柱時計の秒針の音がふいに意識にすべり込み、森はながらく卓上の薬包箱に落としていた視線を上げた。医務室の窓から入る日差しは明るいが、もうずいぶんと太陽は傾いているらしく、橙に色づき始めた西日が視界に入って咄嗟にまなじりを細める。気づかぬうちに夕刻にさしかかっていたようだ。
 日差しから背けた顔を向けた先には、文豪たちの補修のために設えられた寝台がある。そのうちのひとつ、寝台のぐるりに半分ほど引かれた白いカーテンから覗く背中を視線でとらえ、森はわずかに驚きをもって見つめた。濃藍に金のラインが刺繍されている品の良いスーツが、西日を浴びて微細な輝きを発している。まだ医務室に居たのか、という感慨ではなく、最後に視認した時とほとんど変わらない姿勢でその男が座っていることに、いわば舌を巻く思いだった。彼がまだああしているということは、寝台で眠っている男もまた依然として目覚めていないのだろう。森はちらと柱時計を見やり、補修時間を逆算すると成程もうしばらくだろうな、と一人で頷いた。

 正岡が酷い侵蝕を受けて医務室に運び込まれると、ほどなく夏目が現れるというのがいつからか常のごとくになっていた。ともに潜書した際には勿論のこと、そうでない時もどこかから聞きつけて様子を見にやって来る。今もまた、滾々と眠り補修の終わりを待つ正岡の寝台脇に腰かけて彼は静かに顔を俯かせていた。もうここへ来て数時間、ずっとそうしている。
「漱石殿、少し休んだほうがいい」
「いえ、私は大丈夫……ありがとうございます」
 微かに顔をこちらに向けてよこされた気のない返事に、森は思わず眉をひそめた。これは医者としての忠告であると念を押すか一寸考えたが、結局口を開かないまま視線を外す。彼がこうなったら補修が終わるまで岩のように動かないことを、転生してからこちら幾度も経験しているためによく知っているのだ。
『夏目は怖がりなんだ』
 正岡が以前そう話して困ったように笑っていたことを思い出す。夏目がことさらに知己である正岡を気遣うのは、先の世で早逝した友の死に目に会えなかった後悔があるからだ。それが転生した今でも恐れとなって尾を引いている。二度の喪失を決して許すわけにはいかないという、意地のようなかたくなさを伴って。

−−先立たれる悲しみを知らない者などごく僅かだ。
 そう考えるにつけ、森は記憶のひとくさりを自らの深淵から引き上げる。その日は冬枯れのうらさびしい景色の底で、さざ波のようにたくさんの黒い人影が彼の元に集っていた。誰もかれも悲しみに沈み、類稀なる才能を惜しんでやまなかった。
 夏目はあの日について知っているのだろうかとふと思う。森はかつて、彼の葬儀に参列していた(奇妙なものだと改めて感じる。弔ったはずの人間が、こうして目の前に座っているのだから)。平常ならば、ありふれた一介の人として生涯を終えたならば自分の葬儀に関してなど知る由もないが、森も夏目も転生した特殊な身の上だ。人づてに聞くなどして誰が葬儀に来ていたのかくらい把握していてもおかしくはない。己の弔問はさて置いても、夏目は果たして知っているのだろうか。あれほど多くの人間が彼の逝去を悼んだという、そのことを。
 この図書館において彼の死を最も悼んだであろう男の顔を想起し、森は静かに息をついた。自分を蔑ろにしてまで正岡を気遣う今の夏目を見たら、芥川は渋い顔をするだろう。他者に対する頓着の少ないあの青年が、こと師である夏目に関しては世話を焼きたがることを、おそらく図書館の誰もが知っている。
(もしも漱石殿があのように倒れたなら、芥川君はどれほど取り乱すだろうか)
 勿論そのような事態は避けなければならないが、今の帝國図書館においてはいつ誰が手酷く侵蝕を受けてもおかしくはない。浸食に留まらぬ結末もまた考えられなくはないのだ。あらゆる事態を想定しておかねばならない。そうした思考をくゆらせながら、しかし肝心の疑問に関する像がうまく結べずに、森はもどかしく深い息をついた。

 あの芥川という男が如何様に取り乱すのかという仮想は、それからどれほど日を経てもついに答えが浮かばぬままであった。

 


***



 芥川が医務室に駆け込んだ時、何かしらの声よりもまず長身の影が転がるように現れたので、その場に居た森と永井は目を見張った。彼があんなに焦る姿を見たのは初めてだったのだ。
「っ侵蝕が酷いんです、早く補修を」
 腕にしっかりと夏目を抱えた芥川の上半身は、誰のものとも知れない洋墨でべったりと黒く汚れていた。息を切らし焦燥した声と血の気の引いた顔色が、彼の切迫した心中を物語っている。
「森先生」
「ああ。すまないが永井君、司書殿に洋墨の補充を頼んでくれないか」
「分かりました」
 頷いた永井の長髪が廊下へ消えてゆくのを見送ると、芥川はすでに夏目を寝台へと運び上げていた。寝台に寝かせた夏目の体は侵蝕によってそこかしこが黒ずみ、氾濫した文字列とそこから零れ出た洋墨がじわじわと流れ出て白いシーツを黒く染めている。アルケミストの手によって転生した文豪はかたちこそ人だが、体の大半はこうして洋墨と思念と言葉で創られているのだ。
 森は止血の要領で夏目に処置を施しながら、つと目を細め、芥川の食い入るように師を見つめる顔を見やった。体についていた洋墨はほとんどが敵のものであったらしく、軽傷こそあれ、彼にはほとんど侵蝕が見られない。
 何があったか尋ねるべきかと逡巡した気配が伝わったのか、ぴくりと瞼を動かして彼は森と目を合わせた。平常ならば穏やかな瞳の色が、不安定に揺れている。
「……僕を庇ったんです」
 絞り出すような声に、森は黙したまま頷いた。そうではないかと思っていた。
「あってはならないことです、先生が僕なんかを庇うなんて、また先生を失ったら僕は」
 何かを押し殺すような声で呟き、芥川は骨ばった長い指先を迷いなく夏目の頬に添えた。
 その、伏し目がちの面立ちを森はまざまざと見つめた。果たして命を他人に注ぎ込むという芸当ができたとしたならば、このような風情なのではないか。森は胸中に浮かんだ医者にあるまじき考えに眉を寄せ、それでもその想像を取り払うことができなかった。そうして、己の認識はどうやら間違っていたのだと確信する。この師弟の間に流れる情というものの色濃さを、推しはかることは自分にはできないだろう。恐らくは今生において−−決して。
「時間はかかるが大丈夫だろう、君もあまり根を詰めないように」
 真っ黒な墨の点滴を夏目の腕に刺し、固定すると森はそれだけ告げて寝台を離れた。カーテンの閉まる軽い音に重なってありがとうございます、というような細い声が聞こえたが、芥川が顔を上げたのかどうかは定かではなかった。




*



 夕陽が医務室を赤く染め上げ、やがて昼の明るさと暖かみを奪い去ってゆくただ中で、芥川は俯いていた。握っている夏目の手に少しずつ血の気が戻ってゆくのを肌で感じながら、彼の胸がゆっくりと上下を繰り返すさまを食い入るように見つめている。補修が滞りなく進んでいることは分かっていても、みぞおちが縮まるような心地を払うことができない。
 有碍書で起きたことを脳裏で反芻し、静かに顔を歪ませる。夏目よりもずいぶん遅れて転生した芥川であったが、元よりの才の高さもあり、師と共に潜書するのにも慣れてきていた。今思えばその気の緩みがいけなかったのだろう。
『龍之介君、よろしく』
 いつものようにそう穏やかに告げた師に頷いて、侵蝕者に斬りかかったことははっきりと覚えている。しかし次の瞬間には視界に黒色がおびただしく広がり、そこで芥川は刃が空を切ったことを悟った。全身がささくれ立つような悪寒が走り、ざっと血がどこかへ引いていくのが感覚で分かった。黒色が迫る中、今しがたとは違う鋭い声で、後方から夏目が芥川を呼んだ。
 そうして気がつくと、芥川の腕の中には侵蝕者の攻撃を受けてぐったりと意識を失った夏目がいたのである。
 思い出すだけで恐怖と怒りに身が震えだすようで、芥川は数度かぶりを振ると夏目の手をきつく握った。
「どうして僕など庇ったのですか」
 空気を震わすばかりの潜めた声を落とし、慎重に持ち上げたその手の甲に唇を押し付ける。かつて数多の名作を生み出してきたこの手が外ならぬ自分を庇うために振るわれたという、その事実がひどく芥川を苛んだ。好きにやらせてもらうと日和見のようなことを言うくせに、真実のところこの人は自身の命を軽んじているのではないかと思えてならない。芥川の悲観的な思想とは異なる、むなしき健全さで差し出される自己犠牲について、考えれば考えるほど指先をすり抜けていくようで心許なくなった。
 ざあ、と窓の外で風が鳴いた。上目だけを向けてもう薄暮を過ぎた空を臨めば、黒々とした枯れ木がまだかろうじて青色を保っている空にか細い枝を伸ばしているのが見えた。葉脈のような細かな枝先までもがはっきりと見える。その影絵のような鮮明な輪郭に、芥川は腹の芯からぞっとする。先生が亡くなった日もちょうど、あのような空だった。
「……もう二度とあなたを失いたくないと、僕はいつも言っているのに」
 身を切る思いで呟いた、その時だった。

「それは、私だって同じですよ……龍之介くん」
 掠れた声が耳朶に届いた。弾かれたように顔を上げると、横たわった夏目が顎を引いて芥川を見上げている。先ほどまで閉じられていた瞳が開かれ、確かに自らを見つめていることに胸が詰まった。せんせい、とほとんど声にならずに呼びかけて顔を寄せる。夏目はうんうん、と言うように数度頷いて見せた。
「すみません、心配をかけたようだね」
「いえ、僕がもっとしっかりしていれば……申し訳ありませんでした、先生をこんなにお辛い目に」
「龍之介君、いいんですよ、君が無事だったのだから」
 まだ侵蝕は癒えておらぬだろうに笑みを浮かべる夏目のかんばせを見て、芥川はなおも顔を歪ませて思わずその体を抱きしめた。布団越しではあったが、温かな体温がじわりと伝わってくる。どちらかといえば華奢な体躯が今はますます心許なく感じ、熱を封じ込めるように腕に力を籠めると、首元に顔をうずめる。「こら、痛いですよ」と冗談半分のような声色で抗議する師は、しかし言葉とは裏腹に芥川の背にゆっくりと腕を回してくれていた。
 とくん、とくん、と互いの鼓動が響き合っているのが分かる。真っ黒な洋墨で出来上がったこの体は確かに生きているのだと、泣き出したいほどの愛おしさで息ができなくなった。しばらくそうしてから、ゆるゆる顔を上げる。まだ自分を見ていてくれる眼差しにひどく安堵した。
「もう、僕など庇わないと約束してください」
「それはできかねますねぇ……」
「先生、」
「ふふふ、怒らないでください龍之介君……私だって君が大事なのです、分かってくれるでしょう」
 優しくあやすような手つきで頭を撫でられ、頬が熱くなるのを感じた。嬉しさと悔しさがない交ぜになっている。先生にまたこうして甘やかしてもらえることは嬉しいが、今生ではただの年若い弟子ではありたくない。この人をもう手離さなくて済むよう、この手で守りたい。転生して再びまみえた際に誓ったのだ。死にたがりで厭世がちな自分がそう強く願うほどに、師としてだけではない、ひとりの人として、この人を愛している。
 芥川は頭を撫でる手に自らの手を重ね、指を絡めるように握りしめた。
「分かっています……だから先生も分かってください、僕が」
「龍之介くん」
 みなまで言わせずに、夏目のもう片方の手の人差し指が芥川の唇に蓋をした。たしなめるような手つきだが、妙に色気があって芥川は悩ましく目を細める。見つめあったままの瞳は以前やわらかく、もう闇に沈みそうな室内で蜜のようなまろい光を湛えている。
「ここでは言わないでください……それはまた、今度」
 ほんのわずかに照れを含んだ声色を聞き、じわりと胸が熱くなる。あなたはずるい人だと浅ましくも笑みを浮かべそうになり、芥川は再び夏目の首元に鼻先から沈んだ。くすぐったいよ、と笑う声と小さく揺れる体の感触に、これまで知らず知らず強張らせていた四肢の力がようやっと緩んでいくのを感じた。

「先生、接吻をしてもいいですか」
「……だからりゅうのすけく、」
「こんなに暗いのですから、大丈夫ですよ」
 いらえを待たずに唇の端に口づけると、師は一寸肩を縮ませたのち、ゆっくりと観念するように息遣いのみで笑った。
 それだけで芥川がどれだけ生かされる思いであったか−−語りつくすことはできない。





/とある感情の果て