マツバの家の宿坊は少し変わっている。
 実家の離れを宿坊として人に貸したり、自分の修行に使っていると聞いてはいても、ミナキはこれまでその離れとは縁がなかった。泊る際にはいつも母屋であったし、簡素を極めたような家屋は少々苦手で興味もわかなかった。しかしその宿坊にマツバが籠っているとなると、また話は別である。彼は普段ジムリーダー稼業に勤しんではいるものの、あれで一端の修験者であるので、しきたりや伝統に縛られて生きている。今回はその修行の中でもとりわけてミナキを驚かせた、千日廻向に入っていた。ジムでの仕事のほかは、宿坊に籠って日々のほとんどを過ごし、千日を越えなければならない。余計なものは一切宿坊には置けないし、文明の利器も極力使わない。精進潔斎のため食事や行動にはいくつもの制限が入る。マツバは幼い頃よりそういった制限に慣れているらしかったが、ミナキは聞いただけでも気が滅入るものばかりであった。そうして何よりミナキにとって重要なことには、この千日間、マツバはミナキと会わないようにしているのだ。修行に入る前日にご丁寧にも電話を寄越した彼は、「家も蔵もお坊さんに言えば開けてくれるから自由に使っていい」と言ったのち、それじゃあ千日後にね、と笑ってぶつりと電話を切ってしまった。意外なことにマツバは言いたいことだけ言って電話や会話を切ってしまうことがままあるのだが、それにしても一方的な電話であった。
 千里眼には千日か、とうそぶいたことを覚えている。
 その千日廻向も、そろそろ中日を迎えようかという頃合いである。ミナキはマツバの言い置きどおり、必要に応じて自由に家を使わせてもらうことにしていた。タマムシに身を置くこともあれば各地を放浪することもある生活の中で大したアポイントメントも取らずに訪れるミナキを、エンジュの僧侶たちはいつでも穏やかに迎えてくれた。千日といえば三年弱であるから、彼らもマツバに代わってミナキの面倒を見るぐらいの心積もりはしているのかもしれない。マツバの言葉は確かに真実であったようで、家も資料も史跡もほとんどはミナキが使いたいように使い、調べたいように調べさせてくれた。ただしジムと、離れの宿坊には行かないこと。それだけは固く守らされていた。ゆえにこれまでミナキはマツバと会っていないし、マフラーの先すら視界に映したこともない。
 修行というのは友にも会わぬほど厳しいものなのかと感心するような辟易するような心持であったものの、普段からそうそう頻繁に顔を合わせているわけでもないので、案外と平気なものだった。時折り寂しく思うこともあるが、ほかごとに没頭していればやがて薄れてゆくのだった。
 ところがだ。今回もいつものように、しばらくマツバ宅に滞在して伝説について調べようとしていたところ、イタコのお婆さんがなんともいえない顔つきでミナキの元を訪れ、そうしてマツバが帰ってきたと告げた。
 帰ってきた、という言い方にミナキは違和感をおぼえた。どこにいるのかと問えばあの離れにいるというので、それならばずっとあそこに居ただけじゃないかと思ったのだが、イタコに言っても仕様がない。あんたが行ってみるのがよかろう、とだけ言われたので、よく分からないままにミナキは初めてあの離れの宿坊へと入ることにした。久しぶりにマツバに会えるかもしれぬという期待と、えもいわれぬ奇妙な感覚が入り混じった、中途半端な心情であった。

 宿坊は渡廊のあちらにある。古い木の渡廊を抜けて見えてくる屋内への通路はひとつしかないので、そちらへ足を向ける。奥へ続く細い通路はぽかりと空いた穴のように来訪者を誘っているふうに見える。マツバ、とひと声呼びかけたが返事はなかった。格子窓の連なる廊下を進んでゆくと、花菱草を活けた一輪挿しの乗った小さな飾り棚が突き当りに見えてくるので、その角を左に曲がりしばらく歩く。窓はなくなり辺りはいくぶん薄暗くなるが、年季の入った木の香りと奥ゆかしい家屋様式が五感に優しくうったえかけてくる。質素だがそれほど居心地は悪くないのだな、とミナキは内心でごちた。
 居並ぶ襖はしずかに閉ざされており、どういうわけか開けてみる気にはならない。そうして似たような内観の中を歩いてゆくと、板張りの床がほんのわずかに軋むところを過ぎたあたりで、ひとところから光が当たって明るい場所に出る。廊下がそのまま濡縁に続いており、外庭が臨めるのである。その角を右に折れてまっすぐ進む。そうすると、ミナキがこの離れにやって来た時に用いた渡廊が見えるはずである。
 そのはずなのだが、やはりこの宿坊は少し変わっている。
 眼前に現れたのは見慣れた外庭ではなく、見覚えのない内庭だった。さして広さはないが、生い茂る草木がさわさわと風に揺れて目にまぶしい。上空からふりそそぐ陽光は柔らかく、空気を温めて辺りをぼうやりと白ませている。息を吸うと、陽だまりと緑の香りが馥郁としていることに気が付いた。典型的な和風庭園とは異なり、植物ばかりが所狭しと植えられている。中央に植えられている大きな木はどうやら春楡のようだったが、そのほかの高低さまざまの草木の名前をミナキは知らなかった。内庭を囲む濡縁はほんとうにぐるりと一周してミナキの背後へと繋がっている。これでは渡廊にどうやって戻っていいのか分からない。迷ったのだろうかと顔をしかめたが、どう考えてもあの敷地にこれだけの内庭を抱えることはできないはずであったし、屋根よりも高い春楡が茂っていれば遠くからでも気づくはずだ。ということは、この場所は一体どこなのだろうか。
「おうい、マツバー! いるかー!」
 声を張って呼びかけてみるが、やはり辺りは静かで木々の揺れる音だけが風にそよいでいる。内庭をまんじりともせず見つめてから、ミナキはつと今しがた抜けてきた廊下を振り返った。廂影のかかる縁取りの木目調は相変わらず優しく広がっているものの、奥に行くにつれて暗く冷たげになり、先は良く見えない。ここを戻って行けば渡廊に出るだろうかと考えたものの、それよりもまた知らない場所に出たらと思うと気が重く、さらにはマツバはおろかポケモンの気配すらないことも気がかりであった。見知らぬ場所であろうと構わずに進んでゆく性分の自分がこうも足踏みをしていること自体、少しおかしいことだった。ここは本当に何なんだと数分唸った結果、ミナキは仕方がないのでもう少し留まろうと渋々決め、ため息をつきながらその場に腰を下ろした。
 ほんのわずかに、かぼそくやわい耳鳴りが聞こえた気がした。






「――――ああ、起きたのかい」
 ふと気配を感じ目を開くと、紫の双眸がこちらの顔を覗き込んでいた。
 真上から覗き込まれているということは、己はいま寝そべっているということだ。ミナキは覚醒しきらぬ頭でそれだけを導き出し、慌てて上半身をがばりと起こした。おっと、とマツバが身を反らして衝突を避ける。まさか眠っていたなんてと、ミナキは自分が信じられなかった。全く覚えがなかったし、あの状況で眠れるとは到底思えなかったのに、ぼんやりした頭と腫れぼったく感じる両目がたしかに眠っていたのだと物語っている。
「だめじゃないか、こんなところに来ちゃあ」
「おいマツバ、私はいつの間に」
「待って待って触らないでくれ、墨がつく」
 肩を掴もうとしたミナキを右手を持ち上げて制し、マツバは「写経してたんだ」とはにかむように笑った。それなら私の声が聞こえただろう返事くらいしろ、と勢いのままに文句を言おうとしたが、先にマツバが口を開いてしまった。
「よく眠ってたよ」
「どうして起こさないんだ」
「いやあ、死に顔みたいで綺麗だったからね」
 またマツバははにかむ。ミナキはその笑顔に険をそがれた心地になりながら、ふんと鼻を鳴らして顔をしかめて見せた。
「なんだ、縁起でもない」
「そうかな」
 ざあざあと風が庭木を揺らす。陽はここへ来た時よりもいくらか翳っていたが、内庭は相変わらずほの白い光が差し込み穏やかなふぜいである。ミナキは友人のいかにも彼らしい物言いに肩をすくめ、寸刻ばかり庭の草花に視線をやって気を落ち着かせた。あの一輪挿しに活けてあったものと同じ株かと思われる花菱草が、鮮やかな橙色を緑のなかに散らしていた。来た時には気が付かなかった花だ。
「千日廻向はやりなおしだよ」
「え」
 向き直ると同時に肩に重みがかかり、淡い金色が眼前に広がった。身じろぎをするとそれを抑え込むように、マツバは抱き付く腕に力を込めた。先程自分のほうから触るなといったくせに、とまず脳裏をよぎった思いはすぐに遠ざかり、次いで訪れたのは熱が頭に上ってくる感覚であった。考える余地もなく密着する体を離そうともがくが、そうすればそうするほどマツバの腕はぎりぎりと本気で捉えてくる。半ばむきになっているような力具合に眉をひそめたミナキは、剥がそうとするのをやめてマツバの背にそろそろと手を添えた。一年以上会っていなかったのだ。知らず知らずのうちに少なからず緊張していたらしい。どうした、と心もち優しく訪ねてやりながら、今しがたの言葉を思い起こす。やりなおしというのは。
「きみが」
言いかけて、一度マツバは声を止ませた。
「私が?」
「きみが、ゆうべあんまり僕のことを呼ぶからさ」
 照れと落胆と安堵をないまぜにさせた声色でそう告げられ、ミナキは一瞬頭が真っ白になり、それからつぶさに顔を紅潮させ素っ頓狂な声をあげた。静かな宿坊にそれが響き渡るも、飛び立つとりポケモン一羽もいなかったのは救いだった。おいなんだそれはどういう意味だ、早口でそういった意味のないことをまくし立ててマツバを引き剥がすと、彼は何ともいいがたい笑い顔で再びミナキの顔を覗き込んだ。ミナキは反射的に目を瞑った。
「……気をつけてくれよ、きみは僕の煩悩そのものだから」
 額にふわふわと柔らかい髪の触れた感触がし、はたと目を開くとマツバはもうあの笑みではなく、意を決したというふうに眉をくっと上げた端正な笑顔を湛えていた。気をつけろと言われても何を気をつけろと言うのか皆目分からぬまま、生返事だけをしてミナキは頷きながら俯いた。頭の中はまだ、目前の内庭のように薄らと白んでいた。






/花のことわり