いつもより何故だか大きく見えるその扉が開くのを、僕は足のかかととつま先を揃えて待っている。早く顔が見たいと思うのに、同じくらい見たくないとも思っている。相反する期待が自宅を出た時からぐるぐると頭の中で円を描いていて、いつまでも消えてくれなかった。歩いてきた道の風景や行きかう人々の顔などなにひとつ意識に留まることはなく、ただひとりの名前と面影を脳裏に浮かべているあいだにこの邸宅に着いてしまっていた。
「よお、来たのか」
 ドアが家主によって開けられると、心配していたとおり思わず目線を逸らしたくなってしまって苦笑いを浮かべた。すると相手のほうは「来るなりそんな顔するヤツがあるか」と言って不服そうに顔を歪め、僕が玄関に足を踏み入れるのも待たずにふいと背を向けて室内に戻ろうとする。あ、と意味のない声を発して慌てて視線を戻す。たった今までゲームか何かをしていたと思われるいくらか丸まった背中をそろりと見やると、僕は中指を立てられなかったことに内心ほっとしながら慌てて足を動かした。
「ま、待ってよ」
 手が緊張のために震えそうになるのをかぶりを振りながらこらえ、俯きがちに進むと、視界の端にずいと手が伸ばされた。まばたきをして、いつかのように一度クレイグの横顔を覗きこむようにうかがってから、差し出された手をじっと見つめて握る。そうしていると、こみ上げていた緊張やいくつものネガティヴな予想もやがて薄れていって、間もなく目線を上げれば少し呆れたようなクレイグがすぐ前に立っていた。僕を黙って見ていた彼と目を合わせると、相変わらずのしかめ面で口をへの字にしていた表情がちょっと溶けたふうに柔らかくなった。あっ笑ってくれるのかな、と思うのとほとんど同時に、クレイグは顔をそむけた。

 思い込みも大いにあるだろうけれど、クレイグと手を繋いでいるとすごく気持ちが落ち着く。手のひらだけでなく心の中まで温かくなるようで、コーヒーを飲んだ時とはまた違った安らぎを感じることができる。前にそう伝えた時にも、クレイグは今と似たような表情をして僕から顔をそむけていた。けれど、繋いでいた手はぎゅっと強く握ってくれたのだ。だからこうして顔をそむけるのは、彼なりの照れ隠しみたいなものなんだろう。
 今もまた繋がれたままの手を見やり、ありがとうもう大丈夫だよ、と礼を言って手を離そうとしたところ、「このままでいい」と言われたので意外に思って見つめ返すと、クレイグは黙って少し強めに僕の手を引いた。やっぱり呆れたような、笑いかけのような柔らかい横顔が見えた。

 リビングに着くと、窓を通して遠くから向けられる視線を半ば慣れた顔で一瞥し、振り向くとクレイグは僕の手を離した。
「あいつら、よく飽きないでいられるよな」
 そうぼやきながらソファに腰をおろすさまが面白かったので、荷物を置きながら思わず笑う。すると心外だというようにじろりと見上げられた。あの野次馬もとい隣人たちに見られているというのに口調ほど不愉快そうではないことに、彼は気づいていないのだろうか。それとも気づいてはいるけれど、僕に笑われるのは嫌なのかもしれない。それは考えてみれば当然のことだ。少し前まで、サウスパークにはびこる事実無根の噂に浮かされた周囲の好奇に満ちたまなざしにパニックを起こして怯えていたのは、クレイグよりも僕のほうだったのだから。フェイクの破局を演じて、フェイクの復縁を演じて、ようやく僕は自分に自信を持つことができて、あの野次馬たちの視線にもだんだんと慣れることができた。それもこれも、全部クレイグのおかげなのだ。だから確かに僕がクレイグを、たとえ微笑ましい気持ちからだとしても、笑うのはまずかったかもしれない。僕はなにか言われる前にその場を後にすべく、コーヒー淹れてくるね、と先手を打ってそそくさとキッチンへ向かおうとした。
「……待てよ、一緒に行ってやる」
「え。珍しいね」
「お前の淹れるコーヒーは苦すぎるんだよ」
 当然というような顔で見られる。少し前に初めてクレイグにコーヒーを淹れてあげたときのことを根に持っているんだとすぐに分かった。そんなに苦かっただろうか、と反省を込めて首を捻っているうちに、手を掴まれて引きずられるように廊下に歩き出そうとしていた。ああ待って、と僕はカバンの中からなんとか目当てのものを引っ掴んで、たたらを踏みながらクレイグの横に並んだ。
「クレイグ」
「なんだ」
「ママがこれ、おみやげにって」
「……お前のママって器用だよな」
 恋人(少なくとも彼女はそう信じている)の家に初めてのお泊りに行く息子のためにママが焼いてくれた、様々な形のクッキーの入ったラッピングを差し出すと、クレイグはどことなく素直な声でそう返した。いつもよりもこどもっぽい響きでなんだか嬉しかった。君のママだってすごく料理が上手いよ、と言えば「そういうのやめろよ」と今度は隠しもせず照れた様子でクレイグは呟く。ごめんね、と条件反射のように謝るとそれ以上は何も言われることはなく、そうしているうちに僕らはキッチンに着いていた。
「………」
 結局この家に着いてからほとんどずっと繋いでいた手を、カップなどを取り出すために離す。お湯を沸かそうと背を向けたクレイグの後姿を確認してから、決して気取られないように僕は静かに息をついた。

―――あの日、もう言葉も交わせないかもしれないと思っていたクレイグが手を差し伸べてくれたことに心からの驚きと嬉しさを感じながら、僕はこれからどうしよう、と胸のどこかで途方に暮れていたのだと思う。どうやら彼が彼なりに悩んで僕の罪滅ぼしを受け入れようとしていると、正しくは彼とその周囲の人々のためにそうしようと決めたのだと、分かっていたから。僕が彼について感じ始めていた、おそらく純粋な友人としての好意が行き場をなくして、このまま一緒に居ればもしかしたら別の感情にすり替わってしまうかもしれないと、気付いてしまったから。

 それから僕の心は、満たされているのにどこかぽっかりと穴があいたようになってしまった。
 もう両手で足りないくらいの年数を生きようとしているのに、僕はこれまでほんとうに誰かを好きになったことがなかった。両親にも友達にも、いつも何故だかおびえていた。誰かと深くかかわることはとても怖かった。クレイグのことだって、今回のことが起きるまでは同じだった。同級生に乗せられて喧嘩をしてからも、あまり関わり合いになりたくないタイプだと思っていた。あろうことか勝手にゲイカップル扱いされるなんて、悪夢だと思っていた。
 それがあの日、クレイグが僕を勇気づけてくれて、共謀して芝居を打ったことで、僕は変わってしまったのだ。初めて誰かと仲良くなりたいと思った。もっと仲良くなりたいと。僕が芝居に熱を入れすぎたせいでクレイグを傷つけてしまってからも、その気持ちはずっと消えてはくれなかった。―――こうして恋人として過ごすようになって、互いの家を行き来するようになってもなお、消えてはくれない。
(だって、クレイグは僕につきあってくれているだけなんだ……)
 自嘲と納得をこめた息を吐き出した時、トゥイーク、と呼ぶ声がすぐそばで聞こえた。苛立ちを含んでいた。重苦しい思考に沈んでいた僕は反応に遅れが出て、はっとした時にはホワイトアウトしたようにちかちかと短く視界が白けて、次に気が付くとクレイグに肩を掴まれて食器棚に押し付けられていた。食器が背後でカチカチと音をたてた。
「ク、クレイグ」
 何かを堪えるようにじっと身を乗り出して僕を見ているクレイグの顔を目にした瞬間、ああもうすべて台無しだ、と体中の力が抜け去った。手から滑り落ちたコーヒー豆の袋が床に落ちるにぶい響きも、ガラスポットのお湯が沸騰しかけてわずかに上がる蒸気と水音も、なにもかもが別の世界の出来事のように遠く感じた。
 クレイグに気付かれないように。
 彼と恋人のふりをするようになってから、何よりもそれに細心の注意を払ってきた。今以上に仲良くなりたいという僕の気持ちを知られてしまったら、もうこの関係は崩れてしまう。それなのに、どうしてこんな時にぼうっとしてしまったのだろう。あのわずかな間のうちにクレイグはきっと気付いてしまったのだ。僕はクレイグのつま先を見つめて、呆然と立ち尽くしていた。かつてクレイグに怯えていた気持ちと、それが消えた後に顔を出した彼への複雑な想いと、それらを隠しながら彼と一緒に居続けたい僕のわがままが、何もかも彼の前にたった今さらけ出されてしまったと思った。
「……トゥイ「ごめんなさい!」
 被せるようにして声を絞り出すと、しばしの沈黙ののちにクレイグの足が一歩こちらに近づいた。息を飲んで後ずさろうとするが、食器棚が邪魔をしてもう後ろには下がれない。そうしている内にあちらだけが近づいてくる。絶望的な気持ちになった僕の舌はひとりでに喋っていた。
「ごめん、ごめんねもう家に来たりしないから、みんなの前以外では手を繋いでくれなくても話しをしてくれなくてもいいから、僕なんて忘れていいから、でもお願いだから僕を」
 先を言うことはできなかった。熱いのか冷たいのか分からない指先が僕の頬に触れ、ぐいと有無を言わさぬ力で僕を上向かせた。その反動で溜まっていた涙があとからあとから流れ出し、やがて止まらなくなった。お陰でクレイグのすぐそこにある筈の顔がどんな表情をしているのか見なくて済んだが、僕が感じている絶望感に変わりはなかった。
「お前ほんと、ひとりで喋るなよ」
「えっ……」
 大きくため息をつきながらクレイグが低い声で言った。
「言っとくけど今回も濡れ衣だ……っていうか、俺も似たようなこと言おうとしてたんだけど」
「は……? なに……?」
「お前、俺のためとかみんなのためとか思って無理してるんなら、やめていいんだぞ。演技のことはもう気にしてないし」
 その声を聞いているうちに、だんだんと涙が治まってゆくのを感じていた。地獄の底に吸い込まれるような膝の震えも鎮まり、麻痺していたようになっていた頬の感覚も戻ってきて、クレイグの手がとても熱いことに気がついた。まばたきをすればとどめと言わんばかりの涙がこぼれ、そうして視界がクリアになってきた。
「無理なんか、してないよ」
 どうにか答える。表情を見るよりも前に、彼が笑っていることを僕は悟っていた。声がほほ笑んでいた。面白がるように、柔らかい響きを帯びていた。僕の今しがたの告白を聞いて僕の気持ちを分かっていて、わざとこんな言い方をしているのだろう。もしかしたら僕が言いかけた言葉の先も、勘付いているのかもしれない。
「……俺もこの際だから、お前に言っとく」
「え?」
 押さえつけていた僕の肩からゆっくり手を離したクレイグは、僕のうかべた疑問符にいくらか気まずげに目を逸らしたものの、すぐに開き直ったように視線を戻してきた。またしてもぎくりとする。彼が何を考え何を言おうとしているのか、まったく分からない。頭の中も手先も爪先も、ふらふらと揺れているようなかんじがした。久しぶりに感じる感覚だった。おそらく僕の精神が不安定なので、体もまたそうなっているのだろう。
 ふん、とクレイグがあまり余裕のなさそうな笑い方をした。
「もしかしたらお前を、本当に好きになるかもしれない」
 耳触りの良い幾分か掠れがちな声が、二人の間に横たわっていた沈黙に溶けた。俯きがちに顔をそむけたクレイグは、満足したらしく僕に背を向けて、コンロで沸騰して湯気をいっぱいに立たせているガラスポットへと歩いていく。一連をただぽかんと見つめていた僕がその背中になにか声をかけるより早く、クレイグは首のみを回して「こっち来いよ」とだけ告げると、すぐに視線を手元へと落としてしまった。少しだけ動かした爪先に当たった、コーヒー豆の袋からのぼってくる香りが僕を促す。じっとクレイグの横顔を窺ってから息をつき、今しがた口にした正直すぎた物言いへの後悔と恥ずかしさを振り払うために目を瞑ってから歩み寄る。
 何も答えないでいる僕をやっぱり黙って待っていてくれたクレイグが短く笑いをこぼした響きが聞こえて、僕も沸騰したように顔が熱くなった。そっと繋いだクレイグの手も熱かった。この熱さの意味を考えるのはもう少し、先のことになりそうだった。