仮面から見えるわずかな外界は、塗りつぶされてしまったかのような橙色をしていた。日暮らしが名残を惜しむようにゆっくりと鳴いて、僕は森を仰ぐ。此処は一体どこだろうか。寺なのか神社なのかはっきりとしない古ぼけた建物から続く参道の真ん中にひとり立っている自分は、ついさっきまで部屋で変装の練習をしていたはずだったのに。狭い視界をあちらこちらに移動させて辺りを見回せば見回すほど、ここはまるで知らない場所であるという確信が強まっていく。いくらか日も落ちたかという薄暗さの中、それでも何故かまったく怖くないというのが不思議で、そうしているうちにああこれは夢なのだと僕はひとつ胸を撫で下ろした。部屋で眠ってしまったのだろう、きっとそうだ。けれどそれなら早く目を覚まさないといけないと思うのだが、あまりにも現実味を帯びた感覚ばかりが与えられてくるので一向にそんな気配もなく、ただ広い石畳に突っ立って己から伸びる影をじいっと見つめていた。そんなときであった。 「おや、どうしたの君」 人の声に慣れていなかった耳にするりと入り込んできたのは、子供と大人の中間のような不思議な響きだった。振り向けば竹箒を手にした黒髪の男の人がひとり立っていて、丸い目を真っすぐ僕に向けて瞬きをしている。もう暗くなるから家に帰らないといけないよ、そう表情を和らげて言った彼は僕の返答を待っているようであったが、これは夢だから帰れないんですと言うわけにもいかず黙っているのを見て片方の眉を下げてから首を傾げ、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。後ろで結んでいるまっすぐな髪が、歩くたびに左右に揺れている。とても頭のよさそうな人だと思いながら、怒られてもおかしくないはずなのに今もやっぱり、少しも僕は怖くはなかった。 「君の名前は?」 「……三郎」 「へえ、僕の知っている人にも三郎という人がいたなあ」 今はどこで何をしているのやらだけどね。そう面白そうにまたほほ笑んだ彼は、腰を折って僕の頭を撫でた。それから「この狐の面はどうしたんだい」と訊かれたので、今度は少しばかり迷ってから答えることにする。まだ変装が上手にできないから外では仮面を被っているの、と、内側で籠った自分の声を聞きながら話せば目の前の瞳はますます丸くなったように見えた。しばらくまじまじと仮面の奥を見つめられているような感覚が続いて、少しばかり居心地が悪くなって身じろぐとそれを我にかえったように見てとって、ああごめんごめんと彼は頬をかいて苦笑いをした。そのまま手を顎に持っていって何かを考えるように視線を逸らしたさまを見上げて、やっぱり言わなかったほうがよかったのかなと不安がよぎった。 (父さんならこんなとき、何と言うんだろう) 誰もかもがお前の顔を忘れてしまうまで、決して素顔を晒すなと父は言った。八つになった僕はその言葉の意味をまだ本当のところでは解ってなどいなかったけれども、頭を撫でてくれている父が一度だって僕に素顔を見せたことのないのは知っていた。いつも見知らぬ誰かの顔を被っていた父は、それでも彼が父であると僕に分かるような笑い方をするそれは器用な人物だった。だから顔を被ることに関して何も違和感など抱いていなかったし、いずれは自分も父のようにいくつもの顔を使いこなせるようになるのだろうと幼いながらに思っていたのだ。けれどもいきなり変装など出来るわけはなく、外で他人に顔を見せないようにするには仮面を被るしかなかった。 父と仲間たちは旅芸人のようなことをしながら各地を回っていたから僕もさして訝しまれずにいたのだと思い至り、今だって旅芸人の子なのだと言えばよかったのだと失言に気づいて再び顔を上げると、しかしもうそこには考え事をしている様子はなくどこか楽しげな表情を作った彼が立っていた。ぽかん、と口を半開きにしてそれを見上げている僕の顔が透けて見えたかのように笑うと、また大人のようで子供のようでもある奇妙な面影がそこに浮かんだ。どうしたのと尋ねれば、またああごめんと曖昧に返してからついと空を見上げる。 「逢う魔が時には不思議なことが起こるものですねえ、先輩」 「え?」 「三郎君、僕ら、忍術学園でまた会えるよ」 にこりと、降ってきた笑みはあたかも僕との間には仮面などないかのように鮮明に映る。にんじゅつがくえん。そう反芻した声は仮面の中でぐわんぐわんと奇妙に鳴り響き、しだいに只の音に成り変わってゆく。足の先の感覚がおぼろになってきたかというところで、いつの間にか閉じていた瞼の奥にはまださっきの笑顔が残ったまま、どこか遠くでちりんちりんと風鈴の音を聞いた。 あれは僕の借りている部屋にあった風鈴だと、深層では気づいている。それでも僕はあと一回だけ目を開けたくて、失ってゆく感覚を必死に取り戻そうとしていた。本当に、本当にまた会えるの、そう確かめたくて伸ばした手に大きな手が触れて、そして抱きしめるようにしてあの人がまた頭を撫でたのが分かる。かすかに香ったのは炭の匂いだった。もしもまた逢えたら、今度は仮面じゃあなくて。そう届いているのかいないのかも知れない声で呟けば、大丈夫ですよ、とそれを遮るようにあの不思議な響きが頭の中に飽和した。 それはそれは、鮮やかな夢だった。 |