日焼けした象牙色のベンチは記憶の底に残るものより遥かに心許無くちっぽけで、安易に腰を下ろしてもよいたぐいの器物からは程遠く思われた。向かって右側の柱の影が長く伸びて左側の柱の根元よりすこし外れた縁でぶっつり切れている、それが幾本か続いているのを見下ろしながら、出来るだけ影を踏まないよう幼子じみた大股で進んでここまで来たというのに、懐かしい木目を目にした途端に全身すべてが重ねてきた年月を思い出したふうに軽やかさを萎びれさせ、コンクリートへ根を生やして動かなくなってしまった。そうして佇んでいる。廃駅のプラットフォームには今もなお手繰りきれぬ無数の息遣いと、置いてゆかれた記憶たちが潜んでいるようだった。南から斜めに差す西日がプラターヌの背で遮られ、細長く柔らかい影がベンチを分断して伸びている。先刻まで柱の整然と連なる影に沈んでいたところへ入り込んだ、自身の異質さをようやく肌で感じた。褪せた木目に落ちる深い陰影のふちどりを丁寧になぞるように指先を伸ばすと、次第にくっきりとしてゆく自らの指の影とついにかち合って、空気と同じ冷たさを持つ乾いた木の触れ心地がした。
 刻まれた文字はあの頃にしてみれば丹念に整えながら残したものであった筈だが、こうして見てみると随分といびつで拙かった。しかしプラターヌにとっては、その不完全さが返って面映ゆく懐かしい。眼下のところどころ風化した文字は忘れ去りたい青臭さでもなければ削り取りたい愚かしさでもなく、かといって永劫守り続けたいような尊いものでもなく、わが身の老いと共に滑らかに消えゆくのを楽しみたいような、そんな片割れめいた存在であった。この町を離れる少し前に刻んだのだから、数えるのも億劫になるくらいには月日が流れている。その星霜が、ここまでの感慨を生み出してくれたのだった。
 幼い自分から投げかけられる、あどけなく、時に抉りつけ時に震える膝を叩くような問いかけに、穏やかな心持で対峙できるようになったのは述懐してみればそう昔ではなかったように思う。改めて読んでみれば子供ながらになかなか柔軟な、ひねた言い方をすれば逃げ道の残されたメッセージであるのに、若いみぎりはその寛容さすら認めることが難しくて、思い悩むことも度々あった。やりたいことは山ほどあったのだ。折に触れて胸に抱く夢も多かったし、それを叶えるため行動に移す労は惜しまなかった。それでも人には限界があり、生まれ持った才能があり、どう足掻いても届かない領域があることを知った。
 レンリを離れカロスを離れ、諦めた夢と叶えた夢とを織物のごとく重ねて重ねて、こうして今戻ってきた自分は決して、この町から旅立った当時の夢を叶えたとは言えないだろう。思い描いていた大人とはまったく別の人間になってしまったかもしれない。けれども自分は紛れもなく、あの日レンリを旅立ったひとりの少年の歩いて来た道の先に立っていると感じている。複雑に曲がりくねっても巡り巡ってここに返って来ることができたのは、幼い自らの言葉が歳月を経て自分を待っていてくれたからだ。あの頃の夢は叶わなかったのに、潰えるたびに新たに織りかさねて織りかさねて、プラターヌという人間を築き続けることを他ならぬあの頃の自分に許されている。今ではそう感じていた。

 首を右方へ回してみると、そこには絶景と呼んで障りないパノラマが広がっている。傾きかけた太陽から浴びせられるかすかに橙がかった光を飲んで、流れる水はすべて青くもなく赤くもない、名前の分からないはざまの色に染まっている。夜明けと日暮れを迎える間際に見せる水のこういった曖昧な色彩を、プラターヌは好ましく思っていた。しばし明るい屋外に宿していた眼差しを元在ったところへ戻すと、プラットフォームはひどく薄暗く感じられた。実際少しずつ暗くなっているのだろう。外と内の激しい明暗差に、影送りのような幻視を見てプラターヌは数度かぶりを振った。水気を多く含んだ空気が頬を撫でてゆくたび、細かな粒が肌ではじけるのにも似た清涼感が増していき、それに伴って体感温度がゆるやかに落ちてゆくのが分かった。
 プラットフォームまで来れば常に耳を洗い流さんばかりに響いている、どうどうと深くされども噴き上がるような不思議な轟きを聞いていると無性に安堵するのは、やはりこの町で生まれた為であるのだろうか。たとえば無音であるレンリタウンを思い描こうとしてみても、ついぞできない。観光名所である大滝から腹の底を撫でるように敷衍しながらやがて霧散してゆく流水音は、まるでこの小さな町を覆い尽くす天蓋だ。半透明のヴェールのように空高く昇っていっては、レンリを昔から守ってくれている。

「博士」

 呼びかけられて瞬きをすると、にわかに目の奥がつんと眩んだ。長いこと瞼を開きっぱなしにしていた為だろう。いつの間にか薄暗くなり、柱や自らの影も捉え難くなってきてしまったベンチとコンクリートを見渡しながら振り返った先には、階段を登りきったフラダリが西からの赤みがかった陽光を受けて静かにこちらを見ていた。窺うような双眸に口元を持ち上げて見せてから、根を張っていた脚を動かして彼のほうへと歩みだす。本当にぶちぶちと根が千切れるような錯覚があるのが可笑しかった。追想に浸るだけで、こんなにも脚は重たくなってしまう。
「あまりに遅いので心配しましたよ」
「ごめんごめん、お待たせしてしまったね」
「それで……見つかったのですか」
 やや高圧的ながら、彼の言葉には確かに不安気な色が滲んでいた。顰められた眉根に影が落ちている。それを見上げつつゆっくりとした歩調で歩み寄るあいだ、プラターヌは何食わぬ顔で黙っていた。そうして脇を通り過ぎても何も言わないプラターヌを目で追いながら、フラダリは体を反転させた。階段をゆっくりと下りてゆくたび、癖の多い髪に赤い日差しが映り込み、また弾かれておぼろに輝いている、その擽るような眩さに目を細めたのち、もう一度フラダリはプラターヌに呼びかけた。見つかったのですか。そうでないならそうと言ってください。
 口早くかける問いに合わせて如才ない足取りで隣まで下ってゆくと、タイミングを見計らっていたプラターヌが射抜かんばかりに視線をぶつけた。がちりと噛み合う感覚を覚えたのは、おそらく両者ともであったろう。逆光を受けたプラターヌの輪郭は光を発しているように明るく、されども中心線に向かうにつれて塗り潰したように暗くなってゆく。深い色合いとなった瞳にじいと見つめられてたじろいだフラダリが薄く唇を開くより早く、プラターヌはほほ笑んだまま声を発した。「フラダリさん、」呼びかけたあまりに平生通りである声音は、却って底知れなさを感じさせるものだったかもしれない。

「こどもの頃の夢って、覚えてますか」

 ひとりごちるような響きをぽつりと発しながら、強張りがちに胴に添えられていたフラダリの左手を取って持ち上げると、ずっと掌に握りしめていた物を押し入れるように中指に嵌める。骨ばった指がぎくりと震えた。
 唐突に投げかけられた問いに眉目を緩めていた彼がはたとしてそれを見止め、やがて目を見開き食い入るばかりに自らの指に嵌められたそれを見つめるまでに、然程時間はかからなかった。西日を正面から受けている水色の瞳はきらきらと輝いて、まるでこの町を流れる水のような名伏し難い色味を帯びている。赤い陽射しを浴びているのに、彼が何故か白んで見えるのはこの瞳のためだろう。プラターヌはフラダリの手を掴んだままそう内証した。

「ギャラドスナイト……やはりこの土地にあったのですね」

 かんばせを僅かに歪ませて感激に声を震わす姿を見つめながら、短く首肯すれば淡色の瞳はますます輝いた。その面差しは無論深い喜びと興奮とに支配されているのだと分かっているのだが、一方でプラターヌは、フラダリが今にも悲嘆のあまりに泣きだすのではなかろうかという奇妙な感覚に捉われた。泣き顔を見たことは数えるばかりしかないが、彼は今惜しげもなく晒しているように、なにごとかを押し込める顔をして静かに泣いていたのを覚えている。小さく戦慄いている唇をつと見やって、プラターヌはそこから視線を外した。
 この石を彼に託すことで、彼の背負い込むあてどもない重責はさらに軋みあがって、彼を押し潰すかもしれない。それをプラターヌは訪れうるひとつの未来として照らしながらも、或はと希望を抱いて決断をした。この人ならばもしかしたら、夢敗れることなく力を尽くして未来を切り開くことができるのではないか。リングはその一助となりうるかもしれないと。そこに介在していたのは尊敬と信頼ばかりではなく、フラダリという男にはかつての自分のように、諦めても何度だって織り直してゆく性質はきっと無いのだろうという予感であった。うらがなしいまでの明瞭な予感だった。いつだって燃え上がる炎のように熱く理想を語る彼であるというのに、ともすれば薄氷のように粉々に割れてしまいそうな危うさを、彼は持っている気がしているのだ。
 高潔さのすぐ奥に隠されている脆さを、出来るならば見たくない、押し潜ませたまま守りたいという、それはひどく人間臭い感情であるとプラターヌは自認している。思考の波に乗せたところで論理的ではないし、ましてや正当化できるとも思わないけれども、この感情には素直でありたかった。眼前の男を此処で疑ってしまえば、どうあろうともいつか拭いきれぬ後悔をすることになる、ような気がしている。

「……博士?」

 前触れなく首を倒して指先にキスをしたプラターヌに、淀みがちな怪訝そうな声を落とした彼は、しかし手を振り払おうとはしなかった。すぐ眼前のギャラドスナイトが光を吸い込んではうねるように瞬くのを、伏し目がちにした瞳でプラターヌは見ていた。もしかしたら僕も泣きそうな顔をしているのではないのか、と一寸喉元が苦しくなり、それを振り払うために手の甲にもう一度唇を押し付けた。そうして顔を伏せたまま声をほほ笑ませると、忘れないでくださいね、とただ囁くばかりの小さな声で告げた。彼の中でおそらく息づいている、潔癖なまでのあどけない夢がいつか、無残に砕けてしまうことのないように。それだけを願いながら。