耳鳴りのような怒号が聞こえる。

 嗜癖の刃がおどろおどろしい燐光をまき散らし、文字の成れの果てである黒い刃でもってすさまじい勢いで斬りかかってくる。侵蝕者どもの操る文字はどれもそれ自体が生きているように蠢き、伸縮し、不規則な動きで文豪たちを翻弄する。空を覆い隠すほどに膨れ上がった刃が一瞬で収束し真っ逆さまに下降してくる、その刹那にひらめく白を視界に捉えながら、夏目は嗜癖の剣に袈裟懸けに斬りかかった。
 後方では正岡が援護射撃をする発砲音が聞こえる。幸田が行け、と鋭く太い声で叫んだ。懐に飛び込むのは神経を使うが、この会派で潜るとき、夏目にはいつも不思議な心の落ち着きが生まれている。ズッ、と沈み込むような手応えののち、一息に敵を両断する。黄緑色の燐光は弾けるように一度拡散し、すぐに潰えていった。

 氾濫した文字の残骸が飛び散る中で、白衣をはためかせた森が長槍を払いながらこちらへやってくる。険しい表情をしているが、最奥部を浄化できたことへの安堵を滲ませている。夏目は剣を鞘に納めると、しばしの間彼の姿を見つめていた。戦い慣れしているためか、生来の厳格な雰囲気がそう見せているのか、侵蝕者と対峙する森はいっとう美しいと常々思っている。
「おうい、やったなぁ夏目!」
「わ、ちょっと正岡っ」
「お前ももっと喜べよ、この本を浄化できたの初めてだろう!」
 夏目を抱きしめて持ち上げた正岡の嬉しそうな顔に見上げられ、目を白黒とさせる。ほーむらんを打ったわけじゃあないのだから、と言ってやろうにも、ぐわんぐわんと揺すぶられてうまく舌が回らない。確かにこの有碍書は今までなかなか最奥部まで辿り着けず、巣食っていた嗜癖の刃を倒せたのはこれが初めてであった。−−だからといって、こんなに学生のようにはしゃがずともよろしかろう。そう内心でぼやきながら若干酔いそうになっていたところで、
「そのへんにしておけよ」
 と声をかけた幸田のおかげで、夏目は正岡の腕からようやく解放された。乱れてしまったネクタイと背広を直し、まったくもう、と友をねめつけながらも気がつけば軽く笑っていた。わははと懲りない様子で笑う正岡に釣られたのかもしれない。やはり昔も今も、この友人には振り回される運命にあるらしかった。
「長居は無用だ、戻るぞ」
 そんなことをしている間に合流していた森が短く告げ、背を向けて歩き出す。どうやら傍目には分からなかったが、軽くはない侵蝕を受けているようだった。何か声をかけようかと後を追うが、夏目よりも先に幸田が森になにごとかを話しかけていたために追うのはやめ、少し後から正岡とついてゆくことにする。いやあ森さんは流石頼りになるな、と感心しきりに頷いている正岡に相槌を打ちながら、わずかにふらついている後姿を夏目は気づかわしく見守っていた。
「お前も持ち上げて運んでやろうか」
「ふざけるのはよせ」
 後ろの二人には聞こえない声量で森が一蹴すると、いや半分は真面目だが、と幸田は片眉を持ち上げた。その言いぶりに森は苦い顔をつくったが、返答はしないまま黙々と帰路を進んでいく。侵蝕がゆえに目元に生まれた仄暗い色を彼らに悟られたくないのだと理解している幸田は、苦笑を浮かべてやはり黙ってそれに続いた。

 森は残りの道のりをほとんどひと言も口を利かぬまま歩き切り、そして自らの城である医務室へ辿り着いたところで、糸が切れたようにばたん、と倒れた。



「傍についていてやってくれるか」
「それは構いませんが……あなたのほうが良いのではありませんか」
 寝台に寝かせた森が補修状態に入ったのを確認すると、幸田と夏目はそんなやり取りをした。正岡は最も侵蝕が軽かったため、先に補修を終えて食堂へ向かっている。夏目はつい今しがた補修を終えたところだった。幸田はよこされた提案に少し考えた様子だったが、「今はあんたのほうがいいだろう」と笑ってひとつ肩を叩くと、さっさと医務室を後にしてしまった。残された夏目は所在なさを感じながらも、ふうと息をついて寝台へと向き直った。
 軍医である森が長く補修状態にあると、何かと不都合もある。侵蝕は精神衛生が強く関わるため幸田はああ言ったのだろう、と理解はできるものの、友人である彼よりも私で良いのだろうかという疑問は未だに拭えなかった。森と幸田は日頃からずいぶんを気を許しているように見える。それこそ夏目と正岡のように、気の置けない仲という印象を受ける。とは言え、その幸田がああ判断したのだから夏目にとやかく言うことはなかった。自分がついていることで補修が早まればと念じつつ、静かにカーテンを引くと寝台脇の椅子に腰かけた。
 眠りについた森の顔色は悪く、眉間には小さく皴が寄っている。平気で戦っているように見えていたが、相当に無理をしていたのかもしれない。夏目は胸によぎる後悔に顔をしかめた。もっと注意深く、見ていてあげるべきだった。
 こういう時、私は本当にこの人に必要とされているだろうか、と夏目はいつも考える。懇ろな中であるには違いない。しかし森は夏目にとって生前も今も尊敬に値する人物であり、どこか遠く、どんな状況でも一歩先を行ってしまうような存在であった。今回のように自らの至らなさを実感することも多い。ゆえに、彼にとって自分がいかほどの価値があるかという点においては、常に不安が付きまとっていた。

 夏目はそろそろと手を伸ばし、ほつれた森の髪を指先で撫で整えた。普段かっちりと固めているから分かりづらいが、この髪は存外柔らかい手触りをしている。夏目が触れると気配が伝わったのか、森は少しばかり身じろぎをして唸り声をあげた。どうやら起こしはしなかったようだと息をつき、そのまま彼の額のあたりに触れ続けた。
 今に始まったことではなく、こうして転生した姿では森のほうが年若く見えることに少しばかり可愛らしさを感じてしまう。現在転生している中で最も生年が古いのは森で、それに次ぐのは夏目である。万象敵わないのだとしても、少しでも森にとって頼れるような存在でありたいと夏目は願わずにはいられない。それは先の世から変わらぬ夏目の性質でもあったし、森のことをいとおしく思うゆえでもあった。
 よくおやすみなさい、と囁きながら目を細めて笑うと、森の眉間の皴がわずかだが和らいだように見えた。



*



 景色はひどく茫洋としていた。
 どこともつかないが恐らく有碍書の中のようで、古びた風景の中には奇妙に瓦解し歪んだ文字どもが、植物や建物と混じり合って乱立している。空には半球状に細かな文字が張り巡らされ、時折うごめいてはその濃淡を移ろわせていた。夏目は、そこで大量に血を吐いている。体に力が入らず膝をつき、地面に広がる鮮血をぼんやりとした意識で見つめている。見つめながら、胃に空いた穴からまた血が出ているのだろう、と何故だが冷静に考えていた。痛みはさほど感じず、代わりにあの鉄のような生臭さが嗅覚を激しく襲っていた。
 そこへ焦りに満ちた声で名を呼ばれ、のろのろと顔を上げようとしているところを勢いよく抱きしめられた。視界に白が溢れ、鉄臭い血の臭いが薄らぎ、消毒液とよく馴染みのある香りが鼻腔を満たす。抱きしめる腕は温かく力強く、そこへ体を預けるうちにどんどん自分の重みがなくなっていくのを感じていた。それは心地の良いような、少し寂しいような感覚だった。ああこのまま死んでゆくのだろうか、と思いながら夏目はゆっくりと目を閉じた。
『漱石君、しっかりするんだ!』
 くり返し悲痛な響きでそう呼びかけてくる声があまりにも辛そうであるので、どうにか返事をしてやろうとして、しかし声を出すことは叶わなかった。ただその懐かしい呼び方を、ずいぶん面映ゆく感じた。



*



 うつらうつらとしていたらしい。はっと目を覚ますと、もう寝台に森の姿はなかった。シーツは綺麗に整えられている。時計を見れば確かにちょうど補修が終わった頃合いで、しまったと思いながら夏目は慌てて立ち上がろうとした。「……ん?」その時、己の肩に白衣がかけられていることに気がついた。良く見知ったもの、森の白衣だろう。消毒液と洋墨のにおいがする。私が眠っていたからかけてくれたのだろうかと申し訳なくなり、すぐに閉じられていたカーテンを開いた。
 医務室を見回すが、どうやら無人のようだった。大抵は補修される者の他に誰か人が居るものだが、今は特務司書も図書館の職員も不在らしい。森はどこへ行ったのだろうかとまだ覚醒しきらぬ頭でぼんやり考えていると、蝶番の古めかしい音を立てて背後のドアが開いた。
「漱石殿、起きていたのか」
 虚を突かれたような声だった。振り向くと、医療道具やら洋墨やらの備品が入っているのであろう段ボール箱を抱えて入ってきた森が、はたと目を見開いて立ち止まっている。そしてええ、と頷いた漱石の格好を見ておもむろに口を引き結ぶと、つと視線を逸らしてしまった。
「すみません、あなたの白衣を羽織ったままでしたね」
「いや、そのままでいい。着ていてくれ」
「え……ですが、」
 段ボール箱を備品棚の前に置きながら、森はいいからと尚も言い募った。特に寒くはないのだがそこまで言うならと、夏目も大人しく白衣を羽織り直す。寒くはないが、彼のにおいに包まれているようで気持ちが落ち着いた。
「もう補修は済んだのですか」
「ああ。ついていてくれたようで、感謝する」
「いえいえ、お元気になられてなにより」
 備品を棚や引き出しに仕舞う森に歩み寄り、夏目は当然のように手伝いを始めた。申し訳なさそうな顔をしながらも、森は断るようなことはしなかった。これが終わったら食堂へ行きましょうねと言うと、軽く笑みを浮かべて森は頷いた。その表情にほっと胸をなでおろす。補修に入った時には弱り切って青ざめていた顔色も、もうすっかりと回復して血の色をきざしている。
 軍服のみを着ている姿は普段よりも精悍さを増しているように見え、戦闘中の姿を思い起こさせた。有碍書の中で猛烈な勢いで侵蝕者を薙ぎ払う、あの姿だ。−−そこで夏目は、己にかけられた白衣を意識し、うたた寝している最中に見た夢のことをつぶさに思い出した。
「なるほど、だからあんな夢を見たのですねえ」
「……どうした?」
「少し、夢を見ていました。有碍書の中であなたに……その、名前を呼ばれていました」
 漱石君と。
 さすがに夢の内容を詳細に伝えるのは躊躇われ、大いに端折ってそれだけを伝えると、森はぎょっとしたようにまじまじと夏目を見つめた。
「そ、れは本当か」
「……どうかしましたか?」
「いや……すまない、実は俺が目を覚ました時、寝ぼけていたようでな……そう呼んでしまったんだ」
 森の言葉に、今度は夏目がきょとんとした。
 漱石君、とは生前に森が夏目を呼ぶ際に用いていた呼び方であった。直接会ったことは数えるほどしかないが、年上であり憧憬の対象であった森鴎外からそう呼ばれることは夏目にとって喜ばしいことだった。あまりに気まずそうな顔をする森につい笑みをこぼしてしまい、こほんと咳ばらいをしながら夏目は眉を下げた。
「今もそう呼んでくださって構わないのですよ、あなたは昔も今も私の先輩であり、尊敬する文人なのですから。……もっとも、この姿では私のほうがおじさんですね」
「そんなことは関係ないさ。俺にとっても漱石殿は尊敬できる存在だ、作家としても人としても。だから今の呼び方が最もしっくりくる」
「そうですか、ありがとうございます」
 きっぱりと告げる物言いを聞いて今度はにこにこと笑い、夏目は頷いた。森の言葉は素直に嬉しかった。おためごかしを言うような人ではないと分かっているから、真意を疑う必要もない。このように言われるのは恐縮する思いもあるにはあるが、彼の言葉に偽りはないのだろう。彼なりに一目置いてくれているというのなら、夏目にとって喜ばしいことである。

 あなたの腕の中で死んでいく夢を見ました、と言ったらこの人は怒るだろうか、とふと考える。それとも心配してくれるのだろうか。敬うに足る人、頼れる人、愛しい人の腕の中で息絶えるというのは、夏目にとって決して嘆くべきことではない。幼少期からの満たされない心は今でも、この体を魂ごと預けられる相手を求めているのかもしれない。そうつらつらと考える。誰かをまるごと信じられるというのは、いったいどんな境涯であるだろうか。
「そうだ、漱石殿」
「はい?」
「その、気を悪くせず聞いてほしいのだが」
 備品箱から視線を上げると、森は夏目に顔を向けずにそこで言い淀んだ。彼がこのように口ごもるのは珍しい。夏目は洋墨を収納していた手を止め、首を傾げながら無言で先を促した。それを感じ取ったらしい森は観念したように息を吐くと、顎を引き、聞いたことのないほどに早口に喋った。
「正岡殿と少々距離が近すぎるように思う」
「は」
「すまない、やはり忘れてくれ」
 言うだけ言って間髪を入れずにそう続けた森の横顔を、ぽかんと口を開いて見つめる。また甘味の食べ過ぎを注意されるのだろうかなどと考えていた自分が可笑しくなり、そうしてしばらく森の言葉を反芻するうち、自然と頬が緩んでくるのを感じた。ふふふと含み笑いをこぼしながら手を伸ばす。気まずさからかどこかへ踵を返そうとしていた森の軍服の袖を掴み、引っ張る。眉を寄せて顔を赤らめている顔はどこか幼く、いじらしく見えた。
 おそらくは今日の潜書時に抱き上げられたことを言っているのだろう、と察しがつく。正岡はああいう男だから、たとえ夏目と森の間柄を知っていたとしても気にしないのだ。変に気を遣われても困るのでそれは良いのだが、よもや森のほうが気にかけているとは思わなかった。こう言うと失礼かもしれないが、夏目の人間関係について何かしらの意識をしていたことが意外だった。
「正岡は、もはや兄弟のようなものなのです」
「分かっている……すまなかった、男の嫉妬など見苦しいだろう」
「いえ、私は嬉しいのですけどね」
 今度から気をつけるようにしましょう、と眉を下げて笑って見せ、森の頬に手を添える。ただの一人の男の顔になっている軍医は一瞬戸惑ったような顔をしたが、やがて安堵の色を浮かべて心地よさそうに目を閉じた。失望されなかったことにほっとしているのだろうか、そうであればいいと夏目は思う。夏目がこの魂を預けたいと深層で願っているように、森もまた自分にかけらでも魂を差し出してくれたらどんなにか−−安らぐ心地になることだろう。
 肩に羽織り続けている白衣の匂いを深く吸い込みながら、その真の意図をようやっと掴んだような気がして夏目はひっそりとはにかんだ。開かれようとしている森の双眸に己が映っていることを、この上なく喜ばしく思う。慈しむとはこういう情動であろうか、そう初めて知ったような心持ちで交わされる言葉を待ちながら、夏目は森の切れ長のまなじりを見つめ続けていた。






/ねむりの赤 めざめの白