1 手のひらに衝撃が走ったと同時に、雨音が耳から体中にかけてをものすごい速さで覆い尽くした。音が痺れとなって神経をふるわせ、あたかも全身がずぶ濡れになったようであった。そのとき自分が息をしているのかどうか、判然とするまでには、しばしの間を要した。 何も考えられずにいると、どこかで男が苦しげに小さく呻いた。 そこでようやく、マツバは眼球を動かすことができた。 「――え?」 「ねぼけるのも、ごほっ」 大概にしてくれ、 みなまで告げられることなく、言葉は苦しげなしかめ面に沈んでしまった。見下ろした先で仰向けに倒れている彼は、強かに背を打ったのか呼吸が出来ないらしく、ぐっと喉を逸らして奥歯を噛みしめている。こめかみには冷や汗、目尻には涙じみたものが滲んでいるのが見えた。 マツバはしばらく自らの置かれた状況を理解できずに、眼下でようやく咳込み始めた男をぼうっと見つめてから、はたとして相手の名を呼んだ。大丈夫かいミナキくん。その声が、意図していたものよりも遥かに疲弊しているように聞こえ、マツバはそこで己もまた汗を大いにかいていることに気がついた。心音が眉間から鳴っているようでもはや痛い。そういえばついさっきまで、何かを叫んでいたのではなかったか。 「いたい」 「は」 「手を、離して、くれないか」 ぎしりと何かが軋む感覚に目を向けると、左手がミナキの手首を掴んで、どうやら相当の力で畳に押し付けていた。 視認するまでまったく自覚しておらず、見えていても手の感覚が視覚に追いつかなかった。一瞬まるで誰か他人の手を見ているような錯覚に捉われ、ぎょっとして手を離す。途端に、自らの指先の冷たさに気づいた。冷や汗で湿っているのだ。 ミナキはいまだにおぼつかない息をどうにか整え、ときおり咳込みながら、戸惑いと気忙しさを込めてマツバを見上げている。 ああそうだ僕は叫んでいたのではない、休んでいた筈だったのだ。花冷えの夜は心をどこかへか引きずりおろすような肌寒さで、雨がしとどに振っており、そうしてこの友人とは――― 「っごめん」 「うなされていたからな、起こしたんだが」 「つい、癖だったんだ」 「いてて……こんなことならゲンガーに頼めばよかったぜ」 会話が成り立たないまま、また雨音だけが残された。 跨ったまま愕然としているマツバから半ば諦めたように目を逸らし、ゆるゆる首を振るミナキの掠れた、どこかうんざりしたような声が雨音に混じって届いた。その常とは打って変わった明朗さのない声色にも、今ばかりは気遣いを向けてやることはできない。余裕もなかった。うなされていたという悪夢の、その覚えていないにもかかわらず残っているあまりの臨場感と、自分を起こそうとしたらしいミナキを無意識とはいえ引き倒したという事実に、まだ頭が痺れていた。もう心音はおさまってきたというのに、何故かいやな汗がひけない。体が動かない。―――悪夢? 「マツバ」 すう、と再び戻ってきた翡翠色のまなこがマツバの双眸を捉えた。 ぎくりとして目を瞠ると、苦しげなまま目だけを薄らと笑みのかたちに変え、さきほどまで床に縫いつけられていた自身の手首を胸にのせて逆の手で撫でさすりながら、ミナキはもういちどマツバの名をゆっくりと呼んだ。呼ばれ慣れた音のならびが、まったく別のもののように聞こえた。 「……なんだい」 「憎いんじゃないのか、わたしが」 抑揚のない声だ。 信じられない気持ちで眉根を寄せる。 「……なに」 「まだ希望の残っている私が憎いんだろう」 「やめろ」 「何も知らずにはしゃいでいる私が憎いんだろう」 「やめろよ!」 おもわず叫んだ。 ミナキくんが、こんなことを言うわけがない。 ああ、もしかするといまだ夢の中なのではないだろうか、そう希望を込めて念じたが、感ずるのはただ心地の悪いじとりとした汗の感触ばかりである。にい、と笑みをかたちづくって細められた猫のような目が、色のない声とうまく重なりあわない。名伏し難い居心地の悪さを感じるも、やはり体はこれ以上動かない。ぐわんと何かが深層で広がった。眩暈がする。 「終わりにしてもいいんだぞ」 「は……」 「それで刺したらいいじゃないか」 いつの間にか、手には小さいナイフが握られていた。 にわかに視界に赤い色がこみ上げ、どくどくと喉元を打ちつける心音が戻ってくる。押し流すような雨音がそれを急き立てている。駆けているわけでもないのに呼吸が荒くなり、柄を握る手に痛いくらい力が籠り、気づけばまたしてもミナキの手首を掴んで畳に張りつけていた。骨の軋む音がする。爪が肉に食い込み、血が滲んでいるのが見える。自らが奥歯を噛みしめた時の、きしりと厭な音も聞こえた。辺りのものごとは砂地に水が吸い取られるように消え、やがて音もなく光もなくなった闇の真ん中で、ミナキのにい、としたほほ笑みだけが的のていを成している。 かっと頭に血がのぼったのを感じた。 (――――――――ッ!) 振りかざしたナイフが、まっしぐらにミナキの胸に吸い込まれた。 ざああああああああああああああああああああ…… 跳ねるように起き上がると、半分ほど開いた障子からほの白い朝陽がそそいでいた。雨音とは不釣り合いなほどに明るかった。 呼吸が震えている。背中は汗でぐっしょりと濡れている。 あ、と意味を成さない声を零すと、マツバはできるだけ少ない動きで地を這うほどゆっくりと左を見やった。そちらには昨晩、ミナキの布団が敷かれていたはずであった。隙間の生まれぬようぴったりと、マツバの布団とくっつけて敷いたのだ。 しかしそこには何もなく、がらんとした空間だけが広がっていた。部屋の奥に向かうにつれて、畳に落ちる影は濃くなっている。 マツバはのろのろとした動作で己の両手を持ち上げると、手のひらをじいっと見つめてから、見開きすぎて乾いてきた眼球を覆うようにして俯いた。うまく吐き切れていなかった息を、深く吐き出す。同時に体からどっと力が抜けてゆき、手のひらに遅れて汗が滲んだのが分かった。こんなに陽が明るい時刻まで寝入っていたというのに、まるで休まった気がしなかった。 なんて、たちの悪い夢であったことだろう。 わき上がるように現れたゲンガーがひと声ふた声鳴き、顔を覗き込もうとするのを、笑みにならない笑みで遮る。あっちに行っておいで、と命令調で告げると不服そうに目を吊り上げたが、ボールに入りたくないならばと脅しを付け加えるとしぶしぶ消えていった。 「おっマツバ、やっと起きたな」 ぼんやりしていると、障子がすべて開く気配がした。 部屋中に光が差し込み、眩しさに目を細める。湿った空気が頬に触れた。敷居を超えて入って来るかと思われた彼は、マツバが顔を上げても縁側に立ったまま、視線が合うのを待っているようだった。 「ミナキくん」 「寝坊なんて珍しいな。よく眠っていたから起こさなかったが、体調でも悪かったのか」 「いや、なんでもないよ」 かぶりを振って見せれば、さして気にも留めていなかった顔でミナキはそれならいいがと答え、顔でも洗ったらどうだと言って少し笑むと、視線を庭へと向けた。外庭は日差しと水気とでぼんやりと霞み、木々や庭石は朝霧に浮かんでいるふうに見えた。ミナキの髪はもう後ろへ撫でつけてある。あちらはすでに身支度を済ませたらしい。上着を着ていないためずいぶんと簡素に見える彼のシャツは、明るい曇り空を背景にしてますます白い。変わり映えがしないと言うこともできるが、ミナキのいつも通りの立ち姿に、マツバは内心安堵していた。 「まだ止まないみたいだね」 「桜が散ってしまわないといいな」 緩まぬ雨脚を物憂げに眺めながら息をつく、その横顔もいたって普段の彼のままであった。マツバは密かに肩の力を抜き、ぼさぼさの髪を手櫛で梳きながら立ち上がった。 「マツバ、もしかして良い夢でも見たか?」 「―――え?」 「いや、どことなくすっきりした顔をしているから」 隣をすり抜けたところで、ミナキが気のない様子でかけてきた言葉に顔を強張らせる。 すでに背を向けていたのは幸いだった。 「………ううん、何も覚えてな、」 振り返るそぶりだけを見せ、マツバは足早にその場を立ち去ろうとした。だがそこで目に入ったものに、愕然とする。まさかそんなはずがないと思考が暴れはじめるが、見開いたまなこに映ったそれは、瞬きをしようとも消えることはなかった。 ミナキが左手首をさすっている。平素ならば手袋と袖で隠されて見えない部分だが、シャツから素手を出している今はそこが見えてしまったのだ。一部分だけ異様に赤くなっている、肌の色まで。 「―――な」 「ほら、早くしないと遅れるぞ」 からからになった舌が呼ぶよりも早く、ミナキが軽い調子で笑った。はっとして視線を上げればおかしいほどにいつも通りの顔つきがそこにあり、ただならぬ表情をしているはずのマツバにすっと目を細めると、あとは何も言わずに踵を返してしまった。二度寝するなよ、と言い置いてくるりと背を向ける間際にはもう、手首はシャツの袖に仕舞われて、またしても夢のごとく後にはなにごとも残らない。しかし、今度こそ現実であるという確信がマツバにはあった。首筋をいやな汗が流れた。 どこまでが夢だったのか、呼び止めて尋ねる気は起こらなかった。 洗面所までの道のりは妙に長く感じられた。 勢いよく蛇口から流れる水を顔にかけ、鏡に映った己の面立ちを睨むように見つめてから、窓の外で降りしきる雨へと視線を移す。もうすぐ十時になるが空はほの白いまま、車軸を降らす雨はまだ弱まる気配を見せない。 (傷つけたいと、思ったことなんてなかった) そんなことを、自分が望むはずもない。 だがあの夢の中で煮えたぎった悲しみと後悔と憎しみを、今でもはっきりと思い出すことができる。己の中に残っていた醜い情をまざまざと見せつけられたようだった。ミナキへの罪悪感と後ろめたさ、それから修験者とも思えぬあの夢に顔をしかめる。果たして僕が刺し貫いたのはミナキという男であったのか、それともあの男のかたちをした、もっと何か得体の知れないものであったのか。考えるだに寒気が這い上がってくるように感じられ、それきり考えるのをやめた。 僕はまだあの日から抜け出せていないのだと、マツバは思った。 半年前、ホウオウがヒビキの元に降りた。 その夏も終わろうとしていた、ある夜のことだった。ふっと瞼の裏で星がまたたいたように思われ、マツバは意識を浮上させた。けれども、目を覚ましても闇ばかりだった。首をめぐらせると、まどろむ手前に仰ぎ見た空は深い竜胆色をしていたのに、ふと気づけば墨染色であった。 宵の入りまで泣き続けていたムウマがようやっと静まるころには、夏の月が中天までのぼり、蒸し暑い空気を嗤うかのように淡く輝く。盆地であるエンジュの夏はたいそう寝苦しい。うっつらうっつら、浅い眠りの浮き沈みをくりかえして、いつの間にか夜が明けている日も多かった。 長年暮らしていようとも、このべたついた風のない夜には敵わない。そうでなくとも内から湧き上がる圧迫感に日ごとに苛まれ、寝つきはは捗々しくないというのに、よりいっそう寝苦しかった。じいじいと何か虫ポケモンのあまり耳触りのよろしくない鳴声にわずかに眉をひそめると、マツバは腹のあたりにだけ掛けていたタオルケットを脇にのけ、気だるい息を吐きながら身を起こした。 「――――――」 佇まいを整え、開けっ放しの窓にかかるすだれの際へ目を向けると、あたりの音は自然と失せた。灯りも点けずにいるマツバの瞳ばかりが、たしかな意図をもって光を宿している。薄く口を開いたが、もとより何かを紡ぎだすつもりはなかった。 見据えた先では、闇色の着物こともなさげに着こなした初老の男がひとり、月明かりを透かしてしんと座している。真夏だというのに汗ひとつにじまぬ肌は白く、黒目がちの双眸はどこかぼんやりとして、決して無表情ではないのだが感情を読み取ることができない。瞳には光源のわからぬ輝きがかすかに灯されている。月明かりではない、小さくとも確固とした得体の知れぬ光だけれども、それがあるからこの人はこの人たりえている。マツバはそう思っている。 「 」 唇の動きだけで呼びかけてから、マツバは知らず知らずのうちに握りしめていた掌をじわりと開いた。生ぬるい汗が滲んでいる。畳から這うように降りると、その手のひらを床に張りつけて深く頭を垂れた。肺腑の中のものがすべて外に流れ出て、体が空になりゆくのを感じ、息苦しさのうちに朦朧とした安らぎをおぼえながらそうしていると、ひとりでに目頭が熱く滲んでくる。その膝に触れたい衝動とはうらはらに、両手は縫いつけられたように動かなかった。 もうしわけありません、もうしわけありません、 幼い頃に死に別れたはずの父がはじめて己のもとに現れてから、この夜まで、マツバはただこうして謝り続けていた。いや、いっとう初めはそうではなかった。驚きに目を瞠ったものの、たとえ幻滅されようとも仕方のないという覚悟だけはついていたから、それよりも話がしたくて堪らなかった。マツバはひたすらに言葉を紡いだ。 ごめんなさい、僕のせいです、どうか恨んでください、ホウオウを呼び寄せることができなかった、悲願を叶えて差し上げられなかった。ああ、ああ、あああ。 だが父は、いくら話しかけても一向面差しを変えず、口を開かず、それどころかマツバとしっかりと目線を合わせたかすら定かではなかった。ひたすらに黒々と闇をたたえた瞳には、マツバも、そのほかうつつのものは何ひとつ映さなかった。闇から浮き出たように静かに座る姿からは、何も感じることさえできなかった。 それだからマツバは、父になにか言葉をかけることをやめた。祟られるならばそれもよいと思うのに、静かに皺の刻まれた頬には憎しみも恨みも怒りも恐れもあらわれる様子はなく、ひたすらに音のない夜の底でじっとマツバのほうを向いているばかりだった。 そんな夜が幾日か続いて、マツバはもはやかける言葉を探しあぐねて、ただ両手をついて父の貌を見つめることしかできなくなった。そうやっているとまるで、あの夜のようだと思った。 蒸し暑い初夏のことだった。風の感触まではっきり思い出せるというのに、幾星霜も彼方のことであろうかと頭が思いこもうとしている。自らを叱咤する。あの夜は手を握ってあげることさえ出来なかった。激しい修行のあまりに命を落とした父のもとに駆け付けた時にはもう、息を引き取った後だったのだ。 エンジュでは古くから、素質のある赤ん坊を老僧たちが見初めるとその子を門下として引き受け、僧侶やイタコがポケモンバトルを一から仕込み、歴史と神話についての教育をほどこし、数代の内に稀に発生するという千里眼を開花させるべく修行をつけてきた。マツバの父もそうして厳しく育てられた。しかし彼は、いわゆる才能に恵まれなかった。バトルも常人の域を出ず、ジムトレーナーの末端に名を留めるだけでも精一杯であった。千里眼にも当然目覚めず、誰からも期待されずに、それでも街のために必死に修行を積んできた。 世の中の多くを占めるであろう努力家の凡人を絵にかいたような彼の子として生まれたのが、マツバだった。生まれた時から長老に才を見抜かれたマツバは、父とはまるで異なった幼少期を送ることになった。十歳を過ぎる頃にはバトルにも神通力にも抜きん出ており、大人にさえまるで引けを取らなかった。父はそんなマツバを誇らしげに思っていたようではあったものの、決して甘やかすようなことはしなかった。むしろ努めて厳しくしていた節があった。お前も私もエンジュのために生きていくんだぞ、というのが彼の口癖であった。硬い口調であるのに、そう話すときの父の顔はひどく優しく見えたことを覚えている。 厳格で、ひたむきな人だった。最期まで。 虚しさと後悔にかぶりを振る。片腕をのろのろと持ち上げた。 「――――――っ」 あらためて見つめた父の様相は、厳しい修験者としてのそれではなく、記憶の底に残るひとりの父としてのものだった。青白い月明かりに濡れて、色も生気も抜け落ちた、かなしいほどに穏やかな顔だった。マツバはさっと空恐ろしさに包まれて、無意識に伸ばしていた指先をひっこめた。背中にかいていた汗が一瞬で冷えた。鳩尾がひりついて、喉まで焼けるような錯覚に襲われた。 この人を呼んだのは自分かもしれない。 ずっと負い目に感じ、解放されたがっていたというのに、心のどこかでもう一度会いたいと、許してほしいと望んでいたのかもしれない。ホウオウを呼び寄せることができなかったことを悔やむこの辛苦を、分かってほしかったのかもしれない。志半ばで命を落とした、マツバが誰よりも尊敬した、この父親に。 マツバは夢から醒めたようにそう述懐し、戸惑いに瞳を潤ませたのち、黙って床に額を押しつけた。おのれの内に目を向けた時、はじめて心の蓋が開いたことを知った。隙間風に怯えていたことすら分からなかった、それが夢を失ってからめきめき歪んだ音を立てて開きだしていたことを、どうしようもなく知った。 半年ほど過ぎても、父は姿を現し続けた。 マツバは誰にも、師匠にすらこのことを話さなかった。不思議とポケモンたちにも不審がられることはなく、しかし夢ならば何でも食らいたがるゲンガーすら何の反応も見せなかった。真夜中に一人で何かをぶつぶつ言っているのだ、いくら屋敷が広いとはいえ気付かれないほうがおかしいし、夢ならばゴーストタイプの彼らが反応しないのはおかしい。 もしかするとこれは夢でもうつつではないのかもしれない、と気が付いたのは、すでに冬の寒さも緩み始める時期だった。ポケモンたちに心配をかける可能性が無いと分かると、少し気が楽になった。 もうしわけありません、もうしわけありません、 声にならぬまま詫び続けていると、決まって思い出すのはジムリーダーに就任した頃のことだった。多くの坊主やイタコたちを抱え、死ぬまで修行を続けていく重責に耐えようと躍起になっていた。四半世紀もの間をこの重責と共に生きてきた先代である師匠の、ほがらかに笑う顔を真っ直ぐに見つめることが、時折りひどく辛かった。老練なその笑顔を見ようとすると、いつでも父の顔がちらついた。師匠は父の師でもあった。 父が急逝して間もなく転がるように手に入れたものを、抱きしめるだけの強さが自分には無かったのだと思う。 師匠にも、周りの大人たちにも舞妓たちにも、それは分かっていたのかもしれない。けれども彼らは何も言わず、自分を支えようとしてくれていた。そのことが有難く苦しかった。あの頃の師匠の大らかな笑みと、周りを取り巻く人々の笑い声を、どのような思いで聞いていたのだったろう。 見開いたまま床を睨みつけていたまなこから、涙がふた粒零れ落ちた。父が最初に現れた夜に流したきり、流していなかった。 いくらか面を持ち上げると、夏の夜はそろそろ明けようとしているらしく東の空が白み、月影はそこに溶けるようにして消えかかっていた。名前の分からない、場違いに柔らかい色味の空が見えた。そうやって世の中はいつも、いつも、マツバの境涯とは関わりなく辛辣でめまぐるしく美しかった。置き去りにされるのは決まってマツバのほうだった。 意味を成さない吐息をこぼす。どれほど謝っても変わらぬ夜がまた終わろうとしている。朝が来れば父は、霧のごとくいなくなってしまうのだった。 「……どうして、何も言ってくれないんだ」 堪え切れず、マツバは掠れた声を絞り出した。苛むような響きをはらんでしまったことに自己嫌悪をおぼえた。いっそ幻滅して罵ってくれればいいのだと、そうすれば僕も自身を責め立てることができるのにと、こどものような思いが募ってくる。 ホウオウを呼び寄せることができなくとも、誰もマツバを責めなかった。師匠も責めない。身内でさえも責めない。誰しもが仕方のないことであったと言い、逆らえない運命だったと言い、むしろ我々の代で降臨くださったことが僥倖だったと言うのだった。あなたはなにも悪くないのだと、布越しに背を撫でるような生軟らかい声で坊主たちは語り、師匠はどこか憂いが吹き飛んだようなふぜいで穏やかに塔を見つめていた。 そのために、正道を踏み外せないマツバは叫べない。それなら父の血の滲むような修行は何だったのかと、どうしてもこの手でホウオウを呼び寄せたかったのだと、訴えて泣きじゃくることは出来ない。マツバがそう出来ぬ限りは、父から期待を受けてきた才能と、努力の末に開花させたこの千里眼は意味のないものだったという現実を、認めることさえも出来ない。なにひとつ、かなわない。 「どうして!」 あまたの想いが絡まってひしゃげる。内側から飛び出そうともがいている。ぎしりと軋みそうな背を伸ばし、すぐ手前に座している父と目線を合わせようとして、そこでマツバははっとした。 「父さん」 それまで人形のようにただ穏やかなばかりであった父が、微かに目元を歪ませて目を伏せていた。朝の光を透かして消えかかっている佇まいが、細かに震えているように見えた。マツバは瞬きを惜しみながら慎重に膝を進め、父との距離を詰めると、俯きがちの顔を覗きこもうと首を傾げながらすくめた。 『……を、……のは、私ではない……』 すると、ささやく声とともに視界をひとつ、光のようなものが落ちていった。思わず手を差し出したマツバの指に触れた、触れることのできたそれは、確かに熱い涙であった。ぎくりとして、下方から窺うように目線を合わせる。父さん、と慎重に呼びかけると、幾度か彷徨いながら黒い眼差しがマツバを捉え、もう一筋糸のような涙が流れた。 『マツバ、目を開きなさい』 深い息交じりの、ため息にも似た穏やかで慈愛の染みた声でそう語りかけると、父はすっと手を伸ばしてマツバの頭に触れた。髪を押しつけるように撫でる仕草は生前、マツバを褒める時などにしてくれた手つきと同じそれで、ひどく優しげな感触のまま次第に茫洋としてゆく。 マツバは父を見つめたまま、動くことができなかった。朝ぼらけの白く差し込む陽光の中、慈しみと思惟をにじませたかんばせはやがて、溶けるように消えていった。 それ以来、父と邂逅することはなくなった。 スイクンを追うかたわらに寄っただけだったのに「近頃やつれたんじゃあないか」と言ってここ一週間ほど滞在し続けてくれたミナキのお蔭もあり、調子を取り戻してきたのだと思っていたのだが。どうやら、久しぶりに父と逢っていたようだ。ならばあの胸の悪くなる夢も父によるものだろうかと思案して、マツバはかぶりを振った。 2 連日降り続いた雨が上がると、花冷えの空はしんしんと澄んだ冷気に覆われて薄氷のごとき青さを広げた。吐く息は今にも白みそうで、指先はふと気を抜けばすぐにかじかむ。 傾きかけた太陽が、空を薄桃色に染めている。 今年はジョウトではほとんど雪が降らず、野生のポケモンたちが例年よりも冬眠に入らずに厄介だと聞き及ぶが、人間にとってはいずれにせよ悩みの種に替わりはない。北風と聞けば胸が躍るような特殊な性癖を持つ者もどこかには居るらしいが、ハヤトはごく普通の人間であるので、このところの寒の戻りには参っていた。 石油ストーブに寄りながら肩身を縮め、なかなか熱が移らない指先を温めながらため息をつく。他に人が居らぬのをよいことに、つまらなそうな顔色は隠さないままだった。 実際つまらないので仕方がない。 さほど遠くないとたかをくくっていたエンジュシティだが、冷たい風の吹きつける上空を移動するのはそう思い通りにゆかないもので、到着するまでにすっかり体は冷えてしまっていた。しかも訪ねた人物はちょうど急ぎの呼び出しを受けて出掛けたと言われ、こうしてひとり待たされているのだった。 通されたのは天井の高い、居心地の悪くなるほど広い客間だった。ときたまゴーストタイプのポケモンらしき影が横切るのだが、ハヤトの目が捉える前に煙のように消えてしまうので、そのうちにいちいち反応するのも馬鹿らしくなってしまった。 (しかし、懐かしいストーブだよな) 息をつくと、炎の赤色が少しばかり明るみを増した気がした。 こういう古風なものは嫌いではない。ハヤトは勝手に火力調節のつまみを弄りながら、冷めかけの緑茶をすすって頬を緩めた。古めかしい形のストーブも、この昔話に出てきそうなだだっ広い客間と、屋敷の主である男を思えばばしっくりときてしまうから面白いものだ。古臭い印象は与えないのに歴史あるものごとをすんなり身に纏うことができるのは一種の才能のようなものなんだろう、とハヤトは考えているので、エンジュ育ちのマツバについては昔からそういうふうに捉えていた。 マツバの自宅を訪れるのは、これが初めてというわけではない。エンジュとキキョウは昔からジム同士の交流が盛んであったため、キキョウはハヤトの父の時代から、エンジュはマツバの師匠の時代から二人はすでに顔見知りで、互いの家に行き来することも何度かあった。親戚に近い間柄であったと言えるだろう。 エンジュの先代がリーダーを引退し、マツバがエンジュジムを継ぐことになってからは、めっきりそういう付き合いは減ってしまった。ハヤトはちょうどご近所や親戚との付き合いが煩わしくなる年頃に差し掛かっていたし、もともと友達と呼べるほど親しいわけでもなかったこともあってか、とにかく忙しいのだろうと他人事のように考えていたのだが、数年後にハヤトもまたキキョウジムを継ぐことになり、身をもってその重責を知ることとなった。 ジムリーダーというのは世間一般が想像するよりも面倒な仕事であることくらい、父を見てきた自分には分かっているつもりだったのに、わが身が引き継いでみると周りで眺めていた頃からは比べ物にならぬほど、張り詰めた心地にさせられるのだ。充実感も高揚感も有り余るほど押し寄せたし、強さを追い求めることは楽しかった。ただそれに見合うだけのプレッシャーと、忙しなさが付きまとうのは確かだった。マツバは修験者としての勤めもこなしていたのだから、多忙さについてはハヤトの比ではなかっただろう。 以来、かつてのような親戚めいた付き合いをしたことはない。 同業者として必要があれば連絡を取り合うし、会議で顔を合わせれば世間話もするけれども、互いの家に遊びに行くようなことはなくなった。それが寂しいとか気まずいというわけでもなく、なるべくして自然とそうなったのだろうと、ずっと思っていた。 だからマツバの家もこの客間も、足を踏み入れるのはずいぶんと久しぶりだった。広い上がり框も長い廊下もどことなく薄暗い天井も、この広すぎる客間も、よく知っているはずなのに妙な新鮮味があった。ひとりきりでこの家に上がった記憶がないから、余計に広く感じるのだろう。 腰につけたモンスターボールを手持無沙汰に撫でる。初めてエンジュを訪れたのは、このピジョットがまだ父の相棒であった頃だった。まだ幼かった自分が初対面のマツバについてどういった印象を抱いたのか、ハヤトはおぼろげにしか思い出すことができない。 「失礼するぞ!」 急ぐ足音が近づいてきたと思ったときにはもう、張りのある声がすぐ間近に聞こえ、振り返るよりも早く襖が小気味よい音をたてて開いていた。目が覚めるような紫色が飛び込んでくる。同時に後ろから転がって来たマルマインに背中を押され、つんのめった彼は変な声をあげてバランスをとった。こらっと叱ってボールに収めるまでの一連の流れは、コントのようにスムーズであった。 「ハヤト、待たせてすまないな」 「あ、いや」あまりの唐突さに虚を突かれていたハヤトは、一寸遅れて片膝を立てた。 「スズの塔の屋根が壊れたから、補修しているんだ。あの調子だともうしばらくかかりそうだな」 主語のない説明だったが、ハヤトには伝わった。マントをばたばたさせながらハヤトの前に正座をしたミナキは一息にそう言うと、待たせて悪かったと几帳面に頭を下げた。 「あんた、エンジュに来てたのか」 「え……ああ、一週間ほど前からな」 この男とは、何度か顔を合わせたことがある。エンジュシティに限らず、キキョウでもコガネでもタマムシでもその姿を見かけたことがあった。行動圏が広いのだろう。マツバの友人だといって紹介された時はなんだか胡散臭い奴だと思っていたし、今でもふらふらしていて落ち着きのない奴だと思っているが、悪い人間ではないと結論付けている。よく笑うし、気さくで話しやすい男だった。 肩で息をしているところからして、相当急いで戻ってきたのがありありと見て取れる。ハヤトを待たせているのは彼の友人であるというのに、何故か代わりに謝っているミナキのつむじを眺めながら、やっぱり変な奴だなと実感する。つい今までつまらない面相をしていたハヤトはもうそんなことも忘れ、彼の律義さに何かむずがゆい気分になりながら、すまなそうにしているミナキをねぎらった。 「気にしないでくれ。ゆっくりストーブにあたれてよかったし」 それに塔だとかああいうのは手入れが大変だろ、おれの街にも塔があるから分かる。と付け加えると、ミナキはむくっと頭を持ち上げてハヤトをじっと見つめ、同情するように顔をしかめた。 「揺れるものな、マダツボミの塔は」 「……そうか、あんたも登ったんだっけ」 べつに揺れるから手入れが大変というわけじゃないが、と言いかけてそれを飲み込む。 「長老殿はお元気か?」 ハヤトは笑った。マダツボミの塔のてっぺんで塔と一緒に微妙にいつでも揺れている老爺の長いひげを思い出していた。 「元気だよ。この頃ますます仙人みたいになってきた」 答えると、ミナキもまた満足げにそうかそうか、と目を細めて笑った。この男が秘伝マシンを貰いに塔へ登ったのはもう何年も昔のことだったはずだが、長老のことをよく覚えている素振りなのが不思議だった。もしかするとハヤトの知らないところで、キキョウの歴史か何かについて話でも聞いているのかもしれない。 「ああほら、遠慮せずに温まってくれ」 言いながらミナキは、ハヤトの隣に来るかたちでストーブに寄った。客にストーブを勧められるとは思わなかった。もう十分温まっているけれども、と言ったところで嫌味にしかならないし、どうせこの嫌味は伝わらないから俺が空しいだけだろう、と思ってハヤトは呆れた面持ちで頷くと、おとなしく両手をストーブに差し延べた。隣を窺い見ると、帰路を急いだために赤く上気していたミナキの頬は炎によって照らされて、ますます赤みを増していった。 それから数十分が過ぎたところで、ようやく疲れを滲ませた顔つきのマツバがのろのろ襖を開いた。彼はミナキの存在を見てとると、 「なにやってんだい」 と呆れたふうに面相を崩した。やあハヤト君お待たせしてごめん、と眉を八の字にして頭を下げたのは、その後であった。 「聞いたぞマツバ、ウバメの森が変だというじゃないか」 ミナキが待ち侘びたとばかりに膝立ちになる。 長机に寄り、いつの間にか用意されていた熱い緑茶を両手で持ち上げながら、マツバは分かりやすく溜息をついた。 「……すまん」ハヤトは頬をひきつらせた。 「いいよ、ミナキ君相手じゃ仕方がないからね」 肩をすぼめたハヤトにそう言って笑うと、マツバはミナキを横目に眺めてから表情を切り替えた。笑みから真摯なものに、紙一枚剥いだように変化する。実に素早い。ハヤトは思わず姿勢を正すと、机を挟んで向かいに座るマツバの目をじいと見つめた。 「それで、どうだった」 「うん……確かに、何かがいるようだ」 マツバは身を乗り出し、こころもち小声でそう告げた。 ウバメの森がおかしいとハヤトに相談してきたのは、ヒワダジムリーダーのツクシだった。ヒワダの側から入ってもコガネの側から入っても、森の入口ですぐに道に迷ってしまい、いつの間にか同じところから外へ出てきてしまうというのだ。生い茂る葉は風もないのにざわざわ騒ぐらしい。その音に気を取られたほんの少しの隙に、自分がどこを歩いているのか分からなくなってしまうらしい。 誰が試してみてもそれは同じで、本来ならば迷うほど複雑なつくりではない森であるだけに住人たちが気味悪がって、不安がっているという。森の中には神様が祀られている祠もあったから、関連付けて考えてしまう者も少なくないのであろう、そうハヤトは思い、そういうことならばとマツバに依頼を持ちかけた。わけのわからぬ不可思議な現象について、マツバの千里眼が非常に相性の良いことを昔から知っていた。 果たして結果を尋ねてみれば、「何かがいるようだ」。どうもうっそうと生い茂る森林が視えるばかりで、肝心の何かについてはそれ以上捉えることができないということだった。 「神様だと思うよ」 「ってことはつまり」 「セレビィだな?!」 瞳を輝かせるミナキに、マツバとヒビキは揃って半目を向けた。 セレビィにまつわる言い伝えくらい、伝説に詳しいミナキならば知っていて当然だろうとは思っていたが、こんなにも興味を示すとは予想外だった。専門外だろうとお構い無しなのかもしれない。 「とにかく、これをキキョウの長老に渡してくれるかい」 マツバは机に身を乗り出すミナキを押し戻すように肩に手を置きながら、一枚の短冊を差し出した。どうやら封札だった。 「お札か? どうしてキキョウなんだ」 ミナキがマツバを見る。マツバも視線を横向けた。 「あの祠を建てたのは、キキョウの人だったらしいよ」 「言い伝えだけどな」 「そんなこと言ったら、何だって言い伝えでしかないさ」 ハヤトの半信半疑を面白そうに見やり、マツバは薄く笑った。 あの祠が何百年前だかに建てられた、という文献はジョウトのあちこちに残っている。その中で最も古く詳細であるのが、キキョウの古い寺院の倉から見つかっている資料だった。普通に考えたらヒワダの人間が建てそうなものだけどな、とハヤトは思うけれども、キキョウはとにかく歴史だけは古いからそういうこともあるかもしれない。大昔、キキョウだけがひっそりと街を築いていて、辺りは一面の森だったという時代があったのかもしれない。 「祠までたどり着けるかな、あのじいさん」 札を懐に仕舞い、ハヤトは冗談交じりに言った。 マツバはただ緩くほほ笑んでいた。 日はほとんど沈み、けれども夜というには明るすぎる、薄藍の空がずっと山際まで広がっている。昼が長くなっている証拠だ。ようやく帰路につけるとピジョットの背にまたがり、エンジュ上空を飛んでいた時だった。ハヤトのポケギアが鳴った。知らない番号だったがとりあえず出てみると、相手はミナキであった。 「え? なに?」 風でよく聞こえなかったわけではない。向こうが突拍子もないことを言ったのだ。 「今からウバメに行きたいんだが!」 きんと耳が痛むほど大声を出してから、途端に彼は小声になってぼそぼそと喋り出した。何かから隠れているみたいだ、と思い、どうせその通りなのだろうと想像はついた。頭の片隅にマツバの笑い顔が浮かび、知らない内にハヤトは面相をしかめていた。 本当はそのまま帰ってしまいたかったが、あまりにミナキがうるさいもので、とりあえず拾いに行くことにした。通話を切るあたりではもう、エンジュの大通りを西に向かっているから、と変に揺れた音声で一方的に報告していたから、走りながら喋っていたのだろう。ていうかどうしてあいつは俺の電話番号を知ってるんだろう、とハヤトは遅れて疑問を浮かべた。 危惧していたほどには、ピジョットの乗り方は下手ではない。ミナキを後ろに座らせて空を飛ぶハヤトがまず思ったのはそれだった。それからやっぱり、変わった奴だということだ。 「君は親切な奴だなあ、ハヤト! 感謝するぜ!」 「森を見たらすぐ帰るからな」 ピジョットは夜飛ぶのは苦手なんだよ、と強調すると、もちろん分かってるさと背後からよく通る声が返ってきた。風は少しだけ冷たい。結局この男の猛烈な勢いに押し切られるまま、頼みを了承してしまった。様子がおかしいと気味悪がられている場所に好き好んで行きたがるなんて、さすがは伝説ポケモンを追い続けている人間は違う。そう伝えれば十中八九褒め言葉として受け止められてしまうだろうから、口には出さない。 「そんなに珍しいものが見たいのか?」 尋ねると、ミナキは数秒黙ってから笑った。 「それはそうだが、口実が欲しかったというのもあるな」 「口実?」 ハヤトは首を幾らか後ろへと捩じった。顔の見えない相手と会話をするというのは、どうも落ち着かない。 「マツバに言われているんだ、あまり遠くへ行くなと」 妙に静かな声色だった。 「なんだよそれ」 「ははは、甘えているんだろう」 風の流れる音に交じって聞こえる笑いには、どこか実が籠っていない空漠感があった。ハヤトはもっと首を捩じろうかと思案したがやめておき、代わりに今ミナキはどういう顔をしているのだろうかと考えて、少し気味が悪くなってそれもやめた。例のごとくミナキが宿代わりにしているのかと思っていたが、どうも違うようだ。 「……ホウオウのことなら、俺も聞いてる」 「うん、そうか」 それだけいらえて、ミナキはしばらく黙っていた。ハヤトも黙っていた。沈黙が過ぎていったけれども、風がひっきりなしに全身に吹きつけ、景色がびゅうびゅうと変わっていくのが救いだった。森林や都会の夜景は、気を紛らわせるにはうってつけだ。普段よく喋る人間がいきなり無口になると、変な気まずさがある。 「まあ、あんたみたいな根明が近くに居れば、あいつにとってはいいんじゃないか」 やがて言葉を選び、ぶっきらぼうにハヤトがそう言うと、 「根明ね……いや、そうでもないよ」 ミナキは何か可笑しそうに、ため息交じりに答えた。 この男はずいぶんと年上であったことを、ふと思い出した。肝心なことは言えないものだ、と独り言めいて呟く声に、ハヤトは今度こそ返事をしなかった。辟易したわけではなかったが、自分が口を出すようなことでもないと思ったのだ。マツバとこの男の関係についてあまり深入りしないほうがいいと、直感が言っている。 森の入り口に降り立つと、薄暮の空はますます暗くなっていた。吹く風の強さよりもはるかにざわめかしい木々のこすれ合う音が、耳鳴りのように四方から押し寄せてくる。黒々とした枝葉の影が、生き物のようにうねっている。夜の森は昼間とはまるで様相を変えるものであるが、それだけでは説明のつかない得体の知れなさが毛穴から入り込んできては、ぞぞと鳥肌を立てた。これは確かに何かいるんだろう。ハヤトは生唾を飲んだ。 「見ろハヤト、野生のナゾノクサだ。可愛いな」 「おいっ」 連れのほうはといえば、飛び出してきたナゾノクサに目を向けていた。図太い奴だ。薄闇で赤く光るナゾノクサの瞳さえ不気味に感じる自分の感覚は正常であるはずなのだが、ミナキと一緒だと疑わしくなってくる。ハヤトはじっとしているのが嫌で、口を引き結びわざと足音を鳴らしつつ、森の側へと歩み寄った。アーチの側に立てられた標識を見ると、「現在立ち入り禁止」という文字が「ウバメの森」という文字を隠すほどに大きく書かれていた。近隣住民が書いたのだろう。それはそうだ。入り口に戻ってしまうのならいいが、迷って出られなくなったら洒落にならない。自分のように空を飛べるポケモンが一緒ならともかく。 「おい、もう気は済んだだろ。早く帰るぞ……」 こんなところにはまず、長居しないほうがいい。 → |