ見せるような優しい態度について、私はとても好ましいと思っているのですよ」
「そうなのか。そういう線引きをしているつもりはないが」
「ではそれが、あなたの性分なのですね」
 疑問符を浮かべる森に静かに頷いて見せると、彼はそれきり黙ってゆったりと琥珀色の瞳を細めた。見つめあう。このような愛おし気な顔を向けてくれたのはずいぶん久しいように思い、そうして胸に募る感情が、自然と森の手を動かしていた。ぐい、と腕を掴んで引き寄せると夏目は体勢を崩して森の上に倒れ込みそうになったが、咄嗟に体を捻って森のすぐ隣に膝をついた。
「さすがだな」
「もう、危ないでしょう」
 かたちだけ怒ったふうにしてから、夏目はふと間近にある森の顔をまじまじと見つめた。髪を下ろしているのが珍しいわけでもあるまいと訝しんでいると、伸びてきた細い指が森の前髪に触れた。「そうしているあなたは可愛いですね」と髪を撫でる手を、黙って掴む。素手であることにわずかに動揺したらしいことに気をよくしながら、しかし夏目の口ぶりに複雑な心地をおぼえ、少しきつめに指を絡めとった。
「漱石殿、あなたは年下を可愛がるのが好きなようだが、俺は」
「いえ、いえ、そうではないのです」
 慌てて弁明をする夏目の顔を見ると、困った風に眉が下がっている。
「これ以上私を甘やかさないでください」
 言いあぐねるような口ぶりで、彼はぽつりと言った。
「あなたが私の憧れた森鴎外であることは、勿論分かっているのです。ですがこうして近しくなれたのですから、あなたにも私に甘えてほしいではないですか」
「俺は十分、甘えさせてもらっているぞ」
「そうでしょうか」
 不満そうな目が森を捉える。森は分からないというふうに首を傾げた。先ほど引き寄せた行為だって自分にしてみればずいぶんと睦まじいアプローチのつもりであったのだが、彼にとってはそうではなかったのだろうか。確かに漱石殿と比べれば俺は甘え上手とは言えなかろう、という自覚はある。しかし今の夏目がとりたてて自分に甘えているとは思えなかった。
「ならばあなたも、もっと俺に甘えるべきではないか」
 告げると、夏目は怪訝そうな様子で見つめてきたが、森のどこか縋るような目を見てはっとまなこを開いた。そうして寸分うろうろと視線を動かし、自嘲をふくんだ笑みを浮かべた。肩をすぼめるその姿は、ずいぶんと心細げに映った。
「お恥ずかしい話……私はどうも、気を許した人には我儘になってしまうきらいがあります。あなたに愛想を尽かされねばよいのですが」
 笑んだままのかんばせには諦念めいたものがちらついている。いっそ可愛らしいほどに彼を小さく見せるその自信のなさに、森は黙って目を細めた。いつになく柔らかい表情であった。夏目の、人当たりは良いがいまいち懐に入らせないところについて、少し誤解していたかもしれないと認識を改める。彼は明確なる信念にもとづいてああいった態度を取っているわけではないのだと、今になってようやく知れた。夏目の頭をそっと撫で、森は穏やかに笑った。
「そうなったら、その時考えればいい」
「尽かさないとは言わないのですね」
 面白がるような声色であった。森の思考を汲んでいる表情だと分かる。
「先のことは分からないだろう」
「それでも、考えてしまうのが人ではないですか」
「俺は医者だからな、機に応じて判断をする」
「ふっふ……そういうところも、私には真似できないですね」
 髪から耳に指を移ろわせると、夏目はくすぐったそうに肩をすくめた。恋人の顔をしている。口髭を蓄えてはいるが童顔である彼の、こういう屈託のない表情を森は大層気に入っている。
「漱石殿、俺はあなたのそういう細やかな心が好きだ。今回無理をしてまで俺のために筆を執ってくれていたことも、ありがたいと思っている。本当に嬉しいんだ」
 だがどうか無理はしないでほしい、と耳朶に注ぎ込むように囁くと、指を絡めたままであった手を引いて夏目の体を倒れ込ませる。息を詰めながらも彼はおとなしく腕の中に納まった。はいと頷き、それから困ったように笑って目を閉じた夏目の、己よりもずいぶんと淡く柔らかい色をした髪に鼻先を埋める。当然のように自身と同じ匂いになっていることに、森は満たされた想いとともに喜色を浮かべた。