ごうごうと音を立て飛沫をあげ後から後からとめどなく流れてゆく川を見つめていると、すうっと意識ごと濁りの中へ吸い込まれるような脱力感に包まれて、眠りに落ちる間際のように心地が良かった。大戦前から補修を繰り返してどうにか風化しつつあるバロック彫刻を保つ石の欄干を手でなぞりながら、茶色に濁ったまるで生き物みたいにうねる奔流を眺めては幾度もそんな浮遊感に襲われている。頭を芯までしびれさす水音はときに誰かの声にも似て、しかし耳を澄ますとなにごともない、ただの轟音へと戻ってしまう。幾度もそんな繰り返しだった。水面に何も映さない川は、どうしてかフーゴを安堵させる。誰かが走り回るのにも似た耳障りな音が頭上でひっきりなしに響いているが、普段なら癇に障るそれについても今は然したる障害にはならなかった。むしろ眼下を流れる濁流のたてる轟音に比べれば可愛いものだ。まだ生家に居た頃、齢にそぐわないという主観的な理由だけでさんざん兄に嫌味を言われたマリア・フランチェスコの黒傘が三日間降り通しの乱暴な雨に打たれていると思えば、自虐的な意味合いさえ認めてしまったら後は気分が晴れる要素でもあった。まだ小学生であった自分に高級ブランドの重たくて地味な傘を買い与えた父の顔が逆巻く汚水のなかに一瞬浮かび上がり、攫われるようにすぐに消えていった。
 フーゴは顔を顰めると、歪んだ唇に押し付けるようにしてジェラートを一口舐めた。甘酸っぱい風味が喉から鼻へと抜けていく。雨天下の何とも言えない生臭さを孕んだ湿った香りを掻き消してくれるミルクと果実の味が去らないうちに、もう一度小さく唇を開こうとすると、舌先がなめらかな感触に触れてひやりとした。
「トチ狂ってるのか?」
 髪に頬にいきなり吹き付ける風雨に、吸い込むように舌を引っ込めるとフーゴはちらと視線を上げた。傘を中途半端に傾げた長身の男が立っている。晴天ならば目に痛いほどのコントラストを生み出すであろうブロンドも、灰色の空の下では沈んだ鈍い輝きしか持ちえないようだった。ゲルマン系によくある薄い色の瞳はいやに虹彩が浮かび上がっており、責め立てるように瞼を下げてこちらを見下ろしている。なにがです、雨音と轟音に飲まれそうなトーンでいらえている間にも、フーゴの半身は車軸を降らす雨に浸されてじっとりと重たくなっていく。
「あんた自分の状態分かってます?」
 言いながらフーゴは一歩男から離れようとしたが、傘が男ごとついてきたためにそれは叶わなかった。春物のトレンチコートを着た男はフーゴと同じように半身とくに肩がびっしょりと濡れており、横髪は白い頬に貼り付いている。もう何分もフーゴに傘の保護領域の半分を提供していた結果である。
「何度も言っているだろう。お前のことなんてどうだっていいが、ジェラートを食いながら雨に打たれてセンチメンタル気取るのはやめろ。ジェラートが無駄に溶けるし不味くなる」
「確かあなたって僕と同じ医学部の筈だと思ったんですけど、ボローニャでパティシエを目指すジェラート想いの真面目な専門学生だったんですね。これは失礼しました」
 あからさまに馬鹿にした口振りというのではなく、あくまで真面目に皮肉を込めてそう答えて溜息をつくと諦めのしぐさで肩を竦め、斜めに差し掛けられた傘の下に全身が収まるよう爪先を動かす。男は眉を顰めたが、再び傘を持ち上げるような真似はしなかった。ばたばたと傘の上を誰かが走り回るように雨粒が打ちつけている。その音はフーゴが学生寮に忘れてきたマリア・フランチェスコの傘とまったく同じだった。やっぱりそうだと一瞥して息を吐く。
「その傘嫌いなんですよね。学生にはお高すぎるんじゃあないかな」
「天才児パンナコッタ・フーゴは他人の傘に文句をつけるのか? ……俺だって好きで持ってるんじゃあないさ。家族がくれたものなんで仕方なく持ってるだけだ」
「ジェラート想いで家族想いとは」
「別にジェラート全部じゃない。あの店の苺味が特別なんだよ」
 親指に溶けたジェラートがひとすじ垂れてきたので、仕方なくそれを舐めとってから今度は隠す気もなく深く溜息をついた。先刻からの男の物言いに嫌気がさして首を振ると、川沿いに連なる家の塀から枝を溢れさせているミモザの黄色い花が重たそうに水を吸って撓っているのが見えた。少し目を止めているとタイミングを合わせたように風が吹き、耐えきれなかったミモザの花弁がぼたぼた濁流の中に落ちていった。見頃である満開のミモザは風に煽られる葉も花弁も春の陽光に照らされている時とは打って変わった沈鬱なありようで、その花弁の仄暗い色に目の前に立つ男の髪を思い出し、フーゴはもうただ網膜がしびれてしまったように茶色の濁流をじっと見つめた。


 大学から寮へ戻る道とは逆方向になるけれども、そのジェラート屋の苺味は確かに美味しかった。一度食べた時から、絶妙な甘酸っぱさと濃厚なミルクの風味に不思議な懐かしみを覚えていた。訳ならば分かっている。祖母が庭でこじんまりと育てていた苺の味と似ているのだ。野苺といってもよいほどに小振りで形は悪かったが、祖母がその苺を使って作るどんなお菓子もフーゴは愛していた。噛むと種のぷちぷちとした歯触りとちょっと強い酸味があるのだが、変にペーストにしたり砂糖漬けにしてしまうよりも元の味が残っているのが好きだった。両親に連れていかれたドルチェ店で食べる甘ったるいお菓子が奇妙に思えるくらい、彼女の味はフーゴの中に染みついていた。
「雨じゃないと、あの店混んでて買えないんだ」
「え?」
 腰を少し折って耳を寄せてきた男から上体を遠ざけるよう頭を横にずらす、その反応がいやにガキ臭いことには気づいてる。しかしもう一度言ってやる気はなかった。フーゴはこの男の名前を知らなかったけれども、あちらは名前以上の情報をいくつも知っているだろう。大学の同期は大体知っているのだ。そこへ更に個人情報をくれてやるような真似はしたい筈もない。
 大学ではフーゴにプライバシーというものは存在しないし、教員でさえそれが当然であるように振る舞う。そして彼らの好奇とやっかみの眼差しは学内に留まらず、ボローニャに居る限りは常に監視され続けるのだろうと入学してすぐにフーゴは悟った。路地でも店でも学生寮でも本当に心の休まる場所なんてのはない。だからそんな街で並んでまで何かを買うなんてことは、もちろん出来るだけ避けたかった。例えこれまでの人生のなかで最高に美味しいジェラートに巡り合ったとしても。
「どうして、そんなにこのジェラートが好きなんです?」
「お前がもう雨ざらしでジェラートを食わないなら教えてやる」
「…………」
 フーゴは押し黙ると、幼い頃こっそり勝っていたリスを二番目の兄にチクられたばかりか猫まで嗾けられた時のように疎ましい目で男を横目にじとりと見た。指にはまたジェラートが垂れてくる感触が伝わっている。色素の薄い双眸は何を考えているのかよく分からないが、少なくとも自分のしていることに疑問を抱いていないらしいことだけはよく分かった。こいつ碌に大学にも来やしない落ちこぼれのくせに。内心で悪態をつくと、それを聞いていたような咳払いと共に男はフーゴから視線を逸らしつつ、どこか懐かしそうな複雑な面差しを浮かべた。
「似てるんだ、兄が一度だけ俺に作ってくれたジェラートに」
 指からこぼれたジェラートの滴が足元の水溜りに落ちたのが、感覚で分かった。
ごうごうと脳を揺さぶるような濁流音にフーゴの舌打ちは掻き消されてしまったのに、握りしめたワッフルコーンに罅の入る音だけは妙にクリアに耳に入る。濡れた半身がみるみる冷たくみじめったらしく思われるようになり、安息をもたらしてくれていた茶色い濁流はただの汚らしい泥水以外の何物でもなくなってしまった。
「おい、センチメンタル野郎」
 まったく今日はなんで日だろう。もう決して天気予報の確認を怠るまい。フーゴは強く心に誓うと、手にしていたジェラートを勢いよく傍らの男の振り向きざまの唇にねじこむように押し付けて、その場を後にした。