星粒をばらまいたような音がした。
テラコッタの床をはじく硬質さと尖りのないなめらかさが居り合うその響きに、手を止めて視線を巡らせる。斜めに注ぐ明るみが、広さの割にがらんとした室内をおぼろに切り取っている。高度を上げはじめた朝陽が窓から差し込んでいて、塗り替えてから恐らく一年も経っていないであろう真白な壁はその光を吸い込んで、朝の空気にほろほろ溶けているようだった。水平にスライドする視界にきらりと光るものが映り、フーゴはそこで目を留めた。ちょうど部屋の反対側の窓際でチェストを調べていたジョルノの姿は逆光になっていたけれども、明るい金糸だけは朝陽よりも鮮やかに輝いていた。目を細めて見ると、どうやら彼はもう音の出どころにぴたりと焦点を当てているらしい。視線をなぞるようにして今しがたの透き通った音の正体を確かめようとしたが、しかしそれよりも先に鼻梁を寄せて顔をしかめた。つんと鼻腔を突くにおいがする。微かにアルコールも混じっているようだった。
「大丈夫ですか、トリッシュ」
小さな棚の前に立っている背中にむけて声を掛けながら、可能なだけ近づいてそこで停止する。青白い光を受けてきらきらとしているもの、細かなガラスの粒がトリッシュのヒールの高い靴を囲むように散らばっていて、しかもそれらはどれも踏むのが躊躇われれるようなすべらかで美しい球形をしていた。立った視点から見るとまるでビーズのようだった。床に広がっている、芳香と悪臭の境をゆらぐにおいを放つ液体に浸っているものは光を浴びていっそうちかりちかりと輝いており、過冷却の液体がひといきに結晶化したかのようにも見えた。お怪我はありませんか、という常套句は使えないことをすぐに悟る。それでもフーゴは彼女の側面へと回り込むと、何故かじっとして動かない、俯きがちの相貌を窺おうと膝を屈めた。トリッシュ、ともういちど遠慮がちに呼びかける。そのときガタンと東の方で妙に大きな音がした。首だけを振り向かせると、窓から外へ両腕を突き出しているジョルノの横顔があった。部屋中に充満しつつある濃度の高いにおいを外に逃がすべく、ジョルノが窓ガラスを開けたのだ。フーゴの爪先のすぐ先に小さな水溜りを作っているのはかつて香水瓶の中に品よく湛えられていた芳香であったが、こうなってしまえばただの鼻の曲がりそうな刺激臭でしかない。その嗅覚が麻痺してしまいそうなにおいの真ん中でぴくりともせず立っている少女の顔を、フーゴは中途半端に膝を曲げた姿勢のままじっと見つめようとして、静かに息をとめた。
なにごとかを言おうとしているわけでもないのに、唇はいつの間にかすこしく開いてしまっていた。驚きではない、これをなんという情動と呼べば正しいのかを知らない。横隔膜に冷たい水と焼け石がひとときに溜まっていくふうな心地だった。初対面の時以来ろくに会話もしていない少女に、しかし不思議なシンパシーじみたものを感じている。フーゴは我知らず鳩尾のあたりをぐっと押さえながら、努めて慎重に、因循さすら滲むくらいに時間を掛けて視線を逸らしていった。彼女のちょうど奥側にある小窓からも朝陽は氾濫するように注ぎ込み、その白んだ光は空気中でごくこまかに乱反射して思考をかき混ぜてくるように感じられた。代わりに炙り出されてくるのは記憶だった。まったく同じ場所でまったく同じように誰かを見上げていた、その一点ばかりがつぶさに蘇った。フーゴはおのれの悟性を疑ったことはない。ないがゆえに、この先は考えたくない瞬間というものが無数に存在した。今脳裏に浮かんだものはまさしくそれであった。あの頃はそうして逃げおおせた想い種が、もう果然と芽吹いてしまっていたことを知った。
「トリッシュ」
「……あっ!ごめんなさい、私」
いつの間にか傍へやって来ていたジョルノが声を掛けると、瞬きを幾度かしてトリッシュはようやく半歩後ずさった。足元に気をつけて、ジョルノがそう言って膝をついてガラスの粒を退けようとするのを慌てて制し、代わりに片膝をついてガラス粒を手で集める。やはり一粒もたがわずなめらかな球体になっているそれらは、しかしビーズのように統一された形ではなく、ところどころいびつな形をしていた。大きさもまちまちで、雨氷のように滴がそのまま個体になったかのようなリアリティを孕んでいた。フーゴには、それが却って自然に思われた。これらがかつて香水瓶であった名残がまだ存在していることに、どこかで安堵していた。
「おい今の……うおッ何だよこの臭い!」
音をとらえて来たのだろう、ミスタが廊下からひょいと顔を出して大仰に鼻を摘まんだ。その声に場の空気がほぐされたような気がして、密かに息をつく。吸い込んだ空気にまだ色濃く残った香りが肺腑へと流れ込み、少し頭がぐらぐらとした。
「ミスタ、ちょうどよかった。トリッシュと二階を調べてください」
「ちょっとジョルノ! 片づけなきゃ……」
「構いませんよ。それにこの香りはトリッシュ、君のフレグランスとは相性が悪そうだ。ここは僕……いえ、フーゴがやっておきますから」
騎士のごとくひざまづいたまま眉をひそめた部下に気づいたのか、微かに肩を竦めるとジョルノは笑ってそう告げてトリッシュの背を軽く押した。戸惑ったようにジョルノとフーゴを交互に見る桃色の瞳はつい今しがたまでの色をまだ残しているようであったけれども、それも拡散してゆく香水と一緒にどこともなく褪せてしまうであろう気配にフーゴは相好を緩めた。ええ行ってください、と微笑んで見せる。申し訳なさそうにこちらを見下ろしている表情にはいつだったかの高慢さはなく、当時よりも遥かに幼いような戸惑いと、同い年とは思えないような料簡が潜んでいる。微かに瞼を伏せたその瞳が離れる前に、フーゴは彼女から視線を下ろした。濡れたガラスの粒が、たなごころでクリスタルのように光っていた。


その香水瓶をブチャラティに贈った女性がどんな顔と声をしていたのかを、フーゴは知らない。些細なことで助けたのを随分と恩に感じたらしいと彼は話したけれども、そんなことで香水なんてものを贈るわけがないし、ブチャラティだって当然それは分かっていた筈だ。彼がネアポリス郊外に買ったこの家を訪れた、それがはじめの日であった。必要最低限だが質の良い調度品が揃っている屋内は、生活感が染み込む前の木と塗料のにおいがまだ残っていた。いずれ仕事部屋になるのであろう、東に大きな窓がある白い部屋には、彼の未来がまるごと詰まっているように思われた。そうしてその部屋の飾り棚にちいさく鎮座していた香水瓶もまた、ブチャラティのこれからの人生に組み込まれるのかもしれないと勝手に予感していた。小さな瓶を手にとって、それをくれた女性について少々うろんな様子で話すブチャラティの表情にはそれでもまんざらでもなさそうな気配がしっかりと窺えたから、フーゴは心なしか微笑ましくなり、そして俄に彼を視界から追い出したくなって幾度かかぶりを振った。一寸足元がぐらつき、いきなり部屋が広くなったような気がした。足指にぐぐっと力を込めると冷たさが膝を通り腹を通り、頭のてっぺんまで駆け抜けて視神経と脳幹を洗い流したかと思うと、サイダーがはじけるのにも似た明瞭さがあとに残った。
「……あんたが家族を持ったら、きっと子煩悩になりますね」
「なんだ、急に?」
無意識のうちに彼の未来について思いを馳せていたらしい。口に出してからああいえ、と眉を下げて所在無い気まずさに身を捩ったけれども、自らの言葉を反芻するだになるほどそうであろうな、と納得してしまいフーゴは小さく頭を掻いた。「想像できないな、俺に子供なんて」「なに言ってんです、しっかり所帯を持たなきゃ幹部として認めてもらえませんよ。あなたはきっと今に幹部になるんだから」「はは…それじゃあフーゴ、俺の子にはお前が勉強を教えてやってくれ」コトリと香水瓶を戻しながら、冗談だというふうに肩を竦めつつブチャラティは笑った。フーゴがその香水瓶と今の話題を一直線につなげているということには、少しも気づいていないようだった。


「光栄です、と言ったんです」
手のひらに積み上がったガラスの粒がひとつ、零れ落ちて転がっていった。高く澄んだスペクトルじみた音がした。
陽炎のようにゆらめいて蘇る記憶は、どれもこれもやわらかく色褪せて熱を持たず、日焼けした絵本さながらにさびしくて優しい匂いがする。それらの中であの日だけが過去になりきらなかったのは、感情を伴わせることを先延ばしにしていたためだ。今こうして芽吹いたじんじんと疼きながら染みていく感慨をもってして、ようやくあの日は自分の中で昔日へと落としこまれた。そう思った。
数歩あゆみ寄って屈んだジョルノの金髪が、ガラスの群れに映り込んだ。見上げる。こちらをじいと見つめる碧眼の奥で何を考えているのか、相変わらず分からないけれども、つと伏せがちにした際にふるえた睫毛に、そのか細さにフーゴは何か見てはならないものを見てしまったような感覚に襲われた。堪らなくなって俯く。呼吸をするようにほろほろガラス粒の群れの中をゆきかう光が、まろく揺らぐさまにどうしてか泣きたくなった。それはトリッシュが一瞬のうちに破壊し、そうして落下する前に柔らかさをほどこしたために生まれた、感情の躍動によるいびつな、けれども星芒をたたえる明け方の水滴のごとき曲線だった。彼女は知らなかったはずだ。なにひとつ。それでも感じた泣き笑いたいような苦しさは、あの日の自分と寸分たがわなかったであろうとフーゴには思われた。
「強い人ですね……彼女は」
転がっていったガラスの粒を摘まみ上げたジョルノが、フーゴの手の平にそれをそっと乗せた。揮発する香水によって嗅覚はとうに麻痺していた。高くなりつつある太陽光が、ジョルノの背を燦々と照りつけていた。かつて香水瓶であったそのガラス粒たちを一体どうすればよいのか、恐らくどちらにもまだ分からなかった。この部屋に詰まっていたはずの未来はもうどこにもなく、ほとんどは香水と一緒に窓からどこかへ散りばめられ、かすかなぶんだけがふたりの体の中に取り込まれていった。
「うん、そうだね」
ふたりが見つめているすべらかなガラスの粒は、まるで生まれたてのように光っていた。
いつまでも光っていた。