木漏れ日の降りそそぐまろやかな芝生のただ中で誰かが言い争う光景というのは、それだけで見る者にずいぶんと違和感をもたらす。アンバランスと一種の倒錯めいた感覚が現実味を奪っている。語気を荒げているのはひとりだけだが、もうひとりとて普段とはまるで異なる険しさをその表情に覗かせている。午後の長寛な緑にあふれる中庭をぴりりとそこだけ鋭い感触に染めるふたりの人物を遠目に眺め、脚を止めたきり一向に動き出せないでいた。そうしてもう数分が過ぎようとしている。ああ見えて実は他愛ない話を交わしているだけである可能性が砂時計の砂のようにじわじわと減り落ちていくのをズミは感じていた。彼ら、パキラとガンピは確かに険しい空気に包まれて言葉を交わしあっている。
「あなたにあの人の何が分かるの」
「分からなくはない、少なくとも」
 遠くて明瞭には聞き取れないが、辺りが静かなため大まかな会話の流れは掴むことができる。これは盗み聞ぎ以外の何物でもないではないかと自己嫌悪に顔をしかめ、それでも踵を返すことはついにしなかった。パキラが悲痛な響きを孕ませてぶつけた問いには少なからず心当たりがあったし、何よりガンピが口にした返答、その中身よりも彼の語調と顔つきに意識を向けずにはいられなかったのだ。あれほどに沈着で陽気さをそぎ落としたあの男のありさまを、これまでに見たことがなかった。決して共有してきた時を乏しいとは思わない。彼は幾つも年上なのだからああいった態度を見せたとしてもおかしいことなどないはずだ。それでも、ズミにとっては衝撃であった。ガンピが言葉少なに語った何もかもが、ズミ自身でも意外なほどに胸をざわつかせた。
「覚えておる。繊細なお子だったのだ……きみが言うように」
「だから、私は」
 言いよどんだパキラが俯いた。数歩離れたところに立つガンピは彼女のか細い佇まいを心痛を伴う面差しで見つめ、しかし手をさし延ばすようなことは一切しなかった。微動だにせず背筋を伸ばすさまは正に騎士であり、彼にとってそうすることでしか彼女に対する術を持たないようだった。
「すまぬ、余計なことを」
 もう済んだことであったな。
 優しげでありながら愁色を帯びた声が落ちると、パキラは僅かに肩を揺らして睨みつけるように鋼の男に視線を向けた。そうよもう終わったことだもの。言いながら彼女は、誰よりそれを否定したがっているふうにも見えた。遠目に見ている者にさえそう知れるのだから、間近で面しているガンピにはことさらによく分かるだろう。尤も、彼には最初から分かり切っていたことなのかもしれない。ふたりの共通認識が今、あふれ出して表層化しただけのことなのだろう。
「……今度、ゆっくり話を聞かせて」
 何かを必死に押し殺した低い声で、どこか泣いているようにも聞こえる声でそう呟くと、パキラは背を向けて遠ざかっていった。煉瓦造りのそびえ立つ古城は強い逆光に塗り潰されており、その中でルビーレッドの髪は花びらのように揺れながら視えなくなっていった。


「ズミどの」

 木漏れ日を鋼にほろほろと映してしばらく立ち尽くしていたガンピが、不意にズミの居る渡廊下の石柱を見やって声を張った。彼女に気付かれたらどうすると肝を冷やすも、既に火炎の塔に入ってしまったらしい。どうも立ち止ってからというもの時間の流れが正しく掴めない。「気づいていましたか」「うむ、気配でな」歩み寄ると彼はこともなげにそう言って笑った。目尻と口元に柔らかな皺がかたちづくられたのを見て、緊張が解けるのを自覚する。知らず知らずのうちに相当な気を張っていたようだ。
「その、立ち聞きなどをしてすみません」
「パキラ殿は気づかなかったようだぞ。命拾いをしたな」
「はあ……それにしてもガンピさん、貴方は」
 言いながら顔を窺うと、未だににこやかに笑んでいるのでなにか気後れしてしまい、そこからは無言でも伝わると判断してズミは口をつぐんだ。磨き上げられた鎧に反射する午後の木漏れ日は、穏やかなのにどこかぎらついている。俯いたのか頷いたのか判然としない仕草をしてから、ガンピはお茶にせぬかと言って植込みの脇に備え付けられた白いテーブルとチェアを指さした。カルネがいつだったか持ち込んだもので、この日和には他の何よりもふさわしく景色に馴染んでいた。
 厨房からティーポットとカップを運び、テーブルに並べてゆく。その間ガンピは静かに腰を下ろしたきり、ぼんやりと近くの芝生やそこに落ちる光の連なりなどを眺めていた。ズミは幾度となく声をかけようとしたけれども、ついぞ言葉が喉を通らなかった。ただ自分の喉仏が意味もなく上がり下がりする感覚を煩わしく感じた。
 貴族や騎士という身分階級が廃止されて久しくとも、受け継がれてきた血筋と人脈はそう簡単に断ち切れるものではないのだということを、こんな歳になってまざまざと見せつけられた思いがしていた。自身は実家を単身飛び出して、なかば自分を試すようなかたちで料理の道に身を投じてしまったから、彼らのような生き方とは縁が遠かった。仕事柄接する機会は多かったものの、食事を提供することと境涯を理解することは違う。おのれの実力ひとつで生きてきたズミにとって、連綿と繋ぎ守ってきたものを零れ落ちぬよう保とうとする彼らのことは分からない。きっとこの先も、分からないだろう。
 どこかでビビヨンの群れが空を渡っているのか、鈴を鳴らしたような鳴き声が聞こえる。梢を揺らすそよ風とそれはよく溶け合った。白磁に金の細かい模様の入ったカップに紅茶が注がれると、あたりには芳しさがたちこめて沈黙の重みはゆっくりと散り散りになっていった。
「彼のお家とは親しかったのだ。まあ、昔は主従という形であったが」
「そうでしたか。……その、大丈夫ですか」
「うん? ははは、これはかたじけない」
 掻けないくせに頬を掻く仕草をするガンピを、無性に愛おしく思った。そうして彼について私はまだ何も知らないのかもしれないという感慨に、惨めさばかりではない高揚を確かにおぼえる。まだ我々には明日も明後日もあるのだということが可笑しいくらいに祝福すべき事柄であると感じる。それと同時に、逆光に足早に消えてゆく同僚を想起して眉根を寄せたが、同情はするまいと短くかぶりを振った。恐らくそれは、彼女が最も嫌うものであろうから。
「永遠に続くことが、良いこととは限りませんよ」
 意図せずかすれてしまった声は、ガンピに思いがけない驚きをもたらしたらしい。目を丸くして瞬きをすると、長い睫毛が妙に目立って少し滑稽だった。
「時々感心するのだ、ズミ殿のそういうところにな」
 ――だがズミ殿とは、ずっとこうしていたいものだ。
 向かいに腰を下ろしたズミにそう告げ、次いで礼を述べてから、ガンピは香り立つ紅茶を一口飲んだ。飲みながら視線だけを上向けると、咳払いをして気恥ずかしさを紛らわせている年下の男に慈しみめいた表情を浮かべ、瞳を閉じた。常ならばそのひとつひとつの仕草にただ胸を高鳴らせていたかもしれないけれども、今ばかりは幾許かのほろ苦さを伴い、それをもズミは努めて甘受しようとした。彼にとって恐らく山ほどあろう守りたいものの、そのひとつでも共に守っていけるのならば、それ以上の幸せはない。たとえ今はまだそうあれなくとも。