風鈴の響きにはどうしてこうもノスタルジーを感じるのだろうか。
おぼろな視界を広げていくと、薄暗い室内に今にも押し寄せてきそうな白んだ光が見えた。つんと鼻の奥が生理的に刺激されて下まぶたを強張らせる。瞬きをすると幾分かましになった。古びた天井の木目は消えかかっているけれども、縁側の柱と床板はつるつると光をはじいて豊かな木目を躍らせている。日頃手入れが行き届いている証である。
風の少ない外界の景色はすっかり時の止まったように見え、押し寄せてきそうな光は濡れ縁のあたりで表面張力のように押しとどめられていた。その境でかすかに揺れている風鈴がまたりりん、りりんと高く澄んだ涼音を鳴らしている。白い短冊が太陽光に飲まれながらくるくる回っている。
気だるいのに妙に軽い体を起こして自らの身形を確かめれば、見たことのあるようなないような無地の浴衣が着付けられていた。首元にじとりと滲んだ汗を浴衣の襟でぬぐう。視線を巡らせると、青味をとうの昔に失った畳が三畳続いている。部屋の隅に鎮座している箪笥の手前で日陰はぶっつりと切れ、目の眩むほどに強い日差しが伸びている。濃いコントラストに無意識のまま溜息をつくと、やけに喉の奥がはりつく感じがして眉をひそめた。ひゅっと息を吸った拍子にげほげほと咳込む。そうすると、体内の渇きがよりいっそう明らかに訴えかけてくるのが分かった。吸い吐きする空気の中に、少し黴たような畳のにおいを捉えた。何故か懐かしいにおいだと思った。
「大丈夫かい」
紙がぱらぱら捲れていく音が左のほうから聞こえた。丸めていた背に手が添えられる。めぐらせる視線の動きは勝手に軒からのぞくまぶしい青空を映しこんでまた眩暈をおぼえたが、傍らの人物を映すとそれはすぐに治まった。体育座りで本を読んでいたらしいマツバの影の落ちた面差しは、その垂れ目と相俟って表情に乏しく穏やかなもので、最後に顔を合わせた時とひとつも変わらないように見えた。笑うでもなく何とも表しがたい形をした唇はかさついている。ただ髪が伸びたと思った。ヘアバンドを外しているから余計にそう感じるのかもしれない。
声を出そうとしたが、掠れて変なノイズしか出なかった。
「ほら水、」
待ちかまえていたように差し出された湯呑には水滴がびっしりとついていた。冷た過ぎないそれをすぐに飲み干す。乾ききった喉には最高に美味い。やっぱり一杯じゃ足りなかったかと笑うマツバに、どことなくはっきりと安堵の色を見てミナキは目を見開いた。名前を呼ぶと彼は二回瞬きをした。片手に持ちっぱなしになっていた本を無造作に脇へ置いてミナキくん、と呼び身を乗り出してくるマツバの黒いシャツからは、筋張った首元と鎖骨が覗いている。それに不思議な生々しさを感じながら、わたしの本なんだから大事にしてくれ、と告げると「起きたと思ったらそれか」と言って彼はすぐに目つきを悪くさせ、ミナキはどすっと人差し指で額を押されて布団へ舞い戻った。


「きみ行き倒れていたんだよ、チョウジの北のほうで。……食欲は?」
「空腹すぎて感覚がない」
中腰のまま尤もだというように数度首を頷かせたマツバは、盆にのせた湯呑を持って立ち上がると今ちょうど誰も居なくてね、とぼやきながら襖を空けて部屋を出ていった。後ろ手に締められた襖は半開きになっていた。そこから窺える廊下と向かいの居間(確かそうであったはずだ)はこの部屋よりも一層暗く、けれども所々の格子窓のかたちをそっくり反映した光と、そこに浮かぶ青空や植込みの彩りが暗がりの陰鬱さを消し去っていた。日差しは届かなくとも、光の粒子はまんべんなく行き届いているような気配がする。
ちりんと思い出したように風鈴が鳴り、テッカニンが遠くで合唱している。外界から切り取られた物静かな夏の屋内というのは、どうしてか時の流れが緩やかだ。いつまで経っても太陽が沈まないような錯覚にこどもの頃は胸踊ったものだった。果して大人になってしまった今はどうだろうかと思案しようとして、はたとミナキは辺りを見回した。探し物は枕元にまとめ置かれていた。アイロンがけの済んだスーツとマントと蝶ネクタイ、手袋。それから古いポケギア。モンスターボール。何も失くしていないようだと息をついてそれらに手を伸ばし、ポケギアを見ると記憶にある日付から三日過ぎていた。
道理で体が軽いわけだと呆けて縁側を見やる。光に慣れた目には、マツバ邸の緑豊かな庭がいきいきと飛び込んできた。時刻は二時を過ぎたあたりだ。中天から西へ傾きはじめた日光に照りつけられた木槿の葉とピンク色の花は、それ自体が輝いているのかというほどに眩しい。この家では雑草はきれいに取り除かれているけれども、ミナキは何所とは知れない道端の雑草や低い植込みのグラスグリーンを脳裏に浮かべていた。夏の草むらは海と同じくらいに煌めいている。無造作に入っていけば野生のポケモンが飛び出してくるから極力避けるのだが、つい分け入って温度や感触を肌で確かめたくなる。そういう魅力にあふれている。
(……いや、だから行き倒れたというわけではないぞ)
言い訳するようにかぶりを振ると、空っぽの腹が鳴った。水を得てようやく動き出したのだろう。そういえばマルマイン達は大丈夫だろうかとモンスターボールを確認するが、しっかり回復してもらって休んでいるようだったので出さないままにしておいた。それに今出せば恐らくもみくちゃにされる。頭はいやに働くのだが、想像以上に体が動かないことをミナキは自覚していた。


ふと視線を感じて目を向けると、縁側からゲンガーがひょこっと顔を覗かせていた。おおと声をあげて破顔する。彼とも久しぶりに会ったが、いくつかレベルが上がったらしい他には目立って変わりもなさそうだ。どうやら手に花を持っているゲンガーは赤い半月型の目できょろきょろ室内を見回してから、にっと笑って滑るように駆け寄って来た。途端に少々身構えてしまうのは、長年のサガというものだろう。流石に今はいたずらにつきあってやる元気はないぜ、と先手を打とうとしたのだったが、向こうにはその気はないようだった。ゲンゲン、と口を動かさずに鳴いた彼は主人の昔馴染みをじーっと見つめてから、黄色い花を鼻先へ差し出してきた。それを条件反射で受け取る。浮遊している丸くとげとげした暗紫のボディは時折り透けながら、くるくるとミナキの周りを跳ねるように回った。暫くそれを眺めていたミナキは、これはお見舞いなのだろうと気がついて幾度か笑った。
「こら、だめって言ったはずだぞ。ミナキくんに近寄るな」
弾かれたように消えたゲンガーに目を見開いてから襖へ首を巡らせると、たった今入って来たらしいマツバは縁側へ目を向けて仕方ないなというふうな顔をしていた。縁側に戻ったらしいゲンガーは初めのように上半分だけを覗かせ、相変わらず口を三日月形にして笑ってはいるが耳を垂れて心なしかしょぼくれている。「…体温が下がるからね」布団の脇に膝をついたマツバはミナキの手に黄色い花があるのを見てばつのわるそうな苦笑を浮かべたが、別段深く気にしてもいないようだった。言うことを聞かずに叱られるのはゴーストタイプにとっては日常である。それでもこんな一面もあるのだから可愛いものだ。もう一度縁側を見やったところ、ゲンガーはもう居なくなっていた。後で礼を言わなくてはなあ、指に摘まんだ花を回しながら呟くと、緩く笑ってそうだねとマツバも頷いた。
「朝に母さんが作って来たんだ、起きたら食べさせるようにって」
白湯とたまご粥とおひたし。完全に病人食であるそれらは、しかし優しい香りを含んだ湯気を立ち上らせておりひどく食欲をそそった。ポケモンセンターの簡易な食事ばかり摂っていたから、これだけでも随分と手の込んだ料理に感じる。実際手が掛かっているのだろう。エンジュの南に住んでいるマツバの母親はいかにもこの街の人間らしく、表向きは大したことのなさそうな顔をしておいて実は何事においても大層な尽力をする人だ。もっともこれはミナキの勝手なエンジュ観であるのでマツバや彼の母に話せば笑われるかもしれないが、数年彼らと関わってきたミナキの率直な印象である。
「すまんな、いただくよ」
「食べさせてあげようか」
「それはいい」
蓮華を持ったマツバからやる気を感じさせる眼差しを受けたものの、すぐに奪い取ってたまご粥を掬ってふうふうと冷ます。一瞬つまらなそうに唇を尖らせたマツバは、暫くすると胡坐に落ち着いてそこに片肘をつき、ミナキが蓮華に息を吹きつける様子を黙って眺め始めた。そうかと思うと、食べている合間合間に手を伸ばしてきてミナキの頬や首をぺたぺた触ったりもした。体温や脈を気にしているのは分かるが、なにも三日ぶりの食事を中断することはないだろうとガーディやニャースのように首を振っておい、と呼びかけるのだが、伺うような目をしている彼と視線が交わるとそれ以上は文句が継げなかった。前髪が深く掛かったマツバは表情が読みづらい。
「なんだ今日は過保護だな」
「そりゃあそうだろ」
今回はたまたま通りがかりのトレーナーが見つけてくれたからいいけど、下手をしたら遭難だ。正論である上にどことなく拗ねた口調にますます立場の悪さを感じて、乾いた笑いと共にミナキは黙った。影の強いマツバの顔はもどかしげである。というよりは苛立たしげである。背中を丸めて目を眇めて畳を睨んでいるその様におや、と思ってミナキは体をマツバへ向き直らせた。拍子に粥がぼとぼとと土鍋へと戻っていった。
「てっきりマツバが見つけてくれたのだと思っていた」
「それができないから困るんだ」
きみが大事すぎて千里眼で見えなくなったみたいだ。
髪をくしゃくしゃ掻いてスランプに陥った作家のような風貌になったマツバは、どう見ても煩わしさが滲み出た面相で愛の告白じみたことを吐き出した。面倒なことになったと全身で物語っている。ミナキは一寸遅れてからがばりと膝立ちになり、危うく土鍋を取り落としそうになりながら身を乗り出した。
「な、なんだって!? ちなみにスイクンはどうなんだ」
「それは大丈夫」
「ああよかった」
腰を落ち着ける。何かひっかかるなと思ったが深くは考えなかった。マツバも何か言いたげな顔をして上目にじっとりした視線を寄越したが、すぐに深い溜息と共に重力に任せて首を垂らした。昔からこういうことは幾度かあったのだ。雑念が混じったり、マツバ自身の欲が絡むと千里眼は正しく発動しなくなる。ホウオウについてはその限りではなかろうが、見つけたい物ほど見つけ辛くなるというジレンマが彼には常について回っている。ついに私は彼にとってその域にまで達したのかという妙な充足感と、これでもうマツバの千里眼に頼って無茶な旅は出来なくなるのだなという危機感とでミナキはただ唸った。旅を始めてこのかた、何度マツバに窮地を発見されたか分かったものではない。知人に頼んでポケギアにGPSでも付けなければならないか。
「見えないと思うと急に心配になってくるよ……頼むから無茶するなよ」
ミナキの切り替えの早い思考とは裏腹に同じ姿勢を保っているマツバは、前髪を掻き上げながら体を逸らして後ろに片手をついた。あまりやらない仕草だ。そうやって胡坐をかいてしかめ面をしているマツバを、ミナキはなぜか可愛いと思う。今よりも遥かに荒れて修行三昧の日々を過ごしていた頃の彼を思い出すのかもしれない。
「とりあえず私は粥を食べるが」
「え、ああ……どうぞ」
相手の気楽さに毒気を抜かれたらしいマツバは、顎をしゃくって了承した。仰け反った姿勢のままそういうことをすると非常にガラが悪く見えるが、若かりし頃の名残をこういう時に見せてくれるのは嬉しくもある。程良く冷めた粥を調子よく口に運びながら盗み見ると、紫の両眼は今しがたよりもぼんやりとして庭の方へ向けられていた。それをじっと見つめていると、マツバがこちらをちらと見て一瞬視線が合い、またすぐに離れる。沈黙を潤すように風鈴が鳴っている。ひかりのかべのように分断されている外と中。眩しく呼吸をしている草花と夏空を眺めてマツバは何を考えているのだろうと些か気になったけれども、きっと昔の事だろうと不思議な確信をミナキはしていた。終わらないはずなのに終わってゆくのだ。夏とはそういうものなのだ。それを毎年繰り返してもやっぱり今年こそは終わらないような錯覚に捉われないよう、終わってしまった日々へと思いを馳せている。だが結局、お互い夏の過ぎたことには気づかず秋を迎えるのだろう。
「心配掛けて悪いな」
「今さらだね」
ひらりと片手が振られた。拍子抜けしたミナキにいくぶん穏やかになった笑みを見せると、マツバはその場で寝転がった。態とかどうか知らないが、ここ一時間ほどで広がった日向へと上半身を投げ出すようにして。そんな黒いシャツではすぐに音を上げるだろうと呆れながら、ミナキは空になった土鍋と皿を盆に戻したのちに立ち上がった。柱の影がマツバの腹のあたりを横切っている。何年も替えていない畳に広がった金髪が、ポニータのたてがみのように輝いている。ちょうど日向と日蔭の境目である脇腹の隣あたりに座り、顔の横に右手をついて、眩しげに目を細めている双眸への日差しを遮るように顔を寄せると、ミナキは乾燥した唇へとくちづけた。三日も伸ばしていた背を丸めたので背骨が痛かった。
「きみは夏みたいだね」
ミナキの前髪をぐいと引いて、マツバは目を瞑りながら笑った。