がやがやとした雑踏の中を歩いていても、スタンの姿を見失うことはあまりないだろうと思う。数年前から急に伸び始めた身長は自分よりも高かったし、トレードマークの青い帽子は色とりどりの頭のなかでもよく目についた。それは僕がいつも青色の帽子を見慣れているからというわけではない、とは言い切れないし、今は僕が手を引っ張って歩いているから何にしてもはぐれる心配はないだろうけれど。とにかく他の同級生たちに比べてスタンは落ち着きもあって一緒に歩きやすい相手だった。いや今は走っているんだけど、それは置いておいて。「おい手離せよ!ゲイだと思われるだろ!」しきりに言いながらも手を振り払ったり殴ったり蹴ったりしてこないところも、スタンの良いところだと思う。僕だって本当なら手なんか繋いでいたくないけれども、今だけは絶対離れてもらうわけにはいかないので、固いのか柔らかいのかもよく分からないスタンの手をむんずと掴んで人込みに揉まれていた。田舎だからただでさえ人が一か所に集まりやすいのに、日曜のショッピングモールは輪をかけて客が多かった。
「トゥイーク! 走るのやめろよ、危ないぞ!」
「だ、だめ!」
「何なんだよお前、あイテッ! 俺きっと明日には痣だらけだよ!」
「アッ、だって追いつかれちゃうかもっ!」
 何かにぶつかったらしいスタンが恨み言を言ってきても、脚を止めずに小走りを続ける。ああきっと怒っているだろう。振り返って表情を確認したいのはやまやまだったものの、少しでも前から顔を逸らすと雑踏からはじき出されそうなので出来ない。せめてもうひとことふたこと返しておこうと思って口を開いたら、すれ違った大柄の男とぶつかってよろけ、更に後ろから来ていたスタンにぶつかった。ほらまた!と声を上げて僕の肩に置かれた手にはじかれるように、僕はまた走り出した。ごめんと叫ぶのを忘れないようにしながら。

「そんなに強く握らなくても、逃げないって、げほっ」
「ごっごめんね、でもはぐれたら困る、から」
 ようやく足を止めたフードコートでマラソンの後みたいに肩で息をしながら、切れ切れに会話をする。背中を丸めて膝に手を置いていたスタンは、大きく息を吸いながら顔をあげて僕を見ると、怪訝そうに眉を寄せた。
「なに、お前ら今度はマジで喧嘩でもしたのかよ」
「アッ、違うよ! ……違うけど、クレイグは怒ってるから、僕が悪いのかも」
「なんだよそれ、面白そうじゃん」
「アーッ!」
「冗談だよ、落ち着けって」
 悲鳴じみた声を出してしまった僕にようやくいつものような笑みを向けると、スタンはポテトとドリンクが頼める店のほうへと歩いて行ってしまった。僕は慌ててその後を追いながら、クレイグが近くに来ていないか辺りを見回してみた。青い帽子はスタンのほかには見当たらない。「お前何がいい?」「こ、コーヒー」「ああ聞くだけムダだったよな」スタンは肩をすくめると、じゃあ席取っとけよと言い残してカウンターへと向かった。ようやく追いついたのに、またひとりになる。席を取るなんてプレッシャーだよ!と呟きながらも急いでテーブルを探すと、子供連れやカップルなどで混んではいるものの、広いフードコートなので座れないことはなかった。僕はなるべく柱やポップで隠れるようなテーブルを慎重に選んで、ふたりぶんのスペースを確保した。


『僕がいやになったら、言ってくれる』
 クレイグとふたりきりになった時、僕はよく彼にこの頼み事をする。ふたりきりになれるタイミングというのはそんなにあるものではないので、言えたらラッキーというか、もはや意味などない条件反射のようになっていると思っていた。たいていテレビを見たりゲームをしながらそれを聞いているクレイグは、ああ、とかうん、とかそんなようなやはり意味のないいらえを寄越すだけだったので、そういうものなのだろうなと安心していた。それと同時に、今はまだ時期ではないんだという安堵もしていたのだと思う。僕はみんなと違ってちょっとおかしいしクレイグみたいに行動力もないので、突然用済みを突きつけられるのは当たり前だと思うのにやっぱり怖いのだ。諦めてはいるつもりなのに、やっぱり捨てられるのは怖いのだ。
そうして今日も同じ言葉をかけ、同じ返事がくることを期待していた。だけど、今回はいつもと返事が違っていたのだった。
『……お前さ、俺に嫌われたいわけ』
 この時の僕の衝撃は、今までに受けたことのないほどのものだった。うっかり何もしていない時に尋ねたのが間違いだったのだ、と一瞬でものすごく後悔した僕は、クレイグの言葉を聞かなかったことにしてすぐさま踵を返した。走り出した頃には、涙で視界は歪んでいるし鼻の奥は痛いし動機息切れはするし、とにかくひどい有様だった。自分でもびっくりするくらいの衝撃だったのだと今にして思う。
更にそれに追い打ちをかけるように、あろうことかクレイグは、僕の前に先回りして立っていた。ぼやけた視界の中で、青いシルエットが棒のように伸びていた。
『アッ! ど、どうして追いかけてくるの!?』
『どうして泣くんだよ』
『だって! それはクレイグが』
 言いかけて、しゃくりあげてしまって声が出なくなった。クレイグは苛立ったように一歩近づいてくる。端正、というカテゴリに分類されるであろう黒々とした形のいい両眼が不快そうに光を放っているさまを、はっきりと見ることが出来なかったのは僕にとって幸いであったと思う。止まる気配のない熱い涙によって眼球が溶けそうだと思いながら、ひりついた喉でどうにか息を整えた。ちがうんだよちがうってばぼくはただこわいだけで、そういう台詞が頭に浮かんでは消え、結局うまく声すら出せなかったので嗚咽を飲んで無駄に沈黙が流れた。
 少しするとクレイグがまた踏み寄りながら名前を呼んできて、それをきっかけに逃げなければと思った。クレイグ相手に逃げるという発想をしたことがなかったけれど、ともかく今は向き合っていてはいけないと思い、足を踏みしめて走り出す体勢に入った。
『あれ、何してんだよお前ら』
 スタンが通りかかったのは、ちょうどその時だった。


 カランカラン、とグラスの中で氷が音を立てた。スタンがコーラをぐるぐる掻き回している。上に乗っているバニラアイスが少しずつ溶けて鮮やかな色の中に流れていく。コーヒーを飲んでだいぶ落ち着いた僕はあらためてスタンにごめんとありがとうを繰り返し、それから事の次第を説明した。僕ははスタンの顔を見たあの瞬間、彼の腕をひっつかんでショッピングモールへと駆けだしたのだった。
「……お前らってバカだなー」
「き、きみには言われたくないよ」
「いやマジでさあ、これについてはお前らバカだぜ」
 頬杖をつき、クリーミーになったコーラを飲みつつ指をさしてくるスタンに僕はいつもの奇声をあげた。だけど確かに今回は僕のせいでもあるようなのでそっと目を逸らし、自分のコーヒーを一口飲んだ。少し冷めてきていた。
「昔からそうだけど、トゥイークはネガティブすぎなんだよ。カイルも大概だと思うけどお前には一生かかったって適わないよな。ネガティブなんていいことないじゃんか、お前は自分の可能性を自分でダメにしてんだって」
「……アッ! なにそれスタン、こんなプレッシャー耐えられない!」
「またそれかよ」
 スタンが呆れたように眉をひそめたけれども、僕は喋りつづけた。
「だって、クレイグって何考えてるのかよく分からないし怖いんだよ、女の子にも人気あるし…いつどうなるか分からないのに、嫌いになったら言ってもらわないと僕気づかないかもッ!」
「だからそれがネガティブだって」
「さっきだって怒ってたし!」
「そりゃ……毎回そんなこと言われたら怒るだろ。お前ってクレイグ嫌いなの?」
「す、好きだよ! だから嫌われるのが怖くて、」
 そこまで口にした瞬間、スタンの周りのオーラが変わったような気がした。
一寸どこかを見てから勢いよくコーラを飲みほすと、僕が何か反応するよりも素早く小さくわざとらしくカタンと音を立ててスタンは立ち上がっていた。見上げると、同情と愉快さと残酷さを混ぜ合わせたようなあの笑みをニッと浮かべている。ちょっと寒気がした。
「じゃあ俺帰るわ。今度何かおごれよな」
「えっ!? ちょっと」
「お前だけじゃない、クレイグもだぞ」
 スタンが目線で示した僕の斜め後ろをそろりと見やって、僕は死刑宣告をされた囚人のように絶望して椅子を倒しながら立ち上がった。角席なのが災いして逃げ道もなかった。
「アアーッ!? いつの間に!」
 椅子の倒れる音と僕の絶叫がコート内に響いたけれど、騒音に慣れきっているのか周りの客はさほどこちらへ興味を示してはいないようだった。しかしそんなことも、この状況では救いにはならない。中指を立てて無表情でスタンを見ているクレイグにちょっとひきつった顔でヒラヒラ手を振ったかと思うと、スタンはあっという間に大きな通りへ姿をくらましてしまった。運動神経が良いだけあってすぐに見えなくなる。僕はそれをただ呆然と眺めていた。流石にもう一回駆け出してスタンを捕まえるのは無理だと思ったし、コンマ単位で視界に入ったクレイグの顔にすっかり逃走本能は委縮していた。
 クレイグはスタンを視線だけで追ってから、中指を立てたまま近づいてきて僕の襟を掴み、それから低い声でトゥイーク、と一音ずつはっきりと呼んだ。あまりの恐怖に絶叫することさえ出来なかった。もう本当に殴られるかと思って咄嗟にきつく目を瞑り歯を食いしばったのは、3年生の頃にスタンとカイルとシェフによるボクシングの特訓を受けた賜物だろう。当時のように立ち向かう気力がこれっぽっちも出てこないのは、僕が弱くなったからなのか、それともクレイグとの関係が変わってしまったかなのかは分からない。
 けれど震えながら待っていても、クレイグの拳が叩き込まれることはなかった。
「……何話してたんだ」
「ア゛ッ! ――え?」
 意外にも落ち着いた声に驚いて目を開くと、クレイグは眉間にしわを寄せてじっと僕を見ていた。思わず大きく震えてしまった。でもその表情は僕が彼について認識している、怒っているときの表情とは少し違っていた。攻撃的な色がなくて、代わりに真っ直ぐ向かってくる真摯さが詰まっているようで、それを何という感情かと聞かれたら回答に困る顔をしていた。
「ク、クレイグあの、怒ってないの」
「好きって言ってただろ」
「えっ」
「お前もしかしてスタン「ちっ違う!」
 僕が好きなのはクレイグだしクレイグに嫌われたくなくって仕方がないんだってば!と絶叫するようにひといきに告げると、今の今まで賑やかだったフードコートは途端に何デシベルも静かになった。
 僕はぱくりと口を開けたまま顔が真っ青になる自分を脳裏に描いたけれども、実際のところは血が上って真っ赤になっているのがありありと分かった。大抵の騒ぎには関心を示さないこの町のいかれた住人も、ゲイの修羅場となれば話は別だ。ああもうこのショッピングモールに足を踏み入れることはできない、と僕はクレイグの目を見つめながら思った。クレイグから目を逸らしたいとさっきまで思っていたのに、今はもう目を逸らしたら死ぬかもとすら思っていた。

「……おれも」

 耳触りの良い幾分か掠れがちな声が、二人の間にたゆとうていた沈黙に落ちた。すでに無表情に近い顔つきに戻っていたクレイグが満足したらしいことを直感で感じて、力の抜けた膝ががくんと揺れた。一瞬気絶していたのかというほどに脳みそが働かない僕の横をすり抜けて、今しがたスタンが座っていた椅子に腰を下ろすとクレイグは脚を組んだ。その恰好が妙にさまになっていて、僕は現実逃避もかねてクレイグと出会ってから今までのことをフラッシュバックさせた。クレイグのことを何考えてるか分からないと言ったくせに、何だか急に分かり始めた気がしてみぞおちがむずむずした。
 一連を見物していた周囲の客たちが興味を失い始めたころ、僕がなにかを言うより早くクレイグは視線だけを動かして「座れ」とだけ告げると、すぐにさっきスタンが置いていったコーラのグラスを持ってカウンターへと向かった。青い帽子はよく目立つ。座れと言ったということは、僕の絶望に反してここに居続けるということに他ならないだろう。僕はのろのろと椅子を起こしてそれに座りながら、空のコーヒーカップをつと見つめて、もう一杯飲みたいと思った。そうしてきっとクレイグは僕のコーヒーを注文してきてくれるだろうと、理由もなく信じている自分に驚いた。




/ミッドデイスキャンダル