昼飯時を迎える少し前の、このあらゆる香ばしさが混ざったような匂いが好きだ。一昔前にはよく見られた典型的な大衆食堂の雑然とした雰囲気を残しているが、南の海にぽつんと浮かぶ島ならではの呑気さと、全体を取り巻く人の好さめいた気配と、開放的な空間の使い方がすごくいい。そこらじゅうに置かれているヤシの木なんかもいい。
 サイユウシティの利用者ならば誰でも使える待合室を兼ねた食堂をぐるりと見渡しながら、カゲツはひとり目元が緩みそうになるのを抑えていた。早い昼食をとろうと席を適当に探していたら、ちょうど窓際で外の景色も食堂全体もよく見渡せる一等席と思しきテーブルが空いていたので機嫌が良くなってしまったのだ。四天王になってからもう数か月が過ぎたけれども、この席が空いていることは稀だった。と言ってもサイユウの利用者自体は大して多いほうではない。しかしそう席数があるわけでもないから、昼時となれば職員と挑戦者と観光客とでなかなか賑やかになるのが常だった。ちょっと時間をずらして行けばいいという単純なことにカゲツが気づいたのはつい最近のことで、それ以来ほとんど毎日時間をずらして食堂に来るようにしている。有難いことに四天王という職業は挑戦者さえ来なければ時間の使い方に制限をかけられずに済むため、後は食事が終わるまで館内放送で呼び出しがかからないことを願うだけだ。
 お待たせしました、と言ってエプロンをかけたやはり大衆食堂らしい店員が運んできた定食を受け取ると、カゲツはきっちり手を合わせてからまず味噌汁の蓋を開けた。味噌と昆布だしの香りが湯気にのって立ちのぼってくる。ご飯の香りと混じり合ってそれはもう食欲をそそる。ささやかな幸せってのはこういうことをいうんだろうな、などと考えつつ勝手に口の中に唾が出てくるのを感じながら箸を取ろうと手を伸ばしかけると、
「カゲツ、ここに居たんだ」
 声とほとんど同時に椅子を引く音がした。手を空中で止めたまま隣を見ると、その男はもうカゲツの横に腰を下ろして定食をまじまじと観察している。へえこういうのが好きなんだ、と意外そうに目を丸くしている表情はどことなく子供じみているが、可愛げなど少しも感じずにカゲツは頬をひきつらせた。今しがたまで日常の中にある小さな幸せに緩んでいた顔の筋肉が一斉に仕事をし始めた。お前なんでここに居るんだよ、と聞いたのはのろのろと手を膝の上に下ろした後で、これは完全にタイミングを逃したと悟った。


「びっくりしただろ。来るの内緒にしてたからさ」
 カゲツの驚く顔が見たくて、と満足そうに笑ったダイゴは、食べ終えたナポリタンの皿をテーブルの奥へ押しやると身を乗り出していっそうにこにことしている。カゲツはまだ定食のおかずを食べ終えていなかったものの、もう冷めてしまっていたから悪いと思いつつ箸をおいてダイゴの頭に掌を押しつけた。かたくてこしの強い髪はグラエナに似ていないこともないが、大の男の髪をなでてやるような趣味はカゲツにはない。「近ぇんだよ」拳を握って軽く叩いてやろうとすると、ダイゴは器用にそれを避けて元の位置に戻った。半笑いの顔が嬉しそうなことについてはあまり考えたくない。こいつがこういう調子だということは、自分は期待通りの反応をしていたんだろうと内心でごちる。確かに驚いた。なにせダイゴがホウエンリーグを訪れるのは久しぶりのことだった。
「今まで何してたわけ?」
「色々やってたよ。珍しい石を探したりとか」
「……あっそ」
 どうせそれしかやってねえんだろ、と言いかけて黙る。何かを回想するようにふいと視線を逸らしたダイゴがいやに楽しそうな面相を浮かべたので、反射的に顔を逸らしていた。さっきまでの嬉しそうな半笑いとはまた別の表情だ。大人びた、という表現はもう立派な大人であるはずのこの男に使っていいのか分からないが、普段概して天真爛漫な子供っぽいと認識しているダイゴの時折り見せるこういう顔つきはまさに大人にしかできない微妙な風合いで、それがカゲツには落ち着かない。不意に訪れた沈黙を散らすために水の入ったグラスを持ち上げるとわざと氷を揺らしてカラカラ音をたて、中身を一気に半分以上飲んだ。視線を動かすと、窓の外では晴れた空の下でアゲハントとマッスグマが遊んでいるのが見える。トレーナーがボールから出してやっているのだろう。あいつらも俺のとこに挑戦しに来るんだろうか、と思いながら少しぼんやりしていると、どうかしたのといってすぐ脇でダイゴの声がしてぎょっとした。本当に顔と顔がくっつきそうな距離で真横に顔をつきだし、カゲツが見ていたものを見ようとしている。
「だからっ近いっつーの!」
「あ、挑戦者かな? カゲツむしタイプ苦手だけど大丈夫?」
「いいから離れろ」
 ぐいぐい肩を押しやって椅子に座らせる。だってカゲツが外見てるから、ときょとんとしているダイゴに何と言っていいのか分からずにカゲツはぐうと唸って頭を抱えた。文字通りに頭を抱えたのだ。俺の知らないところでこいつは何だかんだ経験を積んでまた差をつけて戻って来たんだろう、と少々センチメンタルになりかけていた己を悔やんだ。
「お前はさあ……黙ってりゃあマトモなのによ」
「マトモって?」
「だから、まあイケメンっつうか」
「ふうん……カゲツはそう思ってたんだ」
 また声が近付いてきそうな気配を感じ、カゲツは手を真横に伸ばした。今度は髪にも肩にも触れなかったが、宙を掻いた指がやけにざわついて妙な心地だった。何言ってんだよと横目にダイゴを窺うと、またあの半笑いのような顔でこちらを見ている、かと思ったのにそうではなかった。やけに取り澄ました涼しげな顔をして目元だけを薄らほほ笑ませている。それはカゲツの知る限りもっとも整っており、かつもっとも見たくないダイゴの表情の内のひとつだった。何言ってんだよは俺のほうじゃねえかと再び後悔の波に押し寄せられ、耳が熱くなるのを疎ましく思いながら黙る。昼食時にさしかかり賑やかさを増した食堂の天井にざわめきが木霊している。
「あれっダイゴだ!」
 さざ波のようなざわめきを割って、高い声が転がってきた。見るとフヨウがこちらに駆け寄ってくるところで、その少し後ろからミクリが歩いてくるのが見えた。フヨウはともかくミクリがこの時間帯に食堂に顔を出すのは珍しい。とはいえ今は助かったと顔には出さないように安堵しながら、カゲツはおうと二人を迎えた。久しぶりー、と手を振るダイゴのことはできるだけ視界に入れないようにしたが、如何せん隣に座っているのだからそれにも限界があった。
「ふたりでご飯食べてたのー? あたし達も入れて!」
「いいよ。ねえ、カゲツが僕のことイケメンだって」
「報告すんな」
 フヨウが椅子に小さなポシェットを置きながら、えーほんとに、とやけに瞳を大きくさせて笑う。ミクリは何も言わずにほほ笑んでいたが、それが却ってカゲツには堪えた。これ以上ダイゴが余計なことを言わないように口を抑え込んでしまいたかったが、それこそ墓穴を掘るような気がして踏みとどまった。