たちこめる水煙に薄ぼんやりと滲みあがる虹は、包まれた水煙の生み出す陰影によってなにかの形を象ってはまた元の虹に戻るというのを繰り返していた。橋というにはおぼつかない、絵筆でさっと色づけたような小さな虹だ。太陽光でなく巨大照明の光によって作られた虹はいつもそれ以上は大きくならず、ときに消えたりまた浮かんだりと、気まぐれに滝のすそに現れる。洞窟をできるだけ自然のまま整備して造ったショウヨウジムの大滝にこうして掛かる虹を眺めるのが、ザクロは好きだった。気まぐれともいえる出現と消失の読めなさはスリリングでもあったし、本来ならば太陽光の当たらないこの滝には虹などできるはずはなかったのだと考えると、また目の前の光景が特別なものに見えてくるのである。それは化石からポケモンを復元するときの感覚にも、どこか似ているかもしれない。人の手を加えなければこの世に現れえなかったものごとだ。それが正しい正しくないという問題は詮無いけれども、なにかふとした加減で生まれ出たり埋没したまま消えていってしまうものがあるということに、神秘的な高揚をおぼえるのは自覚している。
 さて今出ているあの虹はいつまで保つだろうか。そう思いながら岩山のてっぺんで佇んでいたところへ、ホロキャスターの受信音が高く響いた。滝のどうどうと落ちる音が無かったならばもっと大きく聞こえたことだろう。ザクロはベルトに括りつけてあったホロキャスターを取ると、受信メッセージを再生した。
『降りてきてくれないか』
 浮かび上がったズミの顔は常と変らぬ少し神経質そうなもので、けれども声はほとんど平坦に近かった。それだけ言うとすぐにホログラムは消え、メッセージは終了した。ザクロは岩山からジムの正面入り口のほうを見下ろそうとして、おっと、と呟き反対側の通用口の側へと足を運んで改めて見下ろした。ちょうど照明の陰になっている辺り、非常口の緑の明かりが淡く光っている下に、ズミの姿が見える。ザクロがホロキャスターを手に持ったままであるのと同じように、彼もまた片手にホロキャスターを持ったままだったのがなにか可笑しかった。ザクロは試しに今行きます、と片手を振りながら声を上げてみたけれども、ズミはこちらを見上げて少し首を傾げたきりだった。滝の落水音とその水が流れる音で、この距離ではかなりの大声をあげても声は届きにくい。それでもザクロが降りてくるであろうことは分かるらしくホロキャスターを仕舞ってズミは腕を組んだので、ザクロは満足してクライミングエリアへと向かった。
「お待たせしてしまいましたか」
「別にいいですよ、連絡せずに来たのだから」
 通用口の鍵を閉めながら尋ねたところ、素気ない答えが返ってきた。確かにそれはその通りであったので、曖昧に頷いて振り返る。薄いコートを着たズミは特に荷物も何も持たずに手ぶらのようだった。今日がショウヨウジムの定休日であることは知っていたようだけれど、もし自分がジムに居なかったらどうするつもりだったのだろうか、例えば九番道路のほうまでボルダリングしに行っていたら…と考えて怪訝な顔をしたのが分かったのだろう。ズミは初めてふっと気安い様子になって、口元を緩めた。
「あなたが居なければ、海でトレーニングでもしていましたよ」
「はあ、そうでしたか」
「だがもちろん目的はザクロに会うことでしたので、会えてよかった」
 海へ行きませんか、と背を向けながら彼はそう提案した。もう彼の中では決まっていることなのだと知っているので、ザクロはただいいですよとだけ返してその後姿を追うと、隣に並んで坂道をくだり始めた。サイクリング用に均された道ではなく歩行者専用の細い道だ。通用口から出てすぐのところにつくられているこの道を降りていくと、間もなくショウヨウの海へ出ることができるのだった。 
 高台から見渡した海はすっきりと明るく凪いでおり、真昼の陽射しも肌に刺さるほどではなく過ごしやすい。風が少ない日だった。夏ほどに真っ青ではない、触れたら温かそうな目に優しい色の波の向こうで、小島のぼんやりとした輪郭が空に溶け込むように佇んでいた。岩場のほうでは釣り人や海水浴をする人たちの姿が見え、浅瀬のサイクリングラインもその全貌まで臨むことができた。砂浜まで降りてしまうと水平になって見えなくなってしまう景色を、ここから眺めると気持ちが良い。
「遠くばかり見ていると転ぶぞ」
「……私にそんなことを言うのは、あなたくらいですよ」
 ふと傍らから聞こえた声に向き直れば、坂の行く先を静かに捉えたままの横顔があった。ザクロの驚きと呆れを交えたいらえにも視線を寄越すことのないまま、そうなのか、とだけ呟いて彼は黙ってしまった。ザクロは何か話そうかとも思ったけれど、特に話題が浮かばなかったのでやはり黙った。そうして互いにしばらく黙ったまま坂を下りきってしまってから、ようやくズミは立ち止って空を見上げると、「いい天気ですね」としみじみとした調子で言った。

 浜には千代萩の淡くころころした黄色い花と、昼顔のピンクに白のラインが入った花が低くずっと街の中へ流れ込むようにして続いていた。昼顔の葉は光沢があるので、陽射しをはじいてつややかに輝いている。あの光沢のある葉のおかげで、浜の昼顔は潮風を受けてもしおれずに生えていられるのだ。ショウヨウの浜辺はシャラなどに比べて整備されているとは言えないが、こうして自生している植物が綺麗で、あとはゴミがきちんと拾われているのでそれでいいのではないかと思う。観光用に開けた海もいいけれども、天然の岸壁と入り組んだ海岸線のおりなす風景もまたいいものだ。
「それで、また何か悩んでしまわれたのですか」
 波打ち際まで歩いていくにつれて、砂の色は白くなった。白すぎないその色はズミのスラックスとよく似た色をしていた。高そうな靴を砂まみれにして歩いているズミはかけられた言葉にぴくりと肩を動かしたものの、歩みは止めずにいっそのんびりとした歩調で進み続けている。ザクロはその斜め後ろを追いながら、器用にスニーカーを脱いで片手にまとめてぶら提げた。そしてズミとの距離を開けないようにしたまま波のほうへ寄ると、さらさらと寄せてくる透明な波にくるぶしまでを浸した。
「あ、」
 振りかえったズミは、ザクロの素足を見て少し眉を持ち上げた。
「……いつの間に靴を」
「やっぱり冷たいものですね」
「それはそうでしょう」
 こんなに温かそうな色をしているのに、海はぬるくもなく透き通った冷たさで足を撫でていった。波の届かないぎりぎりの所まで近づいて来たズミが呆れたふうにその足を見てから、ザクロと視線を合わせた。海を知らないわけでもなかろうに、とでも言いたげな双眸のかたちに、ザクロは苦笑がちに笑った。そうしている間にも寄せては返し寄せては返し、足を濡らし続けている波は同じ温度で、しかしずっと触れているとその温度に慣れてくるからやがて冷たいとは感じなくなった。代わりになんだかくすぐったい、と思った。
「今日はあなたに、何か相談ごとをしに来たわけではないので」
「そうなのですか」
 また歩き出しながら、ズミはコートのポケットに手を入れて話す。彼にしては行儀が悪いが、気を抜いている証拠といえばそうでもあった。
「芸術の話をなさるのかと思いました」
「…………」
「まあ、私では力不足でしょうが」
「そうではない」
 じろりと睨むように横目で見られ、ザクロはぱくりと口を閉じた。
 不機嫌そうに映る鋭い眉根のかたちは、どこか憤っているようにも見える。しかし外見ほど気分を悪くしているわけではないことは、経験で分かっていた。見つめ返しているとやがて視線は外れ、ズミは小さく溜息をついた。何かを言いたいのだとは感じたが、それを促すのも違うように思われたのでザクロはただゆっくりと歩きながら、微かに波を蹴り上げてみた。飛沫がきらきらと白く輝いて、波の去った砂地の色の濃くなったところへ舞い散った。
「たとえばですが」
 顔を上げると、ズミは立ち止って海の沖合のほうへじっと視線を向けていた。ほんのわずかに吹いた風に、柔らかいブロンドがなびいている。ザクロははいと返事をした。
「ただあなたに会いたかったというのでは、おかしいだろうか」
 明るい日差しに照らされた両眼は、まろやかに光を湛えていた。
 一瞬息が詰まってしまった。
「ザクロと話しているだけで、あらゆる欲求が満たされたような気分になる」
 吐息を吐き出しながらそう告げたズミの、緩やかに瞬きをするさまが妙に視界に焼き付いた。そのまま瞳を閉じたきり考え事をするふうに固まってしまった相貌をじっと見つめてから、ザクロは数度瞬きをして、それから沖合へと首を回した。先程までズミが見ていた景色はあの温かそうな海と、午睡をしているみたいに静かな空と白い霞がかった光だった。足の指先へ力を入れてみると、柔らかい砂がすべての指の隙間へ入り込んでくる感触が気持ちよかった。そうやってどこかへ力を入れていないと、ざわざわした得体の知れない心地が体を駆け巡るような気がしていた。
「あ、見て」
「え」
 思わずあげた声に、ズミが弾かれたように目を開いた気配がした。
 薄青の中に、たくさんの白い影が羽ばたいて横切っていく。
 視界の端のほうに迫出していた岬の木立ちから、キャモメの群れが一斉に飛び立ったのだ。それはまるで紙吹雪のような数えきれないほどの群れで、あの静かな景色のどこにかれらは隠れていたのだろう、と驚くほどに賑やかに鳴き声をあげている。ほろほろと白く光を放つ翼。ひときわ目立つ黄色いくちばし。じっと見上げているうちに、風のないはずなのに悠々と風に乗るように翼を広げて南へと飛んでいくキャモメたちの白い群れは、散らばることなくひとつのかたまりになってぼんやりと小さくなって、とうとう見えなくなってしまった。

 はたと夢から覚めたような気分で傍らを見れば、ズミもまた同じようにどこか気の抜けたかんばせで見つめ返してきた。ザクロはゆっくりと笑い、いいものを見られましたね、と呟くと数歩歩み寄って、静かにズミの頬へ口付けをした。相手の体がなにか、纏う空気を変えたような肌触りがした。すぐに離れようとしたところを腕を掴まれたので、じわりじわりこみ上げるあのざわざわした感覚を飲み込みながら、肩の震えそうなのを堪えてザクロは瞳を瞑った。
 くるぶしを撫でる波は、もう温度すらわからない。
 キャモメたちの姿が消えてしまってからも、あの鳴き声は耳鳴りのように残っていた。