あたたかい風が頬をすべっていく。閉じたまぶたを透かして届く朝の光が金粉のようにちかちかとして、その眩しさで意識がゆっくりと浮上するのをグズマは感じていた。仰向けに寝転んでいる体のおもての面は日差しの温もりに温められているが、背中のほうはひんやりとしていた。冷たいわけでは決してない。常夏に近いこの土地に居て、何かを冷たいと思う瞬間というのは稀なものだった。手のひらに触れた平らな木の感触もまた、冷たいというよりはむしろ人肌に近い心地良さを宿している。
「ねー起きてー、ごはん食べそこねちゃうよー」
 頭上から降ってくるのは間延びした声だ。その響きに眉を寄せながらも大きく息を吸い込むと確かにもう、焼きたてのパンとスクランブルエッグ、それからエネココアの香りが部屋中に満ちているようだった。既にすっかり目は覚めていたがあえて緩慢にまぶたを開くと、ハウがしゃがんで顔を覗き込んでいる。もう着替えを済ませ髪も結んであり、いつでもリビングへ行けるという装いだった。「やっと起きたー」「うるせーな前から起きてたんだよ」「グズマさんまた床で寝てたのー?」背筋を伸ばして腰に両手をあて、困った子どもでも見るかのような少し面白がる顔つきでそういったハウに今度は何も答えないまま、グズマはのそりと起き上がると大きなあくびをひとつした。寝室の窓にかけられている簾は半分以上まくり上げてあり、その向こうに見える光に飲まれそうな青空からは、どこからともなくツツケラの鳴き声が聞こえる。この部屋で寝起きすれば毎度のごとく目にする光景、耳にする音に、しかしグズマはいまだもって新鮮味を失うことができなかった。
 前はポータウンの屋敷のでかいベッドを使っていたからこの家で寝るとベッドから落ちるんだ、と言ってもそんなことはハウにはどうでもいいのだろう、もうグズマが床に寝転んでいたことなど忘れたかのように朝食の話をしている。あの嬉しそうな顔、マラサダでも作ってもらったのだろうか。グズマはぴょこぴょこと動く緑の髪をねめつけ、気だるげな目つきを崩さぬままハウのあとについて歩き出した。
「ほらー早くいくよー!」
「わかってるっつーの」
 子どもは朝から元気だ。食事の後すぐに始まる修行を思ってもう一度あくびをかみ殺すと、後ろ手に寝室のドアを閉める。リビングはいっそう眩しく香しく、またたくさんの人間の賑やかな活気にあふれている。テーブルには色とりどりの野菜を使った料理とフルーツと、やはりマラサダの大皿が置かれていた。あとでグソクムシャたちにもやろうと胸中で算段を立てながら、グズマは用意された自分の席へと向かった。口々によこされる朝の挨拶にあいまいな返事しかしない若者に、それでもこの家の者たちは満足そうに笑っている。これもまたいつもの光景だった。

 リリィタウンの真ん中、土俵に似たバトルフィールドでハラのハリテヤマとハウのライチュウがトレーニングをしているのを、グズマは遠巻きに眺めている。背中を丸め、しゃがんだり立ったりと力の入らない姿勢は崩さなかったが、それでも眺めていることを我ながら忍耐強いと感じている。他人の修行を観察するのも己のためになる、とはハラの言葉だが、そういう殊勝さが昔からこそばゆく苦手だった。ならばどうしてこうも見ていられるのかといえば、もう一度強さを求めてみたくなったからなのだろう。認めたくはないが、グズマは欲しくなったのだ。ことごとく自らの行く手を阻んだ、そして世界の隔たりさえも超えてきたあの子どものような強さ、壊しても壊してもなお壊れないものが。
 ふたたびハラに師事するにあたり期せずして兄弟弟子となったハウとは、実のところ昔からの知り合いだった。もっともグズマがハラの弟子だった頃といえばハウはまだ幼かったから、グズマのことは大して覚えていない。しかしグズマのほうはあの子どものことを覚えていた。よく食べよく笑いよく動くところは変わらないが、昔はもっと怖がりで泣き虫だった。ポケモンのことも怖がって、ハラの手持ちにすら恐る恐るといった様子で触れていたように記憶している。ハラの孫のくせに情けない、とひそかに思っていたのだ。それでも人懐っこくて屈託のないところは可愛いかったし、グズマにーちゃんと呼ばれるのは一人っ子のグズマにとっては悪い気はしなかった。今となってはそんなふうに呼ばれるのは御免だが、当時はグズマもまだ子どもだったのだ。
 島めぐりを終えてハウは変わったと、皆が言う。ハラもリリィタウンの人々も、アローラ初代チャンピオンのあの少年もそう言っていた。旅に出る前のハウのことをグズマは知らないが、確かにあの頃に比べればずいぶんと逞しくなった。精神的にも肉体的にも、またポケモントレーナーとしての腕もそうだ。グズマはエーテルパラダイスで一度、ハウとバトルをしている。正式なバトルではなく足止めというかたちだったが、どのポケモンもハウをよく信頼していた。強かったのは確かだ。それが単なる年月を経たための成長がもたらした変化ではなく、島めぐりを通して、そして不本意ではあるが自分たちスカル団との戦いを通して生まれた変化なのだとすれば、あいつは随分と幸運だったのだろうと思う。島めぐりはアローラの子供にとって大きな通過儀礼だ。良くも悪くも−−少なくともグズマにとって良い思い出ではなかった−−その子の未来を大きく変える。
「グズマさーん!」
 突然、よく通る声で背後から名前を呼ばれた。しゃがんだ姿勢から立ち上がって振り返ると、ヨウが笑いながら駆け寄ってくるところだった。ああ、と気のない声を出す。声を聞いてすぐに正体は分かったが、顔を見ると改めてこいつだと実感する。以前会った時よりも少し日焼けしている。毎日高い山のてっぺんに居れば当たり前だろう。
「修行中?」
「オレ様は見学中だ」
「あー、じゃあ俺も見学しよっと」
 しゃがみ直したグズマの隣に同じようにしゃがんだヨウは、楽しそうに土俵の中を見つめ始めた。お前何しに来たんだよ、と尋ねようかと思ったがその問いを飲み込んで、グズマはただ黙ってハリテヤマとライチュウのしなやかで機敏な動きを目で追いかけた。
「あ、きたきた」
「あ?」
「こっちこっち!」
 気づくとヨウが立ち上がって手を振っている。今しがた自分自身がやって来た方角だ。まだ誰か来るのかよと胡乱な目をして振り返ると、見知ったプラチナブロンドが階段を登ってくるのが見えてぎくりとした。まさかこの町であの少年に会うとは思っていなかったのだ。「……アンタがここにいると聞いてな」どことなく戸惑うような足取りでやって来た少年、グラジオはそれだけ言うとしばらく口を噤んだ。こちらの反応を待っているのかもしれないと思ったが、これという言葉が浮かばなかったのでグズマも黙っていた。
「俺あっち行ってようか?」
「いい……お前にも聞いていてほしいしな」
 見かねたヨウの申し出をそう断ると、グズマが何も言う気がないのを察したのかグラジオは思い切ったように顔を上げた。明るい緑色の瞳。光をはじくプラチナブロンド。かつて自分が心酔した女性とよく似たそれらから目を逸らしたい衝動に駆られながら、グズマは目を細めて少年の視線を受け止めた。
「今日はアンタに謝りに来た。用心棒として雇われたのに、スカル団を裏切るかたちになってすまなかった。オレとしてもアンタには裏切られたような気分だったが…アンタにとっては関係ないことだっただろう」
「……なんだ、そんなことかよ」
 真剣そのものという顔で告げられたその謝罪に、肩透かしを食らったような気分になって息をつく。もっと何か、傷を抉るようなことを言いに来たのではないかと勝手に身構えていた。具体的にどういう話かというと考えつかないが、少なくとも彼の母親に関する話題でないことにグズマは安堵していた。そうしてまた、グラジオが自分を罵らなかったことに驚いていた。彼はきっとルザミーネに服従した自分のことを許さないだろうと思っていたからだ。
「お前の言う通り裏切り合ったようなもんだろうが……俺もお前に謝らねえし、お前に謝られる筋合いもねえよ。それに俺はもう、スカル団を解散させたんだ。全部昔のことだ」
「それでもオレは、ケジメをつけたかったんだ」
「……あの人はどうしてる」
 直接的な返事をしないままそう話題を変えれば、グラジオはわずかに眉をひそめたがすぐにそれを繕った。もうこの話を続ける気がないということを悟ったのだろう。
「まだカントーで治療法を探しているところだ。体調は決して悪くはないが……ウツロイドの毒は自然に抜けるものではないらしいから、今後の進展があることを祈るしかない」
「そうか」
「でもほんと、見たかんじ元気そうだよな。このあいだ写真送ってもらったけどさ」
 ずっと静かに話を聞いていたヨウが、するりと会話に入ってきた。
「あ? なんでお前に送られてくるんだよ」
「正確にはハウにきたんだ。手紙と一緒に入ってたんだよ、リーリエと一緒に写ってた」
 持ってくればよかったねと眉を下げて笑うヨウの目つきが生温かく感じ、グズマはいらねえ、とだけ呟いてそっぽを向いた。強がりでも何でもなく、元気そうだというならば本当にそれだけの情報で充分だった。彼女に対する感情については、まだ明確な落としどころを見つけることができないでいる。自分が目にした彼女の姿、また自分に与えられた彼女の言葉のどこまでが本物であったのか、いつかはルザミーネ本人に聞いてみてもいいのかもしれない。だが今はまだ、彼女について真正面から考えることを避けたかった。己の弱さを守るためだとしても、こうして彼女との距離が遠く隔たっているのは猶予が与えられたからだと、勝手にグズマはそう解釈している。

「それにしても」グラジオが声色を少し明るくし、町の中央へと視線を向けた。
「アンタがハラだけでなく、ハウとも知り合いだったとはな」
「そうそう! しかもひとつ屋根の下で生活してるなんてさぁ、聞いてないって」
「毎日じゃねえよ。師匠に言われた時だけだ」
「フッ……嫉妬は見苦しいぞ、ヨウ」
 お馴染みのポーズで目を閉じるグラジオにむっとした顔を向けてから、ヨウはちらとグズマを見上げて笑った。
「してないよ、だってグズマさんだもん」
「どういう意味だコラ」
 拳を握って見せる。ヨウはまったく動じる様子もなく笑い続けた。嫉妬という言い回しにも違和感を感じたものの、グズマはそちらに対してつっこむことはしなかった。この子どもたちには彼らだけにしか分からない世界があるのだろうと、早々に自らを納得させてしまっていた。いくらヨウが友達のように、ハウが兄弟のように接してくるとしても彼らはまだ子どもで、自分は大人なのだ。どんなに成り損ねだとしても大人になってしまった自分が、彼ら子どもの領域に入っていくことはできない。
「確かにグズマなら安心かもな」
「だよなー」
「……お前らは俺様をなんだと思ってやがる」
 悪ノリらしい軽口をきいてきたグラジオにはもう凄んで見せることもせず、不貞腐れたようにバトルフィールドに視線ごと意識を追いやった。生意気なガキは構ってやるとつけあがるのだ。つい先ほどまで胸に生まれつつあった子どもへの羨望のようなものは捨て、しゃがんだ膝に頬杖をついた。そうやって興味を逸らしても、耳にはふたりの笑い声が入ってくる。頬杖をついたまま、グズマは穏やかに笑うグラジオを横目に見やった。大人びてはいても、少し笑えばやはりまだ幼い。こいつもまた変わったのだとグズマは感じた。母と妹の件が落ち着いたこともあってか、スカル団に居た頃とは違い振る舞いに余裕がある。憑き物が落ちたような子どもらしさもある。
 不意に、視線の先がにぎやかになった。
 ハラとトレーニングをしていたハウがぴょんぴょん跳ねて手を振っている。どうやら一段落着いたらしい。ヨウは手を振り返しながらそちらに駆け寄り、グラジオはその場から動かないまま片手を軽く上げた。グズマは立ち上がらず手も振らず、ただ顔をそらさないという態度をもって応えた。
「ヨウー! グラジオも来てたんだねー!」
 土俵から飛び降りると、転がるように走ってきて嬉しそうに顔をほころばせるハウ。その額には玉のような汗がにじんでいる。それだけトレーニングに熱が入っていたということなのだろう。
「皆さんお揃いですな」ゆっくりと歩いてきたハラを見て、ようやくグズマは立ち上がった。
「どうじゃなヨウ、このハラとひとつ手合わせでも」
「えっ、いつもリーグでしてるじゃないですか!」
「いつもとはまた違ったポケモンと技ででお相手しますぞ」
 カラカラと笑うハラにはしゃぐハウの声が、中央広場に響く。じゃあやりますと観念したように頷いたヨウの双眸にはすでに、期待と闘志が入り混じった輝きが満ちていた。突発的だったというのにふたりはもうバトルの準備ができていたのか、早々にバトルフィールドへと上がっていく。チャンピオンと四天王がこんなに気楽にバトル始めていいのかとグズマは呆れたが、あのふたりならば仕方ないとも思った。「じーちゃんとヨウのバトル見るのって大試練以来なんだよー」と目を輝かせながら、少し離れたところでハウがグラジオに話しかけているのが聞こえた。
 リーグか、とグズマは複雑な思いで眉を寄せた。
 一度挑んでみればいいと師匠には言われている。ヨウにも、ハウにも誘われた。しかしあのククイが作ったリーグを、アローラの仕組みそのものを大きく変えたリーグをまだ心から認めることができないというのが今の本音だった。ぶっ壊してやりたいとはもう思わない。グズマが本当に壊したかったものはもう壊れてしまったのかもしれないと、近頃は漠然と感じている。ただ自分は何も成せずあの男はあんなにも革新的なことを成したという事実が、ひどくまぶしいのだ。痛いほどに眩しかった。自分にとってヨウはまるで薄闇を裂いた太陽のような存在だったが、あのククイという男もまた憎らしいくらい光り輝くものには違いなかった。ポータウンでは忌むようにして避けてきた太陽、その光を燦サンと浴びながらグズマは少し俯き、ガシガシと頭を掻いた。
 視界の端ではハウとグラジオが楽しげに会話をしている。気が合わないタイプかと思ったが、存外似た者同士なのかもしれない。あのグラジオもきっと、ヨウたちと出会うまではグズマと同じように光を避けていた側の人間だったはずだ。たったひとりで手負いの獣のようになってグズマの元を訪れた少年。グズマが一度は壊してやった少年。それが今ではあんなにも穏やかな顔で笑っている。他のスカル団と同じように彼もまた、日影から日の当たる場所へと踏み出したことを、グズマは何か安堵のような心持で確信した。グラジオはケジメと言ったが、それならばグズマも同じだった。スカル団を解散させたあともグズマには、つけなければならないケジメが残っている。これもケジメのひとつだと、眉を寄せながら口角を上げた。
 視界に黒いものが映り込んだので目線を動かすと、昔の部下たちがバトルフィールドの反対側で自分を呼びながら走ってくるのが見える。ハラがどうせ暇なのだろうと引っ張ってきた連中だ。ここであいつらと修行をすることもまた、グズマにとってのケジメなのだ。
 けだるげに背を丸めたまま、グズマはのたりのたりと彼らに向かって歩いていった。



*



 技が繰り出されるたび、どおん、どおんと地響きのような重い振動が体に伝わってくる。
 ハラとヨウがバトルをすると聞きつけたリリィタウンの住民たちが、続々と中央広場に集まってきている。まるで祭りだなとグラジオはひとりごちた。呆れと高揚がない交ぜになって笑みをかたちづくっている。都会の人込みや祭りなどの喧騒はどちらかといえば苦手だが、ポケモンバトルが絡めば話は別なのだ。隣でバトルの動向を見守っているハウもそれが分かっているのか、楽しいよねー、と弾んだ声をかけてくる。ひとり言にも返事が返ってくることに苦笑しつつ、グラジオはただ頷いた。強者同士のバトルは見ているだけで体が燃えるようだ。
 ガオガエンが放った強烈な炎が、ハラごと飲み込むほどの勢いでフィールドを舐めてゆく。歓声が上がり、周りを取り巻く人々の姿はみな逆光で影のように黒々と浮かび上がった。アローラの頂点に立った彼の真髄を見せつけられたような、有無を言わさぬ迫力がその炎には溢れていた。
 逆光の中で息をのんだ後、グラジオはぽつりとハウに言葉をかけた。
「ヨウには伝えたが、お前にはまだだったよな……感謝している。俺に勇気をくれたこと」
「それならおれも、グラジオにありがとうって言ってなかったよねー。いろいろとありがとー!」
 飛び交う咆哮と技の轟音に負けないようなよく通る声で、ハウは間をあけずにそう返してきた。なんだそのアバウトさはと呆れつつ、それでなんとなく伝わるから問題ないのだとグラジオは思う。自分だって本当はひと言では伝えきれないほど、ヨウやハウには感謝をしている。グズマに謝罪をしたのと同じように、言葉にするのは自分へのケジメのためだった。共に過ごし、バトルをし、こうして心を揺さぶられるバトルを共に見ているだけできっと、言葉にするよりもずっと伝わるものは多いだろう。初めは険悪だったハウと自分が、明確な言葉なくしていつの間にか笑いあい、しがらみなく話ができるようになったのだから。
 あれだけ孤独のさなかに身を置こうとしていたのが嘘のようだ、と自嘲を込めて笑う。グラジオは本当は、孤独が好きなのではない。周囲に愛され大事にされて育ったがゆえに本当は孤独に慣れていなかった。だから少しでも人と繋がりを持ってしまうと人恋しくなり、孤独が訪れた時に耐えられなくなる。だから敢えて孤独を選んだのだ。今ならばそう、自分を見返ることができる。ロイヤルドームでハウが口にした言葉は、まぎれもない真実だったのだ。ヨウやハウや、たくさんの人たちとの繋がりがあって今、自分はここに立っている。

 ハラが二匹目をボールから放つ。
 その赤い光を見つめながら少し息をついていると、ふと思い出したことがあった。
「なあお前、あいつと付き合ってるんだよな。ならもうちょっと会いに行ってやれ」
「えー、どうしたの急にー」
「……それはヨウに直接聞けばいい」
 言葉を濁したのは、先ほどのように言わなくても伝わるからというたぐいの理由ではない。グラジオの口から話すには気恥ずかしく、また野暮ったい話だったのだ。それでもグラジオの態度から何となく察しがついたらしいハウは首をかしげて考えてから、少し目を細めてだってさ、と口を尖らせた。
「いっつも挑戦しては負けてるのって、ちょっと悔しいでしょー」
 その言いように、グラジオはおやと目を開く。あれだけ勝ち負けにはこだわらないスタンスを見せていたのに、悔しいという感情をここまでするりと口にできるようになったのかと、ハウの変化に驚いた。ヨウという目指すべきライバルがいるおかげだろう。
「それにー」
 と、ハウが背伸びをしてグラジオの耳に口を寄せた。
「おればっかり会いに行くのもつまらないしさー」
 手で自分の口の周りに壁をつくり、内緒話をするようにこそこそと話してきた内容にまたしても驚き、グラジオは真顔になった。こいつこんなことも考えてるのか、とマセガキを見るように横目にハウを見る。ハウといわゆるコイビトになったとヨウから聞かされた時は何かの冗談かと半信半疑で聞いていたのだが、なるほどハウはこう見えて聡いところがある。恋の何たるかは彼なりに分かっているようだった。−−ならばヨウがハウに会えない憂さ晴らしをグラジオとのバトルにぶつける前にどうにかしてほしいと思うのだが、そこまで言う気にはなれなかった。これでも年上の寛容さが自らには備わっているのだと実感した。
 とそこへ視線を感じ、グラジオは会話に集中しかけていた意識を引き戻して正面を見た。そこではバトルを終えたらしいヨウがこちらをじっと見て、何か言いたげに笑っている。おいまて、と顔をひきつらせてハウから離れると、グラジオは身振り手振りでいらぬ誤解をするなと伝えようとした。こういう時のヨウの笑顔はなぜか怖い。「ヨウー勝ったねー!」グラジオの様子には気づかずヨウのもとへ走っていくハウの後姿を見送りながら、グラジオは頭をおさえて溜息をついた。
 グズマにはしていなくても、おそらくヨウは自分には嫉妬心のようなものを抱いている。今日グズマに会いに行くと言った自分に着いてきたのも、ただ暇だったからではなかったのだろう。傍から見ればお前たちの間には入り込める隙間などこれっぽっちもないというのに、と内心でごちても、こればっかりは伝わってはくれない。余計なことは考えずに一緒にいる時間を大事にしろと念じながら、グラジオは笑みを浮かべると静かに元来た道へと爪先を向けた。出来るならば、あのふたりが笑顔で並んでいるさまをいつまでも見ていたいのだ。そう、ふたりの友人として。



*



リリィタウンのはずれ、マハロ山道に入るまでの道すがらにある森の中に、ぽっかりと開けた場所がある。木々にぐるりと周りを取り囲まれたそこは日当たりも良く、芝生は青々と茂り色とりどりの花は馥郁として咲いている。人工の広場なのか天然のものなのかは分からないが、ずいぶんと古くからこうあるようだった。一歩進むごとにさくさくと草を踏む音がして、緑のにおいが胸の奥のほうまで広がっていくようだった。
「おれのお気に入りの場所なんだー」
「ふうん、秘密基地ってやつ?」
「そんな大したものじゃないけどー、あんまり人には教えてないよー」
 ヨウの手を引いてここまで連れてきたハウは、芝生の真ん中あたりまでくると振り返ってにこにこと笑った。バトルを終えて今日の修行はここまで、とハラが言った時、ハウがちょっときてーと言ってヨウはここまで引っ張られてきたのだ。ハウの突然の行動には慣れていたし、正直嬉しかった。ハウとふたりっきりでゆっくりするのは久しぶりだったからだ。何よりハウのほうから誘ってくれたのが、顔がほころんでしまうくらい嬉しかった。
「グラジオには教えた?」
「んー、教えてないよー」
「グズマさんは?」
「まだー」
 そのうちふたりにも教えようかなと笑うハウに、ここは俺たちだけの場所にしようと冗談めかして言ってから、今度はヨウがハウの手を引いて歩き始めた。木々の合間から斜めに差し込む光の中を歩いていると、少しあの異世界のことを思い出す。こことは似ても似つかない寂しい場所だったけれど。
 ハウがあまり誰かを特別扱いするのが得意でないことは、ヨウにも分かっている。だけどこの頃心配になるのだ。あのグズマさんとは知り合いだったっていうし、グラジオのことは最初こわいって言ってて苦手そうにしてたのにいつの間にかあんなに仲良くなっちゃってるんだもんなあ、油断ならないよなあ、などと考えることが多くなった。別に誰が悪いわけでもなく、ただ自分の独占欲と言うやつがむくむくと成長しているせいでこんな気持ちになるのだ。その心境がハウに伝わってしまえばいいと思いながら、伝わってほしくないとも思っている。
 ひとつの木の根元に並んで座って、茂る木々と、その隙間を埋める空を見上げる。空はゆっくりと夕焼けに変わりつつあった。濃い青からむらさき、そうして赤と黄金色へと鮮やかなグラデーションを広げている空の目映さに、ふたり揃ってほう、と息をついた。
「ねえハウ、さっきグラジオと何話してたんだ?」
「なにってー、ヨウのことだよー」
「え、俺?」
「ヨウは強いなーって話」
 オレンジ色の木漏れ日が、ハウの顔にまばらにさしかかって眩しい。ヨウはふうんと曖昧な返事をすると、ハウの真っすぐ投げ出された太ももに頭を乗せて横になった。柔らかくも固くもない、きっと自分のそれと似ているであろう感触。けれどそれを心地良く感じる。わーどうしたの、と驚きつつ笑うハウの手がヨウの髪を撫でた。その仕草がなんだかひどく自然なものだったから、ひとりでに顔が緩んでしまった。
「ヨウの髪ってきれいだよねー、おれはゴワゴワしてるからさー」
「そうかな、俺はハウの髪好きだけど」
 手を上へ伸ばしてハウの髪に触れる。あたたかい夕焼けの森みたいな色だ。ヨウの手を追いかけてきた手を握って少し絡ませると、ハウの手のひらにいくつかの擦り傷があることに気づいた。古そうなものから新しいものまで、大きいものから小さいものまで、いろいろとある。
「ハウ、あんまり無理するなよな」
「それはおれも言いたいよー。ヨウどんどん強くなるからさー」
「だって、ハウにラナキラまで会いに来てほしいし」
 言うと、なにそれーと眉を少し釣り上げて、ハウはヨウの髪をくしゃくしゃとかき混ぜてくる。珍しく照れているのか、視線をわざと上のほうに向けている。いつものんびりとした態度で明け透けにものを言うハウは、自分と話す時だけこんなふうに照れるようになった。それがヨウには特別なかんじがして嬉しい。本人に言ったら意識されてしまうかもしれないから、言ったりはしないけれど。
 起き上がり、ハウと目を合わせようと顔を覗き込む。近い。普段ならこんなことじゃ動じないのに、今のハウはすぐ目を逸らしてしまう。
「俺のこと見てよ」
「やだよー」
「ハーウ、見ろって」
 逸らした頬にキスをすると、びっくりしたようにハウがヨウを見つめた。褐色の肌だからわかりづらいけれど、きっと赤くなっているだろう。やっと見た、と笑みを浮かべるヨウもまた照れくさくなってしまい、ふたりしてしばらく黙ったままでいた。その中でだんだんとハウが笑顔になっていくのを、まるでスローモーションを見ているかのような気持ちで見ていた。
「……おれもね、ヨウに会いに来てほしいって思ってたんだー。だから今日はすごく嬉しかったんだよー」
「ごめん、もっと来るようにする」
 思い出す。初めて会った時のやわらかな、けれどどこか掴みどころのない笑顔。何度も何度も自分を励まして、元気をくれた明るい姿。時折のぞかせるコンプレックスの影。さびしい本心。リーリエを守れなかった時の辛さに歪んだ顔。ふきすさぶ吹雪の中でまっすぐ自分に挑んできてくれたときの、瞳に自信と強さがきざしていた瞬間。すべて終わって想いを伝えた時の、こぼれおちそうな瞳。
 ハウが親友からいわゆる恋人になってから、心がまるで自分のものでなくなったようにひとりでに動く。とげが刺さったようにも、ぎゅうぎゅうと締め付けられるようにもなる。炭酸水に浸かったみたいに弾むこともある。今は胸に花が咲いたような、そんな感覚だった。日差しをいっぱいに浴びたアローラの花。
「ねえ、たまにはハウからしてよ」
 ここに、と言って唇を指さすヨウにずいぶんかわいらしい反応をしてから、ハウは触れるだけのキスをしてくれた。少しうるんだハウの瞳が宝石みたいに輝くのが見えた。この胸の中にある花をお前にもあげたいな、ひょっとしたらお前の仲にも咲いてるのかな、とハウをぎゅうぎゅうと抱きしめて思う。キスと抱擁と、例えたったこれだけで自分の中の、きれいな気持ちもきたない気持ちも全部ハウに伝わってしまったとしても、きっとハウは俺のことを好きでいてくれるだろう。ヨウはそう、願うように信じた。このうえなくあたたかな気持ちで。