朝ぼらけの蒼い冬枯れの景色は深々と広がって、混じり込んだ有色物から温かい色だけを吸い取っているようだった。
 見晴らしのよい研究所の庭は白んだ風が吹きわたり、木々の色合いは失せ、うらぶれた寂しさを漂わせている。空の白さと木々の剥き出しの枝の白さなどは殆ど差異のないほどで、葉のすべて落ち切ったプラタナスの黒々とした実だけが中空に浮かんでいるふうに見えた(なにも洒落で植えているわけではない。ミアレにはどこもかしこもプラタナスだらけなのだ)。春先に塗り直した実験棟の壁はところどころ汚れてはいるがやはり白く、この景色の中にあってはいくらか蒼白くさえあった。常緑のアイビーだけが水彩絵の具で散らしたような斑模様を白壁に押し広げており、それは春に見たものと大して変りはない筈なのにひどく沈んだ彩度で、しかし木枯らしからこの薄ら寂しい景色を守るただひとつ残された砦のように思われた。薄曇りの空はどこまでも曖昧な水色でミアレの街を覆い、庭木のかなたにぼんやり光るプリズムタワーにもその色を映しこんでいた。鳥ポケモンの一匹でも横切れば視界も華やぐかと期待をするも、冬越えに忙しいのかその影もない。
 真冬を迎えようとも雪の降ることは稀であるけれども、こういう寒々しい空を見上げるたび、いっそ雪が降ってしまえばいいとプラターヌは思う。シンオウに身を置いていた頃体験した攻撃的な豪雪と横殴りの風はさすがに勘弁願いたいが、雪というのはまんざら疎んだものでもない。あの何もかも包み隠す白さとぼうやりした輝きを見渡しながら、肺まで突き刺す冷え切った空気を吸い込んだ日のことを今でもよく覚えている。雪というのは音を吸い取ってしまうのだということを、そうして代わりに光を放つのだということを、シンオウに赴いて初めて知った。自らの呼吸音だけが鼓膜を震わし、吐き出した息は白いもやになって空へ昇っていく。遥かに見える針葉樹林と白い空に溶け込むように聳えるテンガン山、それらに抱き抱えられるように強かに生きる、シンオウの人とポケモンたち。
 ひといき大きく吸い込んで勢いよく吐き出してみたところ、ほんのわずかだが白く色づいたようで、プラターヌは目を細めながら肩の力を抜いた。一体僕は何を臨もうとしていたのだろう、と苦笑いを浮かべる。記憶に鮮明なあの雪景色は確かに清廉潔白を体現したものとして映るかもしれないが、雪に覆われていたものは春になればまた姿を現すのだ。あれは浄化された世界ではない。彼が望んだ――世界ではない。
「博士、お客様がおみえです」
 夜勤をしてくれていた研究員の声に振り返ると、些か気づかわしげな眼差しを向けられていることに気づいておもわず頭を掻いた。通していいよと応える。彼の白衣もまた蒼白く翻ったが、その爪先の向かう先には木目の見えるフローリングが妙に温かな色合いで室内を染めていた。一瞬目がくらむ。それから目元を持ち上げてプラターヌは薄くほほえんだ。あそこにポケモン達が居ればもっともっと明るく暖かく賑やかだろう、と想像しながら、手の甲を鼻がしらに押し当てて冷えていた肌を覆った。
 不意に思い出す言葉があった。

『真実だけでは生きられぬのでしょう』

 掠れがちであるのに幼さの残る声色のほとりに、秋霜のごとき諦念がはらまれている。それでも笑みはまだ柔らかく、長年暮らしたこの土地への愛しさと住人たちへの親しみと、その美しいいとなみに潜む矛盾への戸惑いを込めた憧憬が浮かんでいる。プラターヌは遠く、数世紀前からその姿を保つ洗練された庭園を見やる振りをしながら、まるで言い聞かせるように噛みしめるように呟かれた彼の言葉を胸のうちで反芻した。この歳近い男の中に、確かに文献でしか知らぬ為政者のすがたを映していることを自覚する。貴方も彼らと同じ苦しみを得たのかと目を細める。できることならばこの殊更真っ直ぐな男には、同じ思いはせずに生きていってほしいと望んでいたけれど。それさえ誰の意のままでもなく。それこそが彼の血筋の通ってきた道の証であって、彼もまたこの道を踏んだのだ。
『辛いんですか』
『……嘆いている暇はありません』
『フラダリさん、貴方が思うほど世界は――』
 言いかけたところで彼の横顔がぐるりとこちらを向き、その真摯さに口をつぐんだ。アイスブルーの瞳が蒼炎のようにぐらぐらと燃えているように見えた。先程までの諦念を塗り込めた笑みはなく、凍り付いたように唇は引き結ばれていた。ミアレシティの八月の空は濃密な青さで熱気をたたえ、白雲をいだいては遥かに南へと広がっていたけれども、眼前の面差しにプラターヌはその暑気も忘れて寒気を覚えた。
『協力してくださいますね、博士』
『……え』
『人とポケモンはこのままでは居られないのだ』
 貴方がたが進めているメガシンカの研究を、私もお手伝いしたい。資金も人手も提供します。塵労も惜しみはしません。そう固い口調で告げてきた彼の眼をしばし見つめてから、些か気抜けした心地で、しかし何か違和感を宿したままそれでもプラターヌは頷いた。研究者としては願ってもない申し出であったし、頷かなければ彼はこのまま自分の前から去ってしまうような予感があった。そうして何か取り返しのつかぬ方へ走って行ってしまうような、うすら寒い気配が確かにしたのだった。プラターヌが首肯したためにようやく強張りを解いたフラダリは、ふ、と眉根を緩めて自邸の庭園を見やった。真夏の陽射しを受けて、彼の瞳はいっそう輝いているように見えた。いきどおりと諦めの中に、まだ確かに愛おしさは残っている。そういう彼の横顔を見つめたのち、プラターヌもまたその視線を辿った。美しく整えられた庭園は芸術と呼ぶに相応しく、成熟した木々の豊かな彩りは瞳に染み渡るようだった。
 ああこれはこの人によく似合う景色だと、プラターヌは思った。



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「結構です、わたくし急いでいるものですから」
 お掛けくださいと戸惑い気味に声をかける研究員にすげなく、されども笑みを絶やさずに断りを入れる彼女の視界に生えるルビーレッドの髪色が、朝日の差し込む応接室の中でひときわ鮮やかに光をはじいていた。ドアを開けた瞬間にきっちりと焦点を合わせてきたサングラス越しの鋭い眼差しにたたらを踏んでいると、その間にヒールをかつかつ鳴らしてその人はすぐ目の前までやって来ると慇懃に会釈をした。それだけではなく彼女がサングラスを外したことに、プラターヌは少しばかり瞠目した。日頃テレビ中継やホロキャスター越しに一方的に目にすることはあっても、個人的にこの女性、パキラを相手にしたことは殆どない。
「朝早くからの失礼をお許しください」
 早口に淀みなく告げるその声はまさしくアナウンサーのそれであったが、裸眼で見つめられていることに少なからずどぎまぎとしながら慌てていいえとんでもない!と応えて笑みを浮かべると、パキラもまた意味ありげに笑みを深くした。光の具合かとも思われたが、そのかんばせは確かにかすかながら疲れを滲ませていた。
「回りくどいことは嫌いですので」
 研究員を下がらせ二人きりになると、そう言い置いてパキラは両腕を組んでかぶりを振るように一度うつむき、眩しげに眼を細めた。入り込む陽射しが眩しいのかとブラインドへ歩み寄りかけたが、それより早く彼女は口を開いた。
「あの方は無事でしょうか」
 押し込めるような声だった。
 プラターヌは幾ばくかの沈黙を保ってから、彼女の視線が戸惑いがちに上向き自らのものと交わったのを確かめると、口角を緩めてゆっくりと頷いた。
「……眠っているよ。まだ一度も目を覚ましません」
「怪我は」
「命に関わるようなものは無いですね。奇跡的に」
 それを聞くと彼女はつめていた息を短く吐いて、腕組みを解くと目に見えて肩の力を抜いたようだった。そう、と短く呟いた声には今しがたまでの繕われた張りがなく、老けこんだような幼くなったような不思議な響きでプラターヌの耳に届いた。彼女がなにか次の声か行動を示すまで待っていると、それに気が付いたのか少々きまりの悪そうに口元を歪め、パキラは再びサングラスを掛けて小さく咳ばらいをした。
「……何も訊かないんですね」
「訊いてほしいのかな」
「――ふふっ、いやな男」
 自嘲とも嘲笑ともとれる声色でそう投げ捨てるよういらえると、彼女は足早くプラターヌの脇をすり抜けてドアノブへ手を掛けた。ヒールの音が急かしたてるような響きで天井に跳ね返されて二人の頭頂を打った。問いかける視線だけを向ければ、それを待っていた双眸はにいと細まってすぐに逸らされる。間近で見るとその痩身が際立って見え、ともすれば折れてしまいそうな心許無さを感じさせた。
「わたくしとあなたは同罪……そうお分かりいただけるかしら」
「どうかな、貴女の罪を僕は知らないから」
「だから、同じよ。一度あの方を見捨てた」
 生きているなんて思わなかったけれど。
 今度ははっきりと自嘲がちにほほえむと、パキラは肩を竦めてドアを開け、彼女ひとりだけが通れるくらいのか細い隙間をつくって爪先を滑らせた。見送りは要らないという無言の主張であった。
「あの方をお願いします」
 ラッチが噛み合わさる音だけを残して、ドアは静かに閉まった。
 


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 一応のつもりでノックをするとすぐにスライド式のドアが開いたことに、プラターヌは驚いた。てっきりまだ眠っていると思っていたからだ。博士遅いですよ、と潜め声で言いながら顔を出したカルムは少し責めるようにじっと見上げてから相好を緩めると、パキラさん来たでしょ、といって廊下の端を覗き見る仕草をした。やっぱり君が知らせたのか、だっていくらなんでも早すぎるものねえ。苦笑がちに腰に手を当てると、プラターヌは空いたほうの手でごく自然に少年の頭を撫でてから慌てて腕を引っ込めた。もうこども扱いしないと決めたのに、やはりまだこの子が初めて研究所に来た日のことを思い出してしまう。
 カルムはそういう複雑な心境を知ってか知らずか照れたように帽子を被ると、それじゃあ、と告げながら後ろ手でドアを閉めた。中に音を入れたくないのだろう。ちらと見えた白いカーテンをドアの向こうにみとめてから、プラターヌはカルムと視線を合わせた。
「もう行くのかな?」
「オレ、挑戦状出してたのにすっぽかしたんですよ。だから今日はリーグまで謝りにいかないと……パキラさんきっついし」
「あはは、僕もわかる気がする」
 これぞカロス男という若干情けない笑みを二人して浮かべてから、幾らかの沈黙が落ちた。
「――博士、フラダリさん、目を覚ますと思いますか」
「うーん、それは……僕にも分からないよ」
 すまないね。
 付け加えた謝罪にカルムは勢いよく首を振り、俯いた角度から少し困ったふうにプラターヌを見上げた。その戸惑いの正体をよく理解しているつもりであるので、何も言わずに肩をぽんぽんと叩いてやる。この少年が、自分にとってはおそらく羨ましかった。こうして戸惑いながらも正しい道を踏みしめてゆく力が。いつしかこの身から零れ落ちていた、未来をおそれず切り開く力が。
「きみには本当に、何度お礼を言っても足りないよ」
 夜更けに研究所を泥だらけで訪れたカルムと、彼のオンバーンが背に乗せた人物を目にした時の、あの驚愕をどう表現したらよいのか今でも分からない。セキタイの瓦礫の中からフラダリを見つけ出したのはカルムと、彼のポケモンたちだった。あの膨大な光の落下を目にした誰しも、この自分もかつての部下でさえも諦めていた彼の生存を、この少年だけは諦めなかった。兵器が発動する瞬間まで近くに居たからこそ諦められなかったと彼は言ったが、それでもその意志には驚くほかなかった。
「博士、あとは頼みますね」
 大きな瞳が朝陽を受けてきらめいた。まだ困惑を残しながらも、しかし悔いは残らぬ澄んだ瞳だった。君は正しいことをしたのだと、言ってやる必要はもうなかった。自身が選んだ道に戸惑いながらも、おそれずに自らを信じる彼の、若い推進力はとても美しかった。
 かたわらを通り抜けたカルムに軽いデジャヴを感じながら、プラターヌは振り返らずに手を振った。
 ゴム底が床を踏む音が、しばらく耳に残っていた。



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 冬枯れの景色にも温色は訪れる。
 治療室のブラインドをわずかに開いてその隙間から外を窺い見ると、黄色味を帯びた光が木立ちを塗り潰すように庭へ差し込んでいた。研究用も兼ねて設えた池にはヤヤコマとポッポが水を飲みに集まっているばかりでなく、研究員たちが気を利かせてくれたのだろう、ボールの中で眠っていた研究所のポケモンたちが庭へ出て遊び始めている。水彩を散らしたようなアイビーはきらめくように鮮やかに広がり、木々の枯れた枝もまたあの白さが嘘のようにひたすらに冬枝の色をしていた。あの蒼白く静まり返った夜明けが嘘のように、温められた景色が広がっているのだった。
 プラターヌは窓際から離れると、ベッドに横たわる男の傍へ寄ってゆるゆると腰を丸めた。まるで死んだように静かに眠っているフラダリの胸は、小さくではあるがしっかりと上下を繰り返している。点滴の減りも問題はなさそうだった。プラターヌはじっと彼の閉じられた瞼を見つめたのち、その額と頬にゆっくりと順に触れてから、押し寄せる安堵に息をついた。変わらぬ体温が宿っている。
 包帯を巻かれてはいるものの命に関わる傷がなかったのは、実に奇跡と言ってよい。あるいはあの兵器の力で癒されてしまったのかもしれないが、真相は誰にも分からなかった。こうして眠り続けるのか、明日にでも目を覚ますのかさえも分からない。覚ましたところで元のままの彼でいるのかどうか。彼がこの先の人生を歩んでいけるのかどうか。そうして――ゼルネアスのエネルギーを秘めた光を浴びた彼が人として、命を終えることが出来るのかどうか。すべて、誰にも分からないことだった。
 それでも彼がこうして息をして目の前に居ることが、ひどく嬉しい。
 あの八月の刺すような陽射しと突き抜ける晴天、いきづく美しい庭園と緑のむせ返るような匂いを思い起こし、プラターヌはそれを眼窩に押し込めるように強く目を瞑った。戸惑いながら迷いながらそれでも正しい道を選び取ろうと燃える瞳を、やはり僕は尊いと思う。浄化された世界とは何か、未だもって知り得ることはないけれども、白くおおわれた雪原よりもあの夏の日にそれを求めたい。貴方がまだ世界を諦めなかったあの日に。もう僕たちの分水嶺は過ぎてしまったのだとしても、貴方の愛した美しいカロスは、変わらずに今もあるのだから。

「フラダリさん、貴方が思うほどこの世界は――――」

 








熙々たるあわいを瞠目して見よ