確かにノックへの返事はあったのに、それでもひと呼吸置いてからでないと踏み出すことが出来なかった。少しも緊張などはしていないが、頭は勝手にあれこれと着地点のないことがらを細胞分裂みたいに考え続けていた。細胞は止めようがない。諦めにも似た息をついてから、今どきスライド式でないほうが珍しい病室のドア、年季の入ったそれをゆっくりと開くと、こちら側の廊下まで白い眩しさが波のように押し寄せてきて眦をぎゅっと細める。
それはほんの瞬き一回、なにかひとつの音を発声できるかできないか程度のあいだのことだったけれども、鮮烈な印象として網膜の隅々まで焼きついた。白い色がことごとく空間のすべてを塗り潰していた。四角い箱に入りこんで、こちらとは反対側の側面だけが青くカラーリングされている、他はなにもかもが白、そういう明確な境界線が見えた。薄暗い灰色めいた廊下から壁一枚隔てただけの病室とは思えないほどの明るさに、初めはこの部屋にはカーテンなど存在しないのだろうかと思ったが、やがて目が慣れてみると正面の大きな窓にはしっかりと半透明のカーテンが備え付けられていて、吹き込む風に煽られてほとんど意味をなさないくらいにたなびいていた。遮光用のものは端に一纏めにされている。ティレニア海を眼下に臨むことのできる窓は最大限に開かれていた。風に揺れているのはカーテンばかりではなく、花瓶に活けられた百合の花、そして同じくらい淡い色をした長い三つ編みも余波によってかすかにそよいでいた。潮のかおりと花のかおりが混じり合って、なんだか不思議な吸い心地のする空気がフーゴの前髪まで届いた。ベッドの上でその窓の向こう側をじっと見つめていたらしい部屋の主は、くるりと前触れなく振り返ると、やっぱりあんたでもそういう顔すんのね、といってしたり顔で笑った。

病室には小さなテーブルと椅子、それから申し訳程度のクローゼットくらいしか備え付けられてはいなかった。個人経営の小さな病院だから仕方がない。しかし信頼のおける病院の中で言うならば、此処は格別に待遇も日当たりも眺めも良いと断言することが出来るだろう、と述べたのは他ならぬジョルノだった。彼がフーゴを此処へ寄越したのだ。我らがボスがこの病室を手配したのだということを知ったならば彼女は感激して泣きだすかもしれない、とフーゴは思っていたのだが、そんなことをしなくたって十分に感動しているらしいことはすぐに分かった。
「見てよ、すごいわ!あんなに骨が飛び出してたのに」
すらりと細くたおやかな腕がまるでダンスを踊るように空を泳いでいるのを、フーゴは頷きながら眺めている。この少女がこんなに嬉しそうにしているところを見たのは初めてだった。尤も一緒に任務に当たっていた期間なんてほんの数日であったからそれは無理からぬことだったが、あの期間に目にしたこの娘のあらゆる表情が彼女そのものとして強く等号で結ばれてしまっていたから、こうして普通に笑っているだけでもずいぶんと新鮮だった。民族衣装のような服を取り払えるだけ取り払って、水着みたいな恰好でいる彼女の肌はすべらかで、両腕から胴体、顔にだって傷ひとつない。オルティージャであれだけぼろぼろにされたというのに。どこもかしこも血だらけで、四肢はばきばきに折れていたはずだった、その体がこれほど短期間で治癒してしまったという現実から導き出される答えはひとつしかない。
「だけどきみ、脚は?」
「ああ……えーっと、ジョルノ様がおっしゃったのよ。少し君を休ませてあげたいからって。……だけどフーゴ、あんたがそんなに完璧に治していただいたのに私がまだ入院してるなんて、なんかむかつくわね」
「あーいや、それはジョジョに……」
「ジョルノ様は何も間違ってないでしょうが!私はただあんたが羨ましいだけよ」
ベッドの上で行儀悪く膝を立てた彼女は、それまでとは一転、むすっと見慣れたしかめ面を作るとフーゴを睨みつけた。それでも任務時とは比べ物にならないくらいに穏やかではある。しなやかだが筋肉がバランスよくついている両脚をさすっている仕草には、言葉の通りささやかな憤りが込められているようだった。他はすべて綺麗に治されているにも関わらず、両脚だけが除外されたとしか思えない具合にギプスで固定されている。なるほど仰る通りとばかりに苦笑いをして見せれば、眉をひそめて数度瞬きをし、そうして彼女は幾許か頬のラインを和らげた。自分でも八つ当たりだと認識しているのだろう。重たそうに両足に巻かれたギプスをちらと見遣ってから、こんな骨折早く治してやる、と呟いて少女は肩の力を抜きながら腕組みを解いた。長い三つ編みが揺れる。その目に宿っているめらめらと燃える炎をうかがい見てから、やっぱりジョルノの判断は正しかったのだ、とフーゴはたじたじとしていたし、同時に安堵もしていた。確かにこの娘にとっては、休むこともひとつの任務であるといってもよいだろう。
「――ねえ、」
「え?」
不意にトーンの沈んだ声が耳に入りこんできた。何故かぎくりとして眼を見ようとすると、眉根を寄せて自身のギプスを睨みつけるようにし、せぐくまって膝を抱えるのに近い格好をした彼女の横顔だけがあった。そうしていると、元々小柄な体がもっと小さくなってしまったようだった。彼女のあちら側では相変わらずふわあふわあと風によって大きく浮かび上がったカーテンが、ゆるやかな波を描いて白い部屋の一部みたいになっている。
「……何でもない」
また三つ編みが揺れた。かぶりを振った彼女の、なにかを追い払うような潔いかんばせの変化を黙って見守りながら、きっとこう言いたかったのだろうなという言葉をフーゴは咽の奥のほうでちいさく呟く。それはフーゴもまた彼女に投げかけるために、見舞いを言い渡された時からそっと用意していた問いかけだった。こちらを見ないまま決別にも通ずる眼差しを真白い壁に向けている彼女の、黒々とした瞳をじっと見つめる。ねえきみはきっと、こういうことを言いたかったんだろう。あのとき死ぬつもりだったのかと。自分を助けて死ぬつもりだったのかと。
「なにみてんのよ」
「え、いやべつに?」
「……ほんと、あんたでもそんな顔すんのね」
一体どんな顔をしているというのだろう。僕からしてみればきみのようがよっぽど、と其処まで出掛かっていた返しを飲み込んで、フーゴは軽く声を出して笑ってみた。確かにこんな風に笑えたのだということを、もうずいぶんと忘れていたような気がした。笑っていると何故だか、活けられている百合の香りがどんどんと鼻腔をくすぐってくる。そちらに自然と目を向ければ、ああアレはムーロロが持ってきたのよ、と照れたように髪を弄って教えてくれた。「あいつも驚いてたわ、こんな真白い部屋ならもっとカラフルな花にすりゃあよかったって」「ある意味最高にマッチしているけどね」「私もそう言ってやったわ」数週間前までチームメイトだった男の顔を思い浮かべ、苦笑がちにベッド脇のテーブルから視線を戻す、その線上でようやくしっかりと目が合った。互いの顔しかもちろん見えない状況であるのに、なんとなく感覚で、きっと自分はこの娘と同じような面差しでいるのだろうなと分かった。名前を知らない表情だった。何気なくほほ笑みかけているようで、まだすべてをこの場所に持ってくるのには少し足りない、引きずられるような重量感。そうして羞恥を振り払いながら顔をあげて、決して離してはいけない大事なものを見つめていたい、焦がれるような想いが自分達にはあるのだ。あんな問いは、だから実に馬鹿げている。答えになど意味はない。もうとっくに過去のものとして、踏み越えてしまった逡巡でしかなかった。
「そうだ、僕からはこれ。きみドルチェが好きなのか分からなかったけど、ジョジョとミスタのご指名の店だから」
「えっ!? ……っていうかあんた、ミスタ様って呼びなさいよ」
「あーそうだったね、ごめん」
「ちょっと何なのよ、ミスタ様とチームメイトだったからって馴れ馴れしいのよね……むっかつくわね……」
ぶつぶつと唇を尖らせながらもしっかりとドルチェの箱詰めを受け取った彼女は、宝物のようにそれを抱えていた。そういえばこの箱だって白かったのだと今さらに視認した。蓋を開ければ色彩豊かなパイやトルタなんかが入っているし、諧謔のつもりでカンノーロなんかも混ぜてあるのだが、もう暫くはこのままだって構わないだろう。まるで生まれたての赤子のようでもあり、子を抱いた母親のようでもある、名伏しがたい雰囲気を纏ってほほ笑んでいる少女の、微かに赤く染まった頬からそっと目を離してフーゴは窓の外を見た。病室がどこもかしこも白いので、抜けるほどの青色を視界に入れるだけでじんわりと目が焼けるようだった。暫くそうしてから、ゆっくり椅子から立ち上がる。歩いて数歩の距離を踏みしめながら窓まで歩み寄り、踊るカーテンを指先でつかまえる。ここまで近寄ると、海と空だけでなくネアポリスの町までよく見渡すことが出来た。フーゴが生まれた町。そして生まれ変わったパッショーネの、拠点となる町だ。

「シィラ」
「……っな、なによ」
「これからはそう呼んでもいいだろう?」

窓枠に腰かけて向き直ると、ぽかんとした相好で彼女はこちらを見上げていた。その頬は赤い。メイクも何も施されていない顔はあどけなくも見えた。背後から差し込む海辺の光で、彼女のすがたもどことなく白んで映った。一度じとりと睨む眼差しを寄越してから、だけど彼女はそれもそうね、と如何にも彼女らしい返事と共に数度頷いて、俯きがちになって固まって、そうしてひとしずくだけ涙をぽとんと膝の上に落とした。水滴はギプスに吸い込まれてすぐに消えてしまった。その一瞬、はっとするくらいに無表情になった相貌に、あらゆる感情が濃縮されていたのだろうとフーゴは思った。あの時リストランテで流したのと同じ味のする涙。これまでとこれからが一緒くたに詰まっていた。もう動けないと頑なになった記憶、諦めかけていた未来、二度と会えない大切な人。そして彼女の涙にはエリンニ、あの言葉もまた含まれていたのならばいいと思う。彼女を縛り付けていたキーワード。人生を賭けていた目的。それらをたった一粒の涙に預けて、やがてふっと顔をあげて再びこちらを見た表情はからりとしたものに見えた。そこに無言の是を読みとって、フーゴは破顔した。
どこか高いところで鳥が鳴いた。そちらに意識だけをやりながら、ふたりは周波する半透明のカーテンを静かに見ていた。シィラを守る白い箱はどこまでも明るく暖かいように思われた。彼女が退院したならネアポリスを案内するのはどうだろうとひとり思いをしながら、風を背に受けている。
細い指が、ドルチェの蓋を開こうとしている。






/たとえば、それ以上の約束は必要なかった僕らのために