世の中は、思い通りにいかないことだらけだ。

 もう十数年ほど昔になるが、ゲットして間もないコリンクとどうでもいいようなことで喧嘩をして、思いきり手を噛まれたことがあった。小さく申し訳程度に生えているコリンクの歯でも、こどもの身で噛まれれば痛いもので、しかも静電気のようにピリッとした電流もおまけに付いてきたから、驚きはひとしおだった。
 右手の人差し指の付け根から親指の付け根にかけて谷間になっているところに小さい穴がいくつか開いて、そこから血が滲みだすのを見たデンジは、つぶさに驚きながら怒りながら泣きだし、そのままコリンクに力いっぱい抱きつくという器用なことをやってのけてコリンクをたいそう困惑させた。勢いでトレーナーを噛んでしまったコリンクだって噛んだ瞬間にぎょっとしたような顔をしていたはずだが、デンジのあまりの剣幕にもう何に腹を立てていたのかなどきれいに忘れ、くうんくうんと困った声で鳴くしか出来なくなってしまったようだった。
 わけのわからないことを喚きながら顔を涙だとか鼻水だとかでべちょべちょにしたガキに遠慮なくしがみつかれれば、そりゃあ困るだろうと今になれば思う。軽いパニックになっていたのだろう。コリンクが自分を噛んだことに対する怒りは勿論湧いたのだが、それ以上に、コリンクに嫌われたという思い込みが瞬時に全身を駆け巡ったのだ。デンジはそれまで、コリンクが自分を噛むという可能性についてなどまったく考えたことがなかった。駆け出しのトレーナーで、しかもまださほど懐いてもいないポケモンが相手ならば当然ありえることだったのに、俺のコリンクはそんなことはしないという謎の確信を持っていた。
 結局あの時は、仲直りらしい仲直りの言葉も言わないままだった。コリンクに顔中を舐められてデンジが泣き止んだ頃には、喧嘩など無かったかのようにふたりの仲は元通りになっていた。むしろお互いに対する理解が深まったのか、それからのバトルでのコンビネーション面での成長は我ながら目覚ましかった、とデンジは思っている。すでに日課になっていたオーバとのバトルに三連続で勝ち、オーバとヒコザルが悔しそうに仲良く地団駄踏むのを得意満面で眺めていた時なんて、最高に気分が良かった。バトルの楽しさというものを覚えたのもその頃だった。

 まるきりこどもの喧嘩だったのに、当時の自分たちにとっては劇的な出来事だったのだろう。時を経て立派なレントラーに進化した今でも、ほんの薄らと残っている傷跡をすまなそうに舐めてくるかつてのコリンクを撫でてやるたびに、デンジは当時のことを懐かしく思い出す。
 世の中は思い通りにいかないことだらけだ。
 デンジはあの日から、何かにつけてそう心の中で呟くようになった。ネガティブにではなく、どちらかと言えば自分への励ましという意味合いが強かった。ポケモンバトルだって日常生活だって、デンジの好む電子機器のような設計図なんてものは無いのだから、どう転ぶか分からないということだ。雨降って地固まるとか、瓢箪から駒とか、そういったニュアンスで使っていた。

「一応訊くけど、ドッキリじゃないんだよな」

 だから今度も、デンジは前向きに現状を受け入れようと自らに言い聞かせていた。
 チャイムが鳴ったのはちょうど夕食時だった。自宅アパートの玄関を開けてすぐ視界に飛び込んできたのがゴヨウであったことにはまず驚いたが、その隣につっ立っているオーバがゴヨウと手を繋いでいることには更に驚いたし、極めつけにはオーバが何故かゴヨウの色眼鏡を掛けていたので、これにはもう驚きを通り越して脳が考えることを放棄した。赤アフロに紫のグラサンなんて、どう見てもあっちの世界の住人にしか見えない。しかも黄色いポロシャツときているから、色彩の暴力にすら感じた。
 呆気にとられている間にすらすらと事情を説明されてもいまいち信じ切れず、口をついたのが先程の問いだった。

「もちろんです」

 やけに神妙な顔でゴヨウが頷かなかったなら、そして目を閉じっぱなしのオーバが弱ったふうに曖昧な笑い方をしなかったなら、絶対に悪趣味な一発芸か何かだと思ってつっこみのひとつも入れていただろう。
 どうやら、オーバは目が見えない状態にあるらしい。
 見えないとは言っても、失明だとか大袈裟なものではない。挑戦者とのバトル中に相手のプテラがすなあらしを使い、そこに羽ばたきによる突風が加わって砂埃がオーバに直撃してしまい、眼球に細かい傷がついてしまったために痛みで瞼を開けることが出来ないということらしい。出来るだけ光を遮断できるように、ゴヨウの眼鏡を借りていたというわけだ。
 数日で治るとお医者様が言っていましたよ、と付け加えながら、ゴヨウは処方された目薬の紙袋を手渡してきた。小さく白いそれには「一日六回点眼すること」と書かれている。
 口振りからして、ここに来る前に医者にも連れて行ってくれたのだろう。そう察したデンジは、素直にありがとうと礼を述べて紙袋を受け取った。何を考えているのか分からない四天王最強の男は、普段は色眼鏡に隠されている明るめの瞳で少し驚いたようにデンジを見てから、いいんですよと微笑をたたえた。いかにも大人の面差しだった。あまり面倒見の良いタイプには見えなかったが、意外とそうでもないのかもしれない。

「ところで、なんでうちに」

 尋ねると、ゴヨウは曖昧にほほ笑んだまま隣をちらと見た。
 デンジは黙ってオーバに視線を移した。

「へへ、だっせぇだろ」

 目を瞑ったまま苦笑いを浮かべているオーバからは、気恥ずかしさと後悔が見てとれる。それで大体は分かった。ナギサにはオーバの家だってあるのだが、こいつは家族に今の状態を知られたくないのだ。まあ尤もだろう、俺だってこいつの立場だったら相当に凹むし家族には隠すかもしれない……内心でひとりごちると、デンジは目薬をポケットに突っ込みながら一歩下がってスペースを開けた。

「とりあえずその眼鏡は外すべきだな」

 何でもないような口調で返すと、オーバはやっぱ似合わねえだろと言って笑った。目薬と同じ要領でゴヨウから受け渡されたオーバの手を条件反射で握りながら、デンジは少し顔をしかめた。小さい違和感があった。けれどもすぐに意識を切り替え、玄関の段差でつまづかないよう慎重に引き寄せる。ぎゅっと目を瞑ったまま、よたよたしながらも流石に勝手知ったる玄関だからなのか、オーバは思ったよりあっさりとデンジの隣に収まった。

「ありがとなゴヨウ、助かったぜ」
「安静にしてくださいね。それではデンジくん、よろしくお願いします」

 目薬を忘れず点すように、とふたりともに言い聞かせると、ゴヨウは相変わらず棒立ちのオーバから色眼鏡を外し、それをすぐに自分で掛けて笑みを残すと、身をひるがえして帰っていった。
 こつこつと硬い靴音を聞き、デンジははっと我に返った。自分ももう一度礼を述べようとしていたのに、ゴヨウの動きを見ていたら不覚にもタイミングを逃した。
 顔をひきつらせて急いで通路へ顔を覗かせた時にはもう、ワインレッドの後姿はどこにもなくなっていた。お得意のテレポートを使ったのだろう。階段に続く通路にはただ、夜の薄暗い空気と街灯の明かりとが、混じり合わないまま入れ違いにわだかまっているだけだった。
 どうかしたのかよ、と落ち着かなさそうに尋ねてくるオーバになんでもないと答えて、そういえばまだ手を繋いだままだったことに気が付いた。なんとも奇妙な気分だった。しっかりと力を込めて握ってくるオーバの手を握り返しながら、ドアを閉めて施錠する。
「わりぃな面倒かけて」
「別にいい、後で何か奢れよ」
 振り向きざまに軽い調子で言ってやると、オーバはどうやらほっとした顔になった。どうやらというのは、目を瞑っているから普段より表情が読めず、確信が持てないのだ。目は口ほどにものを言うというが、こうなってみて初めて本当なのだと納得した。
 デンジはすぐ前にある吊り上がった眉や、少し脂の浮いている鼻頭や、どことなく決まりの悪そうな唇のかたちなどをじっと観察した。改めて見るようなものでもないのに、どこかしら新鮮だった。それから自分も両目を閉じてみた。すると体がぐらついた気がして、勝手に手を握る力が強くなり、我ながら驚いてすぐさま瞼を上げた。オーバの瞼の下で目玉が動いたのが分かった。








 寄り添うようにリビングまで連れて行き、テーブル脇に座らせるだけで予想外の気力体力が必要で、妙に疲れてしまった。

「あー、やっと着いた」

 自宅内の移動とは思えない台詞である。
 オーバは当然ながらデンジよりも遥かに疲れているようで、この部屋こんなに広かったのかよ、とか床になんか落ちてねえだろうな、とかひっきりなしに喋っていたのが嘘だったように、今では溜息をついて黙り込んでいる。背を丸め、目を閉じてじっとしている姿は燃え尽きた時のこの男を彷彿とさせた。
 デンジはつけっぱなしだったテレビを横目に見た。ちかちかと忙しない明かりがこいつのために良くないかもしれないと思ったが、消したらとんでもなく静かになってしまうのが判りきっていたから、出来るだけ穏やかそうな番組にチャンネルを変えるに留めておいた。消したかったら消せよと言ってみたが、オーバは頷いただけで動く気配はなかった。

「飯は?」
「あっ! そういや食ってなかった」

 思い出したように首をもたげたアフロに、ずぼっと手を突っ込む。頭を上げるだろうと手を構えておいたのだ。うわなんだ! と一瞬びくついたオーバは、すぐにそれが恥ずかしくなったのか腹のあたりに向かって頭突きをしてきた。
 俺もこれから食べるんだと笑いながら頭突きを避け、ちょっと待ってろ、と言ってデンジは夕飯の準備をしようとキッチンへ向かおうとしたのだったが、その前にオーバに服の裾を掴まれて引き留められた。
「どうした?」「あのさ、アイマスクってある?」「ないと思う」「じゃあ包帯とかねーか? 長い布っぽいもんなら何でもいいんだけど」また苦笑いじみた顔をしているオーバを見下ろし、デンジはぴんときた。「やっぱり眩しいのか」テレビを消そうとすると、察したらしいオーバは勢いよく首を振った。
「違う違う! テレビとかはいいんだよ、ただちょっとした拍子に目を開けそうになってさ、そん時に目が痛いわけ。だから何か巻いときたいんだよな」
 そういうわけで、デンジは救急箱を取りに行った。
 しかし、生憎と包帯は切れていた。
 デンジは長い布というキーワードでひらめいた。日頃はとんと忘れているくせに、都合よく思い出すものだ。
 結局オーバの目隠しに巻かれることになったのは、使われないまま半年以上クローゼットにぶら下がっていたネクタイだった。水色と紺の地味なストライプ柄で、巻いやっている時こそ変なことをしている気分にもなったが、結び終えてしまうとなんだか酔っ払いが頭にネクタイを巻いているようで締まらないな、とデンジは思った。まあ本人は気に入ったようなので、問題はない。

「そうだ、あとで目薬点してくれよ」
「お前まだ点せないのか」

 オーバは目薬を点そうとすると、いつも目を瞑ってしまう癖があった。今回のこれは克服するいい機会だろうけれども、どうせ無理だろう。見ていてやきもきしてくるので、結局点してやるに決まっている。

 夕飯はおにぎりにした。なにしろオーバがあんな状態なので、手で簡単に食べられるものがいいと思ったのだ。キッチンでエテボースに手伝ってもらっている間、オーバのことはレントラーに任せた。他の奴らだと目隠しにぎょっとするのだが、レントラーは物を透視できるので平然としていたからだ。
 任せるといっても隣に寝そべって一緒にテレビを見ているだけだったが、デンジとしては今のオーバをひとりで放っておくのは気掛かりだった。オーバはどうも、自分のポケモンをボールから出したくないらしい。ポケモン達に手伝ってもらえば、目が見えなくたってどうにか困らない程度には日常のことはこなせるだろうに……とは思うものの、デンジにはオーバの気持ちもよく分かる。バトルに出していたポケモンでなくとも、手持ちのポケモンならば皆オーバのことを心配しているはずだ。ボールから出したら余計に心配をかけてしまうから、外に出さないのだろう。

「面白いよな、あいつ。普段はあんななのに」

 白米を握りながら小声で呟く。尻尾を器用に使って海苔を巻いていたエテボースは、デンジの呟きに反応してにっと歯を見せると、いたずら坊主のようにころころと笑った。
 本当は「面白い」よりももっと的確な言葉があることは、デンジも分かっている。だが口に出そうとは思わない。口に出すとその途端に、海に投げ入れた金属のように錆びついて、まったく別の言葉に変わってしまう気がするのだった。

 テーブルに皿やコップを並べる間、オーバは手持無沙汰を極めてひたすらにレントラーを撫でまわしていた。初めは何かしたそうに腰を浮かせていたが、お前に手伝ってもらうほどじゃないしさすがに見えていない状態では無理だからやめとけ、と早々に釘を刺したのだ。致せリ尽くせりじゃねえかうわーどうすりゃいいんだよ後が怖えよ、などとレントラーに向かってぐだぐだわめいていたオーバのことは無視して、デンジはテーブルに二人分のおにぎりと麦茶を用意した。本当にこじんまりとした食卓だった。
 そうしてすべて用意をして定位置につき、ふとテレビの上の置時計を見れば、もう午後九時を過ぎていた。そろそろ眠くなってくるであろうエテボースには多めにポフィンを与えてボールに戻してやり、レントラーはどうするかと顔色を窺ってみたところ、きりりとした瞳は一緒に食べたいという輝きに満ちている。そうくるだろうと思っていた。面倒見のいい性格なのだ。「レントラーはそこで食べるそうだ」「おお、いいぜ!」デンジは嬉しそうなオーバに尚も撫でられているレントラーの前に、ポフィンときのみをいくつか盛った器を置いてやった。お駄賃として、量はしっかり多くしておいた。
 さて、いただきますの前にやっておくことがある。

「オーバ、手を出せ」

 言いながら右手を掴む。一瞬強張ったものの、オーバは大人しく従ってきた。そのまま前へと導いていき、皿の縁に指先を触れさせる。おそるおそるといった動きで、オーバは皿からゆっくりとおにぎりのかたちを確かめるようになぞった。

「いいか、三種類あって、味は梅と昆布とのりたまだ。どれも海苔が巻いてある。昆布が落ちやすいから気をつけろよ」
「おう」
「ティッシュはこれだ、皿の左奥にある」
「わかった」

手を操り人形よろしく連れまわしながら説明する。

「あと麦茶のコップは俺が直接渡すから、自分で取ろうとするなよ、絶対零すからな」
「わかったよ」
「そうだ、足元にライチュウの夕飯あるぞ」
「わ、わかったって」

 ぐ、とオーバの腕に力が籠った。こくこくとデンジの説明を聞いていたオーバだったが、照れと居た堪れなさが募ってきたのだろう。放せと訴えたげな声色が被さった。掴んだ右手の指先は、忙しなく皿の縁をなぞっている。もし目が開いていたなら、視線があちこち揺れていただろう。
 数秒が過ぎ、もういいだろと言ってオーバが緩く自身の側に引いた手を、しかしデンジは離さなかった。
 動かすでもなくじっと一か所に固定している。その奇妙な雰囲気に、オーバはますます身を強張らせた。テレビから流れている音楽がぼうっと霞んだ。黙ったままじっと見つめてくる視線を肌で感じ取ったのか、肩をすぼめて俯いてしまう姿にはデンジのほうが罪悪感を覚えてしまうほどだったものの、このまま食事に入ったらうやむやになりそうだからと、もうひとつ指に力を込めた。
 伏せの姿勢のままじっと心配そうに見上げてくるレントラーに大丈夫だと目配せし、デンジは口を開いた。

「貸しだって言っただろ」

ぴくりとオーバの眉が動いたのが見えた。

「遠慮するなよ」
「ち、違えよ!」

 胡坐をかいた自身の膝に向かって喋っているような恰好で声を荒げると、オーバはすぐに気まずげに唇をむずむずと動かした。左手はもどかしそうにアフロ頭をいじっている。そういうんじゃないんだって、と打って変わって消え入りそうな響きでぼそぼそ話し出したさまが可笑しく、デンジは気取られないよう慎重に顔を綻ばせた。じゃあなんなんだ、と意識して淡泊かつ穏やかそうに尋ねてやると、オーバの眉は目に見えてへなりと下がった。
 ダメ押しのようにオーバが腕を引いたが、やはり離さない。

「――お前に、情けないとこ見せたくねえし」
「なら、ゴヨウとかに泊めてもらえばよかっただろ」

 これは言いたかったことではないが、つい口から出ていた。

「それは、だってよ、迷惑だろ」
「俺はいいんだろ?」
「うん、いや……デンジが」

 尻すぼみに声は小さくなった。
 項垂れるオーバを見つめながら、デンジは妙に気が急くのを感じていた。考えていたよりも、迂回路に入り込んでしまったような身動きのとれなさを感じた。
 背中がざわついている。続きは早く聞きたいけれども、そのためには手数が要るかもしれない。
 こういうもどかしさは腹立たしいが、嫌いではなかった。苛立ちと笑みがどちらも浮かんでしまった口端はひくひくと歪に動いており、今オーバの目が見えなくてよかったと心底思った。
 継ぐべき言葉が見つからないらしいオーバは、いつまでも黙りこくっている。抵抗力だ。ゴヨウに連れられて来て最初に手を繋いだ瞬間にも感じた、小さくはねつけるような抵抗力が、今もオーバと自分の間に生じているのが指先から伝わってくる。

「……俺はいいって言ってるんだ。らしくないぞ」

 やがて、打ち切るように早口に告げると、デンジは掴んでいた手をぱっと解放した。掌にはじっとりと汗が滲んでいた。遠ざかっていたテレビの音が、急に耳朶へと押し寄せてくる。おにぎりから立ちのぼる湯気はもうほとんど見えない。
 自由になった途端に意外そうに顔を上げ、手を同じ姿勢で持ち上げたまま固まっているオーバには確かに名残惜しそうな空気が纏わりついていたが、デンジがやはり淡泊な言い方をしたので、それ以上は話題を続けられないようだった。

「冷めちまうな」

 本当は、ひどく苦労してあっさりした声を出したのだ。それを分かっているらしいレントラーがいつの間にかぴったりと脇にくっついていることに気付き、悪いことをしたな、とその耳の付け根を掻いてやりながら、早く食べようぜとデンジは告げた。
 これには、自分に言い聞かせる向きもあった。
 さっきの鳥肌が立つような苛立ちと高揚感を、体からすっかり追い出してしまうためだった。なにも焦ることはないのだ。







「デンジ、あのさあ」

もくもくとおにぎりを食べ始めたオーバが、真ん中の梅干しが見えてきた辺りで気のない声を出した。

「なんだよ」
「これお前が握ったのかよ」
「海苔はエテボースが巻いた」

 へえ、と屈託ないかんじの笑い方で相槌を打たれる。ネクタイ目隠し状態の顔色を窺ってもわざとなのかそうでないのかよく分からなかったが、次の言葉で後者だろうと思った。

「なんか、わけがわからねーくらい美味い!」

「それは」きっと空腹のうえに目が見えていないからだろう、と言いかけて、デンジは口をつぐんだ。
 素直に感動しているらしい声色に対してのマジレスは、なんとなくぶち壊しだと良心が囁いたのだ。
 そのまま眺めているうちに、うまいうまいと連呼しながらオーバはあっという間に二個目を平らげようとしていた。何度か佃煮のきざみ昆布が落ちたのが見えた。指摘してやってもどうせ拾えないのだから、と放っておくと、レントラーが拾って食べようとしたので流石に取り上げた。しょっぱいものは体に良くない。
 などとやっているうちに、オーバはラストのおにぎりに手をつけている。のりたまの混ぜ込みごはんだ。のりたまは小さい頃からオーバの好物だった。かくいうデンジも好きだったのだが、こどもっぽいから卒業しようとして、失敗して今に至っている。この黄色さがいかにもガキっぽいと思いながら、のりたまを家に欠かしたことはない。
 自然と同じ順番で味を選んでいたデンジは、ようやく二個目を終えたところだった。そこまで美味いだろうかと同じ具の入ったおにぎりを咀嚼してみても、デンジにはまあ在り来たりなおにぎりという感慨しかない。試しに目を瞑って食べてみようかとも考えたが、そうしたところで同じ感動は味わえないのは分かりきっていたから、やめた。
 オーバに遅れることしばらくして、最後に口に放り込んだのりたまおにぎりは、もう温かいとは言い難くなっていた。だけどやっぱり、好みの味には変わりなかった。
 自宅でひんやりしたおにぎりを食べているということが、デンジにはやけに新鮮だった。冷たいおにぎりというのは、トレーナーズスクールでの弁当くらいのものだったからだ。
 ガキの頃は何かにつけて、オーバと同じであることを嫌がっていた記憶がある。それこそ弁当の具が被っているだけでもどっちが美味いだの不味いだのと言い合っていたし、服の色も被らないように気をつけていた。得意科目も好きなポケモンのタイプも髪形も別方向だったのはよかったが、テストでもナギサシティ開催のトーナメントでも毎度のごとく競い合っていた。よく考えると同じなのが嫌だったのではなく、負けるのが嫌だったということなのだろう。対極に引っ張り合うライバルだったのだ。
 大人と呼べる歳になった今ではもう、何でもかんでも競わなければならないということもなくなった。代わりに少年時代では到底出来なかったようなことも、するようになった。恐らく幼いデンジに言わせれば慣れ合いだといって、ひどく辟易していたであろうことばかりだ。
歳を重ねるごとに、感情をまろやかにさせなければ向き合えないことが少しずつ、当たり前に出来るようになっていく。今もまたそうであるように。

 眠たそうに目をしょぼつかせ始めたレントラーをボールに戻してやると、もう一時間ほどが経っていた。テレビは普段見ていない番組ばかりでつまらなくなってきたので、思い切って消した。急に静かになった室内で、秒針の音が真夜中みたいに鮮明に聞こえる。今何時だと訊いてきたオーバに時計を読み上げてやり、そのあと少しの沈黙が横たわった。
 その訪れは自然で、居心地の悪い沈黙ではなかった。

 麦茶あるか、と言って手をふらふらさせたオーバにコップを渡そうとして、その手に米粒がいくつかひっついているのが目に留まった。デンジはまたしてもひらめいた。
 先刻と同じように、だが声はかけずに、その手首を掴む。

「ぎゃっ」

裏返った声は馬鹿みたいによく響いた。

「なにしてんのおまっ」
「米ついてる。じっとしろよ」

 舌で舐めとった米は妙に生ぬるい。
 何もないところを舐めても、見えていないオーバには判断がつかないから、ただ顔を真っ赤にしてくすぐったいキモいとわめいていて、良い気分ではあったが少々つまらなかった。こういう時のオーバがどういう表情をするのかは大体分かっている。分かっているからこそ今すぐ目が見たい、と思ったし、こいつが俺を見ればいいのにとデンジは思った。中指の第一関節を甘噛みしながらオーバの真っ赤な首筋と、必死に動かしているらしい口の動きを眺め、首を前に突き出してその唇を舐めるともはや悲鳴じみた声があがって、ついにオーバは燃え尽きた時のように黙った。
 海苔がついてた、としらじらしく笑って唾液まみれの手を放してやる。麦茶を欲していたことなど忘れ、てらてら濡れた手はぼとっとカーペットに落ちた。
 数秒の沈黙ののち、急にうわああと叫んでアフロが遠ざかった。

「くっ……そ恥ずかしいって!」

 大の字になってひっくり返った拍子に、オーバの足がテーブルの角にぶつかって痛そうな音がした。あーあと呟いてげらげら笑ってやったのは優しさだ。もっと広い部屋ならごろごろ隅から隅へ転がっていただろうけれども、生憎とそんなスペースはないので、オーバはただ手足をばたつかせて今しがたの空気を払拭しようとしていた。

「俺たちは恥ずかしいことも出来る関係だろ」
「うるせーよ! うるせーよ!」

 舐められていた手をどうしたらいいか分からなそうに持て余すオーバを、デンジはあの食事の前に浮かべていた顔をもっと、幾段階も緩ませたような面相で見つめた。
 背中と腹がひとつになってざわついている。もう少しで、聞きたかった言葉が聞けるように予感している。
 世の中は思い通りにいかないことだらけだが、中には思い通りにいくことがあってもいいはずだ。迂遠でも逃さないように手数を踏んだのだから、俺は今報われたいんだ、とデンジは念じながら仰向けのオーバの上に身を乗り出した。

「こんなことで、恥ずかしがるなよ」

 心臓のあたりに手を置くと、信じられないほど鼓動が速かった。
 見下ろした先、半開きで固まっている唇には本当に海苔が付いていたので、デンジは笑ってしまった。