視界の端で青がちらつく。

 ふとした拍子に書架で見かけた時、食堂ですれ違う時、有碍書に潜る時、あの男を目で追っていることに安吾は気がついていた。手品師のような胡散臭いいでたち。白と青の目を引く色彩と、澄んだ少し高めのよく通る声。
 安吾をこの図書館に連れてきたのは江戸川乱歩であった。転生してそれを知った際には、一言では表せぬ複雑な思いが胸をよぎったのを覚えている。生前の安吾は彼の推理小説打ち切りに対し激怒し抗議文を送りつけ、それきり親交を絶っているという過去があるのだ。しかし記憶はあれど、もうずいぶんと古い話であるし一度死に転生した身の上であるためか、どこか客観的にその記憶を捉えている自分がいた。そしてややこしいことには、乱歩の作品を至極好いていた自身の記憶もまた、安吾の中には存在しているのだった。
 前世の記憶と思想と作品、それらのあらゆる要素が混じり合って生まれたのが今の坂口安吾であり、胸中には乱歩という男に対して好ましく感じる一方で腹立たしくもあるという、相反した感情が初めから一貫して波打っている。その感情どもは波紋を生んでは互いに相殺し、かたちを成さないまま安吾の中で数週間も揺らめいていた。乱歩が必要以上に接触してこないこともあり、安吾自身そのままこの感情は死ぬまで平行線を辿るのかとすら思っていた。

 そこへ一石を投じたのは、ある日受け取った手紙であった。




 ほの明るい月が晴れた夜空に浮かんでいる。もうすぐ日付を跨ごうとしているという時分に、安吾は不貞腐れたような面持ちで宿舎棟の廊下を進んでいた。手にしたランプの光がゆらゆらと壁や床に映り、安吾の影を長く天井まで伸ばしては歪ませている。古い建物であるため靴音がよく響き、昼とはまるで異なった趣を漂わせていた。
(ふざけやがって)
 口には出さず悪態をつく。転生してからこちら、これといった接触を図ってこなかった乱歩から届いた手紙を読んだ安吾は、わけの分からない苛立ちに半日を費やし、こうして夜更けを待って自らの部屋を後にしたのである。手にした封筒は力を入れすぎているせいで少し潰れていた。差出人の顔を思い起こし、真意の見えないあの笑みがまるで自分を嘲っているように感じてギリリと奥歯を噛んだ。

 荒を含んだノックにやや驚いたように私室のドアを開けた乱歩は、普段の仰々しい服装ではなく、シャツにスラックスのみの簡素な恰好であった。トレードマークである胡散臭い帽子もなく、黒いふわふわとした癖毛がランプの明かりに照らされている。こうして見ると多少まともに見えるだろうかと一寸思い、すぐにその考えを打ち消した。安吾が黙って一歩踏み込むと、乱歩もまた何も言わずに一歩後退した。
「どういうつもりだ、こんなものを寄越しやがって」
「おや、お気に召しませんでしたか」
「あぁつまらないトリックだったぜ、暇つぶしにもならないね」
 挑発的な物言いに対し、部屋の主はいたって平素の通りの面持ちを湛えている。
「それは残念、ワタクシなりに頭を捻ったのですけれど」
 安吾さんには簡単すぎましたか、と首を軽く傾げ、乱歩は肩をすくめた。
「それでは次はもっとご満足いただけるものをお送りいたしましょう」
「な、」
 にこにことそう告げる男に、安吾は訝しげに眉を寄せた。ここへ来るまで燻っていた苛立ちが次第に懐疑心に変わっていくのを感じた。

 初め、乱歩からの手紙はかつて安吾が送った抗議に対する遠回しな返答なのではないかと思っていた。こんなもので機嫌を取られるほど簡単にできちゃあいないのだ、馬鹿にしやがって、という憤慨が安吾の中にあったのである。しかしあまりにも険のない態度を見ていると、その認識は間違いかもしれないと思えてきた。
(この男はもしや、前世で俺から受けた批判に関する記憶を失っているのではないか?)
 それならばこんな手紙を平気な顔して送ってくるのにも、今のこの対応にも説明がつく。俺がひとりでイラついていただけだったのだ。馬鹿みたいな話だ、と背筋が冷えると同時に、虚しさが足元から這い上がるようで身じろぎをした。
 転生にあたり、かつての記憶の保有度には個人差がある。江戸川乱歩という人間のほかに、彼の作品のミームが色濃く反映された存在であることは安吾にも分かっていた。この男を生前の乱歩と同等に扱おうとしていた自分が愚かだった、と遣る瀬無さが全身を支配し、やがて再び苛立ちめいた、腹の底がぐらつくような感覚に陥る。
 目の前に立つ乱歩は穏やかに笑ったきり、目の前で黙りこくった安吾を少し不思議そうに見つめている。
(暢気なもんだ、俺がこんなに)
 そこまで脳内で悪態をつき、しかし続く言葉が思いつかない。
 今この男について湧き上がる感情とは、かつて期待を裏切られた怒りであり、またそれを忘れて手紙など送ってきたことに対する苛立ちであるはずだが、実際はそれらがすべて安吾の身勝手な癇癪であるということは分かっている。完結させず放棄した小説など安吾にも山のごとくあり、少なからず作家であるならば起こりうる事態だ。記憶を一部欠いていることも乱歩の責任ではない。−−それらを分かっているのに、何故自分はこんなにも彼について腹を立てているのだろうか。

「安吾さん、ワタクシ覚えておりますよ」
 涼やかな声が思考の渦にすべり込んだ。思考を読まれたのかとギクリとした安吾に、乱歩ははにかむように微笑んだ。
「試してみたかったのです、アナタがワタクシに失望したことを覚えているかどうか……どうやら覚えてらっしゃるようで、安心いたしましたよ」
「安心だと?」
「エエ……忘れられるというのは悲しいものです、それが嫌われた相手であっても」
 俯きがちに告げられた言葉を聞き、安吾ははたと気がついた。
 つい今しがたまで俺が腹を立てていたのは、この男が自分の怒りについて覚えていないと思ったからだ。俺があれほど小説の打ち切りに失望し文句をぶちまけたのは、
「あんたは分かってねえよ」
「はい?」
「俺はあんたもあんたの書くものも、本当に好きだったんだ。だから打ち切りの時は腹が立ったわけだが……あれについては俺も悪かったと思ってる」
「安吾さん、」
「いいか、俺は俺があんたを好いていたことまで忘れられたのかと思ったんだよ。失望したのはそれだけ好きだったからだ。それにこんな安いトリックで喜ぶほど、あんたを知らないわけじゃない……だから苛立ってここへ来たのさ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 慌てたように制そうとする乱歩を無視し、湯水のように溢れてくる感情をそのまま吐き出す。
「安心しろよ。俺はあんたを忘れちゃいないしもう嫌ってもいない……むしろ今は」
「あ、安吾さん!」
 珍しく大声を出し、乱歩は手を顔の前にかざして言葉を遮った。その顔を見ると、頬を赤くして見たことのないような表情を浮かべている。眉を下げ、どこか困ったふうに視線を逸らすかんばせは常よりも幼く見えた。
「なんだよ?」
「それではまるで、愛の告白のようですよ……さすがのワタクシでも照れてしまいます」
 目を背けたままぎこちない笑みを浮かべ、そう言って安吾の言葉を受け流そうとしている乱歩の様子に虚を突かれた安吾であったが、なるほど言われてみればそうだと少々気恥ずかしくなった。勢いのままに喋っていたが、確かにずいぶんと熱烈な物言いをしたような気がする。しかしどうやら、自分の吐露は彼に見逃せないほどの激的な効果を生んだようだ。再び乱歩の赤い頬を見て、自らの赤裸々すぎた告白を誤魔化すように安吾はにたりと笑った。
 勘違いではなかろう、という確信がみぞおちに宿っていた。
「そんなに嬉しいか?」
「……は」
 もっと喜ばせてやろうか。
 歩み寄って囁くと、反射的に後ずさった乱歩の腕をつかみ壁に押し付ける。突然のことに息を止め、動揺をいや増した乱歩は身をよじったが、逃がすまいと全身を使ってその体を抑えつけた。石鹸の淡い香りが鼻をかすめる。いくらか下方にある、当惑と焦りに満ちた青い瞳がわずかに潤んでいる。色眼鏡越しでも分かる鮮やかな青だ。あの食えない江戸川乱歩が俺を前にしてこんな顔をしているという、その事実にひどく興奮した。

 存外寂しがりであるらしいこの男を、隅から隅まで暴いてやりたい。重みのない笑顔の奥に隠していた俺に対する感情の深淵に、手を差し入れたい。−−もっともっと恥じらわせてやりたい。そんな嗜虐的なまでの衝動をもって顔を寄せれば、ぎゅうと怯えたように乱歩が瞼を閉じた。
 
 震えるやわらかげな睫毛を、安吾はこのうえなく好ましく思った。