遮光カーテンの隙間からまっすぐ差し込む光のラインが妙にくっきりと見え、その眩さにおどろいて、開きかけていた瞼を瞑り直した。起き抜けの目頭につんとした刺激が走った。しばらく額に掌をかざしたのちに仰向けであった体を反転させ、陽射しが直撃しないよう身じろぎをする。
 予定よりも眠りすぎてしまったようだ。瞼を透かした赤い色を眺めながら深く息を吐き出すと、少しずつ瞼を持ち上げてザクロはそう悟った。目を慣れさせてから上体を起こす。窓際に置かれたガラスの花瓶からほろほろと落ちる透明な影が、幾何学模様を描いてフローリングを温めている。時計を確認すると普段起きている時刻よりも一時間ほど回っており、なるほど日も高くなるわけだと気の抜けた心地でベッドから抜け出そうと布団を捲ろうとしたのであったが、捲ろうとしてはたと瞬きをし、ザクロは首のみを傍らへぐるりと回した。
 いつもならば無造作に剥ぐってしまうところを、ふと思い至って隣を見やることが出来たことに我ながら感心する。視線の先で布団に鼻先までを潜らせているズミはとくにザクロを見上げる様子もなく、未だに眠たそうに眉根に深い皺を刻みこんで、先程のザクロと同じように次第に目を光に慣れさせながら覚醒している中途にあるようだった。「おはようございます」「ああ」息混じりの、唸るような短いいらえが寄越される。
 ザクロはベッドから降りかけていた脚を再びシーツの上に戻すと、ズミの髪に手を伸ばして乱れがちなところを手で梳いた。自らのものとはまるで異なるすべらかな手触りは、幾度触れても飽きる気がしない。暫くそうしていようと思っていたのだが、間もないうちに手首を掴まれて手櫛は用を成さなくなってしまった。溜息じみた息遣いが聞こえる。寝覚めの良し悪しがひどく激しい人であることは知っているつもりだったが、今朝はとりわけ悪い部類であるらしい。ズミさん、と呼びかけてみると、寝起きの少し腫れぼったい顔つきで拗ねたふうにねめつけてから、ズミは黙ったまま掴んだ手首をほとんど予備動作もなく引っ張った。視界がぶれる。
「あの」
 中途半端な格好で静止したところ、鼻先がくっつくほど近くまで来ていた。背中に腕を回したズミの双眸は焦点をずらすこともなく、何かを訴えるようにじいとザクロを見つめている。寸分考えてからザクロは肩の力を抜いて、体をずるずると彼の下に滑り込ませながら仰向かせ、どうもそういう姿勢になりたかったらしきズミのしたいように任せることにした。後頭部に腕が置かれている。位置が変わったことで淡い金髪にかすかに差しかかった陽射しが、ちかちかと視界の中で光っている。そうやっているうちにやがて落ち着いてしまうと、不機嫌そうな眼差しは大分治まりを見せたものの、相変わらず無言の圧力のようなものは注がれているようだった。いったい何がそうさせるのかと首を傾げていると、じわりと眉を下げたのちにズミは唇を開いた。
「――覚えていないようですね」
「え?」
「昨夜はひどく魘されていたようですが」
 面差しほどに剣呑ではない、どちらかといえば気遣わしげな声色に目を瞬かせる。言われて思い出そうとしても、昨晩見ていた夢について引っかかる残滓は自分の中にひとつも無いようだった。蘇らない夢の記憶というものは、もう消えてしまったものと考えたほうが妥当である。ザクロはこくりと頷いてみせると、申し訳ありません、と本当にすまない心持ちで顔色を曇らせた。どうも自分が魘されていたために、ズミの睡眠を妨げてしまったらしいことを察したためだ。ズミは一瞬虚を突かれた目つきをしたが、すぐにふんと鼻から息を吐いて、謝るようなことではないと早口に言った。後頭部に回っていた腕が持ち上げられたのか彼の頭が高度を下げたのかは分からなかったが、言うと同時に首筋のあたりにズミの髪が触れていた。柔らかい感触はくすぐったいような、気持ち良いような微妙なぐあいだった。ふと手首が解放されていることに気がついて、再びズミの髪を撫でながらザクロは気取られぬようほほ笑むと、大丈夫、と仄明るい天井を眺めながら囁いた。
「大丈夫ですよ」
 こうして折り重なっていると、まるで今このときが夢であるような心地の良い錯覚に沈みそうになる。それを避けるためにズミの髪の手触りへと意識を集めながら、ザクロはふと昔を思い出して目を細めた。この部屋のように仄明るい記憶だ。仄暗いと言い換えることも出来ようか、とにかく奇妙な明るさと薄暗さを一緒くたに湛えている、ザクロにとっては特別なものだ。まだこの長い手足をどう使えばよいか分からずに、途方に暮れて膝を抱えていた、幼い日の波紋のような思い出だった。
「ザクロ」
 瞼を持ち上げれば、いつの間にか起き上がっていたズミが頬に触れていた。今度こそありありと気遣わしげな顔をしている。ああ二度寝をしてしまうところでした、と笑いながら身を起こすと、もうあの記憶は引き潮のように深淵へと去り退いてしまったのを感じた。ズミはまだ何か言いたげにむずりと口端を動かしたが、結局黙ったまま前髪を掻きあげて先にベッドから降りたかと思うと、すぐに寝室のドアへと足早に向かってしまった。髪を掻きあげるのは照れているということだ。
 朝食は何がいいですかと背中越しに問いかけられ、ザクロはうーんと数秒考えたものの、ぴんと来なかったのでただお任せしますとだけ答えておいた。特に反応もないまま開いてそうして閉じられたドアのたてた音は、たいそう優しげな響きでもって寝室に浸みいった。

 ザクロは今度こそベッドから降りると、勢いよく遮光カーテンを開いた。白い陽光がどっと押し寄せてくる。今日も快晴のようだ。陽射しに呑まれて一気に上がってゆく体温を感じながら全身で伸びをして、窓の外に広がるショウヨウの街並みとそのあちらに見える海を臨んでいると、ようやく本当に目が覚めたという感慨があった。ベッドの上での出来事はやはり、どこか夢のようだったのだ。
 踵を返しドアへと向かう間際、いましがたの首筋に触れたズミの髪を思い起こして面映ゆくなる。なんと優しげな朝でしょうと胸中でひとり呟いた。あの仄明るく仄暗い記憶の中では信じられなかったような、眩い朝に背中を押されてザクロは寝室を後にした。残された音はふたたび穏やかにあまい金属音をかみ合わせ、後をひきながら遠ざかっていった。




*




 週一度の初心者向けのボルダリングレッスンは、ショウヨウジムの定休日に合わせてジム内で開かれることになっている。それではリーダーの休みが無くなるのではないかと怪訝そうな顔をするジムトレーナーもいるが、他でもないコーチを務めるザクロがそうしてほしいと提案したのだ。ショウヨウジムの屋内設備というのは、ボルダリングの心得の無くとも上へ登れるよう設計されている。ゆえに初心者の練習に適した環境であったので、レッスンはジムを使いたかったのだが、ジムを閉めてからとなると遅い時間帯になってしまい、ポケモン達と過ごす時間が減ってしまう。ならば定休日の午前中にということで話しがまとまったのである。定休日だというのにジムへ向かうザクロを勤勉だとか真面目だとか言う住人も多いけれども、本人としては好きなことをしているのだから、そういった固い認識はまるでない。自分が教えることでボルダリングの良さが伝われば嬉しいことこの上ないのだし、週に一度教え子達と会うのも、かれらの喜ぶ顔を見るのも楽しいことだった。
 今日のレッスンを終えて教え子達が皆帰ってしまうと、ザクロはジムを閉めてから海岸へと降りていった。天気が良いため海水浴や釣り、ポケモンバトルに興じる人々の姿が遠目にもにも分かって、浜辺は海開きの日のような賑わいを見せている。海は見渡す限り真っ青に広がっている。海岸沿いのガードレールの傍でザクロさーんと呼びかける声が聞こえたのでそちらを見やると、街のスポーツ用品店で働いている女の子が自転車で走り過ぎていくところだった。大きく手を振る彼女に手を振り返しながら、後姿を見送ってまた歩き出すと、もう間もなく波打ち際まで着こうというところであった。花崗岩の白みがかった岩場が浅瀬の及ぶところまで続いており、波に角を削られたおもては水に濡れるたびに光をはねて輝いている。
「見張り番、えらいですね」
 ひとつの大岩の傍で海のほうをじっと見ていたスターミーは、ザクロに声を掛けられるとコアを点滅させてきゅるるるんと鳴いた。宇宙の言葉のような不思議な鳴き声だ。かれの近くには白い靴が置かれており、岩には畳まれた洋服とホロキャスターが几帳面そうに置いてあった。ザクロは少し考えてから、そこでスニーカーを脱いで白い靴の隣に並べると、シャツを脱ぎがてら沖合に目を向けた。
 波間からのぞく淡い金髪が、陽射しを浴びてきらきらとしている。水中から勢いよく飛び出したギャラドスが大きく弧を描くように宙で飛沫を散らして回転し、また垂直に近い角度で海中へ飛び込んでゆくあいだ、ズミは荒立つ波に呑まれることもなく何か指示を出し、ギャラドスが戻って行くのに合わせてくるりと背を丸めたかと思うと、すこしの波も立てないで海中へと潜って行ってしまった。それら一連の光景を眺めてから、ザクロはほうと感心して息をついた。あんなことをもう二時間近く続けているのだろう。ザクロの家を一緒に出てからそれくらいは経っている。あなたの主人は見かけによらず体力がありますね、とシャツを腕から抜き去りつつ笑いかけると、スターミーはまた不思議な響きで鳴いた。呆れたふうでもあり、誇らしいふうでもあった。
「チゴラス、ここはお願いしましたよ」
「ンゴゴ!」
 ボールから出したチゴラスに見張り番を頼み、ザクロはスターミーを連れて海へと入った。浅瀬の白い砂にうつる波間の影が美しい。そこを抜けるとだんだんと水深は増してゆき、とうとう足がつかなくなるとザクロは腕で大きく水を掻いた。潮のにおいが全身に廻っていく。体がぷかぷかと塩水に浮かぶ感覚というのは久しぶりだった。さてギャラドスと彼はどのあたりにいるだろうか、と考えていると、ふっと体が持ち上がってまたあの鳴き声が真下で響いた。いつの間にかスターミーの上に乗っかっている。「連れていってくれるのですか」と尋ねているうちにスターミーはぐんと波を分けながら進み始めたので、ザクロは落ちないよう慌ててつかまった。そうしているうちに沖合のほうで海中からズミが顔を出し、すぐにこちらに気づいて手を振ると、ギャラドス、と大きく呼びながらこちらへ泳いできた。
「来ましたね」
「ええ。見張りはチゴラスに頼みました」
「ありがたい。これでスターミーの特訓もできます」
 スターミーに礼を言って海中に戻る。振り返るとずいぶんと浜は遠くにあり、寄せてくる波も大きくなっているようだった。流されないようふたりでスターミーに掴まっているのは、なにか漂流でもしているようで少し可笑しくもあり、また鼓動の高鳴りをおぼえる気分にさせるものでもある。この高揚がたとえば高い岩を登る中途にあるようなそれであるのか、あるいは単に慣れない場所で緊張しているのかはいまいち分からない。見廻せば、浜からはだいぶ距離のある小島もすぐ近くに見えた。
「……少し潜りましょう」
「え、ちょっと」
 言い終える前に息を大きく吸い込み、口を閉じざるをえなくなったのは、ズミが緩くではあるがザクロの腕を引いていたためだ。ざぼんと波に潜る音がして、途端にあたりの音はすべてぼんやりとする。ズミの腕はもう離れている。腕と脚を広げて海中を泳いでいると、海面からオーロラのように降っている光が海底までところどころ届いており、ぼんやりと照らされたところの海藻が揺れていたり、光の中をテッポウオやラブカスの群れが横切ったりするのはなんとも幻想的だった。一度海面にあがって息を吸い、もう一度潜ってみると今度はすぐにズミを見つけることができた。彼は深いところからゆっくり浮き上がってくるところで、そちらへと泳いでゆくザクロの様子をじっと眺めているようだった。
(――え、)
 手が触れるかというところまで来たとき、ズミの手がザクロを捉えた。というよりもあちらは浮かび上がって来ていたから、自然と触れたというほうが正しいかもしれない。どうかしましたかと視線で尋ねたけれども相手の意図はいまいち読めなかった。金糸は無重力のさなかにあるようにゆらゆらと揺れていて、普段は隠れているズミの額が白く見えている。差し込む水中の光を受けた彼の髪と肌は、いつもより余計に青白く見えた。褐色の自らの肌でさえいつもより浅い色に見えるのだから、当然と言えばそうだろう。そうしているうちにザクロの潜水がとどまり、指を絡めたまま浮かび上がる格好になろうとした瞬間。ふっとズミの顔が近くなった。
 キスをしたのだ、と思ったときにはもう海面に出ていた。
 途端に鮮明になる風の感触と耳に入ってくるクリアな音の中で、深呼吸をしながらザクロはズミの横顔をまじまじと見つめた。彼もまた髪を掻き上げなから深呼吸をしている。意識しているわけでもないのに絡んだ指にやけに力が入っているのは、もしかすると防衛本能なのかもしれないと思った。ズミさん、と呼んでみたが反応はなかった。ズミはザクロを見ないままスターミー、と声をあげた。またあの鳴き声が聞こえる。さきほど最初に潜ったところで待っていたスターミーがこちらに泳いでくるまでの間、ふたりは特に会話もなく、ただ手だけしっかりと繋がったまま波間をたゆたっていた。


 すみません、とズミが声を発したのは浅瀬に上がってからだった。膝まで海水につかりながら重い体をゆっくり進ませていたザクロは、隣に首だけを回してはい、と疑問形で応えた。さああ、さああ、と波が遠浅にのぼっていってはまたひいていく音が繰り返し流れている。
「昔、あなたに水泳を薦めたことを覚えていますか」
「もちろんです」
 頷いて見せると、ズミはほっとしたふうに相好を緩めてちらとほほ笑んだ。
 忘れるわけはない。まだザクロがこの手足の使い方を見つけあぐねていた頃、ズミはその手足の長さを泳ぎに活かしたらどうかと言ってくれたことがあった。今より格段に暗かったザクロに、彼はもう半分キレながら、生まれ持ったものを活かさずどうするのだと声を荒げて畳みかけるように喋り続けた。思えばあの時も、ズミは我に返ってすみませんと謝っていたような記憶がある。懐かしさに笑みを浮かべながら、本当に感謝していますとザクロは告げた。
 確かに泳ぎならば手足が長い方が有利であったし、海辺で生まれたザクロにとって水は身近なものだった。幼い頃からよく泳いでもいた。しかしザクロは長い手足を活かすための手段として、数あるスポーツの中で水泳ではなくボルダリングという道を選んだ。ズミに叱られるようなかたちで勧められた、あの時に選んだのだ。何故ならば自分には、いわタイプのポケモンたちが既に大事なパートナーとして傍にいたからだ。あの子のために自分は水ではなく岩を選んだ。それが今ではとても誇らしく、かけがえのない選択であったと思っている。決めたのはザクロだ、とこの話をするたびにぶっきらぼうにズミは言うけれども、手を引いてくれたのはズミだった。この男がいなかったならば、今こうしてショウヨウジムのリーダーをしている自分も居なかったかもしれない。
「あなたは変わりましたね、ずいぶんと」
「そうでしょうか……だとすれば、あなたのおかげだと」
「――昨夜見ていたのは、あの頃の夢でしょう。だから覚えていなくてよかった。海の中でそう思いました、ほんとうに」
 被せがちにそう言い切ると、波の届かないところまで来たところでズミは方向転換をして背を向けてしまった。見れば大岩の傍でチゴラスが短い尾を振りながら自分たちを待っている。スターミーとギャラドスはもう先に着いていて、皆で主人たちを待っているようだった。ずいぶんとのんびり歩いてしまったのだと思い、とりあえずズミの後を追おうと思ったザクロは、しかし短く声をあげて立ち止った。あ、という間の抜けた響きに、ズミも足を止めて振り向いた。
「どうしたんです」
「……いえ、髪を留めていたのがひとつ落ちてしまったようです」
「なんだと、海にか」
 程なくしてばしゃばしゃと水音が聞こえ、濡れてほどけた髪の房を指でいじっていたザクロが顔を上げると、ズミが浅瀬を見下ろしながら歩いていた。彼が今来たところを戻って行こうとしていると気がついて、待ってと声をかける。まさか探そうとするとは思わなかった。その意外性に驚くと同時に、ついさっき彼の告げてきた言葉が遅れて脳裏に染み込んでくる。
「こんなに広いのですから、見つかりませんよ」
「ですが」
「まだたくさん家にありますから」
 大丈夫ですよ、と言いながらズミの腕に触れると、今朝の会話がフラッシュバックした。眼前で眉を寄せて、どこか悔しそうな顔をしている表情もひどく似ている。探そうとするのは止めてもまだ釈然としない様子でザクロのほどけた髪に手を伸ばしてくるズミにはたとして、ザクロは一歩脚を退いた。踏んだ砂がひどく柔らかく感じた。するとズミも何かを思ったらしき瞬きをし、すぐに手を引っ込めると、取り繕うふうに残念でしたね、と低く呟いた。髪を掻き上げながら海へとそらされた目つきは未だに名残惜しげで、それを見ていられずにザクロは瞼を伏せると、意味もなく、髪に含まれていた水をぎゅっと絞った。白い砂と丸みを帯びた小石に滴が落ちて、みるみるうちに渇いていった。
 さり気なく触れてみた自分の頬は、不自然なほど熱い。陽射しのせいではない。
 ああこの肌が彼のように白くなくてよかった、とザクロは心底思った。









/傷はなくても沁みるもの