アスファルトで固められた塀の向こう、真夜中の海に、薄白い月明かりが糸を引くように映り込んでいる。さざ波に合わせて細かに揺れるその光が妙に目について、グラジオは足を止めた。辺りが暗いからあんなにも浮かび上がって見えるのだろうか。夜でもぼうやりと光を放つように明るいエーテルパラダイスではあるが、人間の居住区域は睡眠を妨げない程度の配慮はされている。それでもアローラの他の島から比べればずいぶん明るい、と改めてこの島の異質さを実感しながら、首だけを回して今きた道を振り返った。長く身を置いたこの島について、妹も同じように感じているのかもしれない。つい先ほど屋敷で見たリーリエは深刻そうな面差しをたたえていたものの、あの少年が一緒だからと過ぎた心配はせずに後にしてしまった。兄として、家族としてもう少し話をするべきだったのかもしれないが、今のリーリエには彼と居るのが一番だろう。彼はそういう信頼の置ける少年だった。
 体は疲れているのに、どうしても休む気にはなれない。ビッケに見つかれば小言を言われてしまうかもしれないが、今は構わなかった。ポケットに手を突っ込むと、グラジオは屋敷の南西に広がる外庭へと向かった。さして広さはないが気に入っている場所なのだ。パラダイスの名を冠する人工のメガフロートとはいえ、地を埋めるように生い茂る多様な草花にはまぎれもない鮮やかさと、南国の日差しを受けて息づいた温度が宿っている。保護区の完成された環境より、ほんのわずかでもいびつさの生まれる外庭を好むようになったのもここを出ていく兆しだったのかもしれないと、今では思う。
 腰につけたモンスターボールのボタンを押し、タイプ:ヌルを外に出す。光に包まれて現れた相棒は少し驚いたように辺りを見回し、グラジオの姿を見止めると嬉しそうに鳴いた。「今日はろくに構ってやれなかったよな」そう笑んでみせてから膝をつく。拘束具のように頭部を覆う仮面と、上半身を守る鎧に似た銀色の上皮を何度か撫でてやると、昼間の戦闘で激しく傷ついていた姿が思い起こされて眉を寄せた。もう傷は癒えているが、グラジオの記憶にこびりついた痛ましい相棒の姿はいまだに消えてはくれなかった。鍛えてきたつもりだったのに、グズマにまるで歯が立たなかったのだ。自分をあざ笑うあの男の声を聴いた瞬間の、これまでの二年間を無にされたようなどうしようもないやるせなさは忘れることができない。
 すまなかったな、オレがもっと。
 呟くと、グラジオはポーチからポケマメを取り出しタイプ:ヌルに差し出した。カリカリと咀嚼する音と、仮面の向こうで嬉しそうに目を細めるさまにグラジオは少しだけ相好をゆるめた。

「おーい、ライチュウー? どこいくのー?」
 間延びした声にハッと顔を上げると、屋敷の角から弾むようにして現れたライチュウがカムラの葉の影からこちらを見ていた。つぶらな淡い色の瞳とがっちり視線がぶつかり、グラジオはたじろぐ。間もなくラーイ!と鳴いたのとほぼ同時に角から小走りに飛び出してきたトレーナーは、自分のほうを見ているひとりと一匹に面食らったのか慌てて足を止め、うわわ、と声を上げながらつんのめってようやく静止した。ヤシの葉のように上向きに広がった髪が揺れる。声を聞いてすぐに分かったが、やはりハウだった。
「あれーグラジオ、こんなところにいたんだー!」
「……何か用か、くたくたなんじゃなかったのか?」
「ライチュウが急に走っていっちゃったからさー、追いかけてきたんだ。そしたらふたりが居るんだもん!びっくりしたよー」
 気を取り直したように頭の後ろで手を組んだハウは笑いながら答えた。グラジオはそうか、とだけ返すと目を伏せ、ちょうど指先に触れていたタイプ:ヌルの背をゆっくりと撫でた。相棒はライチュウとなにかコミュニケーションを取っていたようだったが、律儀に首をもたげてくれた。仮面の奥の目と視線がかち合う。グラジオは苦笑すると、そのままでいいぞ、という意図を込めて手を放した。
「ずいぶん仲良しになったねー」
 中腰になって二匹の様子を楽しげに眺めるハウに、まったくだと頷く。そうしてからグラジオは、気取られないように小さく息をついた。
 目を丸くして驚いていたと思ったら、もうニコニコと笑っている。この少年のこういうところがグラジオはよく分からなかった。初めて会った時は現実と向き合わない軟弱な奴だとただただ腹立たしかったが、少なからずハウの人と成りを知った今ではあの苛立ちはもう湧いては来ず、代わりに顔を合わせるたび、言葉を交わすたび、戸惑いにも似た落ち着かない心地になるのだ。これまで生きてきた中で覚えのないこの感情が一体どういうものなのか、グラジオには判然としなかった。決して嫌な気分ではないのだが、心地良いものでもないように思う。もうすぐにでも目をそらしてしまいたいような、意地でも見ていたいような、相反したベクトルが混じり合っているようだった。

 夜風が梢を揺らしてグラジオたちの脇をやわらかく吹き抜けていく。その時、ふと何かの香りを吸い込んだ気がした。何の香りだろうかと正体を探そうと首を回すより早く、クウゥ、とタイプ:ヌルが小さく鳴き声をあげた。普段あまり聞かない声だ。目を向けると、ハウのほうをじっと見て鼻先をふんふんと動かしている。つられてグラジオが視線を追うと、彼の片手には半分に割られたマラサダがあった。香りはあそこから届いたものだったのだ。
「あ、きみもこれ食べたいのー? いいよ、ほら!」
 注がれる視線に気が付いたハウが、目を輝かせてマラサダを持ち上げて見せる。タイプ:ヌルはまた小さく喉を鳴らしたが、それ以上反応を見せることはなかった。上向けられた仮面の奥の目がグラジオを見つめる。気難しい主人の顔色をうかがっているのだ、とすぐに分かり、グラジオは一瞬だけ眉をひそめて溜息をついた。
「フン、普段あまり食べさせてやらないからな……ハウ、本当にいいのか? お前とライチュウの分だろう」
「いいのいいのー、皆で食べたほうがおいしいんだから」
 眉を下げてへにゃりと笑うと、ハウはしゃがみこんでタイプ:ヌルにマラサダを差し出した。おおきいマラサダだ。もう一度こちらを見上げてからマラサダに歩み寄り、うかがうように匂いを嗅ぎ、そうしてやっと美味しそうにそれを食べ始めた相棒の姿をグラジオはじっと見つめる。先ほどポケマメを食べていた時よりも食いつきが良いように見えて、今まであまり食べさせてやらなかったことを後悔した。エーテルパラダイスに居た頃は馴染みのない食べ物だったため、外に出てからも関心が湧かなかったのだ。
「ねえ、触ってもいいー?」
「ああ」
「変わった名前だよねー。えーっと」
「タイプ:ヌルだ。……エーテル財団が名付けた、便宜上のものだけどな」
「んー、それでも名前は名前でしょ?」
 この仮面かっこいいねーとはしゃいだ様子で撫でるハウの手を、不思議そうな顔でタイプ:ヌルは見上げている。グラジオを含め、今までそういう無邪気さで触れてきた人間はほとんどいなかったのだと思い至る。あまり遠慮のない構い方をするようなら止めようと思っていたが、存外ハウは程度というものを知っているようだった。好奇心と親しさがあふれ出てはいるけれども、しっかりと相手の意思をはかろうとしている、そういうふうに見えた。彼の手に撫でられている間、ビーストキラーとして生み出された人工のポケモン、タイプ:ヌルがただのありふれた、どこにでもいるポケモンであるような錯覚をおぼえてグラジオは思わず自嘲がちに笑ってしまった。決別したつもりでもやはり、自分はエーテルの光が当たる場所でもがいていただけなのかもしれない。
 グラジオは相棒からそっと目線を移し、ハウの顔を見やった。相変わらずニコニコとしている。やはりその表情はグラジオを落ち着かなくさせたが、今度はハウが顔を上げるまで目をそらさないように努めた。まろやかな笑みと声を目の当たりにしていると、喉の奥から心臓にかけてがざわつくような、ささくれ立つような、やはり奇妙な体感があった。

 ライチュウとタイプ:ヌルをボールに戻した頃には、月がもうずいぶんと高いところに昇っていた。アスファルトの無機質さの向こうは昼間なら視線を巡らせれば周辺の島々を遠くに臨むことができるが、夜はただ黒く広がる海と、そこに映る月明かりが穏やかな波に揺れる様子が見えるだけだ。グラジオは風に乱された前髪を抑えると、隣で同じように夜の海を眺めているハウの横顔をうかがった。
「リーリエ、辛そうだったね」
「まあ、あんなのでも母親だからな……あいつは母上によく懐いていた」
「……グラジオも辛いんでしょ」
 一寸おいてからぽつりと投げかけられた言葉に目を見開く。いつものトーンとは異なった静かな声だった。笑みを潜めた真剣みのある眼差しにはらわたを掴まれたような衝撃を受けたが、それを表に出さないよう、グラジオは奥歯をぐっと噛みしめてからいらえた。
「オレは辛くなんかない。エーテルを出た時から覚悟はできている」
「辛いよ、だって辛そうだもん」
「っ辛くないと言ってるだろう! 聞こえないのか?!」
「グラジオは辛いんだよ! ……そんなしんどそうな顔して、自分で分かんないの?」
 柄にもなく険のある声を出したくせに、連なるハウの言葉はみるみるうちに細くなっていった。それを聞きながら、いつの間にかハウの肩を掴んでいた手に力をこめる。加減ができない。妹のリーリエよりも低い背と幼い顔立ち。そこに宿る吸い込まれそうな瞳。歪んだ表情。ついさっきまで穏やかに話しをしていたはずなのに、どうしてこいつに掴みかかっているのか自分でもよく分からなかった。
「っ」
 痛みからか顔をゆがめたハウのくぐもった声を聞き、ようやくグラジオは我に返った。年下であろうハウに何をしていたのだと自己嫌悪に襲われる一方で、ハウの言葉に煮え立つような憤りを感じているのもまた確かだった。
「……う、うっ」
 不意に、俯いたハウがぼろぼろと泣き出した。大きな目から雨粒のようにこぼれ落ちる涙にギョッとし、おい、と声をかけてみるが反応はない。後から後から流れ出る涙は止まる様子がなく、足元のアスファルトに濃い染みをつくっていく。そんなに痛かったのだろうか、いや、おそらくそれが理由ではないだろう。
「……ハウ、」
 何かの堰が切れてしまったかのように静かにしゃくりあげるハウを見ていたグラジオは言い知れぬ苦しさをおぼえ、戸惑いながらも手を伸ばすと、細かに震える体を抱きしめていた。一瞬肩が強張ったが、やがてハウはおでこをグラジオの衿口に押し付けると幾度か大きくしゃくりあげた。そしてだんだんと涙は止まっていったようだった。
 いつも明るく笑っているハウが泣きながら自分の腕の中にいるということが、何かの冗談のように思えた。自分よりも少し速い心音が伝わってくる。預けられた頭の重みはどうしてか心地良く、グラジオは今しがたの苛立ちが波のように引いていくのが分かった。他人の体温を感じたのがずいぶんと久しぶりだったのだと、ようやく思い知った。抱きしめているのに、抱きしめられているみたいだった。それだけの質量を与えられている。抱きしめるのも抱きしめられるのも、どちらの感覚も長いこと遠ざかっていたからまるで初めてのことのように感じた。
 あたたかな体温と、トクトクと響く心音、夜でも太陽の匂いのする深緑の髪。遠くで聞こえる波の音、こぼれ落ちそうな星空。それらを感じながら目をつむっていると、自然と昔のことを思い出した。まだ父が居た頃のこと。優しかった母と幼くあどけない妹、かれらに囲まれて何も知らずに笑っていた自分。もう戻れない記憶は砂糖菓子のように甘くもろいもので、オレには扱うのがひどく難しそうだとグラジオは思う。握りしめたら崩れてしまいそうな、そんなあやうさを持っている。
 知らず知らず腕に力を込めていたのだろう、ハウがいたいよ、と呟いたので慌てて腕をほどくと、服の肩あたりで涙をぐしぐしと拭ってハウは少し気まずそうに笑った。泣いてしまったことか、グラジオに抱きしめられたことか、あるいはその両方が恥ずかしかったのだろう。柄にないことをしたのはオレも同じだと言ってやりたかったが、それより先にハウが口を開いた。
「ごめん、思い出しちゃったんだー、父ちゃんが出てった時のこと」
「……」
 グラジオとおれは違うのにね。そう言ったきり言葉を紡がないまま苦笑めいたものを浮かべるハウを見つめ、グラジオは疑問符が浮かぶのと同時に、またしてもどうにも堪らない苦しさを感じた。しんどそう、というハウの言葉が本当になったような感覚。あるいは今初めてその感情がグラジオに知覚できるようになったのかもしれない。息ができないほどの苦しさ、ずいぶんと長く忘れていた感情の波に、グラジオはくそ、と仮声で悪態をついてかぶりを振った。手を伸ばし、ハウのまなじりに残っていた涙を指先でぬぐう。褐色の肌に触れた自らの肌の白さになぜだかゾッとした。エーテルの白さとそれはよく似ている気がした。
「……悪かった」
「ううん、おれも」
「違う、お前を泣かせるつもりはなかったんだ……本当だぞ」
 笑顔の裏でハウが何を抱えているのか、今はまだそのすべては分からない。深く尋ねるのは良い選択ではないはずだ。今の自分をつくりあげた素養の一つとして過去もいびつな家族関係もさらけ出せるグラジオと違って、薄暗い部分を人に見せることがこの少年はひどく苦手なのだろう。目映いばかりのアローラの地で、そういう生き方は似つかわしくないのかもしれない。今グラジオに見せた涙がたとえ同情からのものだったとしても−−おそらく彼の性格からしてそれはないだろうが−−、ハウが心の一端を差し出してくれたのだとしたら、そして自分にも見えたものがあったなら、きっと自分たちにとって決して悪いことではなかった。
 しかしそれでも、自分はハウに笑っていてほしいのだとグラジオは自覚する。
 ハウはグラジオの言葉に驚いた様子で瞬きをし、はにかむように笑った。海からのぼってきた風がハウの横髪と高く結った髪を揺らす。それを見ているとまた首の後ろがざわついて、グラジオは触れたままのハウの頬を撫でてその感覚から意識をそらした。
「……グラジオはずっと孤独だったって言うけどさ」
「ん?」
「そんなことないでしょ。だってずーっと、タイプ:ヌルと一緒だったんだもんねー」
 流石に照れくさかったのか、するりとグラジオの手から離れるとハウはそうひとり言のように呟き、グラジオの腰にあるモンスターボールに優しげな視線を向けた。はたとして同じものを見る。「……そうだな」ボールに手を添え、しばらく黙ったのちに応えるとハウは嬉しそうに満面の笑みをこぼした。
 タイプ:ヌルのことを、そして自分と共に戦ってくれるポケモンたちのことを忘れて独りきりで生きていると思ったことなど一度もない。むしろ逆だった。彼らは皆もう自分の一部みたいなもので、運命を共にして然るべきだと当たり前のように考えていたのだ。グラジオはハウに言われて初めて、自分とポケモンたちとを一括りにしていた固い鎖がほどけたような心地になった。それは自らが散り散りになってしまう類のものではなく、周りにぽつりぽつりとあえかな明かりが灯るような、信じられないほど温かい感覚だった。
 手のひらに馴染むモンスターボールからもじわりと温もりが伝わってくるようで、グラジオは目を穏やかに細めて指先でトントンとボールをつついた。−−オレは、オレたちはもう独りじゃない。

「部屋まで送ってやる、もう寝ないと明日に響くしな」
「えーいいよー、部屋くらいひとりで帰れるってば!」
「散々迷っていたのはどこのどいつだ?」
「うっ……だってこのお屋敷広すぎるからー」
 子ども扱いされたと感じたのか渋るハウの手を掴み、グラジオは返事をせずにぐいぐいと腕を引くと屋敷へと歩き出した。深夜でもまばらに灯った部屋明かりが、星々の海から自分たちを急速に引き戻そうとしているようだった。握っているハウの手首は細く温かい。ねえグラジオ、と背後からどこか彼にしては遠慮がちに呼びかける声が聞こえる。それに曖昧に答えながら、いつかもっと自然に触れられるようになるだろうかとグラジオは考えた。傷つけるでも泣かせるでもなく、もっともらしい理由を作るでもなく、今しがた相棒に触れたようにこの少年に触れてみたい。そうすることでハウが笑ってくれたら、どんなにか。どんなにか。
 数年ぶりに夜を過ごすことになった屋敷の扉に手を伸ばす。明日になればこんな緩んだ思考にひたってはいられない、そう言い聞かせるように内心でごちながら夜風を吸い込むと、かなしいほどに体に馴染んでやるせなくなった。もう一度ハウの太陽のような匂いを嗅ぎたいと思ったけれども、それもまた叶うとしても先のことになるのだろう。グラジオは背後の少年に悟られないよう、ほんのわずかに相好を崩してから重々しい扉を引いた。エントランスの橙色の明かりよりも整いきった空調よりも何よりも、触れている肌の温かさが体の中心まで染み入るようだった。