お前はなんでもできていいよなあ。 足をぶらぶらさせながら、マルゲリータを大口に納めるほんの三秒ほど前にナランチャが呟いたひとり言みたいな音が、ころんとテーブルに転がって中央に置かれている花籠のあたりで行き場をなくしている。そういうイメージが見えた気がした。昼時をとっくに過ぎた通りはほのぼのと暖かな陽気にどこもかしこも緩められて、開いているだけで機能を成していないような露店がいくつも見える。いつでも笑顔を振りまいているアコルディオン弾きの親父も、この時間帯ばかりは辛抱堪らんというふうに眠たそうな欠伸をしている。縞模様のオーニングを通して降ってくる太陽光はちょうど肌に馴染む明るさで、午睡を誘うのにはぴったりだった。 フーゴは先に食べ終えてしまったパスタの皿と入れ替わりに置かれたエスプレッソを飲みながら、相席の少年の唇から面白いほどに伸びているチーズのかたちを観察し、そうして重力に負けて垂れそうになるところを彼が器用に舌ですくいあげているのを見届けてからまたカップに口をつけた。美味そうにものを食べるやつだ、といつも思う。こうやって食べてもらえれば店主だって気分が良いだろう。好き嫌いも多いけれど、そのぶん好きなものはとことん幸せそうな顔でみるみる腹に収めていく。これでもうちょっと行儀がなってればなあ、とフーゴは溜息をつきたくなるが、どちらかといえばそれは自分のほうが神経質すぎるのだろうと最近は考えるようになっていた。大通りから外れたこういう庶民じみた通りでは、むしろナランチャみたいな客のほうが普通なのだ。 「あの……よかったらこれ、」はたと顔を上げたら、髪を高いところで一纏めにしたウェイトレスが小さなジェラートをふたつ置いていったところだった。ヴァニラとオレンジだろうか。慌てて礼を言おうとしたら、ちょっと意識をそらしている間にもう食べ終えたらしいナランチャが嬉しそうに肩を跳ねさせてグラッチェ! と大声を出したので、それにのっかるような形で同じフレーズを口にした。彼女は店の中に引っ込んでから振り返り、にっこり笑ったかと思うとすぐに奥へ行ってしまった。ほらやっぱり。店が暇だったこともあるかもしれないが、ナランチャはじつに好かれやすい客なのだ、とひとりで納得しながら背凭れに体をあずける。 「なー、今の娘ってフーゴのこと好きなんじゃないの?」 「は? なに言ってんです」 「だってお前のこと見てたじゃんか」 急に顔を近づけてきたと思ったらにやにやしてそう言うと、ナランチャはヴァニラ味のほうを取って食べながらスプーンでこちらを指してきた。オレンジのほうを取ると思っていたから少し意外だった。フーゴはもう一度店内を見ようかと視線を動かしかけて、やっぱりやめた。これで例えば目が合ったとしても、もしくは合わずにどこか影から見られていたとしても面倒臭いなと思っていた。女の子に好かれるという経験自体はべつに珍しいことじゃないけれど、勘違いされるのは御免だった。その倦怠さにはもちろん生業も絡んでいるが、もともとの性格というものが大きい。例えば此処がもう二度と訪れないような旅先だったとしたらまた別かもしれない。でもこの町に居る以上はずっと使っていく店だろうから、などと考えるとやはり余計なことになるのは避けたかったので、フーゴは表面がちょっと溶けたオレンジのジェラートを掬いながら「気のせいでしょ」と返してそれきりだった。ナランチャはふぅんとつまらなそうに相槌を打った。 「ところでナランチャ、今日はなんで遅刻したの」 尋ねると、分かりやすくぎくりと剥き出しの肩が揺れた。 「っと……それはさあ、ほら」 「またなんか拾ったんじゃないでしょうね?」 「ち、違うって! 拾わなかった! 遊んでたら夢中になっちゃってさーっ」 必要以上に大きな身振り手振りで潔白を証明しようとしているナランチャの、いかにもガキくさい言い草にあーあと溜息をつく。どうせそんなことだろうと予想はできていた。というか、昼飯に一時間近く遅れるなんてそれくらいしか浮かばない。さもなければ何か揉め事があったかだ。どちらも面倒なことに変わりはない。 「あのねえ、遊んでたら懐くでしょうが。餌なんてやらなかったでしょうね? 猫ってのは一度餌をやったら味を占めてついてくることだってある。もしかしたらその辺の植込みにいるなんてことも……」 「あ〜っそんなことないって! だいじょぶ! それくらいオレだって分かってるよ!」 ガタンとテーブルを鳴らしてまたスプーンで指してきたナランチャに、どうだか、という眼を向けてやるとぶすくれて口を尖らせた。フーゴは俺のこと信じてねえんだ、とかなんとかまるきり拗ねた子供同然にぶつぶつ言っているので、ぼくだって信じてやりたいけどといって同じようにスプーンで指し返してやる。そうしながらも周りの植え込みや街燈の下なんかをそれとなく見回して、とりあえず猫のすがたがないのを確認してからスプーンを下げた。 一ヶ月くらい前、ナランチャは野良猫を拾ってきたことがあった。喧嘩をしたのであろう傷が脇腹と耳に生々しく残っていて、それが原因で満足に食べられていないようだった。傷そのものはブチャラティが能力で塞いでくれたけれども、既にナランチャに懐いていたそいつは暫く経ってもアパルトメントを立ち去る様子はなく、むしろずいぶんと居心地よさそうに使い古しのタオルの上で丸くなったりしていた。ナランチャもそれがまんざらでもないらしく、このまま飼ってみてもいいかなあなんて言い出した。 これがまあナランチャの一人暮らしの部屋だったならフーゴとて何も言いやしないが、生憎とナランチャはこのチームに入ってからフーゴの部屋に住んでいたので、つまり居候が増えたことになったフーゴはたまったものではなかった。考えるまでもなくナランチャはよく餌やりを忘れたし、構うだけ構って掃除をしなかったり爪を切り忘れることも多かった。そういう厄介事を押しつけられそうになるたびにフーゴは猫を元居たあたりに置いて来ようとするのだったが、その小さな脳みそのどこに入っているのか猫はちゃんとアパルトメントまで帰ってきて、みゃあみゃあと甘えるように鳴いた。 「あいつを置いてくるのに何週間もかかったんですからね!」 「だぁから悪かったってば、ごめん! もう拾わないよ」 「……ねえナランチャ、」 声のトーンを抑えて呼ぶと、次に何を言われるのか知っている顔をしてふいと目線を逸らされた。その目が少し最初のときと似ているような気がして、フーゴは喉まで出掛かっていた言葉を飲み込む。もしかしてシンパシーを感じているんですかなんて、訊いたら傷つけることになるだろうか。それとも彼はこんなことでは傷つかないだろうか。午後のまろやかな雑音とそのなかにぽっかり浮かんだ沈黙の中で、フーゴは苛立ちとも気まずさともつかない居心地の悪さに顔をしかめる。いつも能天気なナランチャがこういう表情をしていると、どうすればいいか分からない。 「フーゴはさあ、どうしてオレを拾ったんだ?」 ぽつりと寄越された問いに眉をあげる。 「別に拾ったつもりはないけど」 「でもお前がいなかったらさあ、」 「拾ったわけじゃあないですよ。ぼくもブチャラティも、きみをそういうつもりで助けたんじゃない……選んだのはナランチャでしょう。全部、ナランチャですよ」 今度はフーゴが顔をそらした。今ごろになって店内を見やってみれば、あの娘はもう出番を終えて完全に引っ込んでしまったようだった。それになんだかがっかりしたような、ほっとしたような気分になる。 「オレってあの猫みたいだ」 「全然違うだろ」 「! ……うん、そうだった。オレはちゃんと役に立つもんな!」 一瞬キレそうになったかと思ったものの、継がれた台詞にするすると鳩尾の熱が引いていくのを感じていた。にひひと歯を見せて笑う顔はどこかわざとらしかったが、嬉しそうな色も覗かせていたからフーゴはまたあーあ、と呟いて頬杖をつく。顔だけがちょっと熱い気がした。はからずしも喜ばせることになったらしい。自分がイラついて誰かが嬉しそうにしている状況なんて、滅多にお目にかかれない。お互い狙ったわけじゃなかったから、余計にたちが悪いと思った。 確かにナランチャが組織にとって何の役にも立たない人間だったなら、今ごろこんな風にオーニングの下で一緒に午後を過ごしたりはしていないだろう。あの矢に貫かれて死んでいた可能性だってあるし、もし試練に通ったとしてもブチャラティが否と判断すれば、何らかの手段で日常生活に戻されていたかもしれない。そもそもブチャラティは初め、ナランチャを日常に戻してやろうとしたのだ。それが猫を捨ててくるのとはわけが違う彼の優しさであるということに、ナランチャだって気づいていないわけじゃないだろうに。そしてあの猫みたいに甘えた声で鳴くしか能がない生き物なんかとは、自分は比べ物にもならないってこと、気づいてなかったわけがないだろうに。くだらないことに頭を使っているから、いつまで経っても九九を覚えられないんだ。 「――きみは、林檎の皮をじょうずに剥けるだろ」 「は?」 「ぼくはまだ上手く剥けませんよ」 頷いてやるのは癪だったので、フーゴは話をすり替えることにした。 空っぽの両手を持ち上げて、林檎をくるくると回しながらナイフで皮剥きをするジェスチャーをすると、ぽかんと口を開けた阿呆面が目の前に戻ってきた。ナランチャは何か分からないことがあると、すぐにこの顔をする。一日に何度もぶつかるこの表情がなんだか妙に久しぶりに感じられて、フーゴは別に笑うところでもないのに噴き出してしまった。 不思議そうに眉を動かしてから、直につられたように顔中で笑みをつくったナランチャはテーブルに乗り出して、じゃあ帰ったら林檎剥いてやるよ!と得意げに声を弾ませた。じゃあまず林檎を買わなくっちゃと肩を震わせながら立ち上がる。多めにチップを払わなくてはとポケットを探りながら花籠のあたりを見てみたが、さっき転がってきた呟きはもうどこにもないようだった。お前はなんでもできていいよなあ、なんてことはもう、きっとナランチャは金輪際言ったりしないだろう。 リストランテを後にする頃には、調子を取り戻したアコルディオン弾きの親父が陽気にオ・ソレ・ミーオを奏でながら通行人を巻き込んで軽快にステップを踏んでいた。そこに混じろうとするナランチャに手を引っ張られ、フーゴはまだ引ききらない笑いの波を頬にのせたまま駆けだした。さっきのウエイトレスが輪の中に居たって、今はそんなことまるで気にならなかった。 |