無意識がそうでないものに変わったのは、手にとって近づけた白い指先にひとすじ浮かんだ赤色に舌をつけようとした、まさしく一寸ばかり前のことであった。薄く開いた唇を強張らせ、ほとんど気のない様子だった眉間に皺が寄る。灰色の瞳には明らかに焦りが滲んでおり、どこを見てよいのか分からないというふうに視線が泳ぎ始めている。ぴしぴしとまるで彼全体にヒビが入っていくようだ、とそれをいささかの驚きとともに眺めながらオーバ君と呼んでみると、ぎくりと弾かれたようにゴヨウの指は解放された。わるい、とどこか上擦った呟きと共に俯きがちに視線を逸らしたオーバの相貌は、どうやらじわじわと赤みを帯びている。これはまた珍しいものを見ましたね、内心で呟いてゴヨウは自由になった自らの左手を横目に見やった。指先についた細い傷からは血こそこぼれていなかったが、空気に触れるたびにもどかしく鈍い痛みをもたらしている。

おそらく本のページを捲る際に切れてしまったのだろう。この傷を見つけたのはリーグの談話室でのことであったが、ただ己の手を眺めるだけでこれといって何かを声にしたわけではなかった、とゴヨウは曖昧に思い起こす。真新しい本には注意しなければならないことを失念していた、それを些か悔やむだけで、大した痛みもなかったから絆創膏のために席を立つことも考えていなかった。こういう傷はそのうち塞がってしまうものだと、自己完結をして再び活字に目を戻そうとしていたのだ。しかしその折、うわそれって地味に痛いよな、といかにも痛そうな声色が耳に入り、目線はそちらに呼び寄せられることになった。テーブルの四方を囲んでいるソファのもう一面に沈みこんで何やら雑誌を眺めていたはずのオーバが、顔を分かりやすくしかめてゴヨウの手をじっと見ていたのだ。
「そうでもありませんよ」
「えーマジかよ、俺のほうが痛いぜ」
そうやはり自分よりよほど痛そうに首を振りながら身を乗り出してくるオーバに可笑しみをおぼえてひょいと手を差し出して見せれば、至近距離になった傷にうわっとますます良い反応を示してオーバはいくらか身を引いた。予想通りの反応に、くつくつと思わず笑いをこぼす。リーグにおいて対極と呼んでも障りないくらいに質の異なるオーバであったが、なかなかどうして自分に懐いてくれるものだから可愛らしい。バトル時に見せる燃えるような闘争心をは打って変わった、この屈託のないころころとはためく表情がゴヨウはとても好きだった。
(え?)
しかして、ゴヨウの笑みは長くは続かなかった。しょうがねーなあと慣れた様子で呟いたオーバがゴヨウの手を取ると、ぐっと自らの口元にそれを近づけて唇を開こうとしているのがスローモーションのように見えたのだ。色のついた眼鏡越しにそれを捉えたゴヨウはつぶさに何をしようとしているのかを理解したものの、どういうわけか手を引き戻すという選択肢は浮かびあがらなかった。腕から先へまったくの信号が送られなくなっているのか、それとも自身の意志であるのか、ともかくオーバの口へ吸い込まれるままに任せておくのが最善であるようにゴヨウには思われたし、さも当然と言うような顔で伏し目がちに舌を覗かせるオーバを見ていると、そうしてほしいような気さえした。にわかに胸の奥がざわつく。これはほんの数秒の間であったが、あまりに濃厚な時が流れたように感ぜられた。

果たして傷を舐めるという行為はオーバが我に返ったことで成されることはなかったが、真っ赤になったオーバとそれをじっと見つめるゴヨウの間には、今しがたまでとはがらりと変わった空気が流れていることは明確だった。二人のほかには誰も居ない談話室はやけに広く感じられ、そして必要以上に静寂に富んでいる。ごめん、あのほら、癖でさ。もごもごと彼らしくない微音で弁解をするオーバの言葉にゴヨウはすぐさま脳裏にひとりの男を浮かび上がらせたが、それを告げたところで追い打ちをかけるだけだと分かっていたので薄く笑んだだけで、それから分かっていますよと肩を竦めた。弟がいることは知っていたが、そちらの可能性はどういうわけかすぐに消えていた。
「舐めてくれても、構わなかったんですけどね」
ふっと口元を緩めて軽く自らの指に舌を当てたゴヨウの囁くような台詞に、オーバは赤い顔のままで目を白黒とさせた。本当にきみは可愛いですねと、次がなかったのはゴヨウの優しさであったのか、それとも。