なにも大それたことを望んでいるわけじゃなかった。 夜眠るときは暖かい腕の中でおとぎ話を聞きながら夢の世界にいざなわれ、朝起きるときはミルクたっぷりのカプチーノの香りと優しいキス、それにカーテンを透かして差し込む白く柔らかい光が待っている。焼き立ての卵とベーコンを挟んだパニーノを頬張っているとどこからともなく大きな手が頭を撫でてくれて、今度の休みにはどこか遠くへ連れていってあげようかと得意げな声が降ってくる。それに思わず立ち上がってハグをしようとすると、キッチンから窘めるように、でもはっきりと嬉しそうな響きで名前を呼ばれる。こちらへ来てずいぶんと母国語の訛りが薄れてしまっている彼女はちょっと不思議なイントネーションで息子の名前を呼ぶのだったが、それはいかにも自分が世界にたったひとりだけの特別なこどもになったようで気持ちが良かった。彼女の呼び方を真似て呼んでくれる彼のことも、まるで本当の父親みたいに尊敬していたし、大好きだった。いつでもその大きくて優しい手が伸びてくるのが楽しみだった。 そういうどこにでもある風景を、ずっとずっと望んでいた。むかしのはなし。 痛む腕をさすりながら歩いていると、自分がどこをどうやって進んできたのか分からなくなってしまうことがある。知っているいつもの階段だと思っていたら通りを幾つも間違えていたり、時計塔を目印にしていたら真逆の塔に向かって歩いていたりする。広場の噴水の周りをわけもなく時間をかけてぐるりと一周したりして、そしてまた元来た方向へ戻って行ったりもする。そういう時は大抵、ジョルノが家に帰りたくない時だった。 痛む腕はいったいどこで痛めつけられたのか、思い出そうとするとどんどん暗い気分になるので考えることはしなかったけれど、これ以上また痛くなることにちょっと体が耐えられないように思われた。今日は義父が早く帰ってくる日だった。うまくいけばジョルノに適当な夕食を作り置きした母とどこかへデートに行ってくれるかもしれなかったから、遅すぎる!といって叱られないギリギリの時間帯まで粘ろう。二人が出掛けてしまったら、帰ってくるまでにベッドに潜り込んでしまえばいい。そうぼんやりした目で今夜の計画を立てながらのろい足取りを向けたのは、大通りをひとつ渡った向こう側にある海沿いの街だった。 何世紀か前から残る古めかしい石造りの家に挟まれた急勾配の坂を下っていると、遠くでカモメが鳴いている声が風に乗って届いた。俯いていた顔をあげる。ちょうどオレンジがかってきている太陽が海に近づいて、サンタルチア港を取り巻く何もかもをきらきらしい光に飲み込もうとしているようだった。眩しさに目を細めて、道行く大人にぶつかって悪態をつかれながらも何故だかそれをもっと見ていたくてジョルノは足を止めた。 「おっと、」 そうしたら、時期にまた誰かにぶつかってしまった。びくついて視線を間近に戻したら、しかし目に飛び込んできたのは一抱えもあるような発泡スチロールの箱だったのでジョルノは面食らった。それが魚を入れた箱だと気づくと、なんだか生臭いにおいが急に襲ってきた。ごめんよ見えなかったんだ、発泡スチロールの向こうから聞こえてきたのはまだ子供のそれといっても差支えない音域の、だけれど妙に落ち着きのある声だった。見上げているとひょいと相手が顔だけを覗かせて、ジョルノを見て少し感嘆を込めたように瞬きをした。 「驚いた、オレより髪が黒い奴はあんまり知らないんだ」 「……ぼくも知らない」 「そうか、もしかしてアジア系?」 黒髪をきれいに切りそろえた少年の問いに、ジョルノは曖昧に首を振っただけで返事をしなかった。抱えている花束のラッピングががさがさとやけに音を立てやすい素材だったので、それを余分に鳴らして誤魔化せないかと思ったけれど、そんなことをしなくても彼は追及してくるようなことはしなかった。 彼のお父さんは漁師をしていて、彼は手伝いで市場へ魚を売りに来ていて、ちょうど最後に売れ残ったのをまとめて買ってくれたお婆さんの家まで魚を箱ごと運んでやっている最中だったという。ふたりがぶつかってすぐに大丈夫かい、と声をかけてくれた老女は、見るからに穏やかそうな風貌をした小さくて可愛らしい人だった。いつもなら息子が車を出してくれるのだけれど、たまたま仕事で数日空けているから自分で買い出しに来たのだといって照れくさそうに、ちょっと申し訳なさそうに笑っていた。 彼女が抱えていた荷物のうち、幅をとっている花束を持ってあげよう、という気持ちになったことがジョルノには自分でも意外だった。本当は少年のほうを手伝ってあげられたらよかったのだろうけど、いくつも年上で背丈がずいぶんと違ううえに力も比べ物にはならない自分ではてんでお話しにならないだろうと一目見て分かっていたから、じっと生臭い発泡スチロールを見つめていたのだ。そうしたら少年が、もしよかったら手伝ってくれないかとジョルノに言ったのだ。まるでジョルノのひとりだけ手持ち無沙汰で居心地の悪かった気持ちを読みとったようなタイミングだったから、いつもならこんな時すぐに逃げ出してしまうのに、じゃあそうしようかなと思って花束を抱えていた。こうやって雑然と騒がしい住宅街を三人で歩きながら、どうしてこの人たちと歩いているのだろうと不思議な気分は消えないまま、だけど決して怯えた心地は起こらなかった。人も街もなんにも知らない、あちらも自分のことを知らないし、自分もあちらのことを知らないのが妙にほっとする。初めて感じるふわふわとしたものが胸のあたりにあった。 「なあ君、なにか嫌なことでもあったのか?」「えっ……ど、どうして」「そりゃあ、悲しそうな顔してるからさ」顔を上げずにまた黙りこくってしまうと、少年は一度発泡スチロールを持ち直して、それから少し困ったように息をついたようだった。もしかすると殴られるかなと思った。ジョルノがこうやって黙り込んでしまうと、義父も町のこども達も決まって苛々した顔でジョルノを殴るのだ。上から降ってくる手はいつも恐ろしかった。どこから降ってくるか分からないから怖いのに、とても顔を上げる勇気もなかった。 「あ、それ見ろよ」 「……?」 「それだよ、あー、ちょっと待って。着いたみたいだ」 歯を噛みしめ始めていたけれど、結局彼にはジョルノを殴ろうなんて気はどこにもなかったらしい。何を言っているのか分からないままようやく顔を上向ければ、お婆さんが自宅の柵についた錠を開けているのが見えた。丸まった背中が夕焼けに照らされている。そこに歩み寄っていく少年の白基調の服も、肌も、淡いオレンジ色に染まっている。黒くつややかな髪は染まることはなかったけれど、光をはじいている部分が夕焼けだった。ジョルノはのろのろとした歩調で彼の近くへ寄りながら、じっと彼の髪を見上げていた。ぼくも同じように光をはじいているのだろうか。そういえば母さんが、あんたは父親があんなに見事な金髪だったのにどうしてこんな真っ黒髪なのかしら、といって首を傾げていたのを思い出した。母さんがどこか残念そうな顔をしていたのをよく覚えているから、こんな黒髪は欲しくなかった。けれど今だけはそれをなかったことにしよう、そう考えて見上げていたところにちょうど少年が振り返ってこちらを見たので、視線を慌てて外した。お婆さんとなにか話していたのだろう、優しい笑顔が目の裏に焼きついた。 グラツィエ、またよろしく!慣れた様子で手を振る少年も、それを孫を見守るような顔で見送るお婆さんも夕暮れのまばゆさに照らされて、真っ直ぐ見ていることが出来なかった。一緒になって手を振る真似をしている自分をやっぱり不思議に思う。お礼にと貰った小ぶりのババの包みがとても大きく感じられた。きっともうこれから先、あのお婆さんにもこの少年にも会うことはないのだろうけれど、でももしかしたらどこかですれ違うくらいはするかもしれない。そのときにぼくは彼らの顔を覚えているだろうか。彼らは、ぼくの顔を覚えてくれているだろうか。 ジョルノは滅多に考えないようなむず痒くてたまらないもしもの話について考えながら、細い住宅街の路地から市場に出る通りに出た。そこを右に折れればサンタルチア港で、左に折れればジョルノの住む町がある。もしかしてここでお別れかい、と腕捲りを直していた少年が屈んで尋ねてきたので、少し迷ってから頷いた。そろそろ帰らないと、叱られるかもしれない。 「今日は助かったよ。なあほら、これ見て」 「……てんとうむし?」 「そう、てんとうむし。さっきの花束についてたから貰ってきたんだ」 指出せよ、と中腰のまま彼が言うままにそろりと右手を持ち上げて人差し指を立てると、そこにてんとうむしがちょこんと乗せられた。丸くてつやつやしている。日本に居た頃は捕まえて遊んだりしていたけれど、イタリアに来てからは文化の違いでそういう遊びは全然しなくなっていたから少し懐かしかった。じっと眺めているとてんとうむしは指の爪先まで登っていって、黒丸模様の赤い翅をぱっかりと開いたかと思うと、あっという間に空に飛び立ってしまった。 「Gallinella del Signore……てんとうむしは幸運を呼ぶんだ。親切なきみに、幸せが訪れるように」 赤い空にまたたくうちに消えてしまったてんとうむしを追いかけて視線を巡らせていると、Arrivederci、あの落ち着いた声が聞こえた。はっとして向き直る。もう既に背中をこちら側にして帰路につこうとしていた少年の髪は、やっぱり夕焼けをはじいていた。ひらひらと振られる手がちょうど夕陽を遮ったり覗かせたりしていて、ジョルノは眩しさに目をつむりながらも手を振り返した。Grazie、ありがとう、たったそれだけですら言えたかどうか定かでないまま、彼はあっと言う間に港町の雑踏の中に消えていってしまった。 * 「――ブチャラティ」 水面ではじかれた光がいくつもの粒になって、瞳の中に飛び込んでくる。それを降り払うように緩く瞼を落としながら視線も向けずに呼びかけると、あちらも注意は四方に飛ばしつつ意識だけをこちらへ寄越したようだった。ボートのエンジン音と飛沫が散る音、それからほかの皆の取り留めない会話が耳に入りこんでは抜けてゆく。どうしたジョルノ、黙ったままの自分をいぶかしんで呼んだ彼の落ち着いた声色を少しばかり気掛かりに感じるのは、此処ヴェネツィアでなにか決定的なことがブチャラティに起こってしまったかもしれないという予想を、いつまでもジョルノが抱えているためだ。それを確かめるだけの満足な時宜もやってこなかったし、また出来ればやってこなければいいと思っている。 僅か数時間のうちにこれまでとはいくつもの点で変わってしまったチームの未来は、一寸先すら見えないくらいにおぼつかない。仲間も欠けてしまった。そして得体の知れない喪失の気配をなぞりながら、糸を辿るように進んでいかなくてはならない。こんなにも煌めいた美しい景色に飲み込まれるようにしてヴェネツィアの海を渡っているのに。決して夢が揺らいでいるわけではないのに。来るべき未来が光と同じ速さで目まぐるしく変容しているのが、ジョルノには分かっていた。きっとブチャラティにも分かっているだろう。ジョルノには確信が持てていないあれもこれも、ブチャラティには分かっている。彼の黒く澄んだ瞳はそういう色をしていた。 「ぼくの名前は、」 「ん?」 「ぼくの本当の名前は、ハルノというんです」 潮騒に掻き消えるかというくらいで呟いた、そこだけ発音の異なる名前をどうやら聞きとってくれたらしい。こちらをじっと見ている痛いくらいの視線を頬で浴びてから、ちらと目だけを向ければブチャラティはちょっと驚いたような顔をしていた。ああ似ているなと思う。ずいぶんと昔の記憶を今になって蘇らせらせたことに何か意味があるのだとすれば、きっともう答えは出ているのかもしれないけれど、これもまた確かめるべき時でないだろう。 ただ、伝えておきたいと思ったのだ。今この時に。 「……すみません、忘れていいですよ」 「いや、忘れない」 淀みのない返答に唇を引き結ぶ。やはりこの人には分かっているのだろう、笑みともつかない、それでも確かに感情がのせられた相好を見ていると、にわかに喉が苦しくなったような気がした。風に煽られた黒髪がさらさらと揺れている。光をはじくつややかな髪。もうジョルノにはなくなってしまった色だ。ねえ貴方に聞きたいことがたくさんあるんですよ、だから、だからブチャラティ。言葉にならないまま視線を戻せばまた水面からの光にやられて、眩しさに手を翳して一寸だけ目を瞑った。 ほんとうに此処はどこもかしこも眩しい。 あの日の夕焼けとはまるで違っているのに、遠ざかる背中がちらついている。 |