――僕がどうしてここまで確信的に自らを他者の前に曝け出してゆくことが出来るのかということを、過不足なく理解できる者などこの世にはたったのひとりも居ないだろうと思う。そういうふうにできている、そういうふうに生まれおちたのだと告げると彼は、いつかの日に僕をじっと見つめて、少しだけ眩しそうな顔をしていた。 何も考えずに、どこまでも行ってしまいたかった。それでもただの人間が全速力で走れる距離なんてちっぽけなものであるので、息切れを起こして肺が限界を訴えたところで、ついに震えていた膝が動くのをやめた。体力に自信はあれど瞬発力にはもともと乏しかったのに、よくもまあここまで走ったと思う。酸素が足りなくなった頭では、そんな呆れを保つことすらできなかった。 滝の中に居るような雨音に聴覚がしびれている。乱れた髪が下へ流れて額や頬に貼りつく感触が、なんとも気持ち悪かった。揺れていた視界が急に静止したせいで、脳みそが追いつけずに眩暈にも似た感覚が襲い、ただでさえ悪い視界がさらにぼやける。ぐらりと前のめりに体が傾いだ。泥水にまみれた地面にダイブするなんてみじめな真似だけはしたくなくて膝に手をつくと、街灯にぼんやり照らされた路面に水滴が続けざまに落ちるのが見えた。波紋が無数に広がってもうぐちゃぐちゃになっていた。それから治まる気配のない今にも破裂してしまいそうな胸を抱えて、海までずっと続いている運河沿いの石塀に縋りついてから、首を折って意味のない呻きを漏らした。まさか嗚咽などではないと思いたかったけれども、苦しくてもう、正直そんなことはどうだってよかった。 胸が苦しい、気を失いそうなほど苦しい。走り続けたためだけではない、もっと細胞ひとつひとつからにじみ出すどうしようもない切なさがいつまでも鳩尾からせり上がってきて、胸を満たし喉元で渦巻いている。大きな呼吸を繰り返してやがて心音は静かになった。それでも震える呼気はまだ溢れてくる。絶え間なく流れる暗い水に視線を注いでいると、さらさらと心地よいはずの水音がどうしてか悲しく思われて奥歯を噛んだ。 死ぬのが恐ろしいと感じるのは、ずいぶんと久しぶりだった。それも仲間に対して、覚悟を誓い合った同志についてそんなことを思うのは、凄まじき背信のような気さえした。雨がこの脆弱になった精神を洗い清めてくれることを期待していたのかもしれない。しかし結果はさらに胸中のざわめきを撹拌したに過ぎなかったうえ、かつてない惨めさを全身に与えていた。 (こんなのは僕ではない、) 反芻するほどにはらわたをナイフで引き裂かれているような痛みがこみ上げて、それを切なさと呼ぶのだという自覚に愕然とする。彼のいつか死ぬ日について考えただけで居ても立ってもいられなくなる。命を落とす可能性なんていくらでも用意されていたし、話題に出すことなど常の事であったはずなのに、ついに耐えられなくなって彼の前から飛び出してしまった。ヘゲモニーとして確たる意志を宿していると信じていた自分が。まさか、たったひとりの男のために。 「こんなところに居たのか」 土砂降りの中で、記憶の中のそれよりも幾分余裕のない声でモールは僕の名を呼んだ。ばしゃばしゃと水溜りを踏みながら。ぎくりと肩を揺らし、反射的に首を振って来るなと声を上げると表情を曇らせて彼は立ち止った。窺うようにこちらを見る瞳には、幼い面影が残っている。まさか来るまいと信じていたにどうしてここに居るのか、尋ねようとするより先に無情にも数歩こちらへ歩み寄った彼は、泣いてんのか、と真面目な顔をしながら声を潜めた。 「まさか。雨に決まってるさ」 暫しの間耳を打ったのは、その言葉の心もとなさと密度の高い雨音だけだった。モールの瞳が逡巡に伏せられ、困ったように後頭部を掻く、その仕草に僕は思わず叫びだしたくなって顔を背けた。そんな顔をさせたいわけではなかった。幻滅されたくなかった。聡明でいつも正しく死を恐れず人々の先頭に立つ自分はいったいどこへ消えてしまったのだろう。 遠くで微かに人の声が聞こえた気がして、縋るように目を向けようとした刹那、ずぶ濡れの腕を勢いよく掴まれて心臓が大きく鳴った。銃で撃たれたような衝撃だった。間近に見るモールはその瞳だけが彼らしくなくもどかしさに焦れている印象を受けたが、そんなことを思ったのも一瞬のことで、口を開くよりも先に引っ張られた腕と連動するように足が前へ動いていた。水溜りを割る音が甲高く響いた。何だと言うのだ訳が分からない、いや違う分かってはいるが展開に頭が付いていってくれないのだ。おい!と息切れを起こしながら呼びかけてみれば僅かに振り返った彼は、もう僕に負けず複雑に表情を歪ませていた。速度を落とさぬまま、呼吸と雨音に混じって声が届く。 「泣くなら俺の前で泣け」 最後のほうでは呻いているかのように消え行った台詞に返す言葉を見つけることも出来ず、ただ走り続けてその濡れた髪に視線を縫いとめられていた。心音が早鐘のように喉の辺りまで震わせているのは、一体どうしてなのか。もうとっくに知っている。返事をしなければと思い息を吸い込めばひゅう、と空気が音を鳴らして苦しさが増した。目を凝らすと、はるかに進む先には人々の暮らす家明かりが小さく映り、そのすぐ後にはもう自分が走っている理由も目の前の男が言った台詞も頭の中を駆け巡って、思考の渦を即座に氾濫させた。それでも色を失うくらいに強く腕を握りしめている指先とそこに繋がる背中を見詰めて走る他に、自分には何も出来なかった。言葉のひとつも返せずに、気づけばただ早くあそこへ辿り着いて彼の顔を見たいと、それしか考えられなくなっていた。 /水浸しの春 |