「今日は、西には行かないほうがいいかもしれない」

テレビ画面を気のない顔で眺めながら食後の茶を啜っていたマツバが、ふと思い出したように視線を寄越してそう告げた。同じく湯飲みを傾けていたミナキは唐突な言葉に瞬きを数回したのち、西、とマツバの台詞から拾い上げた方角を反芻してからじわりと眉をひそめる。此処マツバの自宅から見て西といえば、エンジュの地図など脳裏に浮かべなくとも自明である。焼けた塔だ。意識の外で湯飲みを卓に置いたミナキは訝しみと困惑を綯い交ぜた難しい顔を作り、それはまたどうしてだ、と向かいに座るマツバに問うた。あの場所へ行くのを止めてしまうのは憚られる、と言葉に継がれることはなかったがそれは当然分かっているはずであるのに、問われたマツバはやはりこれといった表情も見せないままひとつ息を吐いた。湯飲みから昇るやわらかな湯気が少しばかり揺らいだ。
「どうしてって訊かれると困るけど。ただあっちに何となく白んだものが見えるから」
「白んだもの?」
「そう、もやみたいなものだよ」
ミナキ君にはきっと、ぴんとこないだろうけどね。目線をどこかへやって薄くほほ笑みながら話していたマツバが、傍目には壁しかないはずのそこを睨むように捉えて、わずかに眉根を寄せる。ヘアバンドのない額は前髪がほとんどを隠していたが、それでも普段よりは面差しがよく見えた。その仕草にますます首を傾げたものの、きっと何かがあるのだろうとミナキは思案して自らの顎のあたりをさする。こういうことは今回が初めてというわけではなかったけれども、今度は何かが違うような気がしていた。得体の知れなさがそれなのかもしれないが、はっきりとは分からない。

出会ってからこの方、マツバの千里眼には幾度となく助けられてきたし、助言を受ければ大抵の場合ミナキは素直に従ってきた。しかし白んだものが見えると言われたのは、今までにないことだった。これはもしかすると凶兆ではないのかもしれないという一抹の予感が胸に浮かび、知らず知らず眉を持ち上げる。いくらマツバといえども確かに見えるものとそうでないものとがあり、経験からしてそういった曖昧にしか見えないものほど事態を揺るがす大事を孕んでいるものなのだとミナキは考えていた。
「なあマツバ……これはもしかすると」
そう唇をほとんど動かさないまま呟いたところで、ぎくりと肩を強張らせて口を噤む。いつの間にか真っ直ぐこちらを向いていたマツバの深い眼差しが、思考を読んだようにミナキの喉元の言葉を絡め取って、内側に押し籠めてしまった。もしかすると何か大きなことが起きるのではないか。告げようとした可能性はこうであったが、それを語らせまいとしていることはミナキにもすぐに分かった。マツバもそれを案じていたのかと行き場を失くしてしまった台詞を飲み込みながら、しかしミナキは再び疑問符を浮かび上がらせる。マツバがここまで気を払うその白んだ予感とは一体、何なのだろうか。
「行きたいの、ミナキ君」
「……ああ、今回はきっと何か起こるような気がするんだ」
「そうかい」
なら、僕も一緒に行くよ。
あたかもこれが予定調和であったかのように、マツバはゆったりと立ち上がりながら静かに告げた。一寸耳を疑い、視線を切り離せないまま相手を見上げるかたちになってからミナキはなに、と驚きに面相を変える。今しがたあれほど警戒を向けていた場所へ自ら足を踏み入れるなど、マツバらしからぬ行動に他ならなかった。
「いいのかマツバ、私が言えたことではないが――」
「分かってるよ、僕が行きたいんだ。いいだろう?」
つられるままにミナキが立ち上がるのを待ってついと眼差しを逸らしたマツバが、いつも彼のするような薄らかな微笑みと共に、有無を言わさぬ穏やかさでそう告げた。ミナキが首肯することさえ知っていた、そういう確信めいた語調であった。


吉兆、変化、それまでの日々を覆す前触れ。あの白んだ光はおおよそこれらを意味するのだと、マツバは知っていた。それまでの人生で目にしたことは数えるほどしかなかったけれども、あまりに神聖なものに思われてついぞ誰にも語ったことはなかった。だがミナキには、まるきり偽ろうという気にはなれなかった。それが仇となったろうかと考えて、自嘲がちにゆるく首を振る。支度にと自分の部屋へ戻ったミナキの、いつだってすらりと伸びた背筋を見ていることが出来ずに俯いて笑ったのと、ほとんど同時のことだった。あれは、あの白い予兆は、君のこれからを大きく変えるだろう。そうしてそれは僕の未来も巻き込んだ、あてどもない流れとなるだろう。マツバは内心でついぞ告げることのなかった真実を噛みしめるように連ねると、苦笑というには明暗の深すぎる笑みをくしゃりと浮かべた。終わりも始まりも、いつだってこうして自分達を待つことなく、嵐のように目の前に訪れる。
(せめて僕も、この目で見なくては)
ジョウトを揺るがすうねりが起ころうとしている。マツバとミナキが求め続けた伝説が、すぐそばで息を吹き返そうとしている。今日という日を待ち侘びていたはずなのに、どこか、すでに遠いところで始まってしまった未来を畏れている自分を叱咤して、マツバは焼けた塔へと向かう支度を始めた。眉間を隠すヘアバンド、せめてこれが、喜色に満ちるであろうミナキの顔を目の当たりにする自らの、ささやかな仮面になってくれることを密かに願った。舞妓たちが語ったあの子と、聖なる三匹とそれから、北風を追い求めてきたミナキが一堂に会してしまったのなら、次に見える予兆はもう決まったようなものなのだ。それをマツバは、たったひとり、受け入れなければならないのだから。



/世界が孵れば


(本編焼けた塔イベント直前)