午後の陽が差し込む東屋から、ミナキを呼ぶ声がした。
穏やかな声だ。祖父は滅多に声を荒げることのない人であった。叱られたことも幾度もあったはずなのに、憶えているのは茶目っ気のある、優しげな顔をしている横顔がほとんどだった。
その日も東屋の柱近くに腰かけて、もとより細い目をさらに眩しげに細めて、祖父は大きな屋敷に差し掛かるように枝を伸ばす桜の木に眼差しを向けていた。ミナキは祖父のもとへ歩み寄ろうとして、ふと桜の幹に手をついて頭を垂れている人影に目を止めた。一人は大人で、もう一人はこどもだった。とりたてて何かを感じたわけではなかったが、挙げるとするならば、こどものほうが自分と同じくらいの年頃であろうかと思われたのだった。
こちらの視線に気がついたのか、それともはなからこちらを見ていたのか、ぱたりと面白いように目が合った。ピカチュウのような髪の色をして、思慮深そうな目鼻立ちの、肌の白い、綺麗な瞳をした少年だった。驚いたらしく目を見開いてしばしミナキを見つめた後、はっとしてその子は傍らの大人を見上げ、勢いよく頭を下げた。少しサイズの合っていないヘアバンドが、ちょっとばかりずれたのが分かった。
あれは桜がまだ咲き切らぬ、けれども光耀とした、気持ちの良い風が吹く季節のことだった。マツバと顔を合わせた、それがはじめの日であった。
「こんにちは、ぼく――私は、ミナキというんだ」
使い始めて間もない一人称でそう挨拶すると、あちらも少し早口に自己紹介をしてくれた。
「ぼくはマツバ」
まだ声変わりのしきらぬ、聞き心地の良い声が届いた。
二人で遊んでいなさいと祖父が笑い、やがて大人同士が東屋で世間話を始めると、そのあたりでようやくマツバはミナキに近づいてきた。それを待っていたミナキは、右手をずいっと彼の前に差し出した。握手しようぜ、と声をかけると、マツバは意表を突かれたという顔で目をぱちぱちとさせた。
その大人しそうで綺麗な目をした子を、珍しくも可愛らしいと思った。そう確かに、ほほえましさと共に思ったのだ。
「マツバくん」
ミナキは左手に口元を隠すと、そっと顔を寄せて秘め事のようにささやいた。今しがた思いきり頭を下げたせいで、少しだけヘアバンドがずれていたから、こっそりと教えてあげたのだ。さっと頬を赤くして、マツバはおずおずと手を持ち上げて頭上を整えていた。それからまたちょっと頭を下げて、ありがとうと呟いた。
思えばあの頃すでに、自分と彼の手はまるで違っていた。差し延べるものと待つものだった。そうやって出会ったのだ。ミナキはマツバを、そのとき、毛並みの良いロコンのようにたいそう可愛らしいと思ったのだ。

色褪せたまま記憶は飛びすさった。
「僕じゃなかったんだ」
見つめていたはずのマツバは寺の境内でどこかを見上げていて、ミナキはその背を遠く見上げていた。彼と出会った寺院であった。夏の終わりの重く煮詰まりきった緑葉が、湿った蜜くさい香りをいっぱいに満たしていた。幼い体つきをしていたマツバはいつの間にか大人然として、疲れを滲ませた目をして上方を仰いでいる。かつてのあどけなさは、もはやそこにはなかった。心の臓が早鐘のように鳴っていたのに、どこかでひどい茶番だと嘲笑う声が響いていた。あの春の日に桜の下で聞いた、少年時代のマツバの声であったかもしれない。
ホウオウがあの子を選んだよ。消え入るように、しかし鉛じみたずしりとした重たさでマツバが述べ、鐘楼の鐘がそれを塗り潰さんばかりに朗々と鳴り、ミナキはただ萎れた花のように頭を垂れた。
(なぜ……君じゃあないんだ)
そうあの瞬間であった。
何かがひっくり返ってしまったのだ。
決してなくならぬと信じて疑わなかった、確かなものが崩れた。必死に走り回っていた頃は気づかなかった。あれが分水嶺であったと。彼の気持ちをすっかり理解することはできずとも、後から振り返れば分かるのに、ホウオウの降臨でマツバの心は耐えきれなくなったのだと分かるのに。己の目指すものだけ追いかけていたミナキには、分からなかったのだ。
「マツバ……」
無意識に呟くと、幕が閉じるように色褪せた記憶は途切れた。

ふと気がつくと夜であった。
春のはじめの淡い空に、澄んだ下弦の月が浮かんでいる。その平らかな光を受けて青っぽく光るミナキの手を、マツバは覆い隠すようにして握っていた。骨っぽいがすらりとした手である。こんな触れ合い方をすることに初めは彼のほうが後ろめたそうであったけれども、慣れてしまえばもう、それが当たり前になってしまった。
「どうしたの」
「いや……昔のことを思い出したんだ」
窺うように見つめてくる相貌の青白さは、月明かりだけを理由にすることはできない。このところ眠りが浅いと言っていたから、体調も芳しくはないのだろう。どことなくぼんやりとしている。だからこそこんなにも自然に、自分と話しができるのだろう。触れていられるのだろう。ミナキはそう内心でごちた。
勝手にハヤトと出掛けたことで怒っただろうと思われたマツバだが、存外平気そうな顔をして二人を迎えたのが数時間前のことだ。ハヤトにせっかくだから泊まっていきなよと言い、皆で夕食を食べ、他愛もない世間話などをした。なんだ大丈夫そうじゃないか、と気が抜けたのだが、床に入ってからはそういうわけにはいかなかった。ミナキの手を握って離さないままのマツバと並んで寝転がり、眠るでもなく、さしたる会話をするでもなく、とろとろと時間が流れていた。
「今日」
「ん?」
「本当に何も、なかったんだよね」
月影にマツバの淡い睫毛が透けている。視線を外さないようにしながら、ミナキはああと首肯した。マツバがため息をつく。細い息だった。横向きだった体を反転させ仰向けになり、天井を見つめると手を握る力は強くなった。ミナキも握り返す。
「君が大切なんだ」
絞り出すような声に、ミナキは半年前を思い出した。
ホウオウが降りてからしばらく経ったある日、自室に籠ってしまったマツバの部屋の襖をぶち壊す勢いで開き、ゴースたちに頭を齧られながら敷居を跨いだミナキがまず目にしたのは、部屋の片隅で声を殺し、痛みに耐えるように泣くマツバの顔であった。
どうにか保っていた糸が、何かのきっかけで切れたのだろう。
それがどうにも苦しげで、悲しげで、死にたがっているようにさえ見えたから、ミナキもいつの間にか泣いていた。手を伸ばすと思ったよりあっけなく触れることができ、拭った涙は熱かった。マツバの涙を見たのは、思えば初めてであったかもしれない。
後から聞いたところ、どうやらその泣きようはマツバにとって大層恥ずべきものであったらしいのだが、ミナキにはぴんとこなかった。夜になってそう告げると、マツバはずいぶん安堵したように相好を緩めて、ただ黙ってミナキを抱きしめた。ミナキも彼に、なにかを尋ねることはしなかった。すでにひとつ、答えなど明白過ぎて言葉にならぬ問いかけをひとつ、口にしてしまっていたからだ。
(なぜ君じゃあないんだ)
ほんとうは、あれは問いかけなどではなかった。
自嘲を込めた八つ当たりであった。
才能にあふれた友人のことを、誇りに思うと同時に、心の隅では羨ましいと思っていた。こんなふうに惨めな後姿を、見たかったわけではなかったはずであったのに。ホウオウを呼び寄せられなかったことを嘆き、諦めたような顔をして、胸の奥では責められたがっている男を、ミナキはあの日、たしかに愛おしいと思ったのだ。
この男の弱さを、ようやっと本当の意味で受け容れてやろうという気になったのだ。この男の中にひとつ、自分と通ずるやもしれぬ感慨を見出してしまったためであると、今になって気がついた。
「マツバ、初めて私と会った日のことを、覚えてるか」
「……うん。懐かしいね」
「きみは……きみは私を、どう思った?」
目を逸らさないマツバから、ミナキは目を逸らした。なぜか顔を見ていることができなかった。握りあった手にじんじんと力が籠るのを感じる。かつて信じて顧みるべくもなかったことすべてが、もはや晩春の桜のように心許無くせつなく尊く、もがけども掴めないくらいに遠いように思われた。
「すごく、羨ましいと思ったよ」
はにかみがちに告げられたいらえに、これほど安堵する。
わけの分からぬままに、マツバを抱きしめていた。骨ばった腕で、重みのさして変わらぬ体を受け止めて、虚を突かれた声色でミナキを呼ぶ声が、籠りがちに間近で聞こえる。瞳の奥が融けるほどに熱かった。これまでに感じたことのない、胸の痛みをおぼえた。他人のことなのにこうも痛いのかというほどに、痛んだ。
(互いにずっと、憧れ合っていたんだな)
マツバがどこかでミナキを疎ましく思っていたことを、ミナキは知っていた。それは単純な蔑みなどではない、自身と相反する者へのほとんど生理的な拒絶と、引力によるものだった。傍に居てほしいと言ってきたのも、ミナキを慮ってのことだったのだろう。マツバに何が視えているのか、知ろうとは思わない。けれども推し測ることはできる。未だ潰えきれておらぬ夢を、守ろうとしてくれていたのだろう。
(私にとっての君も、君にとっての私も、もはや憧憬の対象ではなくなってしまった)
なにものでもなくなってしまった。だというのに、だというのに。天地の混ざり合ったようなあてどない無秩序の中で、ひとつ似通った点で繋がってしまった。気づきたくなかったむなしさと痛みを伴う、それでも燃え立つような繋がりだった。
ひっくり返ってしまった世界が再びひっくり返っても、二度と元には戻らない。


どうして泣いてるんだい。
肩口に埋めた唇を震わせると、白い肌は応えの代わりに熱を上げたようだった。
初めは眠りにつくためだった。睦み合っていればそれだけで頭の芯は蕩けて、はたと目覚めれば朝が訪れていた。それがいつしか自ら求めるようになり、彼を抱きしめ、包まれることに安寧を見出すようになっていた。ミナキの声はどの夜も気遣わしげで優しく、しかし女のように折れてしまうほどの弱々しさはまるでなく、背に回されて撫でてくる手のひらは他にたとえようのない心地よさをもたらしてくれた。ときに激しく求めれば、ありふれた怯えを覗かせる碧々とした眼はひどく扇情的に濡れて、常は仕舞いこんでいるはずの飢えを曝け出させては満たしてくれる。
優しさと同情に甘えていたと言えばそれまでだった。それでもミナキという友人はマツバにとって、荒々しさと弱さを一緒くたにして受け止めてもらえる、唯一と言ってもよい存在であった。
「だいじょうぶ、僕はだいじょうぶだから」
合言葉のように繰り返していた言葉を、今もまたマツバは吐息に混ぜ込んでミナキへと流し込んでいる。肌は互いに生々しく火照って、そうしているのがさも自然であるように思われた。だから畏れも戸惑いも、いっこう感じはしなかった。どちらもこの睦みあいに違和などおぼえはしなかった。
苦しげな面差しで己を抱きしめてきたミナキを抱きしめかえし、あやすように撫でてやったとき、自分達を組み立てていたありとあらゆる骨組みは本当にぐちゃぐちゃになってしまったのだと、マツバは悟っていた。
「泣かないでくれよ……っ」
そう願うみずからの声が今にも泣きそうなことに、気づかない振りをしている。どこもかしこも熱く苦しい。目元を濡らしたまま切なげな双眸で見つめてくるミナキの白い首に腕を回し、抱き寄せて鼻先をくっつけると、ひくついた喉がすぐ目の前に見え、たまらずにそこへあまく歯を立てた。泣きながらマツバを呼ぶ耳触りのよい声、ただそれだけが変わりなく、ひどく懐かしかった。
父の霊を呆然と見つめていた月夜が、鮮明に蘇ってくる。ようようと気づかされてしまったのだ。青白い顔をして、泣きそうなまなざしで途方に暮れていたのは、マツバ自身だった。
あのミナキを刺す夢を見せたのはやはり父だったのだと、確信した。


抱き合う夜のマツバはいつだって縋りつくような目をしていることに、ミナキはしばらく前から気づいていた。
家の跡取りとしてジムリーダーとして修験者として、幾重にも纏った分厚い鎧に耐えかねて、齢をかさねるごとに無言の訴えは強くなり、ときに持て余すほどの必死さを伴ってミナキを抱きしめた。それは微笑ましくもあり重苦しくもあり有り難くもあり、やはりどこかでは可愛らしいと思っていた。マツバにもこんな弱さがあるのだということが、嬉しかったのかもしれない。
よほどのことがない限りこうやって、自覚のないまま縋り縋られながら、互いを生かしてゆければいいだろうと思っていた。この関係はきっと変わらない、そう信じていた。だのに幾つか細かい亀裂が立て続けに走って、もう元の形も分からない。
(ぼくじゃなかったんだ)
打ちひしがれているミナキにそう告げたあの境内で、いったい自分がどんな顔をしていたのか、マツバは一生知ることはないだろう。教えてやるつもりなどなかった。逆光の中にミナキだけが映したそれがまっさらな彼の心であると、認めずにはおれなかった。ずっと覆したかったのに。とうとう叶わぬままだったのだ。
マツバに課せられた重責は、マツバを置いていってしまった。
(なぜ、きみじゃあないんだ……)
目の前にいる友人が何を欲しがっているのか、ミナキには分かっていた。それを舌にのせ、求められている温度で与えてあげるだけでよかった。嘘か本当かなど意味を持たなかった。マツバが求めているならば、友として優しくしてやりたかった。
だがあの時だけは、そうすることはできなかった。だって彼は本当に、何もかも失ってしまったようなものだったのだから。私などに与えてやれるものなど言葉ひとつないのだと、ミナキは自嘲していた。あるいはもっと早く、伝えてやれたらよかったのだろうか。蓮池であの子に告げた幼い言葉を。
「僕は大丈夫だから……」
ぎゅうと抱きしめてきた体温は、マツバの命そのもののように思われた。ちょうど同じ言葉を、あの時も言ったのだ。無理矢理に笑うマツバの横顔は痛々しかった。
(可哀想に)
一心に修行を続けていれば報われると、信じていたのか。

ふたりで宵闇にまどろんでしまいそうな浅い呼吸のなかで、ミナキはわけのわからぬ哀れみに視界を滲ませた。マツバの体を抱きしめながら、脳裏に浮かべたのは別の輪郭であった。長年この身を捧げても、少しも深層を垣間見ることのできないでいる、美しい美しい北風の化身。
(認めてほしかった)
怯えも鎧も取り払われて、ふたりに残ったのはそれだけだった。
おこがましいと知りながら、それでも我々は一番焦がれている存在に認められたくて、愛されたくて、互いを生かし合ってきた。愛することだけ考えていれば楽なのに。自分たちは気が遠くなるほど大きな器の中に入れられて、からんからん音を立ててもがいていた。それが確かに、生き甲斐だったのだ。
悔いはないだろう。もし認めてもらえなくとも、スイクンを追い続けた日々はかけがえない財産になるだろう。少なくともミナキはずっとそう考えてきたと、信じていた。焼けた塔で本物のスイクンを目にし、認められたいという欲を自覚するまでは。そうしてあの日、ぼくじゃなかったと呟くマツバを見て、悲しい、と思うまでは。
どのように割り切る算段をつけたところで、報われぬ思いは行き場を失くすだろう。すべからく悲しみは訪れるだろう。身が引きちぎれそうな苦しみを味わうことになるだろう。その惨めな感慨の前においては、あらゆるきれいごとは意味を持たないだろう。
マツバはそのことを、身をもって教えてくれた。
「悲しかったな、マツバ……」
どうしようもなく切ない共感と、優しく苦しい過去を織り交ぜて、ミナキはぽつりと呟いた。マツバの腕にひときわ力が籠った。
実になんとも可笑しなもので、失ってしまうかもしれない何もかもがこんなにも美しげにきらめいている。眼窩の底から消えてくれないのだ。なあ君はどうだと尋ねようとして、ミナキはそっと目を伏せた。そうしてマツバの後頭部に手を添えると、できるだけ優しい手つきで、ぽんぽんと撫でてやった。
マツバの指が、ミナキの手首を押しつけるように撫でた。そこに口付けながら彼がごめん、と掠れた声で呟いたのを、ミナキは聞かなかったことにした。











いまだ太陽が山際から離れきらない内から、ミナキはシャツに腕を通し洗顔と髪のセットを済ませると、マツバ邸の長い濡れ縁の中ほどに腰を下ろし、無造作に脚を投げ出していた。裸足が地面につかぬよう浮かせたままにしていると、小さなこどもに戻ったようで可笑しかった。昨日出会った小さなこどもも、こうして脚を伸ばしてぶらぶらと揺らすことがあるのだろうか。――あったのだろうか。
朗らかに鳴き始める鳥ポケモンたちとは裏腹に、マツバの屋敷に住むゴーストタイプの面々は陽射しを避けるようにそそくさと物陰に入っていく。ミナキは縁の下に滑り込むゴースやゴーストにおはようと言うべきかおやすみと言うべきか迷ったけれども、よう、と声をかけるだけに留めておいた。日光を透かして半透明になっている彼らはただちらりと客人を見るだけで、眠たそうに通り過ぎていくことを知っているのだ。
内庭では植込みが朝露に濡れて、濃い緑の匂いをいっぱいに湛えている。蕾をつけ始めた躑躅も散りかけの桜も、そして小さな砂粒までもが眩しい朝陽を受けて、ちりちりと光っている。濃紺から燃えさかるような橙を経て、白々とした光をのむ青空へのゆるやかな移ろいを広げる空に、淡いやわらかそうな雲がたなびいている。ずいぶんと春めいたものだ。
ミナキの顔はどこか透き通っている。朝陽を浴びて血の色を照らした赤い肌は、今にも駆け出しそうな快活さを兼ね備えながら、暖かい夜明けの風景に慈しみをこめた眼差しを送っていた。
「早いんだな」
上空から声が降ってきたかと思うと、羽ばたきの影が素早く植込みを横切った。甲高い鳴き声が響き渡り、見上げればピジョットのすべらかそうなたてがみが風になびいていた。
「おはよう、そっちこそ早いじゃないか」
「俺はいつもこんなもんだぞ。とりポケモンは朝型だからな、マツバのとことは違って」
庭石のひとつに器用に着地したハヤトは旋回しているピジョットに何か合図を出すと、ミナキの隣まで移動してきた。
「ピジョットの散歩か?」
「いや、マツバとバトルしてきた」
羽織の裾を揺らすさまが牛若丸みたいだな、と感心しながら動きを追っているとそう返事が来たので、ミナキは目を瞬かせた。
「こんな朝っぱらからか」
「起きたらあいつがぼーっと玄関に立ってて、俺を見るなりバトルしようって言ってきたんだ。なんか機嫌が良さそうだったな。やたらと強かったし……いや、それは関係ないけど」
ぼーっとというのは酷かろうと思ったが、マツバが玄関に佇む姿はすぐに想像がついてしまった。
「それで今は?」
「寺だとさ」
ああ、とミナキはまたすぐに納得した。スズの塔の補修作業を、おそらく昨日は早めに切り上げてきたのだろう。朝の内に終わらせてしまいたいのだ。マツバはそういう性格だった。
観光客も多いから見栄えを良くしときたいんだろうな、とハヤトが呟いたので、なるほどそういうこともあるかと感心した。君のところも大変だろう揺れるから、としみじみした調子で返してみたが、ため息をつくだけでハヤトは応えなかった。
「なあ、あいつには朝食食べてけって言われたんだが、俺はそろそろキキョウに戻るよ。お札を長老に渡さなきゃならないし、家に置いてきた奴らのトレーニングもしたいしな。せっかくの日曜だから」
言い終える前に、もうハヤトは立ち上がっていた。まだ話をしていたい気持ちはあったが、引き留める理由もない。ミナキはそうかとだけ頷くと、投げ出していた脚を板張りに戻し立ち上がった。
一度だけ交わった目線には、そこはかとない呆れと安堵が込められている気がした。
ハヤトが指笛を吹くと、すぐにピジョットが飛んできた。
「あ、マツバに一声かけていってくれよ」
「わかってる」
軽い身のこなしでピジョットの背に乗ると、ハヤトはひらりと短く手を振った。とくに笑いもせずにじゃあまたな、と言う彼のその気安い仕草に、ミナキは何故だか愉快な心地になる。次に会った時には、彼の父さんについても聞かせてもらいたいものだ。ミナキは昨日の親切に改めて感謝を述べながら、飛び立つ彼らに向かって大きく手を振り続けた。
マツバが帰宅したのは、それから三十分ほど過ぎた頃だった。気を利かせてくれたのかなあ、ハヤト君って良い子だよね、とにこやかに空を見上げるマツバは確かに機嫌が良さそうで、まるで憑き物の落ちたふうな顔つきにはミナキも一瞬呆気にとられた。
 

朝食を済ませると、二人であの寺まで行ってみることにした。
言いだしたのはマツバだった。初めて会ったあの寺は、屋敷から数分歩いたところにある。こんなに近かったのかとミナキは驚いていた。今ではもう東屋は新しく造りなおされていたが、その他はおおよそ昔のままの風情だった。
風に乗って空を泳いでいく桜を見上げ、懐かしさに言葉を失う。
ミナキにヘアバンドを直されたことを夢のように思い出した。あの頃のこどもたちは、もうどこにもいない。大人たちに認めてもらうことに必死だった頃のマツバはもういない。夜のあいだに、どこかへと消えていってしまった。今朝目を覚ました瞬間に、はっきりと分かったのだ。
「ハヤト君とのバトルだけどね」
「うん?」
「すごく楽しかったよ」
隣を歩くミナキが、はっと息を飲む気配がした。さらさら光のように花びらが流れていく。遠い日に睨むように見つめていた蓮池と、色彩を塗り潰す激しい炎天を脳裏に浮かべ、マツバは視線を動かさずに歩き続けた。
「今朝思い出したんだ」
陽炎のように出会い、消えていった人のこと。


近い内にカントーへ行くというミナキに、マツバはただ分かったよ、と首を振って見せた。ともすれば視える未来に蓋をするように、ゆっくりと瞬きをする。
たとえば人が海に憬れて、どうしても陸を離れようとしたならば、それでも決して弛まずに泳ぎ続けていることはできない。愛する海から浮かび上がらせた重い体を陸にあずけ、肺に大気を満たさなければならない。惹きつけられるままに水中を泳ぎ、また陸で息をして、そうしてずっと生きてゆかねばならない。いかに望もうとも、水の中で生きてゆくことはできない。
同じことだった。互いがいなければ生きてゆけなかった。息ができなかった。何者でなくなろうとも消えないその絶対的なつながりに、ようやっと気づいた。彼にとっての陸は自分であり、自分にとっての陸は彼であったのだ。
「色々なことが、あるだろうけど」
「マツバと同じ痛みなら怖くはないさ」
いたずらめいたミナキの笑い声を、マツバはずいぶん久しぶりに耳にした気がした。思わず目を細める。この友人はもうすぐ、大海へ飛び込むことになるのだろう。あおあおと澄んだ深い海。スイクンという名のいとしい水底であった。それでも愛しているのだから、仕方がない。空気だけでは生きられない。身も心も突き動かすどうしようもない愛しさが自分たちを生かしている。愛されたい想いにすら、生かされていた。今ならば分かる。だから君を引き上げるのは、今度は僕の役目だ。なにがどうなろうとも、必ず僕のところに引き戻してみせると、マツバは念じた。
「――そういえば、ミナキ君」
ふと思い至り、少し指先を動かせば触れそうな白い袖口を見やって、マツバはそこに触れないまま腕組みをした。してやったような、してやられたような、少々意地の悪い笑みを浮かべているであろうことが、我ながらに可笑しくて仕方なかった。
「どこまでが夢だったんだい」
におやかな風が吹き抜けてゆく。朝陽の逆光の中、花の咲くようにからからと笑ったきり、ミナキはついになにも答えなかった。








薫風きたりて