見渡す限りの寒空であった。中空でぼんやりと輝く太陽光は、東に広がる大西洋まで届かないのではないかと思わせるほどに頼りない。数日降り続いている雪がレンガ街の壁面まで粉をはたいたようにほの白く覆い、行き交う人々の襟袖を固く閉じさせていた。雑音も喋り声も馬の嘶きも、積もった雪がまるで真綿にインクを落とした時のように吸い取ってしまう。その雪を踏みしめる音だけが路上に鳴り、あとはいやに甲高い北風が吹き抜けるひゅうひゅうという響きが生き物のようにデラウェアの街を吹きわたっている。
 うすら白い景色の中、冷たい風に耳を裂かれるような痛みにディスコは耳たぶを手で覆い、白い息を吐き出した。立ち止って見回すその場所の風景には見覚えがある。独立記念公園で遊ぶ子供たちのはしゃぎ声、いびつな形のスノーマン、それを中心に円を描くようにして駆け回る犬。そういったものを順に眺めてから、表情に乏しい顔をわずかにしかめた。数か月前の戦いの記憶はまだ脳裏に新しい。表面的には塞がっても内側から痛む傷は完璧に癒えたわけではなかったし、せっかく与えられた仕事は見事にしくじった。出来ることならば二度と足を踏み入れたくない街であったのに、こうもすぐに訪れることになってしまうとは。

 葉の落ち切った黒々とした枝を広げる大木、その根元に据えられたベンチに腰掛ける老人が熱心に視線を落としている新聞を、ディスコは遠目に見やった。書かれている文字までは判読できないが、大見出しは次期大統領選挙に向けての出馬争いで間違いはない。推測するまでもなく、この一週間はもうその話題だけで国中持ちきりであった。あまりにも人口に膾炙した、大陸横断という偉業を成し遂げた英雄的人物の突然の訃報は光のように知れ渡り、瞬く間に全米に衝撃と落胆を与えた。スティール・ボール・ランの熱気冷めやらぬ中のまさに青天の霹靂であった。事故であるとか暗殺であるとか、レースによる疲労が元で病に倒れたのだとか様々な憶測が飛び交ったが、真相を知る者はいくらもいない。
 彼を直接の雇い主としていたディスコといえど、例に漏れることはなかった。運び込まれた病院で治療を受け、ようやく傷が癒えてきた頃。ちょうどレースが閉幕して十日ほど経った日のことだった。病室へ政府の人間が現れて金を渡され、ただ一言「お前はもう政府とは何の関りもない」と告げられた。ただそれだけだった。未だ痛む傷を憎らしく思いながらディスコは、その宣告についてひとつも質問を返さなかった。任務をしくじった自分にその資格はなかったし、多少なりとも勘が働いたのだ。決して良くない予感が全身を鉛のように重くさせ、握っていた札束はあまりにも軽い音をたてて床へ落ちた。感情らしいものは湧いてこず、ただ茫洋としたあてどもなさが眼前に広がったようだった。
 あの時よぎった勘と憶測は、おおむね外れてはいなかったらしい。混乱を避けるために最小限の情報だけが与えられた合衆国民のひとりに過ぎないディスコは、それでもかつて政府の中枢にわずかながら息を掛けられていた人間である。雇い主があのレースの裏で何を成そうとしていたのか、無論全てを知っていたわけではないが、その念願は果たされなかったということだけははっきりと分かった。大統領ファニー・ヴァレンタインも彼の直属の部下もその大半がいなくなってしまった今、ディスコは飼い主をなくした犬のように所在ない心地で再びデラウェアの冷たい潮風を受けている。――たったひとつ、やり残したことがあるのだ。


 ディスコが入院している病院に彼が現れたのは、レース閉幕のほんの数日前であった。月明かりがカーテンを透かして病室の端までを青白く照らしており、ふと気がつくとすぐ傍で名前を呼ばれていた。よく聞き覚えのある声だった。金縛りにあったように体を動かせないディスコはどうにかして視線だけをその声のほうへと向けようとしたが、ついにかの人物を視界に捉えることはできなかった。いいからそのまま聞けと口早に声は言うと、息も継がずに「ウェカピポは消えたが、マジェントはまだ生きている」と告げた。少し呼吸が苦し気に聞こえたが、話の内容に気を取られてあまり意識は行き届かなかった。ディスコは目を見開いた。何に対してかはよく分からなかった。
「え」
「平行世界でマジェントを見た。あれはまだこっち側でもどこかで生きている……お前が探せ」
 それだけをやはり口早に言うと、彼は何かから逃れるようにカーテンの影へ消え失せたようだった。それから暫く経ってからようやく体を起こすことができたディスコは、月明かりを透かすカーテンを勢いよく開き、わけもなく窓の外へと視線を廻らせた。妙に動悸がした。レース閉幕に向けて浮足立った街明かりから隔絶されたうすら寒い場所で、こんな場所に居るはずもない男の影を見出そうとしていたのかもしれない。
 

 あれが夢だったのか現実であったのか、ディスコには定かではなかった。それでもあれは紛れもない雇い主の声であった。威厳と余裕を湛えていた大国の主のかつての声色とは違う、どこか焦燥と諦念を帯びたものではあったけれども、あの声を聞き間違うはずはなかった。
『いいか、勇気をもって口を閉ざせ。その沈黙はきっとお前の宝となる』
 大統領に拾われた時、そう言われたことを今でもよく覚えている。無口で他人と会話することさえままならなかった自分にそう諭すように話した時の彼の顔を思い起こし、ディスコは静かに目を伏せた。ああいうことを言われたのは、後にも先にも彼だけだった。だからよく覚えている。病室に現れたのは確かに大統領だったのだろう。そうであるからには、あれは命令だ。例えどういう意図があったにせよ――情けない部下に対する一片の憐みであったとしても――ディスコはそれを守らなければならない。
 見下ろすあちら、冬のデラウェア河は沈んだ深い青色を静かにたゆたわせている。遠くをゆく蒸気船が、白い空に白い蒸気を散らしながら河下へとゆっくり進んでいる。大西洋にそそぐ大河の流れはひどく穏やかで、この寒さのせいで凍りついてしまったかのようだった。確か、あの日スティーブン・スティールの馬車が落ちたのはこの辺りであったはずだ、そう位置を確認するとディスコは引きずってきていた鉄材から伸びるロープをぐるりと手に巻き付け、反動もつけずに冷たい河水に飛び込んだ。水を叩くかたい音に続いて遠くから悲鳴が上がったが、もう水中に潜っていた男には聞こえなかった。


 引き上げたマジェントがくしゃみをして鼻水をだらだら流すのを、ディスコは黙って見下ろしている。黒い巻き毛に雪の切片がちらちらと降りかかり、やがて溶けて髪を濡らす水とひとつになっていく。引き上げた時には平常の色をしていた顔が、みるみるうちに血の気を失っていくのが分かった。スタンド能力を解除した今、体表面を濡らしていた水気が容赦なく熱を奪っているのだろう。ずぶ濡れのシルクハットから染み出た水が、地面を伝ってディスコの足元まで流れてくる。水を吸ってぐっしょりと重くなったコートを脱ぎながら、ディスコもまた身震いとくしゃみをした。極寒の河から上がってきた男二人を奇異の眼差しで指さしてくる通行人たちが鬱陶しかったが、まだ声を掛けてこないだけましなのかもしれない。
「ディスコぉ、お前が助けてくれたのかよ〜……っへくし! ああくそ寒いぜ……って雪降ってるじゃねえか。今って何月だ? ウェカピポの野郎はどこにいる?」
 助けられたことへの喜びから次第に忌々しげなものへと表情を変えてゆくマジェントの中では、本当にあの日から時が止まっているのだろう。犬のように頭を振って水気を飛ばしてから倦怠そうに視線を向けてきた彼に、ディスコはじっと視線を返すことだけで応じた。薄く唇を開きかけて、また閉じる。マジェントが本当に生きていたということは、病室で彼が言っていたもうひとつの情報もまた真実なのだろう。かつて彼が組んでいた、そしてどういうわけか今では苦々しげに口にするあのイタリア人の男はもう、消えてしまったのだ。文字通り、きっと跡形もなく。
 ディスコは少し途方に暮れた。今は寒風吹きすさぶ真冬であること、ウェカピポはもういないこと、大統領も、遺体の行方も知れぬこと。話さなければならないことは山ほどある。あまりに自分たちの周りから無くなったものが多すぎて、生き残った筈なのに逆につま弾きにされたような、そういう喪失感が胸に渦巻いている。この胸中はもちろんのこと、言うべき事実の数々ですらも上手く言葉に出来ないように思われた。しかし勇気をもって口を閉ざせと、言ってくれた人はもういない。
 濡れた地面にゆっくりと膝を付くと、ディスコは随分と久しぶりに他人の名を呼んだ。「マジェント、」知りうるほんのちっぽけな全てを語り終えた時、この口数の多い男が何を言うのか、少しだけ期待をしながら。












 市場から帰ってきたディスコの目に、藍色にたなびく雲が悠々と映りこんだ。青みがかった瞳がさらに澄んだ深海のような色になる。夕焼けが空を覆っていたのはもう数十分も前のことで、あとは転がるように夜になるのを待つばかりとなっている。家路を走るこどもが何人も脇をすり抜けて行き、路地裏ではうろうろと野良猫が活動を始めようとしている。そんな様子を眺めながら歩いてゆくと、表通りから一本細い路地に入ったところにある小さなバーが見えてきた。店を開けるべく戸口を箒で掃いているバーの店主、その少し丸まった背中の向こうに見える鉢植えのパンジーがいつの間にか花をたくさん付けているのに気がつくと、もうそんな季節だっただろうかとディスコは幾分か驚いた。立ち止った拍子に抱えていた紙袋ががさりと音をたて、それを聞き取った店主が鷹揚な動きで振り返る。
「おやあんた、今戻りかい」
「……ああ」
 ダークブロンドの髭をたくわえた壮年の店主は、ディスコの腕に収まっている膨れ上がった紙袋を見やって苦笑すると「あんたも大変だねえ」と言って肩を竦め、店内へ入れるように道を開けてくれた。出る時は裏口から出たので帰りもそうするつもりだったのだが、わざわざの好意を無下にすることもないだろうとディスコは小さく会釈をすると、店の奥にひっそりと設えてある木製の階段へと向かった。古い木の継ぎ目がギシギシと危うげな音をたてた。
 このバーの二階に間借りをし始めてから数か月経ったが、何かにつけて実感するのは店主の人柄の良さである。マジェントがいつの間にか取りつけてしまった間借りの約束だったけれども、そもそも知人とはいえあんな得体の知れない男に部屋を貸すなど常人ではなかなかできやしまい。部屋を貸す条件というのが度重なる店内での麻薬取引とそれに誘発された傷害事件をどうにかしたいという彼の頼みを引き受けることだったというのも、ディスコにとっては溜息が出るほどに安い代価であった。マジェントは人を見る目があるのだろうか、と時折ディスコはその可能性について考えるが、結局発揮されるのは大した場面ではないのだから宝の持ち腐れと言ってよいだろう。せいぜいこうして食べていくためのすべを手に入れるくらいしか、彼の心眼は使われたためしがないようだった。

 部屋に入るとすぐに聞こえてきたのは、ゲホゴホと大仰に咳こむ音と悪態をつくひとり言だった。出掛ける時はベッドに潜りこんでいたはずだが、今は起きているのだろう。いくら掃除をしても完全にはなくならない埃臭さが鼻をかすめ、つられるように小さく咳ばらいをしながらデイスコは古い立て付けのためにやはり軋むドアを後ろ手にそっと締めた。
 暖炉の薪はもう燻りつつあったので、リビングへ向かうとまず薪を足した。それから窓際に置かれたテーブルへと目をやると、猫背気味に足を組んで銃の手入れをしているマジェントがちょうどタイミングを見計らったように「おう、おかえり」と片手をひらひらと振った。顔色は悪いし声はずいぶんと掠れているが、一日中寝込んでいた昨日に比べれば回復しているのだろう。春先の風邪をひいたマジェントはここ一週間ほどひどい咳が続いており、さすがのディスコも心配して医者を薦めたほどであったのでこの様子には内心安堵していた。
「明かりを点けなくてもいいのか……?」
「あーそうだな、そろそろ手元見えなくなってきたぜ」
 もう殆ど磨き終えたらしい愛用の銃をひと撫ですると、ぐぐと背筋を伸ばしてマジェントはまた咳をした。そのまま咳をしながら卓上ランプに火を灯してから、燭台へとのたのたした足取りで歩いてゆくのを横目に、ディスコは外出用のコートを脱いで窓際に掛けた。薄いニットのセーターだけでも夜を過ごせるほど、近ごろは寒さも遠のき春めいてきている。尤もそれに油断をした結果があのマジェントであるから、反面教師にしなければならないが。
 一階のバーが店を開けたらしく、賑やかな雑音が床と窓ごしに漏れ入ってくる。グラスがぶつかる音、ドアベルが軽快に鳴る音、笑い声、店主を呼びつける声、そういった音が毎日耳に入ってくる暮らしにも慣れてしまった。大分年季が入っており、さほど良い建物でもないために騒音だけではなく寒さ暑さや隙間風とも日常的に付き合ってゆかなければならないものの、二人はこの場所が嫌いではなかった。数か月前まで寝泊まりしていた合衆国所有の寄宿舎と比べてしまえば雲泥の差だが、もともと裏社会で後ろ暗い仕事をしてきたマジェントはこれくらいの部屋のほうが落ち着くと言っていたし、ディスコは衣食住にさほど拘りがなかった。
 シンク脇の小さな台に紙袋を置くと、ディスコは中から買ってきた物を取り出しはじめる。オレンジ、パン、ミルク、ソーセージ、新聞、それから咳に効くらしい粉薬――医者に行きたがらないマジェントに頼まれて買ってはみたが、実際効くのかどうかは疑わしいところだ――。何か夕食にできるものを買えばよかったと今さら思い至るが、もう後の祭りである。
「おうい、それとってくんねぇ?」
 背後から声をかけられ頭だけを回すと、再び椅子に腰かけたマジェントがディスコの手元にある新聞を指さしている。ディスコは黙ってそれを持ち上げると、一寸置いてからぽいと床へ放った。「うわっ」次の瞬間にマジェントの真上から新聞がばさっと落下し、間抜けな声は頭に被さった新聞によって掻き消されてしまった。

 暖炉の天板にケトルを乗せ、湯を沸かしながらふとディスコは瞬きをした。そういえば、コーヒー豆がそろそろ切れそうだったのではなかったろうか。せっかく湯を沸かしておいてそのまま飲むようになっては空しいと、戸棚を漁って豆袋を覗く。中身はやはりもう無くなりかけているが、とりあえず今日二人分のコーヒーを淹れることくらいはできそうだと目測し、静かに息をついた。
「ディスコ〜あれ入ってねえよ」
「え?」
「ほら昨日言ってただろ、ミントか何か置いとくとネズミ避けになるってよ。アイツら夜中に動き回って目障りだよなぁ…見つければすすぐぶっ潰してやるのに」
「ああ……ごめん忘れてた」
「まぁいいや、今度買って来ようぜ。俺だって別にミントのにおいは好きじゃねーけどな」
「オレも」
「だよなぁ〜! スース―して鼻が痛くなるんだよな」
 マジェントはへらへらと笑うと、またひとしきり咳込んだ。
「……お前はイイ奴だよなぁ、ウェカピポとは大違いだぜ」
 咳が止んだところでいきなりそう呟いた同居人に眉を上げれば、彼はさしたる陰りも見られない表情で新聞に目を向けていた。倦怠そうな目つきと尖りがちの唇は確かに不愉快さを滲ませているが、それも見ているうちに薄らいでゆく。ことあるごとにウェカピポの話題を出すマジェントを、ディスコはいつも不思議な心持ちで観察していた。彼の中ではまだウェカピポが死んだという実感がないのか、それとも故人に思うところは何もないのか、憎んでいたはずだったのにその感情すら今ではさほど窺えない。その態度をどう受け取ればいいのか測りかねているので、ただディスコは黙ってマジェントの話に相槌を打つ。
 マジェントが何を考えているのか、分かりやすそうでいてディスコには未だによく分からない。軽薄な男だとは思うが人好きのする部分もあり、でも決してイイ奴などではない。すぐ近くまで寄ってくるくせにこちらが近付くと引いていくような、そういう男だ。
「見ろよこの記事! 飛行機がのってるぜ!」
 瞳を輝かせるマジェントの掠れ気味の声が、思案の幕を破り去った。バサバサと新聞を揺らして見出しを指し示すので、歩み寄って一緒に覗きこむ。ワシントンで最新飛行機の試乗に成功したという記事であった。ふうんと気のない声をあげるディスコに対し、身振り手振りで話すマジェントの様子はまるでこどものようだった。飛行機といえば、試運転中の故障や落下事故が後を絶えないと聞く。しかしマジェントならば例え上空高くで飛行機が大破したとて無傷でいられるのだから、そういった恐れなど微塵も感じないのだろう。
 大空を飛ぶ鉄の塊について熱弁をふるう同居人に首を振ってやりながら、ディスコは黙って目を細めた。マジェントの声と重なるように耳に入ってくる一階からの音の渦はますます大きくなり、この部屋ごと二人を飲み込んでいくようだった。