ぎらついた陽射しが居並ぶオーニングをことごとく貫き、所狭しと積まれたトマトやズッキーニを宝石のように照らしている。 まだ早い時間帯だというのに、すでに昼過ぎのような暑さだった。飛び交う声が帯びる熱でさらに高温となった市場の空気は、しかし留まる暇などないとばかりに上へ上へと昇っていく。石畳を打つ軽快な足音に追いたてられながら。白雲の一部になっていく。 その賑やかさ、陽気さ、忙しなさ。 季節はとうに夏を迎えていた。 むせかえるような緑のにおいと、方々のリストランテから香る、暑さに負けまいとするかのような濃厚なかおりが鼻孔をひっきりなしにつついては、お前の体はおとなしすぎると訴えてくる。否応なしに外に開かされてゆく馥郁さだ。それは決して嫌いではなかったが、促されるままに諸手を挙げられるような気分でもなかった。 ななめ前を歩くアバッキオの視線が、時おり窺うように後方へ向けられる。初めはそのたびに苛ついていたフーゴも、今ではもう黙殺している。意識すればするほど、視線というやつは神経を逆なでするからだ。気を逸らすにはもってこいの環境が揃っているこの青空市場に密かに感謝をしながら、敢えて店の主人が勧めるままに野菜の味見や、世間話をいつもよりも積極的にしてみる。お世辞にも愛想が良いとは言えないであろう態度にも朗らかに返してくれるのは、フーゴの幼い外見もおおいに関係しているだろう。 「アバッキオ、ほらあれ」 一連のフーゴの様子を注意深く眺めていたアバッキオは、振り返って視線を合わせると気まずそうに頬を強張らせた。その表情は意地悪そうにジェラート屋の行列を指さすフーゴによってさらに険しくなり、彼はさも見たくないというように目を眇めると歩調を速めた。 花屋には、見ているだけで体温が上がりそうな赤い花と小振りなヒマワリが山積みにされている。遠目にはよく分からなかったが、赤いほうはブーゲンビリアのようだった。 見上げるとすぐ鼻先にあるような錯覚をおぼえる、青空を隠すように展開される市場のオーニングと、家々の洗濯物。バールの店先にある古いテレビに群がって、サッカー中継を見ているこどもたちの歓声。サーモンピンクのエプロンをひるがえすピッツェリアのマンマ。 視界に飛び込んでくるそれらはみんな彩りに満ちているのだが、陽射しが強いせいでなんだか全体的に白っぽく見えた。 ナランチャでもいたらはしゃぎ回るだろうな。 別件の仕事に出ているはずの仲間を脳裏に浮かべ、フーゴは少しほほ笑んだ。朗らかであるが、のどかというわけでもない、いかにもネアポリスの夏らしい煩雑さは彼に良く似合っていると思った。 「きみは夏が苦手そうですね」 アバッキオの顔を覗き込んで話しかけると、ぎょっとしてのけぞる長身が可笑しくて今度は短く声に出して笑った。「……悪いか」「いえべつに、すみません」後ろ歩きに距離を取って肩を竦めて見せると、色素の薄い瞳は面白くなさそうにフーゴを見下ろした。ちょっと小ばかにしてすぐに謝るこういうスタイルがやりづらいとアバッキオが感じていることを、薄々であるがフーゴは気づいている。 だからってどうするわけでもないけれど。 「びくつきすぎじゃないの。今はもう大丈夫だってのに」 普段ならもうひとことふたこと言い返してくるのに、なおも会話すら避けるふうに先を急ぐアバッキオが見せた背中にそう声をかけ、フーゴは笑いを引っ込めると同じ歩調で歩きだす。自分のスタンドのことくらい自分で分かるよ、と唇を尖らせて隣に並んだ苦みをふくんだ横顔を、アバッキオは横目に黙って見つめている。 「だって今は、あの人がいないんだから」 ◇ 三日前にあたった仕事は、別組織の隠れ家を潰すというものだった。 その組織の連中がネアポリスにいくつか拠点を持っていることは、秘匿事項というわけでもなんでもない。街のこどもでも知っている奴は知っている。政治家との癒着が暗黙の了解として市民に認知されて久しい、パッショーネよりもよほど歴史のあるでかい組織だった。関係が良好だからといって、自分たちのシマであまりに我が物顔をされては困るとポルポはことあるごとに不満を漏らしていたし、住民からも密かに追い払ってくれないかと嘆願されていたのだったが、これまで直接ぶつかるには至らなかったのだ。何が引き金だったのかは知らないが、このたび遂に彼らを追い出す口実が生じたのだろう。ブチャラティにその役目が与えられたというわけだった。 作戦は日没とともに開始した。 古い町並みが残る地区の、さらに治安の悪い入り組んだ路地の一角にその隠れ家はあった。アバッキオのムーディー・ブルースを使えば見つけ出すのは簡単で、さらにナランチャのエアロ・スミスによって中に居る人数もすぐに把握できた。ここまでは本当に早かった。 今回の目的は掃討ではなく、あくまで追い出すところにあったので、フーゴが作戦を立て、まずはブチャラティが正面から交渉に当たるという手を取ることにした。アバッキオとナランチャを外の見張りに置き、フーゴは護衛としてブチャラティに同行した。スタンド使いによって構成されたこのチームにとって、不意打ちによる殲滅のほうがよほど手っ取り早いことは明確だったけれども、相手の組織とはまだ先がある。ここで目についた連中を潰してそれで終わりではない。 そういう姿勢を見せることが大事だった。 結果は別としてだ。 隠れ家に居た男は三人だった。ブチャラティは正面から穏便に身分を名乗り、この街から立ち去るよう彼らに告げた。本当に非のつけどころのない穏便さであった。だがそんなブチャラティに、構成員たちはろくな返事のひとつもよこさないまま攻撃してきた。 『思い上がりのクソガキどもがァ!』 とかなんとか、彼らは言っていたように思う。 銃声を聞きながら視線を交わしたブチャラティとフーゴは、互いに似たような呆れを僅かに滲ませていた。予測済みであったとはいえ、ここまで段取り通りだと少々滑稽だったのかもしれない。 スタンド使いを増やし続けるパッショーネは、しかしその脅威を決して外部に悟られないために、末端まで情報統制を徹底するよう幹部に厳しく通達している。素質のない者にはそもそもスタンドすら見えやしないが、「なにかおかしい」という違和感すら与えることは許されない。得体の知れない存在への警戒心が、相手にとって有利に働くことは十分にあり得るからだ。 ゆえにブチャラティは、違和感を与えないよう上手く立ち回った。もともと小回りの利く万能タイプの能力であるので、構成員たちの戦力を奪いながら彼らを拘束するまでに、さしたる時間も労苦もかからなかった。フーゴはほとんどブチャラティの後方で控えていただけで、ナイフのひとつも使うことはなかった。 銃声と叫び声が止んだ時、これで終わりだろうと誰もが思った。しかし予想外のことが起きた。ふたりは捉えたが、ひとりが逃げたのだ。 「まさかそんな! 今までそこに転がっていたじゃあないですか!」 フーゴは目を疑った。確かにブチャラティによって縛られていたはずの男が、一瞬目を離したすきに忽然と消えていた。いや、そもそも目を離したのかすら定かでない。それほどに一瞬のことだった。 「スタンド使いかもしれねえな」 気絶させてジッパーでバラバラにしておけばよかった、と己の甘さを悔いてから、ブチャラティはそう呟いた。 その時、壁伝いになにか物音がした。 明らかに自然音ではなかった。 あの男が誘っているのだと判断したブチャラティは、フーゴに唯一の退路を見張っておくよう告げると素早く壁にスティッキィー・フィンガーズの拳を打ち込み、開いた空間へと飛び込むように消えていった。声をかける間もないほどの即決であった。 数分が過ぎた時、轟音とともに壁を突き破って何かが吹っ飛ばされてきた。瓦礫と埃の中でフーゴが見たのは、他でもないブチャラティだった。投げ出された体を起こし、頭を振っているブチャラティに駆け寄る。彼はどうやら攻撃をもろに食らったらしく、体中に傷を負っており、その顔には焦燥めいたものが浮かんでいた。 「ブチャラティッ、大丈夫です!?」 「……気をつけろフーゴ、間違いない奴は」 みなまで言うより早く、ズガッ、という鈍い音が間近で聞こえた。 薄闇の中で鮮血が飛び散る。ブチャラティのくぐもった呻き声がそれに続いた。フーゴは咄嗟にブチャラティの服を掴み自分の側に引き寄せながら、攻撃を受けた方向にナイフを向けた。 「おおおおッ!」 すぐに体勢を取り直したブチャラティも、スティッキィー・フィンガーズで四方を殴る。だが何者にも当たらないどころか、敵の姿すらも見えなかった。拳銃は使えないようバラしたはずだし、ブチャラティの傷口から見て刃物で攻撃されているのは間違いない。それなのに攻撃の瞬間が見えなかったということは―― 「スタンド使いかッ」 今しがたブチャラティが言いかけていたことを理解したフーゴは、暗闇をナイフでやたらに裂きながら後方へ顔を向けた。通路を降りた先にいるナランチャを呼ばなければ、この手の敵には分が悪い。 しかしそこでまたしても、ブチャラティが吹っ飛ばされた。 「ブチャラティッ!」 石壁が砕け、そこからブチャラティの半身が見えている。湿っぽい音と痛々しい咳込みが耳に入り、暗闇で誰かがほくそ笑んだような気配を感じた。その時だった。 かっと目の奥が熱くなり、後は何も分からなくなった。 理性が戻った頃にはもう、相手の男はぐずぐずに溶けて、どこが何だか判別のつかない物になりさがっていた。結局どういうスタンド能力であったのかは分からず仕舞いだった。嗅ぎ慣れたいやな臭いがあたりに漂っており、屋内に居たはずなのに空からは明るい月明かりが降り注いでいた。はたとして見回せば、ブチャラティが壁に寄りかかってこちらを見ていた。彼の傷はジッパーで塞がれている。 もう一度よく上を見てみると、天井がぽっかりと切り取られたような不思議な形になっていた。ブチャラティが穴を開けたのだ。この空間に光を少しでも入れ、ウイルスの死滅を速めるために。 似たようなことは前にもあった。またやってしまったのかと苦虫を噛み潰す心地で俯くと、フーゴはブチャラティへと向き直った。 「あ」 謝罪を述べようとしたところに、ふたりの間に立ちはだかるようにしてパープル・ヘイズがゆらりと現れた。緩みかけていた精神に緊張が走る。視線を動かすと、拳のカプセルはまだ残っていた。 フーゴは慎重に息をつくと、自らのスタンドを消すために軽く左手を振った。 ――――しかし、 「えっ……!?」 にわかに強張った表情を見て、ブチャラティが眉をひそめた。 「? どうした」 「だ……だめです、ぼくの指示に従わないッ!」 パープル・ヘイズは消えなかった。 しかもフーゴがブチャラティの側へ行こうと一歩踏み出すと、連動して攻撃態勢めいた格好を取る。フーゴは思わず自分が攻撃されるのではないかと身構えたが、流石にそのようなことはなく、しかしパープル・ヘイズはどこかに敵意を向けるふうにぐるるぐるると唸っている。月明かりを浴びて佇むそれが得体の知れない恐ろしいものに思われて、フーゴは喉の奥をひきつらせた。 「っおい、消えろよ」 「ぐぅるるる……ぐじゅる、ううう」 「き、消えろって言ってんだろうがあッ!」 悲鳴じみた声をあげた瞬間、フーゴのほうを見ないまま、パープル・ヘイズが大きく片手を振り上げた。 からし色のカプセルが、つややかに光ったのが見えた。 死ぬかもしれない、と確かに思った。 思ったのだったが、その時にはもう、フーゴはものすごい速さで斜め後方に引っ張られていた。首が締まって息ができなかった。 視界がつぶさに暗闇になり、どこか判然としない場所で強かに背を打った感覚で我に返った。脳の芯が揺れ、みっともなく噎せあげた。 ジジ、とジッパーが締まる音で、ブチャラティが壁に引っ張り込んでくれたのだと気がついた。完全に閉まると辺りは真っ暗闇になり、おそらく自分を抱きしめているブチャラティの顔すら満足に見えなかった。ただここにパープル・ヘイズは入ってこられなかったらしいということは感覚で分かり、ひどく安堵した。 「落ち着け、落ち着け、落ち着け……」 繰り返されたそれは、どちらの声だったのか。 暗闇の中で不思議と鮮明な彼の澄んだ瞳と、感情を押し殺したような相貌が現実のものだったのか、フーゴには定かでなかった。 ただ彼の腕の暖かさだけが、深くに染み込んでくるようだった。 ◇ あれから、パープル・ヘイズが消えなくなった。 落ち着きを取り戻したのちはフーゴの意思に背くことはなかったが、とにかく消えないのだ。背後霊のように、常に視界の何処かに佇んでいる。何をするでもなくそこに在るだけであるので、例えばこれがアバッキオのムーディー・ブルースなどであったならば、特に問題はなかっただろう。だがパープル・ヘイズとなると事情は異なる。何かのはずみでカプセルが割れ、射程範囲内に誰かが居れば大惨事は免れない。フーゴ自身だって安心はできない状況だった。 こんな状態では任務に出せないということで、しばらく事務仕事くらいしか出来ないと思っていたのだが、今朝になってアバッキオのところにブチャラティから「フーゴと仕事だ」といって連絡が入った。どういうことだあいつは消えたのかと訊くアバッキオに、ブチャラティはただ微妙な笑い方をすると、「まあとりあずは解決した」と言ってほどなく通話を切ってしまった。そうして半信半疑のままネアポリスの市場前で合流し、仕事を終えて歩いているのだった。 市場などという人口密度の高い場所を歩いて大丈夫なのだろうかと緊張しきりであったアバッキオも、ここまでパープル・ヘイズの姿が見えなかったことでようやく強張りを解きつつあった。顔を合わせてまずフーゴに説明された内容は、出鱈目ではなかったようだ。 「つっても、信じていいんだろうな?」 「ブチャラティを疑う気ですか」 「お前をだよ」 「大丈夫ですよ。どういうわけか知らないけど、簡単なことだったんだから」 フーゴは顔をしかめながら頷いた。 ブチャラティが近くにいなければ、パープル・ヘイズは消える。 この二日間、様子を見るためにそばについていたブチャラティが短い用事で事務所から出て、フーゴは初めてそのことに気づいた。帰ってきたブチャラティにそれを報告すると、彼はしばらく何か考えたのち、フーゴに事務所に面した通りを歩かせてみた。するとそこでもパープル・ヘイズは現れなかったのである。ナランチャも呼んで試してもらったが、スタンド使いであることは関係なく、やはりパープル・ヘイズが出現するのはブチャラティが傍にいる時だけだった。 そうと分かれば仕事に出ることは可能だが、精神不安定になるとまたどうなるか分からないため、フーゴを切れさせやすいナランチャは組ませられない。というわけで、今回の仕事はアバッキオと組むことになったといういきさつだった。 みかじめ料を払おうとしない風俗店の店主にやんわりと脅しをかけるという仕事は、ものの数分でかたが付いた。 なるほどフーゴ向きの仕事だと、店主を淡々と説き伏せるフーゴの背後で睨みを利かせながらアバッキオは得心した。ブチ切れさえしなければ、現実的かつ具体的な話だけをとつとつと聞かせるフーゴの口振りには説得力がある。しかも物腰は穏やかであるから、威圧的なアバッキオよりも聴き入れられ易いらしかった。 結局アバッキオは店に入ってから一言も発することなく、睨みを利かせるだけで終わった。パッショーネという組織の恐ろしさを端々に組み込みながら、相手にとっての損益を計算して無感動に喋る少年は、堅気の人間からすればうすら恐ろしいのだろう。「これからも仲良くやりましょう」と上っ面だけの笑顔で握手を求めたフーゴに手を差し出した店主の顔は、真夏とは思えないほど寒々しく凍っていた。 遅い昼食をとりに入ったリストランテは、ほどよく気だるい夏の午後らしい空気に満ちていた。会話の内容までは入ってこない客たちの話し声や、スプマンテを開ける音が心地良い。 リコッタチーズをたっぷり使ったラザーニャを切り分けながら、アバッキオは向かいに座るフーゴをちらと見やった。ピッツァを齧っている顔は幼く見えるが、眉は神経質にゆがめられている。 あの夜何があったのか。 ふたりから話は聞いていたものの、そこからパープル・ヘイズが消えなくなる状況に結び付けるのは難しい。 ブチャラティが近くに居ると消えないということは、単純に考えれば彼を敵とみなしているということ。いつでも攻撃できるよう、臨戦態勢にあるということだ。聞いた限り、互いを助け合っただけであるフーゴとブチャラティにそのような敵対心が生まれるとは考えられない。特にフーゴからの敵対心など。 ならば、一体何がパープル・ヘイズを動かしているのか。 「なに、見てんです」 「ブチャラティはなんて」 「……ただ、時間が経てば解決するだろうと」 ふてくされたような声に、気の抜けた心地になる。 自覚のない人間を相手にするのは面倒だ。しかし放っておけるほど、アバッキオの神経は図太く出来てはいなかった。 「少なくともお前は、ブチャラティを警戒するような出来事はなかったと思うんだろう」 「警戒?」 オウム返しのように反芻してから目を見開いて、フーゴは少し思いつめたような顔をした。頷いてやると、記憶と思考の合間を縫って何かを探り出そうとしているのか、ぴたりと静止したきりまるで動かなくなった。唇だけがかすかに震えていた。 そうして数十秒が過ぎ、ふっと顔を上げてフーゴは呟いた。 「わからない」 今度はアバッキオの顔に逡巡の色が浮かぶ。 頭の回りすぎるやつはこれだから、と内心で悪態をついた。 分からないというフーゴの顔つきに、アバッキオはおぼろながら見覚えがあるような感触があった。もう遠い、遠い記憶だが。 何かを変えたくない、これ以上自分がおかしくなるのを見ていたくない、変な期待をしたくない。触れないでほしい、近くに来ないでほしい。けれどもすべてを覆して、手を指しのばしてほしい。 すべてを捨てた自分であっても、そういう感慨を知らなかったわけではない。だからフーゴの心情は分かるような気もするが、分かりたくはなかった。あまりに無駄な労力だ。 与えられるか、拒絶するしかしてこなかったフーゴにとってこの感情は、おそらくアバッキオがかつて抱いたそれよりも遥かに痛みを伴うだろう。しかも相手が相手だ。同情に値する、とすら思う。 自分から何かを発すること、それは苦くいたたまれなさを孕んでいるが、知っていてそれを捨てるのと、知らずにいるのとではまるで違う。捨てるにせよ何にせよ、ここまできたらお前は知るしかないだろうとアバッキオは念じた。 事態が動くとすれば、自覚をしてからだ。 なにもかもそれからだ。 ◇ 夕焼けが長く坂道を照らしている。 暑さは影を潜め、過ごしやすい風がネアポリスに降りてくる。 「ねえ、今夜はきみのところに泊っていいかな」 「あ? やだね」 「ケチ」 じろりと睨みながらも、答えは分かっていたとばかりにすぐに気のない顔になったフーゴは、足早くリストランテから通りに出た。夕陽の眩しさに目を細め、一度伸びをすると、じゃあ帰りますよと深呼吸交じりに告げてくる。ああ早く帰れ、とアバッキオは溜息をついた。 どうせ、自分のところに来ようと何も変わらないのだ。 「……おい」 慣れない思考回路をを働かせたせいで疲れた頭をゆすりながら、ふと視線をめぐらせた先に、見覚えのあるシルエットがあった。目を離さないままフーゴに声をかける。手を伸ばすと思いがけず首根っこを掴んでしまい、うっとうしそうに振り払われた。 「ちょっと、なんだよ」 「どうもそっちじゃねえようだぜ」 「はい?」 フーゴがアバッキオの視線の先を見て、固まった気配がした。 こちらの視線を受けて、彼――ブチャラティが軽い調子で右手を振っている。どうしてここに、と訊くより前に歩み寄って来た彼は、心配だから迎えに来たと言って普段と変わらない笑い方をした。 フーゴのかたわらに、薄らとパープル・ヘイズが現れつつある。人通りの少ない通りだとはいえ、通行人が傍を通ったらどうなるか分かったものではないとアバッキオは肝を冷やしたが、そんなことは構わないとばかりにブチャラティはアバッキオのすぐ近くで歩みを止めた。ようお疲れだったな、と労う声も今は身に染みてこない。ブチャラティを見つめているようでいて視線を合わせようとしないフーゴと、それを見つめるブチャラティの間に立ってただ顔をしかめた。 「な、なにしてるんです! あんたがいるとパープル・ヘイズが」 「射程範囲内に入らなけりゃいいんだろう」 「そ、そういう問題じゃあ……」 そもそも、この距離では三人とも射程範囲に入っている。当然分かっているであろうブチャラティの面差しを見つめてから、アバッキオはふとパープル・ヘイズへと意識を移した。 夕陽の中に佇む姿はよく見ると半透明ほどで、あれでは通常通りの威力を発揮できるのかは疑問だった。じっくり見る機会はこれまで無かったが、獰猛さとはなにか別のものをその顔には湛えているように見えた。おそらくはフーゴの精神状態を反映しているのだろう。 「フーゴ」 「え?」 「いいか、俺はブチャラティの身の安全のために言うんだ」 大股に近づくと、フーゴの耳元に口を寄せる。怪訝そうな目で見上げてくるフーゴを無視して「動くな」と付け加えながら、横目でブチャラティを盗み見てアバッキオは確信した。 気づいていないのかと思ったが、ありゃあ気づいている。 ちょっと意地の悪いかんじで笑ってこっちを見ている我らが上司の視線を受け、早口にフーゴに耳打ちをした。 視界の外で、パープル・ヘイズが大きく揺らいだ。 ワンテンポ遅れて見上げてきたフーゴは、夕焼けなど霞むほどにみるみる顔を真っ赤にしていく。幼さの残る瞳と、眉間に寄せられた皺が奇妙なアンバランスさを呈している。何かを訴えかけようとしているその顔を見ていられずに。アバッキオは口を引き結ぶと視線を逸らした。かといって上司の顔を見る気にもなれなかったので、フーゴの側でゆらめいているパープル・ヘイズをじっと見つめた。 「――冗談じゃない」 霧が晴れるように、その姿は夕暮れの景色に消えていく。 ブチャラティに向けられた瞳の色が、最後まで後を引いていた。 「まさか恋だなんて」 |