「お終いだ、ミチーナは」

埃臭い空気に紛れるようにして落ちた声が、ほの暗さの底にわずかに波紋を立てた。瓦礫にまみれたそこはほんの数刻前まで神殿の中心部として機能していた場所であったが、今ではそれと分からぬほどに倒壊し、冷え固まった銀の水の不気味なうねりに全てが巻き込まれてしまっている。辺りには近衛ひとり見当たらない。魔獣も下働きも皆、あの騒ぎの中でダモスが避難させたのだ。あの男ならそうすることが当たり前に思えたし、少なからず自らがこの惨状の一因である以上、犠牲者が出ていないのは喜ぶべきであろうとギシンは内心でとつとつとひとりごちた。
後悔はなかった。未来のこども達には散々なじられたが、この土地が生き続けるためなら他はどうなってもよかった。土地あっての人であり魔獣であり、正義や倫理などいくら振りかざしたところで先立つものがなければ誰もかれも仲良く飢えて死に絶えてゆくだけだ。それなのにダモスはどこまでも愚かな男だった。徒に命を永らえ続ける神に宝玉を返し、我々にただ虚しく死を待てと言うのだ。どこまでも愚直にして清澄、それがあの男らしいということはギシンにも痛いほど分かっていたし、人としてそうあるべきなのだろうと胸の奥では知っていたが、どうしたってミチーナが衰えていくのを二度とこの目で見るのは御免だったのだ。綺麗事で腹は満たされない。それだから、出来得る限りのことはした。神の断末魔を聞きながら、こども達の姿が薄れゆくのを嗤いながら、これでよかったのだと信じるほかに道などなかった。たとえ将来的にこの地が跡形もなくさら地に帰るのだとしても、それはもはや別次元のことのように思われた。しかしそれももはや、
「ギシン、まだ諦めてはいけない」
「っなぜ!あなたがそんなことを言える!?」
瓦礫を殴りつけた拳から血が滲んだ。勢いで立ち上がろうとしたものの、痛めた足が全身に激痛をもたらし、感情より先に勝手に顔を歪ませた。奥歯を噛む。結局すべてに敗北したこの身を終わらせるだけの諦念を抱えて膝を折ったというのに、惨めに生き残ったうえに他でもないこの男に救われるとは、どこまで心を擦り潰せば済むと言うのだろう。これが神殺しを目論んだことへの罰だとでものたまいたいのだろうか、ダモスに翳りを落とさぬようにと、それすらアルセウスが残した見えざる意思なのだとしたら、もう感服するしかない。ざりりと砂を擦りながら体勢を戻せば、がっしりとした腕が伸びて背を支えられた。もうそれを弾く力も湧かない。実際のところ、ひどく疲れていた。
「お前も私も、ミチーナを思う気持ちは同じだ……もう一度共に、「もういい、もう私のことは放っておいてくれ……」
「ギシン、」
「ミチーナを愛していた、守りたかった。だがもう終いだ、私はもうミチーナが衰えてゆくのは見たくない……それに、」
うわ言を繰り返しているようだと自嘲しながら項垂れていた頭を持ち上げると、眉をひそめてダモスがじっと言葉の続きを待っていた。松明の失われた薄闇の中でもひと際明るく澄んで見える水色が恨めしく、またわけもなく惨めな気持ちになる。喉の奥が締めつけられる。声が出ないことを期待して笑いをこぼしてみたが、予想に反して悲痛な音が二人の間に落ちた。ダモスはそれでもまだじっとこちらを見ている。
「――もう誰も、私を受け容れない」
こんなことを告げる気などなかったのに、ダモスの目を見ていたらそれもどうでもよくなってしまった。口角がひとりでに諦めの笑みを浮かべている。この男は人を恨み嫌い罵ることを知らないから私の元へなどやって来たが、他は違うのだ。超克の力によって私の手から魔獣どもを解放しておきながら、馬鹿なことを言う。
あなたは本当に人が善すぎるのだ。嘲りのつもりでそう最後に呟いたが、あろうことかダモスはこちらの意など届かなかったかのようにふっと微笑んだ。水色が滲む。そこに自らの赤色が映り込んだような気がしてギシンはにわかに瞠目したが、長く目を見ていることはできなかった。ダモスのあちら側の暗がりから、聞き覚えのある鳴き声が耳を打った。
「……お前達」
「私が見つけて連れてきたんだ。あの時は我々の心に共感してくれたが……お前のことを今でも主人だと思っているようだ」
一度は牙をむいた二体の魔獣が、こちらの様子を窺いながらゆっくりと近づいてくる。ヒードランとドータクン、どちらも無事に逃げたろうかと一抹の不安を抱いていたのだが、どうやら杞憂に終わったらしい。なぜ戻って来たのかと声をあげることは出来なかった。あまりにもタイミングが良すぎた。図ったのかとダモスに視線を戻してみたが、慈しむような眼差しを二体に向けているだけで、到底そうは考えられない。墓穴を掘ったのだと思った時には目の奥がちりりと熱くなり、それ以上何かを喋るのは難しくなってしまった。
「もう一度、はじめからこの土地を育てよう。あの未来のこども達のためにも」
俯いたまま無意識に伸ばしていた指先に触れたのは、ひやりとしたドータクンのボディだった。ドン、と何かを伝えようと鳴いているらしいが、そちらを見遣ってやることは出来そうになかった。未だに背を支えているらしいダモスの手が静かに肩を叩き、その弾みでギシンの開いたままの両眼から水滴が落ちた。すぐに地面に吸い取られたそれを焦点のぶれたまなこで眺めながら、果たして自分が頷いたのかどうなのかさえ定かではなかったが、ギシンの脳裏にはいつか、こうして雨水の恵みさえ追いつかないほど枯れたミチ―ナの土地を耕すダモスの影が見えたような気がした。細かに息を吐く。最後までダモスが諦めないのなら、その背を追い続けるしかないのだろう。ギシンは意図せず掠れてあらゆるものが綯い交ぜになったうめき声を漏らし、そうして顔をしかめながら涙をこぼして、やがて誰の目にも映らぬよう、かすかに笑った。







明け方の星は落ちない












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