手際よく酢飯を切るように混ぜながら残りの酢を回しいれるズミの手つきは、いかにも料理人だけあって淀みのないものだった。
 けれども、流石に少し緊張している。
 ザクロはオヒツという初めて目にする調理器具の縁をしっかりと抑えて彼の酢飯作りの一端を担っているのだが、真剣な眼差しを飯台へと向けている横顔を窺い、それからまた彼の手元へと視線を落とすというのを繰り返してはそう感じていた。キッチンには酢飯特有の香りが広がっている。ビネガーの香りがこんなに前面に押し出されているのに、鼻につんとくるほどではなく何故だか食欲もそそられてくるように感じるのが不思議だった。このにおいは冷めれば気にならなくなるんよ、と当たり前のように言ったマーシュの様子を窺い見れば、ウチワというものを両手でちょこんと持ってどうやら待機している。「混ぜながら扇ぐのではないのですか?!」「そんなん素人やし」というやり取りをふたりが繰り広げていたのはもう数時間前のことで、あのとき調理の手順を確認し合った後からは完全にマーシュのほうに主導権は握られているのだ、ということだけはザクロにもよく分かった。言い換えれば、ほとんどそれしか分からなかったのだが。
 そもそもひと月ほど前のことであるが、手巻き寿司という料理をみんなで作って食べようと言いだしたのはマーシュだった。たまにはズミはんだけやのうてみんなで作りたいわあ、という一声でこの集まりは即決したようなものだった。彼女の言葉にはなにか有無を言わせぬものがある。そうでなくともザクロも同じ気持ちはあったし、ズミとしても悪い気はしていないようだった。しかしその手巻き寿司というのが、こんなにも未知の領域であったとは知らなかった。少なくともザクロは知らなかった。ズミは知識としては知っていたようだったが本格的に作ったことはないと言い、今日までにかなりの勉強と実践を積んできたらしい。それでも数時間前のように知識の齟齬が見つかるのであるから、郷土料理というのは奥が深いものなのだろう。マーシュさんはかなりグレードの高い料理をチョイスしたのですね、と口には出さずザクロは胸の中だけでしみじみ呟いた。
 ズミが酢飯を混ぜ終えると、次はマーシュが団扇で水分を飛ばす番になった。彼女はその細腕のどこから生み出されるのかという機敏かつキレのある手つきで酢飯を扇ぎ、香りはますますキッチンのすみずみまで行き届いていくようだった。ザクロは変わらずに飯台を抑えながらズミに顔だけを向け、腕を揉みほぐしている彼をねぎらった。あれだけ混ぜ続ければ疲れるだろう。大したことありませんと短く返したズミであったものの、その額には汗がにじんでいる。教えてあげようか一寸考えてから、ザクロはただそうですかと小さく笑った。短くない付き合いであるので、ズミという男の性格は多少なりとも知っている。
 おもえばこの人は、ひと月前からあらゆる下準備をしてきたのだ。世界でもそう多くない本場の寿司職人に指南を受けに行き、酢飯作りに必要な道具一式を買い揃え、変圧器まで用意して酢飯用の米が炊ける炊飯器まで買った。(ザクロは炊飯器という機械すら知らなかった)それだけではなく、今朝は早くに食材となる水ポケモンたちをひとりで釣りに行きふたりが来る前に捌き終えていたのだから、まったく頭が下がるとしか言いようがない。本人は当然のことをしたまでですと言うのだったが、影の苦労たるや相当なものであっただろう。とはいえ、ザクロとしても食材については任せるほかなかった。海鮮ポケモンは自らが捕まえるというのがズミの信条だったため、マーケットで買うわけに行かなかったのである。
 食用となるポケモンを捕獲するには、専用のライセンスが必要となる。かれらを苦しまずに食材としてのかたちにするまではライセンスを持つ者以外は携わってはならない、というのが世界共通の規定であり、反する者は法の及ぶ限りそれに従って処罰されるという仕組みになっている。この法律が最初に制定されたのはカロス地方であると言われている。背景には、ポケモンを食べるという文化が最も早い時期から人々に根付いていたという点と、それに伴いポケモンを苦しませることなく処理する技術に優れていた点が挙げられるだろう。ライセンス保持者の七割はイッシュとカロス在住であり、ポケモンを日常的に食べている人間もほぼ同じ割合である。勿論ベジタリアンも一定数存在するのだが、東洋に比べれば格段に少ない。東洋では日常的にポケモンを食用としている人間とくにトレーナーの割合は非常に低く、したがって寿司という食べ物も、ごく限られた人々に愛されてこんにちまで続いている料理なのであった。
「よし、もうそれくらいでいいですよ」
「よう扇いだわあ。ほなこれで完成?」
「もう少し冷ましたら、具を巻くといたしましょう」
 ズミは換気扇を回しながらどこか肩の荷の下りたような笑みを浮かべ、ふたりともお疲れ様でしたといってザクロとマーシュをねぎらった。それはこちらの台詞ですよと返すと、マーシュもこくこくと頷いている。あまり表情の読めない女性ではあるけれども、自分に同調してくれたのがザクロは嬉しかった。ズミはそれを受け流しきれなかったらしくはにかみがちにしてから、ひとつ咳払いをするとキッチンの脇に並べてあるスツールを目で示して「掛けていてください」と促したかと思うと、すぐに背を向けて炊飯窯や杓文字などをシンクで洗い始めてしまった。
 洗い物なら手伝いますよ、ザクロがそう声をかけようとしたのとほぼ同時に、ズミがぽつりと呟いた。
「めざめのほこらというのを知っていますか」
 何秒かの間、ざぶざぶと水の流れる音だけが響いた。
「なんやろ……うちは知らんよ。ザクロはんは?」
「いえ、私も知りません。何でしょうかそれは」
 顔を見合わせたマーシュの顔はきょとんとしたもので、ザクロにとっては少し珍しかった。恐らく自分はもっと怪訝そうな、あるいは間の抜けた顔をしているのかもしれない。ズミの口にしためざめのほこらというのが何なのか、本当に分からなかった。実際にあるどこかの場所を指しているのか、本や映画などのタイトルであるのか、はたまた全く別の何かであるのかまるで見当がつかない。スポンジで洗い物をするズミの背を見つめていると、そうですか、とだけ応えて彼はまた少し黙っていた。その態度は彼にしてはやはり珍しかった。他人に何かを言う際にはすでに彼の中で答えは出ているというのが、これまでの常であったのだ。
「ズミはん、どないしたん?」
「――ああ、すみません。実は一週間ほど前に寿司職人を訪ねてホウエンに行って来たのですが、その時知人にこんな話を聞きました。ある島では…女性はめざめのほこらという祠でこどもを身ごもり、死ぬとまた魂はいつかその祠へ戻るというのです。そうして命は廻っていると。さらに祠の奥に居るのは、彼らが信仰するポケモン……故にかれらは、決していかなるポケモンも食べたりはしないのだそうです。自分たちもまた、ポケモンから生まれた存在であるから」
 水の流れる音が止まっても振り返らないまま、ズミは静かに話し終えた。
「んー……それって民話とかなんかな? ほんまとちゃうやんな」
「…まあ、そのようなものでしょうね。実際に信じているわけではないでしょうが、古い信仰を今も大事に守っているということです。いや…しかしあの人はポケモン食を本当に嫌っているようでしたので…まあ、私は振ってはいけない話題を振ってはいけない人に振ってしまったと、そういうことです」
 そこまで言うとようやくズミはこちらへ向き直り、急にこのような話をすみませんねと少々ばつが悪そうに肩を竦めた。べつにええんよ、と笑って答えるマーシュの横で、ザクロは何と応えるのがよいのか分からずただ黙っていた。黙っていたけれども、ズミがなぜこんな話を始めたのかはなんとなく分かる。
 戸惑いながらも、共有してみたいと思うたぐいの話だ。あまりに大きすぎるものごとや、あるいは小さすぎるものごと、こういった命にまつわるものごと、などというのは。






 海苔という黒い紙のようなものは本当に食べられる物質であるのか、ザクロは口に入れる瞬間まで信じ切れずにいた。なにせ真っ黒なのだ。そのうえ乾いてがさがさぱりぱりしている。こんなものが一般的な食品であるなんてジョウトはどうなっているんだろう、とついつい思ってしまったくらいだ。寿司というのは固めた酢飯のうえに魚介類がのっている食べ物であるとぼんやりしたイメージを持っていたのに、マーシュが見本にと作ったものはそれとは遠くかけ離れていた。まずこの海苔の上に酢飯を置き、そこに魚の切り身や野菜などをのせて一緒に巻くのだ。出来上がったのは円錐形の黒い筒のようなもので、悪いと分かっていながらもザクロはズミに訴えるように視線を送っていた。すると彼は苦笑いのような表情を浮かべ、小さく頷きながらわたしもそうでした、というような目配せをしてきたので、そこでようやくこれは手巻き寿司という料理であるのだということを受け入れ、口に入れるに至ったのである。
「……意外とおいしいです」
「せやろ? カロスの人はみーんなそう言わはるよ」
 その反応はお見通しでしたとばかりににっこりほほ笑まれ、ザクロは微かに頬をひきつらせた。
「うちもほら、サメハダーの卵とかな、全然美味しそうに見えんかったんよ。けど食べてみたらおいしゅうてね……うふふ、ものは見かけによらんゆうことやね」
 マーシュの言葉に真剣な面持ちで頷くと、東洋の不思議を体感している気分になりながらザクロは手巻き寿司を作り始めた。すでにズミは三本も巻いていたし、マーシュはゆっくりながらも綺麗な外見で巻き上げていた。こういう作業は少し苦手なザクロであったので、せめて形くらいはまともになるよう慎重に酢飯や具の量などを配分しながらのせていくことにする。せっかくズミが釣り上げてきてくれたウデッポウやバスラオなのだから無駄にしてはいけない。食物を粗末にしたが最後、どんな叱咤を食らうか分かったものではない。
 そうしているうちにだんだん酢飯の適量が分かってきて、さらに海苔というのはしばらく手に乗せておくと湿気ってへなへなになるということなどを発見した。ああーあかんよ、半端に湿気ると噛みきれのうなるんよ、とマーシュがアドバイスをしてくれたので、その後はなるべく手の水分が移らないよう気をつけることにした。
「ところでマーシュさん。貴女はなぜ手巻き寿司を選んだのです?お好きだとは知りませんでしたが……」
 ズミがふと思い出したように水を向けた。
 そういえば、とザクロも顔を上げて彼女を見やる。
 ぱちりと瞬きをしたマーシュはふたりの顔を順に見てから、ふうわりと笑って少し下向いた。長い睫毛が彼女の澄んだ瞳に掛かる。
「うちなあ、友達とか家族と手巻き寿司やったことないんよ」
「えっ?」
「さっきの話やないけど、ジョウトってあんまポケモン食べへんの。そんでうちが生まれたんは……あ、街の名前とかはべつにええね。とにかくそこでは、ポケモンは神様なんよ。だいじなだいじな神様。せやから、ポケモンは食べたらあかんて教わってきたんやわ」
「では、手巻き寿司はどこで?」
「それがな、じつはイッシュで食べたんが最初なんよ。モデルのお仕事してたときに仲間の人たちと……せやね、あんときもおいしかったんやけど。でも今のほうがずっと楽しいわ」
 やっぱりお友達と一緒に作るのはええね、
 そう言っていつになく嬉しそうに笑うマーシュを見て、ズミとザクロは顔を見合わせて困惑から照れ笑いへと、じわじわと相好を移していった。鳩尾がこそばゆい。日頃あまり聞く機会のない彼女の素直な気持ちを、一度にたくさん受け取ったような心地がした。それから遠い地で生まれた彼女の、これまでに通ってきた葛藤のような仄暗い部分にもわずかに触れたように思われて、ザクロはそれが妙に尊いものに感じた。
「私も嬉しいですよ、おふたりと料理ができて」
「もちろん私もです。今日は知らなかったことをたくさん教わりました…とても高い壁を登った気分です」
 六つめの手巻き寿司を巻きながら、あなたらしい例えだ、といってズミが笑った。
「……それにしても、とても興味深いですね」
「ええ?」
「何がです」
「さきほどからのおふたりのお話です…ズミさんのお知り合いの方は、自分たちがポケモンから生まれたので食べることはできないとおっしゃり、マーシュさんの故郷ではポケモンは神様なので食べないとおっしゃる。これはまるで反対のことをおっしゃっているのに、やはりポケモンを食べないという思想では共通しているのです。あたかも私たちがポケモンであり神でもあるような…とても不思議な感覚です」
 話し終えた時には、誰も手巻き寿司を巻く手を動かしてはいなかった。広いキッチンはやけにしんとして、換気扇の回る音だけがどこか遠くで鳴る風のうなりのように意識のすみのほうで鳴っていた。心のままにとつとつ口にしていたザクロはふたりの視線が突き刺さらんばかりに自身に集まっているのを感じ、はたとして順々にふたりの顔色を窺い見た。マーシュの大きな黒水晶のような瞳。ズミのいつでも確たる意志を湛えた瞳。それらがじっとこちらを見つめている。何かまずいことを言っただろうか、と遅まきながらに不安になった。これはいわば、タブーに触れるようなことがらだ。自分の気づかぬところで他人のタブーに触れてしまうという場面はままあるが、それを彼らにしてしまったのだとしたら申し訳のないことだ。
 しかしその心配を裏切るように、ズミは眉根をちょっと開いて珍しくふふっと音にして笑った。それを合図にマーシュも真似をするように笑い、あたりの静けさはたったそれだけで掻き消されてしまった。換気扇の音はすぐそこで鳴っている。きょとんとしてしまうザクロを置き去りにしたまま、ふたりはそれから顔を見合わせてなにごとかを共有するふうにしてから、揃って控えめな拍手をはじめた。酢飯のついた手で拍手する男女の不可思議さは今しがた己の口から紡がれた内容をはるかに凌駕して、ザクロの頭上を疑問符で埋め尽くした。
「ほな、うちらもひょっとしたらポケモンなんやろか」
 花の咲いたようなマーシュの声が拍手の音と調和して、キッチンは華やいだ空気に満ちあふれた。ザクロがまだぽかんとしているうちにズミがそうかもしれませんね、と至極まっとうそうな顔でいらえたので、ザクロはようやくふたりの言わんとしていることが掴めたような気がした。





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