ぐすぐすと誰のものとも分からないが湿っぽい息遣いがそこかしこから耳に入ってきて、それを煙たがるように自然と足取りが速くなってゆくのをわざと気づかない振りをしてやり過ごそうとしていた。というのに、曖昧な音の波紋の中をひとつ落ち着きのあるはっきりとした声が俺の名を呼んだのでそれは阻まれる。むっとした面持ちで相手へと体をひねったつもりだったけれども、乏しい動作でじゅんこの胴を撫で続けながら孫兵はなんでもないというような涼しげな目元を崩さないまま俺を見ていた。表情がさほど動かぬと評されているのはうちの組では俺だが、学年単位で考えれば間違いなくあちらのほうが上なのだろう。もっとも親しくなれば奴はペット相手にならば簡単に破顔することを、俺たちは知っているのだったが。

「単独行動は危ないぞ」
「お前だって」
「僕は見張りだよ、聞いてるだろ」
「ああ……そういやあ」

 い組との合同演習、その中で不慮とはいえ犠牲者が出たのが昨日の夜半のことだ。学園と良好関係とは言い難い城を相手にしているのだから有り得ない話ではなかったとはいえ、生徒の多くは消沈しあるいは怯えを隠しもせず待機命令をしずしずと守っている。見張りはい組から数名、あとは左門と作兵衛。左門の記憶力は教師からも買われているが、どういうわけかすぐに行方不明になるため作兵衛と必ず組になっている。俺はといえばただ待っていればいいだけの気楽な身分だったが、ただでさえ真夜中で視界は暗いばかりだというのにさらに仲間の作りだすあの薄暗い空気がどうにも肌になじまず、そう遠くに行くつもりはなくうろついていたところだった。あんな速さで歩くつもりはなかったのだと弁解するのはさすがに馬鹿らしかったので黙っておく。先生方が見つけたら減点されるぞ、そう案じているようなそうでもないような僅かな眉の動きだけを伴って告げた孫兵に、はいはいと相槌を打った。見つかったのがお前で良かったよと続ければ小さくため息をつかれた。
 孫兵の目はどうやら少しばかり腫れていて、泣いたのかと尋ねると臆面もなくああと頷いた。今ではその名残など垣間見えもしないが、こいつは人でも虫でも、死んだら相応に悲しむ。ただそのあとの立ち直りが異様に早いだけだ。他の奴らが一刻かけて流す涙を孫兵は四半刻もかけずに滝のように流しまくり、そしてすぐに目線を変える。冷たいとか淡白とか、そういう形容の出来るものではなくてこいつはただ俺たちの何十何百倍もの生き死にを目で見てきているのだ。人でも虫でも、命はこいつの前でひたすらに平等なのである。
「ああほら、夜が明ける」
「――ほんとだ」
 見上げた先にはぼうやりと空を照らす光が滲んでいた。偵察と退路の確保に駆け回っているであろう先生方が帰ってきたらすぐに出発だというのに、あいつらはあの調子で大丈夫なのだろうか。そんなようなことをぶつぶつ呟いた俺に、孫兵は何か珍しいものを見つけたような顔をしてからじゅんこに内緒話をするような仕草で顔を寄せた。本当のところ何も話していないのだが。ふふ、と独特の笑い方をしてから、三之助はやっぱり無自覚なんだなと言って顔をどこかへ仰ぐ孫兵に首を傾げれば、まだ随分と遠くのようだが草を割って駆けてくる足音を聞いた。二つだ、無事に戻ってきたらしい。「もう少し賑やかになれば、皆も意気を揚げるだろう」その音を同じく確認したらしい穏やかな声とともに少しおどけたような視線がこちらへやってきたので、ああ、と思わず苦笑して応えた。

「方向音痴は、視野が広くなるのかもな」
「ん?」
「いいやなんでもない」