窓から差しこむ月明かりに、藍の長髪が濡れたように照らし出されている。やわらかな毛束のうねりは流水を思わせた。白い頬に落ちる睫毛の影をじいと見つめ、それが息遣いに呼応してこまかに震えているのを確認すると、夏目は至極ゆっくりと息をついた。布団の中からのり出した際に剥き出しになった肩が、肌寒さに縮こまる。睦みあったのちにいつの間にか意識を手放してしまったようで、肌は清められていたが衣服は寝台のわきに寄せられたままだった。同じように生まれたままの姿で布団に包まっている芥川は、先刻までの熱をすっかり胆の奥に仕舞い込んでしまったらしい。まるで幼子のように、静かにあどけない顔で眠っていた。
 眠る芥川を見ていると、夏目は背筋を冷たいものが降りていく心地に襲われる。こちらへ転生してから知ってしまった彼の死に様を想起させるからだ。すうすうと微かに空気を揺らす寝息に耳を傾けながら、起こしてしまうかもしれない不安と申し訳なさに顔を曇らせ、それでも辛抱ならずにそろりと手を伸ばす。投げ出された腕にそっと触れると、指先から血の通った温かさが伝わった。それでようやく夏目は、無意識に寄せていた眉根を開くことができた。

 −−生きている

 再び魂の器を与えられた我々を、果たしてそう定義することができるのかどうか。幾度も考えてきたけれども、ついぞ答えを導き出すことができずにいる。言うまでもなく体感としては生前と何ら変わりなく、むしろ今世のほうが心身共に健やかであろうことは分かるのだが、洋墨と歯車で大半が組成されるところの体と作品のエッセンスが織り交じる精神のあり方は、やはり自然の摂理からは外れてしまっている。それも確かなのだった。
 もし今こうして存在している自らも、隣で安らかな眠りを食んでいる芥川も、おのれを文豪たる夏目漱石や芥川龍之介であると思い込んでいるだけの洋墨の塊でしかないのだとしても、決して驚きはしないだろう。むしろどこかで安堵するのかもしれない、そう思考をくゆらせながら夏目はそろそろと寝間着を着こむと、できうる限り音や振動をたてないように寝台から抜け出した。春先とはいえ夜は空気が冷えている。くるぶしを撫でる冷やかさに身を引き締めると、部屋の南、ちょうど寝台の対角にあたるところに設えられた窓のほうへと静かに歩いていった。


*


『すみませんが、龍のやつを風呂に入れてやってくれませんか』
 どうにも困ったという様子の菊池に頼まれて目を丸くしたのが、今朝(もう昨日であろうか)のことだった。食堂でたまたま同席したと思っていたのは夏目だけで、菊池は少し前から話しをする機会を窺っていたらしい。瞠目したと言っても芥川の風呂嫌いは昔からのことであったから、こちらに来てからも不精をしているという点においてはさして意外でもなかった。菊池が夏目に頼んできたというところが虚を突き、また内心ついにばれてしまったか、という思いを抱かせたのだ。芥川と懇ろな仲になっていることは極力隠してきたつもりだったけれども、彼の親友である菊池にはとうとう知られてしまったのだろう。すこし照れたように弱り笑いをしている表情からは彼の複雑であろう胸中が察せられ、夏目はそこに同情めいた眼差しを向けぬよう、ゆっくりと曖昧に笑んで見せた。
『龍之介くんならば、私より菊池くんとのほうが気兼ねがないのではないですか』
『いえ、あいつ俺のことは口やかましい母親みたいに思っているんですよ。いい年をした男が母親と風呂に入りますか。絶対に先生のほうがいい』
 というか先生が適任なんです! と強い口調で説かれてしまい、夏目は菊池のいつになく必死めいた勢いに押されてとうとう頷いてしまった。まあ彼の性格ならば、かつても今も師であり褥までともにする相手に誘われればおそらく、というか確実に嫌とは言わないだろう。そこまでして風呂に入らされるというのは些か不憫ではあったが、そこまでされねば風呂に入らなかった芥川に、夏目はあの青年の柔和さの奥にある頑固さを見たのだった。

 予想したとおり、芥川は夏目が誘うと恐縮しながらも素直に風呂に入った。夜も更けはじめた他に人の居ない時間帯であったから、大浴場は広く使うことができたし、芥川もあれこれと人目を気にせずゆっくり湯船に浸かることができたようだった。−−その後に芥川の部屋で睦みあうことになったわけだけれども、これも夏目はある程度予想していたので、甘えるような誘いにうろたえるようなことはなかった。『先生が誘ったんですよ』というような弟子の嬉しげな言い分には、赤面せずにはいられなかったが。



*


 少しばかり手でカーテンに隙間をつくり、そこから空を仰ぐ。墨を浸したような宵闇にこまかな星が散りばめられている。夜風に当たりたい気持ちもあるにはあったものの、芥川を起こしてしまうかもしれないので窓は開けなかった。触れてみた窓ガラスは思っていたよりも冷たい。もう桜が咲き始めているというのに、花冷えの空は星までも白く氷のように透き通って、まるで熱を感じさせなかった。 
 ふと息を吸い込んだとき、馴染みのある煙の香りがして夏目はおやと思った。芥川の部屋は何から何まで彼の煙草に染まっているが、これは自身から発する香りのようだった。共に寝台に入っていれば移るのは当然であるのに、つい数時間前までは二人とも石鹸の香りをまとっていたことを思うとなにやら複雑な心地がした。自らの体やら髪やらのにおいをすんすんと嗅ぎ、これはまた朝風呂に入ったほうがよいだろうかと苦笑する。朝から芥川の煙草のにおいをぷんぷんさせていては、さすがに他の文豪たちの注目を免れないだろう。

 胸を落ち着かせる煙草の香りにぼんやりとしていると、意識はおのずから閨での弟子の姿を追いかけていた。情事中の芥川は平時の厭世がちな面差しとは異なり甘やかで熱っぽく、夏目の身をよく気遣ってくれる。決して無理を強いたりはしないが、夏目の情のとくに弱いところに訴えてくるようなどこか切なげな顔をして耳元で囁くなどしてくるので、どうしても流されてしまう。今宵もそういうことがあった。思い出しているうちに顔が熱くなり、夏目はその熱を逃がすように冷えた窓ガラスに手のひらを押し当てた。
 まさか彼とこういう間柄になるとは、というわずかな背徳感と罪悪感、そしてそれらと引き合うかたちで募る恋情に似た浮ついた幸福感は、どんな時でも心の片隅から消えることはない。こうして愛し愛されているということが不安であり、後ろめたくもあり、言いようのないほど幸せであった。だから自分がただの洋墨であり夏目漱石そのものではないと思うと、少し気が楽になる。まるきり世界と関係のないところでひっそりと恋をするには、そのほうが都合がいいではないか。

「……先生」
 静寂を縫うような声が間近で聞こえた。はっとした時にはもう、長い腕が背後からしっかりと夏目の体を抱きしめていた。肩や背から伝わる熱と、今までとは比べ物にならない濃厚な煙草の香りに一寸頭がふらつく。傍まで来ていたことに気づかなかったとは、と呆けていた己を恥じながら、夏目は首を捻じって龍之介くん、と呼んだ。結わえていない長髪がさらさらと夏目の頬にまでかかり、滑らかさとこそばゆさに目を細める。暗い室内、しかも背後に居るために、芥川の表情を伺い知ることはできなかった。胸の前で二本の腕が重なっているところを軽く叩いてみても、なおぎゅうぎゅうと力を込められるばかりで、暫くの間どうやっても解放してはくれなかった。
「目を覚ましたら先生がいないので、もうお帰りになったのかと思いました」
「龍之介くんに黙って帰ったりはしませんよ」
 ようやく腕の中から出ると、捨て犬のような顔をしている芥川の頭をよしよしと撫でてやる。その手に自らの手を重ねて薄く笑んだ白い顔を、細く開いたカーテンからの月明かりが照らしている。着流しをいかにも急いで体に巻き付けただけという様子の芥川に、起こしてしまってすまなかったね、と夏目は眉を下げて詫びた。叶うならばもう不安な思いはしてほしくないというのに、自分のざわつく心を落ち着かせるために寝台を離れてしまったことを後悔した。
「先生が謝ることなどありません。それより、どうかされましたか」
「いえ、目が冴えてしまっただけですよ」
「起こしてくださればよかったのに。お茶でも淹れましょう」
「ふふふ……あんまり君が気持ちよさそうに眠っていたものだから、起こすのが可哀想だったのですよ」
 そんな話をしているうちに、芥川の着流しの袖が肘のあたりまでずれて、腕がむき出しになっているところが目に入った。あ、と声を出してそこに触れる。月明かりの下ではあまり目立たないが、腕の外側に蚯蚓腫れのように細く赤い跡がついてしまっている。これは私がつけたものだ、とすぐに分かり、つぶさに情事のさなかのことが思い出されて顔に熱が集まってくるのを自覚した。背中や肩に引っ掻き傷をつけぬよう気をつけていたというのに、腕につけてしまうとは迂闊だった。
「す、すみません龍之介くん……痛かったでしょう」
「え? ああ……こんなもの、可愛らしい猫に引っ掻かれたようなものですよ」
 むしろ先生につけていただいた傷です、とても愛おしいです。
 芥川はそう言うと、夏目の視線の先で腕の赤いすじにくちづけた。いよいよ気恥ずかしくなる。その官能的なしぐさから堪らずに目を逸らすと、先ほどとはまるで違う包み込むような手つきで、正面から抱きしめられる。芥川の髪が頬や耳をくすぐった。煙草の香りの中に石鹸のなごりを捉え、それを肺腑にめぐらせていくと、どうしようもなく愛おしさが全身を満たしていくのが感じられた。夏目はすこしく困ったふうな、重荷をほどいたような形の眉をつくると、芥川の肩に静かに額を預けた。
「先生、戻りましょう。体が冷えてしまっています」
「……毎日きみと一緒に眠れたら、どんなによいでしょうね」
「先生、?」
 戸惑いをはらんだ声が落ちる。夏目がこのように甘えを含んだ言葉をつむぐのは、珍しいことだった。気遣わしげに顔を覗き込もうとした芥川にむけて顔を上げれば、自然とくちびるは重なった。閨でのそれとは異なり、触れるだけの接吻だったけれども、ひどく長い時間そうしていたように感じられた。おそらく二人ともに、そう感じていた。

「温めてください、龍之介くん」
 かすかな隙間から月明かりを降らしていたカーテンを後ろ手で閉めると、辺りはすっかり夜影に飲まれてしまった。芥川が息をのむ音と、はずむ鼓動、そして布越しに伝わってくる体温、それらすべてが夏目に生命の在り処を訴えかけてきている。この子も同じように自分の生命を全身で記憶してくれているだろうと、信じて疑わなかった。こんなにも生きている心身が、それでもやはり洋墨の塊ならば、最後にはひとつに溶け合ってしまいたいと思った。叶うならばこの墨染の夜のように、あまやかな心で。







/おなじ加護に埋もれている