石階段に腰かけている自分の爪先辺りで丸まったきり小一時間も動かなかった白い滑らかなボディを音もなく起こしたアブソルは、赤い目をきらりと光らせて遠くの水平線を見つめたようだった。
 目が合ったわけでもないのに咄嗟にその顔から視線を逸らすと、真夜中の静かな月明かりから昇陽に向かうそのわずかな刻に見られる、淡い色味の空が見えた。雲が幾層にもたなびきはじめている。海は朝焼けに染まるかもしれないし、昼前には雨が降り出すかもしれない。昼夜を問わず明かりが漏れている宇宙センターの四階を気なしに見上げると、職員らしき影が東南の空を眺めている。恐らく同じことを考えているのだろう。真っ青な空と海に挟まれた白い宇宙センタービルの強すぎるコントラストに目を細める必要は、今日は無いかもしれない。
 波打ち際を走り回っていたグラエナが体を揺すって灰色の毛並みを乾かしている間、アブソルは小さい欠伸を二度したきり石段から動こうとはしなかった。ダイゴは遊び疲れて満足げな顔をしているシザリガーをボールに戻しながらその様子を眺め、彼っていつもああなのかい、と小声で独り言のように呟いてからしゃがみ込むと濡れてボリュームの減っているグラエナの頭をわしわしと撫でてやった。勿論答えを期待していたわけではなかったが、彼は何らかの意思をもって鼻を鳴らしたのでダイゴはそれを是と受け取ることにした。冷たい毛並みの下へ指を潜らせると、人間よりはるかに熱い体温と速い脈動が伝わってくる。グラエナの地肌は想像以上に柔らかい。この感覚を、いつもダイゴは不思議に思う。
「帰ろう、アブソル」
 ボールを掲げて開閉ボタンを押すと、赤い光が彼に向ってまっすぐに伸びた。それに包まれながら彼はじっとこちらを見て、それから一度高く澄んだ声で鳴いた。美しい声だった。やがて完全に光を飲み込んでから小さく縮んだモンスターボールを掌で転がし、こいつも一度くらい撫でとけばよかった、とダイゴは顔を顰めてがりがりと頭を掻いた。覚えうる限り、自分はこのアブソルに手を触れたことがないのだ。


 朝になるともろに陽射しを浴びるフレンドリーショップのガラス製の自動ドアには、昇りかけの太陽をまばらに隠す紫色の雲とグラデーションを帯びた空が映っている。それを左右に割ろうと足を進めたところで、感知される前にダイゴは立ち止った。店に入るとまず目に入る正面の棚はホット飲料かおにぎりやサンドイッチが並んでいるものだが、その棚の前で背中を丸めて納品された品をせっせと並べているスキンヘッドの男が目に入ったからである。正確に言えばスキンヘッドではないし本人もそう主張しているけれども、世間では十中八九あれはスキンヘッドに分類されるだろう。ガラスに薄らと反射している朝焼けの向こうでおにぎりを何個か掴み取っては手際よく陳列している男を眺めていても一向に誰の迷惑にもならないこの時間帯に、ダイゴは密かに感謝をした。
「いらっしゃいま――あ、お前か」
「ただいま」
「ちょっと待っててくれるか? これだけ並べちまわねえと」
 手にしたおにぎりを持ち上げてからすぐに棚へと向き戻ったカゲツの横に並んで「いいよ」と答えると、カゲツは一寸こちらを見てからお前そこに居ると邪魔、とにべもなく言って積み重ねられた番重を足でダイゴ側へと押しやった。ちょうど角が脛に当たって地味な痛さを味わった。夜勤続きで機嫌でも悪くしているのだろうかと少し離れて飲料のコーナーの前で立ち止まり横顔を眺めてみたところ、想像に反して健康そうな顔をしていたのでなんとなく気が抜けて、それきり暫くカゲツを観察するのをやめた。パンにお菓子に日用雑貨に雑誌やコミックと出来るだけ時間をかけて眺めていったけれども、入退店メロディはダイゴが入った時から一度も鳴ることはなかった。赤味を増す朝焼けが雲間から差し込んできて、夕暮れ時かと見まがうほどに店内はオレンジ色の光に染まっていた。
「うわ、なんだよ今日雨なのか」
「そうみたいだ」
「じゃあアブソルのやつ、機嫌悪かっただろ」
「どうかな、あの子って僕にはいつもおとなしいから」
 店の端と端で会話をしても、文句を述べる者は他に誰もいない。ダイゴは雑誌を捲りながら答えている自分が苦笑を浮かべていることに気づいた。ガラスに映った己がそういう顔をしている。思わず自分の顔をまじまじと見つめてから、表情を消して雑誌へと視線を落とした。見開きの記事にはホウエンリーグの新しい四天王についての特集が、少なからずも誇張されて縦横無尽に文字を躍らせている。


「みんな元気そうだったよ、グラエナは特に。アブソルはまあ……たぶん」
「ありがとよ。それは奢りな」
 預かっていたモンスターボールを返し、缶コーヒーを受け取る。カウンター越しに礼を述べたカゲツは、ボールをひとつひとつ確認しながら薄らと笑みを浮かべている。強面の割には優しい顔をする男だ。連勤のためにポケモン達を遊ばせてやれないから代わりにと頼んでくるくらいだから、実際優しいのだろう。押しつけがましくない優しさだ。そういうところがとても気に入っている。
「仕事には慣れたみたいだね」
「おかげでトレーニングも出来やしねえよ」
「うーん、それは困る」
 冗談半分本気半分、お互いにそういう笑いを転がした。
 四天王という職業は、ジムリーダーよりも遥かに入れ替わりが激しいと言われている。特に一番手はチャレンジャーに当たる確率が最も高く、必然的に負ける可能性も高いためいつでもリーグを去る覚悟をしておかなければならない。ホウエンは比較的競争が穏やかであるが、セキエイは捌く数も格段上であるので入れ替わりもずっと激しい。シビアな世界と受け取られがちだけれども、リーグに再挑戦してまた一番手を倒せば元のポストに戻ることが出来る完全なる実力主義に基づいているため、さほど悲観的にならなくとも良いとダイゴは思っている。負けて何もかも手放したとしても、また強くなって挑めばいいのだ。シンプルで分かりやすい。
 今こうしてコンビニ店員として夜勤にいそしむカゲツもまた、数週間前までは四天王だったのだ。通算敗北回数が規定を超えたためリーグから去らざるを得なくなり、ダイゴが斡旋してこの店で働いている。初めのうちは気落ちしていたが、流石にタフらしくもうすっかり仕事に馴染んでいる。四天王になるまではいろいろなアルバイトを渡り歩いていたというから、元来向いているのかもしれない。営業スマイルのできるカゲツに初めのうちダイゴは驚愕してそして笑っていたが、今ではもう慣れたうえ、その笑みを向けられるのがちょっとした癖になってしまっている。チャンピオンである自分がそれまであまり使ったこともないコンビニに通い、そこの店員のためにポケモンを海へ連れて行って遊ばせているのだと思うと何だか可笑しかった。
「なあダイゴ、お前もしかして気にしてんの?」
 てらいのない眼がダイゴを映した。
 え、と瞬きをして見つめ返すとすぐにカゲツは視線を外してレジを意味もなくいじりながら、だからよおと言いよどんで腰のモンスターボールを片手でなぞった。ああと小さく呟いて得心する。ゆっくり目を瞑ると、瞼の裏側にアブソルの白いボディと宝石のように大きく澄んだ赤い瞳がきらめいた。よく通る澄んだ鳴き声。


「俺がこいつより先に死んだら、こいつを野生に返してやってくれ」
 そう頼まれたのは三日前のことだった。カゲツの休憩に付き合って外をぶらぶら歩いていた時にふと気なしに言われ、ダイゴはじっとカゲツの横顔を眺めてからいいよとやっぱり気なしに応えたのだ。モンスターボールを親指のはらで撫でているカゲツはすっきりと穏やかな顔をしていた。それを見ていたダイゴもまた、訳も考えないまま只ぼんやり良かったなあと思っていた。嬉しいとも寂しいとも、腹立たしいとも取り立てて感じなかった。トレーナーの間では決して珍しくない話題だったし、ダイゴも似たようなことをカゲツに頼んだこともある。だからカゲツの言葉が何らかの動揺を与えたのだとすれば、あまり未来の話をしないカゲツがこういう表情をしてくれて良かったという、単純な安堵でしかなかった。

 アブソルの寿命は長い。百を超えるとも言われている。だから大抵のトレーナーは彼らが自分より長生きするものだと考えているし、もしその場合は慣例通りにすべて野生に返されるか、家族または知人に引き取られるよう取り決めておくことになっている。それらの選択肢の中で、カゲツは野生に返す道を選んだということだ。カゲツらしいと思った。あくタイプのポケモンは他に比べてトレーナー以外には懐きにくいし、彼のアブソルは特に人見知りが激しかったから、良い判断であっただろう。
 ――当事者であるアブソルがボール越しにどう感じていたかは、また別の話ではあるが。
「そうじゃないけど、僕はアブソルに嫌われたみたいだ」
「あ?なんで」
 朝焼けの薄らいで白んでいく空をガラス越しに見ていた双眸を戻すと、カゲツは本当に分からないという顔をして眉根を寄せていた。ダイゴは不意に息苦しくなったような気がして短く笑うと、身を乗り出しカウンターに上半身を預けてカゲツの脇腹をぼすっと軽く殴った。フレンドリーショップの制服のごわついた感触が拳を包んだ。なにしてんだよダイゴ、とその拳に触れてくるカゲツの手を掴み、二秒ほど指を交わらせたり戯れてから放り出すように手離すと、自分で考えなよといらえてダイゴは笑いながら缶コーヒーを開けた。
「おい、外で飲めよ」
「一度やってみたかったんだよね」
 早起きを強いられた体にコーヒーの苦みが染み通った。不必要なほどの明度を誇るコンビニの蛍光灯がその威光を衰えさせるほどには明るくなった外界で、トクサネの島を覆うように薄水色の空と躍動的な雲が広がり始めていた。もしもカゲツが退勤するまでに雨が降り始めたら、カゲツに付き合ってもう一度眠ろう。それから晴れるまで待って、機嫌の良いアブソルを今度こそ撫でてみよう。ダイゴはカフェインに支配されつつある頭でそう思った。