伸ばされたブチャラティの腕がくすんだ硝子に届いたのかどうか、じっと見ていた筈なのに判断がつかなかった。
濃紺とすこし明るいところの境目がゆらゆらとしておぼつかない空間の中で、白いスーツだけが浮かび上がっている。すらりと体の前に伸びている手は妙に長く見える。どこまでも進んでいきそうな気がしていたけれど、そこでぴたりと停止したからきっと届いたのだろう、と勝手に決め付けてから視線をすぐ目の前の男に戻すと、見計らったようにして掌を差し出された。

初老のひょろ長いシルエットの輪郭を、薄ぼんやりとした光が包んでいる。それは彼の目尻の神経質そうな皺をよりいっそう色濃くしているように見えた。必要最小限の光しか灯されていないのだろう、アクアリオの内部はどこをとってもしんと音を吸いとってしまう仄暗さとほんとうに水の中に居るような緩慢さに満ちていて、こんな場所にいつも居るからこんな幸せが逃げていきそうな顔つきになっちまうんだろう、とフーゴは鼻白みながら丁寧に札束を数えたのち、男の目をとらえつつ封筒を手渡した。背の高いくせに俯いているから上目遣いになって、こちらが見上げられている気分になる。悪い噂が立つと困るんです、といってブチャラティに説明していた時も同じ目をしていた。

中央駅で臭い奴らを見つけて尾行してきたらこんな辺鄙な水族館に来てしまい、古屋敷みたいな外観を見上げて勘が外れたな、とふたりで苦笑いをした矢先のことだった。二階のやけに装飾の凝った柱の陰に混じり込むようにしてシガレットケースを交換している男どもを、ブチャラティが見つけた。それからの行動は鮮やかなものだった。フーゴが正面から正規の手順でアクアリオに入館し、現場に走ったわずか数分間で、ほとんどすべては終わってしまっていた。階段を上がったところにある窓から入ってくる光がいやに白く、そこから数歩手前に設えられた柱のバロック彫刻みたいなかたちが深い陰影をつくっていた。その根元に転がっている男共はすでに両手両足を拘束され、チャックで口も目も塞がれており、自分たちに何が起きたかすら分からないまま芋虫みたいに運命を待つだけの物体になっていた。外壁を登り空間を切り開いて攻撃してきたブチャラティの顔はおろか、姿すら見えなかったかもしれない。ろくでなしのイタリア警察だって、これだけ完璧にお膳立てされていれば楽に連れていくことが出来るだろう。渡してやるつもりなんてさらさらないが。
顔を上げると、彼らの脇に象牙色の柱よりもくっきりとしたコントラストを描いて立っていたブチャラティは、取り上げたシガレットケースの中身を強張った表情で見つめていた。その緊張感と焦燥を混ぜたような顔色に自然と背筋が硬くなる。しかしやがて眉間の皺を薄くして、一端目をつむってから、ブチャラティはぴったりと丁寧に蓋を閉めなおした。ああどうやら麻薬ではなかったんだな、とフーゴは静かに気取られないよう安堵しながら息をついた。詮索を込めた眼差しを送れば、チップだ、とだけ短く告げてすぐにそれを内ポケットに仕舞い込む。服の内側から空間を作ってそこに収めているから、彼以外には在りかが分からないようになっている。
「こいつらって」
「片方はうちの奴だ」
「それじゃあ……」
余所の連中と取引をしていた男の未来なんて決まっている。フーゴは口を噤むと感慨少なく頤を下げて、ブチャラティが視線で示したほうの男ともうひとりを順に脳裏に収めた。どちらも知らない顔だったから、ネアポリスを拠点にしているわけではなかっただろう。裏切り者のほうは自分が、余所の奴はブチャラティが始末をつけることになるだろうな、と考えながら上司を伺い見ると、同じことを考えていたらしい双眸とかちあった。
「そっちの男…ここで死んでも海で死んでも、大して変わりませんね」
階下の薄暗い水槽群をさして皮肉交じりに言ってみれば、笑うでもなく窘めるでもなく、至って真面目な顔つきでそうだなとブチャラティは頷いた。男の呻き声と、ポンプ音かなにかの低い響きが足元から登ってきた。そうして暫くして異変を感じ取ったらしい館長が階段を踏むまでのあいだ、人払いをしていたわけでもないのにアクアリオの客らしき人間はまったく通りかかることもなかった。



「――噂もなにもないだろうに」
「は、何か言いましたか?」
「いいえ。ではこれで僕らは帰りますので……どうもご迷惑を」
仰々しく会釈をすれば、満足したようにひょろ長の館長は薄暗い水槽のあいだを通って消えていった。やれやれと首を回す。男どもを始末してチップをポルポに渡すのにおよそ三時間かかり、また此処へ戻ってくるのに一時間かかった。お咎めはなかったからいいものの、予定していた仕事は潰れてしまったし、もう太陽は海の向こうに移動してしまう時刻だろう。アクアリオも先程から閉館のアナウンスが流れている。
とんだ大損をしたなあと内心で悪態をつきながら、しかしフーゴはそれを外に発散させることはしなかった。館長を見送ってから戻した視線の先で、まだ今しがたの格好のままじっと水槽を見つめているブチャラティの姿がまなかいに在ったからだ。コントラストの強い彼の風采は、暗くひっそりと広がる濃青色のくすんだ水の中でまるで舞台役者みたいに浮かび上がって見えた。幾度か声をかけようとし、そのたびにやめて唇をつぐんだ。彼が意識を浸している水槽の中では、ティレニア海で見られるようなありふれた魚たちが不規則に、しかし不思議な調和を保ちながらゆらゆらと泳ぎ回っている。どちらかといえば研究向きの施設なのだろう。ぼんやりと光っているイカや小さな魚を眺めて、フーゴはやがてブチャラティが気づくまで、舞台袖に佇んでいるような心持でひそりとしていた。何を思っているのか知れなかったけれども、かたちのよい目鼻立ちを何色にも染めないまま息を止めているのかというくらい静かに硝子面に触れている彼のことを、きっといつまで見ていても飽きることはなかっただろう。









事務所に帰るとすっかり夜になっていた。
どこかで夕食を済ませていきましょうかと提案したところ、今晩は俺が作るよ、といってマーケットへの道を選んだブチャラティに並んでがやがやとした明るい店内を歩いていたのが、なんだかずいぶん前の夢みたいだとフーゴは思っている。つい三十分ほど前のことなのに、ひとけのない雑木林で男をひとり消してきたことよりもずっと昔のように感じる。それはきっと賑やかさの違いによるものだ。カラフルで明るくてざわついたスーパーマーケットの記憶だけが、ぽつんと記憶の中で嵌まらないピースになっている。だけど時間が経てばそのうち納まりがつくだろうな、とも同時に思っていた。遊園地に行ってきた日の浮ついたかんじに近いかもしれない、と述懐したところで、それはあんまり上手くない喩えだったとひとりで恥ずかしくなった。
キッチンスペースで買ってきたムール貝を洗いにかかっている背中を見遣ってから、ポリエチレン袋を覗き込んで冷蔵庫に入れるものとそうでないものを品定めする。ヨーグルトは入れる。ワインは入れない。魚介類は冷蔵庫に入れると不味くなってしまうから、入れてはいけない。「ねえこれそっちに持っていっていいですか、」「ああ」指示語だけで訊いたのに疑問もなさそうに後頭部が答えたので、持ち上げたエビのポリ袋をぶらんぶらんさせながらフーゴはなにかくすぐったい気分になった。
一緒に住まわせてもらって数カ月、こういう位置関係にもだいぶ慣れてしまったものだ。本当ならば炊事洗濯なんて自分が全部やらなければいけないのだろうが、生憎とフーゴは料理が得意とはいえなかったから、料理だけはたいていブチャラティがやってくれる。自炊なんてしなくとも暮らしていかれるくらいには常に懐は潤っているが、彼はもともと料理が嫌いではなかった。それが町の人々の支持を上げることに繋がっているのを、本人は知らない。
「砂抜きしていてくれ。パスタを茹でるから」
「わかりました」
ボウルの中でムール貝をつけた水がちゃぷんと揺れた。そういえば今日はアクアリオに居たんだったな、と思い出してみたけれど、だからって魚介を食べるのに抵抗が生まれているとかそういうことは全然なかった。ああいう空間に居ると、展示されている生き物が普段口にしているたんぱく質と同じ種類のものだとは思えなくなる。現金にできているのだ。およそ自分が並の人間とは外れたところに立っているという自覚はあるものの、これについては多分よくある事例なのではないかと思った。


トマトソースとガーリックの香りが、事務所中に溢れている。というのは憶測でしかない。鼻が慣れてしまっているので、料理を目の前にしている時にはどこまで広がっているのかなんて気がつかないのだ。においが染みついているという状態は、後になって認識することが多い。真実は明日の朝起きてからだ。
今晩はブチャラティが珍しくワインを飲んでいる。お気に入りのグラスを寛いだ様子で持ち上げている姿は大人びて見えるのに、向けてくる笑顔はいつもより柔らかいように感じた。今日は思いがけない仕事が入ったから、やはり彼も気を張っていたのだろうか。取るに足らない話しをたくさんした。酒が入るとブチャラティは、美味しいか、という質問をいつもより多めにするようになるので、そのたびに美味しいですよと答えているうちにフーゴの気分も緩んできた。美味しいですよブチャラティ、と笑ってみせるとそうかと満足げに頷く、彼の頬はわずかに赤味をおびている。
「ねえブチャラティ、水族館でなにを考えていたんですか?」
今の顔とあまりにかけ離れていたものだから、かえって思い出してしまったのだろう。ふと浮かんだ疑問を投げかけてみる。もしも触れられたくない事柄だったならばすぐに話題を変えてしまおうと、次の台詞を用意しながら。
「ああ、待たせて悪かった。特に考えてたってことでもないんだ……ただ、思い出してた」
「どんなこと?」
「……色々だな。父のことや……とにかく、色々だ」
ボルドーの滑らかな水面をくゆらせながら睫毛を伏せる仕草に、いっとき呼吸を忘れていた。そうして彼が懐かしんでいるのかもしれない面影の代わりに、フーゴはまたあの薄暗いアクアリオで見た水槽の壁、さらにほんの少し緑がかったくすんだ濃い青色の水中で、淡く光りながらゆらゆら行き交う魚やイカを想起する。あの光景からこんな豊かな表情を紡ぎ出せるブチャラティの原風景は、いったいどんなものなのだろう。
「フーゴ、今夜は一緒に寝よう」
「……えっ?」
「ふふ、何を想像した?寝るだけだ、眠るだけ……」
まるでバンビーノを揶揄うのと似通っている笑みを浮かべた眼差しには、今しがたの懐古に寄り添った芳醇なそれではなくて、ごく日常にありふれた所謂俗っぽい色が浮かんでいた。持ち上げられたワイングラスの底でくるくる揺れているワイン。可笑しげに傾がっているブチャラティの頭。それらを見ている自分は、間違いなく中途半端で阿呆っぽい顔をしているんだろうなと思った。例えそうだとしても指摘したりはしない彼に、あんたが脈絡ないこと言うから、と勝手に胸のうちで言い訳を述べておく。もしかすると彼の中では脈絡がちゃんとあるのかもしれないけれど、そんなことはフーゴには分からない。












「今日のあなたは、少しへんですね」
ひとつの毛布に包まって眠る。肩から背にかけて回されていた腕に力が籠り、いらえの代わりらしい息遣いに続いて、頭を軽く胸に押し付けられた。心音がふかくふかくに浸透してくる。こうやってひっついていると、否が応でも年齢と体格の差を自覚させられた。相手の動作のひとつひとつに大人っぽさを感じ、そうして自分はどこまでもバンビーノになったような気分になる。埋められない差が悔しくて心地よい。そんなふうに思えてしまうぼくも今夜はちょっと変なのかもしれないと、フーゴはぼんやり目を伏せた。落ち着きの悪かった腕をようやくブチャラティの背に回すと、頭上でかすかに笑った気配がして、それから額にキスがほどこされた。
「お前、子守唄は歌えるか。なんでもいいから」
「歌えません」
「嘘だな……うそのあじがする」
もう一度キスをしながら笑ったブチャラティを首を捩って見上げてから、ずるいですよと溜息交じりに呟いた。もうたいがい眠いんでしょう、と言ったところで詮無い。大人っぽいのにこどもみたいだ。とにかくずるい。少しだけですよと意味のない前置きをして、髪を梳いてくる手に気持ち良くなりながら、フーゴは固さをなるべくなくすように仮声をまじえて歌った。もうずっと昔に歌ってもらった歌だ。誰かに歌ってやったことなんて、当然なかった。

「e la vita non è la morte…… e la morte non è la vita……」

命は死じゃない、死は命じゃない、
ああこんなへんてこな歌詞だったのかと笑いだしたくなったのに、もう意識が半分どこかへ持っていかれてしまっていた。背に回されている腕から力が抜けて、ずしりと重たくなってゆく。こちらの腕も同じだろう。ひとつになって沈み込んでいくような感覚がやけに心地よい。泡沫のような自らの歌声を時折り拾いながら、もう自分の唇が動いているのかすらあやふやなまま、とろとろと眠りの渕へと身を任せた。

彼は今宵、たゆたうような魚の夢を見るだろうか。