陽射しが強い。
じりじりと肌が焦げてしまいそうな熱さに目を細めると、ミナキは腕を持ち上げ、額の上でひさしを作った。辺りはしんとしている。燃え立つような入道雲も、隆々と茂る木々も、息苦しそうに真昼の陽光を受け止めている。照りつける光の凄まじさに、世界の何もかもが動きを停止してしまったかのようだった。遠くでゆらめく陽炎でさえ静止して見えた。人やポケモンの気配はまるでなかった。まるで白昼夢だ、と内心でごちたところで、はっとミナキは視線を廻らせた。
「なんだ」
真っ青な空をほんの一瞬、横切ったものがあった。もう見えなくなくなってしまったそれを追いかけなければいけないと反射的に理解し、弾かれたように走り出す。ひと足ごとに汗が噴き出し、熱された湿度の高い空気が前髪や頬を撫でていく。そうしていると、自分がどこに居るのか、少しずつ分かってきた。
見渡すかぎりの蓮池だった。
ずっと遠くのほうで横たわる山々は、おそらくエンジュの北の山であろう。小さい影にしか見えないが、五重塔らしきものも陽炎の中で揺らめいている。となるとここは、エンジュシティかその付近ということになる。ミナキは池の端から端までを繋ぐ木造りの細い橋を駆けながら、そうかエンジュか、とただ納得した。自分がここに居ることに、疑念はまるで浮かばないのだ。
走り続けていると、ぽつんと小さな人影が現れた。こどものようだった。黒いポロシャツを着て、白いハーフパンツを穿いている。華奢な印象を受けるが、妙な存在感もある。蓮池を見つめているその子はミナキになど見向きもせず、もう顔さえ判別できるほどに近くへ迫ってもやはり、微動だにしなかった。
声を掛けようとして、ミナキは息を飲んだ。
なぜ今の今まで気づかなかったのか。その子の髪色に。
「あれを、おぞましいと思いますか」
たちのぼるような声だった。小さな手が持ち上がった。すうっと白く細くつくりものめいた指により指し示された、見晴らしよく広がるその光景に、ミナキはなにひとつ答えることができなかった。
うねる丸葉と鮮やかな薄紅のおりなす、広大な蓮池。水草や藻で埋め尽くされた濁った水面にかすかに覗いた澄んだところは、青空を映して怖いほどに黒く、また所々きらきらと日差しを反射して、それが特有の大きな葉を裏側から照らしてほんのりと明るく透かされている。やわらかく濃い、緑色の器のようになっている葉の中心には、朝露のなごりか、玉のごとき水滴が溜まって、これもはらはらと輝いている。
それらの上に花咲く薄紅は、この世のものではないほどに可憐で美しかった。花弁の先端は濃い色をしているが、中心へゆくほど白く透き通っている。合わせた掌を優しく開いた様にも似た、うてな。金色の花托が香るばかりのまばゆさで抱かれ、もしそこに横たわること叶えばすぐにでも浄土へ昇れるようなありさまであった。どこまでも、どこまでも広がっている。
そういった美しさの中にでも、目を背けたくなるようなおぞましさは、潜んでいる。
指し示した先には、白茶けた醜い枯蓮がひしゃげている。あの花のなれの果てとは思えないほどに惨めで、うらがなしくなる。
ぼつぼつと空いたいくつもの穴に、生理的な嫌悪感をおぼえた。
「僕の父さんは、ああなってしまった」
にわかに湧きいでたぽつん、とした笑い声は、いっそ朗らかに蓮池をのびやかな響きで渡ってゆき、ミナキの耳を通り抜けて深層に染みついた。まだ声変わりもしていない澄んだ声だった。蓮の花托よりもまばゆい金色のやわらかげな髪が、花のひとつのように景色に同化して見えた。視界に映る内のなにものよりも、それは澄んで眩しかった。
まばたきもできない。身じろぎも、ひと声かけることも。
美しさとおぞましさが一緒くたに内包された視界の中で、やはりいつまでもミナキははじめの問いに対する言葉を返すことは、できなかった。金髪のこどもの傍らで佇んでいることしかできなかった。朽ち果てた蓮から目を離すことは、どうしても叶わなかった。

ようやくミナキに意識を向けた少年は、紫の目をしていた。彼はその宝石のようなふたつの瞳でじいっとミナキを見つめ、何を言われるのかと身を固くして待つミナキに一言、その恰好暑そうですね、と気の毒そうな顔をした。こどもらしい純粋な顔のしかめ方ではなく、本意ではないけれどあなたのために笑いました、という機微をのぞかせる器用な苦笑いだった。
「お兄さん、どうしてここにいるんですか」
「え?」
「だってここ、観光の人は入れないはずですけど」
少年はそうは言うものの、不審がる様子は見せない。こちらを見ていても、焦点はどこか少しずれたところを捉えているように感じた。心が地に着いていないようだった。この子はなんだか疲れているみたいだな、とミナキは眉根を寄せた。
「私は、君のお師匠さんの知り合いなんだよ」
ぴくりと肩を揺らしたその子に、知人である老爺の名を告げる。すると彼は、初めて本物の感情を滲ませて視線を上げた。これは嘘ではない。あの人は祖父の友人で、幼い頃からよく面倒を見てもらっていたのだ。ミナキは膝を折り曲げて目線を下げると、少年の顔をよくよく見据えた。温和そうだが、わずかでも眉を上げると剣呑そうな色を覗かせる目鼻立ちに、懐かしみをおぼえる。この子の師匠があの老人であるということは、やはりこの子は――
「僕に触らないほうがいいよ」
有無を言わさぬ口調に、伸ばしかけていた手が怯む。
「……どうしてかな」
「触るとたぶん、記憶を読まれるよ」
ずいぶんと他人事のような言い方をする。君にかい、と尋ねながらミナキは姿勢を戻した。背筋を伸ばして話すほうが、この子にとっては好ましそうだと思った。
「いつもはそんなことないんです」
少年はうつむくと、唇をいびつに尖らせた。
「父さんがいなくなったから、」
「……悲しい?」
「う、ん」
うつむいたまま、唸るように彼は応えた。悲しいという感情をまだ、認めたくないのかもしれない。その胸を占めているであろう重くきりきりとした痛みを悲しみであると、自覚することができないのかもしれない。まだ十歳にも満たないであろうこの子の年頃では、無理もないことだ。ミナキは自らの腰ほどの高さにある小さな肩を見つめ、悲しいな、とだけ舌にのせると瞼を伏せた。せめてもの弔いのつもりだった。光の名残を追い出すことは難しく、闇の中で無数の色がいつまでも躍っていた。
「ねえ、その手」
不意に少年がおもてを上げ、ミナキに指さしてきた。
「どうしたの?」
「え……ああ、よく気が付いたな」
彼が何のことを言っているのか、視線を落とすまで分からなかった。暑さのあまり捲り上げた袖からのぞく手首には、わずかながら引掻き傷が残っている。薄らと鬱血の跡もあった。
「誰かに何かされたの?」
 顔を近づけようとした少年の目の前で、ひらひら手を振ってやる。袖を下げて肌を隠すと不服そうな眼の色に見つめられたが、ミナキはただ笑ってそれを受け止めた。
「ちょっと友達とケンカをしただけさ」
「友達?」
「ああ、彼は君と同じように――悲しんでいるんだよ」
記憶をなぞる眼差しで蓮池のほうを見やった大人に、少年はうろんな様子でふうんと相槌を打った。
「私はな、あいつにどうしても言えないことがあるんだ。昔からずっと伝えたかったんだが、必要のないことだろうか、なんて考えてしまってね。今となってはもう、意味は無いかもしれないが」
言葉を紡ぎながら、ミナキは可笑しくなってしまった。
こんなエゴイスティックな感傷もそうあるまい。
「マツバ君、ポケモンと仲良く、楽しくやるんだぞ」
は、と漏れた間の抜けた声を聞いて、彼へと向き直る。
なんと幼稚な言い回しだろうと情けなくなるが、ミナキは自身がこれほどの幼稚さしか持ちえなかったころからずっと、マツバにこういったニュアンスの言葉を伝えたかった。音にして放ってしまえばたったこれだけのことが、どうしても言えなかったのだ。
青空の彼方から、何か輝くものが飛んでくるのが見えた。
それに呼応して自分の視界が白んでいくのを感じる。
ミナキは一寸躊躇ってから、先刻のように腰を折り曲げると木造りの橋に片膝をつけた。視線がいくらか少年よりも低くなる。どうしたの、と首を傾げたその子のやわらかな髪に触れると、ミナキはできる限りの満面の笑みを浮かべ、そのまま頭を抱きしめた。
「きっといつか、分かる日がくる」
なにか澄んだ音が聞こえ、辺りはまっさらな光に包まれた。少年が何か言っていた気がしたけれども、ミナキの耳には届かないまま、意識は弾けるように遮断された。





まばたきの明けた先に見たのは、薄闇に半分飲まれて不機嫌そうにこちらへ向かってくる青髪の少年であった。
ハヤトだ。
「もう気は済んだだろ、早く帰るぞ」
肌に触れる風は乾いて冷たかった。ミナキはふと自らの首筋を撫でてみたが、あれだけ滲んでいたはずの汗はもう跡形もなかった。静かに、静かに息を吐くと、片手を上げておうと応える。網膜に染みついた景色とこどもの面差しが、陽炎の中でゆらめいておぼろになってゆくのが分かった。