目にしみるような白さに、ハウは思わず目を細めた。
 船着場からワンフロア上がるとそこはまるで別世界のように明るく、清潔でこころよい光が広大な屋内を漏らさずに包み込んでいる。踏みしめた床までもがぼんやりと光っているようだった。
 久しぶりに訪れたエーテルパラダイスは、以前と比べてずいぶんと活気づいているように見えた。エントランスホールにはアローラのみならず遠い地方からの観光客と思われる人影がそこかしこにあったし、職員たちの顔つきもどこかしら明るい。施設や内装が大きく変わったわけではないのに、以前のどこかひんやりとした無機質さが薄らいで、生気のあるにぎやかな空気に満たされている。本来こうあるべきなのだと言われればそれまでだが、眼前に広がる変化がハウには嬉しかった。エントランス中央に陣取る巨大なエレベーターの脇を抜けると、現在エーテル財団の代表代理を務めている少年の不器用そうな笑顔がふっと脳裏に浮かんだ。あの寡黙さの中に隠された温かみが、今のエーテルパラダイスに反映されているのだろう。

「ハウくん、今日は来てくださってありがとうございます」
「ううんー、でもどうしておれなのー? ヨウのほうがよかったんじゃない?」
 首をかしげて問いかけたハウに、出迎えたビッケとザオボーはただ黙ったきり顔を見合わせると、少し困ったような思わせぶりな笑みを浮かべた。二人の間では意思疎通ができているらしい。ビッケさんはともかくザオボーさんはなんで肩まですくめてるのー、とハウは訝しげに言おうとしたがそれより早く彼が背を向けてしまったので、結局なにも言わないまま二人の後についてエントランス奥の通路を進んでいく。前にここを通った時はザオボーは自分たちの前に立ち塞がったのだと思い返すと、こうして客として迎え入れられているのがなんだか不思議だった。
「それではグラジオ様のこと、頼みましたよ」
 ザオボーはビッケとひとしきり仕事の申し送りのような話をし終えると、ハウを一瞥してそれだけ呟くように言い、やがて通路の別れたところで一人だけ別の方向へと歩いていってしまった。どうやら用があったのはビッケに対してだけで、ハウのことはついでに出迎えただけらしい。あの人は変わんないねー、と笑えばビッケもくすくすと笑い、「あれでも心配しているんですよ」とザオボーのひょろりとした後姿を見送ると慣れたふうに答えた。
 しばらく歩くと、左手に大きな両開きのドアが見えた。
「ここです。何かあれば内線でお知らせくださいね」
「うん、わかったー」
 丁寧に白く塗られた木製のドアを手のひらで示しながら、ハウの返事を聞いたビッケはゆっくりとうなづくように目線をハウと同じ高さまで下げた。それは彼女の人柄と同じような、とても優しげで自然なしぐさだった。
「ハウくん」
「え?」
「グラジオ様のこと、お願いしますね」
 予想していなかったデジャヴに襲われる。にっこりとほほ笑んだビッケの言葉にぽかんとしているハウを置いて、彼女は踵を返すと、先ほどザオボーが向かった方向とは逆側へと去っていった。ザオボーとは違ってぴんとした後姿だった。ヒールが控えめに廊下を鳴らす音が遠ざかっていくのを聞きながら、ハウは我に返ってへにゃりと眉を下げた。もーふたりしてなんなのさー、と小声で呟く。とりあえずノックしてみたドアの向こうからは何の反応もなく、少し気おくれしつつもハウはその大きなドアをそろそろと開いた。
 
 グラジオ様が風邪をひいたのでお見舞いに来ていただけませんか、というメッセージが届いたのは、つい二日前のことだった。ラナキラマウンテンで鍛えているさなか、ポケモンセンターに回復に向かった時にエーテル職員から受け取ったのだ。わざわざ呼びに来るなんてよっぽど具合が悪いのかとすぐにポケモンセンターから電話をかけたのだが、電話に出たビッケは緊迫した様子もなく、むしろハウが電話をしてきたことに驚いたふうに感謝を述べていた。それからなぜだかどことなく楽しそうに、笑っていた。
 そういうわけで今日、ハウはこうしてグラジオの自室を訪れている。
 初めて入ったそこは広いのに白基調で物が少なく、なんだかさびしい部屋だというのが第一印象だった。内装も家具のひとつひとつも彼のファッションセンスとは合わないと感じたけれども、ハウに違和感はなかった。きっとこの部屋はグラジオの母親がしつらえさせたそのままで、手が加えられていないのだと察しがついたからだ。高級感をうかがわせるクローゼットや机の装飾を眺めていると、自然とひとりの女性の記憶が蘇って少し複雑な気持ちになる。壁紙とベッドシーツの白さに、今はアローラにいないルザミーネのしなやかな腕の中にいるような錯覚をおぼえた。
(……よく眠ってる、やっぱりまだ具合悪いんだよね)
 窓際のベッドに横たわっているグラジオの顔をのぞきこむと、かすかに眉を寄せて静かに眠っていた。微熱があるのか額には汗がにじんでいる。ビッケに話を聞いたところ、不調のピークは越えたものの完全によくなるまで財団の仕事もポケモンバトルもしてはいけない、と主治医から釘を刺されているらしい。ひょっとすると忙しいビッケたちに代わってグラジオが部屋を抜け出さないか監視をしてほしいというのが、自分が呼ばれた本当の理由なのかもしれない。ハウはベッドの端にそっと腰かけながらそう思った。
 ベッド脇のサイドテーブルには水の入ったグラスとタオル、それからモンスターボールが六個置かれている。こんな時でも、いやこんな時だからこそポケモンたちには傍にいてほしいという気持ちは、ハウにもよく分かった。
「…………」
 時計の秒針がコチコチと進んでいく音を聞く他にすることがなくて、ハウは何とはなしに掛け布団から出ていたグラジオの手を見つけると、そっと握ってみた。いつもはひんやりしていそうな手のひらが、今は微熱のせいかハウよりも少し熱い。まったく肌の色の違うグラジオの手。あまりまじまじと見ることなんて今までなかったけれど、こうやって見ると結構大きいんだ、とハウは目を見開いた。年上だとは分かっていても普段はそれを意識せずにいるから、こういう時は不思議な気持ちになる。触れ合っているのにグラジオとの距離が急に遠くなってしまったようで、心がふわふわとしてしまう。

 −−なんでおれが呼ばれたんだろ。
 ヨウと一緒のときのほうがグラジオは楽しそうなのに、と考えながら眠っているグラジオの顔を見つめる。鋭い薄緑の瞳がまぶたの下に隠されているだけで、ずいぶんと彼の顔つきは穏やかに見える。いつもは前髪に覆われている右目も今は覗いていて、それもグラジオを柔和な印象にさせているようだった。目を開けていたってグラジオはほんとうはすごく優しい顔をするんだということを、ハウはよく知っている。リーリエに対して、ヨウに対して、そして時々は自分に対しても、格好つけずに優しい表情を向けることがあるのだ。きっと親しい人にしか見せないであろうそういった一面を見せてくれるのは、素直に嬉しかったし、ほっとした。
 それでもやっぱりグラジオが一緒にいて楽しそうなのは、自分よりヨウのほうだとハウは思っている。
(おれはヨウほどバトルも強くないし、今でもたまにグラジオのこと、イライラさせちゃうもんねー……)
 初めて会った時、ハウはグラジオのことが苦手だった。バトルで負けたことは大したことではなかったけれども、あの時グラジオに言われたこと、本気のハラに勝てないから言い訳をしているという言葉は、その後もずっとハウの心に引っかかっていた。ポケモンバトルを楽しみたいというのは嘘じゃない。でもグラジオが言ったことも本当だったのだと、今では自覚できる。ずっと蓋をしてきた、自分でさえもよく分からなくなってきた心の深いところの本心を、あんなふうにズバッと言い示されたことは生まれて初めてだったのだ。責めるような目で自分を見てくるグラジオが、だからハウは苦手だったし、少し怖かった。
 あれから一緒に過ごすうちに彼に対する感情は変わっていき、今ではもう苦手意識はない。グラジオが本当は良い人なんだとちゃんと分かっている。気が向いた時には会うし、バトルロイヤルも楽しめるし、軽口も叩き合えるようになった。けれどヨウと居る時のほうが、やっぱりグラジオは楽しそうに見えるのだ。旅のあいだの出来事やバトルの実力のこと考えればそれは当たり前で、今さらどうこう考えるようなことじゃない。−−こんなふうに、ヨウではなくて自分が呼ばれたりしなければ。グラジオをよく知る人が二人そろって、ハウにグラジオを任せたりしなければ。
「グラジオ、」
 手を握ったまま慎重にベッドから降り、床に膝をつく。額にうっすらにじんでいる汗をタオルで拭いてあげてから、ぽすんとグラジオの枕元近くに頬をつけて、じっと顔を見つめてみる。静かな呼吸を聞いていると、どうしてか胸が苦しくなった。グラジオのことが嫌なわけではないのになぜそんなふうになるのか、自分でも分からなかった。
「ハウ、か?」
 そのとき、掠れがちの声が聞こえた。ハッとして伏せていた視線を上げると、すぐ目の前で薄緑色が驚いたようにハウを見つめている。起きてたの、と声をあげて慌てて顔を離すと、その拍子に握っていた手もほどけた。ハウの手と自身の手を交互に見てからグラジオは、「本当にハウなんだな」と呟き前髪を手で整えながら、気だるそうにゆっくりと上体を起こした。
「へーき? 水飲む?」
「ああ、すまないな」
 グラスを渡すと喉が渇いていたのか、グラジオはほとんど一気に水を飲み干してしまった。
「どうせ無理したんでしょー、おれ心配したよー」
 手を握っていたことが今さら恥ずかしくなり、紛らわせるようにえへへと笑う。グラジオはむすっとした顔つきでそんなハウを横目で見た。右目はもう前髪で隠れてしまったので、いつも通り左目だけだ。
「誰から聞いた?」
「ビッケさん」
「……まったくあの人は」
 手を額にあてるお決まりのポーズをとって、グラジオは軽く頭を振った。それを眺めながら、やっぱりビッケさんが勝手に呼んだんだ、とハウは少しがっかりした。それからがっかりした自分に驚いた。
「わざわざ来させて悪かったな。うつるから、もう帰れ」
「えー、今さらでしょ? うつるならもううつってるってー」
「お前はどうしてそう……」
 呆れたという顔で溜息をついたグラジオに、ハウは笑って見せる。
 言葉はいつの間にか喉をすり抜けていた。
「あはは。ねー、ヨウじゃなくてごめんねー、グラジオ」
「……は?」
「それじゃー帰るねー。あ、これおみやげのマラサダ。治ったらみんなで食べてー」
 リュックサックから紙袋を取り出すとそれをサイドテーブルに置き、くるりと背を向ける。これじゃあ逃げるみたいだ。けれどこれ以上グラジオと話しているとどんどんおかしなことを言ってしまいそうで、おかしな気持ちになってしまいそうで、じっとしていられなかった。ごめんねともう一度声に出さず謝ってから、ほとんど駆け出すように爪先に力を入れる。
「っうわ!?」
 つぎの瞬間、ハウはすごい力で後ろに引っ張られていた。
 ぼすっと音をたてて倒れこんだ先はグラジオの脚の上で、咄嗟にひねった体に鈍い衝撃が走る。リュックサックを引っ張られたのだと遅れて気がついた。「悪い大丈夫か」なんて声が上から降ってきたものの、心がこもっていないのは明らかだ。何かしら文句を言ってやろうとしたハウが口を開いた時にはもう、グラジオの次の言葉が投げかけられていた。
「なんだよ今の」
 じっと責めるように見つめてくるグラジオの瞳に射抜かれて、ハウはびくりと身を強張らせた。ちょっとあの時と似ている、と思う。どうしてそんな怒ったような顔をされるのか分からないままへらりと笑えば、グラジオはますます不機嫌そうに眉根を寄せた。
「んー、グラジオはおれよりヨウが来たほうが嬉しいかなーって」
「どうしてそうなるんだ」
「え、だって」
「お前こそいつもヨウの話ばかりするだろう」
 被せるように言われた言葉に、ハウはきょとんと目を丸くした。どうしてそこに自分の話が出てくるのだろうか。何か言い淀んでいるらしいグラジオに続きを促すように視線を向けていると、彼はもどかしそうに左手をゆるく握ったり開いたりして、それからぐしゃぐしゃと彼自身の前髪をかき乱した。一度つむってから開いた左目と、前髪の隙間から見えた右目が揃ってハウを見つめる。その眼差しに心臓が大きく鳴った。鋭いけれど怒っているわけではない、責めているわけでもない、初めて見るグラジオの表情に戸惑う。思わず後ずさろうとしたものの、未だにリュックサックごと体を押さえられていてそれはできなかった。
「えーっと……おれ、ヨウの話ばっかりしてるー?」
「ああ、してるな」
「グラジオはそれが嫌なの?」
 一瞬、グラジオが息をのむのが分かった。
「……オレが言いたいのはどの口が言うんだってことで、あー、いや……いい、やっぱりさっきのは忘れろ」
 歯切れ悪くそう言って、ふてくされたように口はつぐまれてしまった。
 顔をそむけ手をハウに向けてかざしたグラジオに、えーなにそれ、とハウは唇を尖らせる。けれども悪い気分ではない。うやむやにされたのに、なにか先ほどまでの苦しくてさびしい気持ちとは違う、ぽかぽかとしたものが胸に宿っているのを感じた。ハウはグラジオの脚の上に半身をのせたまま、自然とかたちづくられる笑みを浮かべて顔をのぞきこんだ。
「ねーグラジオ、やっぱりおれ、もうちょっとここに居てもいいー?」
「……うつってもいいのか」
「いーよ、グラジオに看病してもらうから」
 それを聞いたグラジオの肩が小さく揺れ、向き戻ってきた薄緑の瞳が再びハウを捉える。「口が減らないな」と呆れたような声で言いながらむずむずと何かを堪えるように口角を上げたその笑い方に、またどうしてか心臓がうるさくなった。自らに送られてくる眼差しに乗せられた感情を何と表現すればいいのか、ハウには分からなかった。嬉しい、恥ずかしい、まぶしい−−どれも違うように思う。ただひとつはっきりしているのは、グラジオのその目に見つめられるとハウもまたよく分からない気持ちになって、心臓がドキドキしてくるらしいということだった。今日気づいてしまった、新しい発見だった。










 部屋の外には、白塗りのドアに寄り添うようにして立つふたつの人影があった。一人は声を抑えてクスクスと穏やかに笑い、もう一人はポケットに手を突っ込んで少し困ったふうに笑っている。ハウに遅れてやって来たヨウはビッケとともに、室内の様子をこっそりと窺っていたのだった。張り詰めた空気から和やかな笑い声へとうつり変わってゆく友人たちにドア越しに視線を投げかけ、それからヨウはぽりぽりと手慰みのように首の後ろを掻いた。「自分の話されてるのって、なんか恥ずかしいですね」「ふふ、そうですね」ビッケは口元に手をあて、上品さを失わないままさらに顔をほころばせた。
「グラジオ様があんなに嬉しそうになさるのは、珍しいんですよ」
「ハウがあんなに照れてるのも、珍しいです。めちゃくちゃ」
 最後のひと言に力を入れると、またビッケは笑いをこぼした。
 部屋の中からは、未だにじゃれあうような軽口が聞こえてくる。じれったいなあと思いながらもヨウは、少し楽しい気分になっている自分に気がついた。決して面白半分ではなくて、新しい島に足を踏み入れた時に意識が高揚して研ぎ澄まされる、そんな楽しさだった。今度すっかり風邪がよくなったら、グラジオをせっついてみようかと思う。ハウはきっと無自覚だろうから。