饐えた臭いが石畳の深くまで染み込んでは奥のほうで何か別のものと混じり合って、また津々と地上へ吹き戻されているような、異様に濃くて鼻腔に残るいやな臭気が漂っている。ガッレリア等とは程遠い古びた煉瓦と石造りの通りであるから本来ならここまで酷いことにはならないのだが、其処は昼間でも満足に光が届かない傾斜のついた狭い路地だから空気が逃げていかない。なおかつ今夜は風がないときている。もう石の隙間から地面に溶け流れてしまったか、或いは沸騰したスープのように跡形もなく大気中に消えてしまったか、いずれにせよ視認できないモノの臭いだけがまざまざと捉えられるこの現状に臆面もなく舌打ちをした。
夜明け間近の暗がりに一瞬、まだウイルスがどこかに残留しているんじゃあないかと思った。しかし隅のほうに蹲る人影と、それに覆い被さるようにしている半透明の存在を見止めたので、浮かんでいた可能性は捨てる。ゆっくりと近づくこちらの存在に気づいていないのか、人影は小さく怯えた声を漏らしながら奇妙にもがいている。やめろよ、やめねぇとぶっ殺すぞ、語感だけが物々しいが声色は憔悴しきっているそれで、もがいている腕や手指は少しも対象すなわち半透明には触れようとはしない。路地の隅に追い詰められて、ただ無駄に足掻いているだけにしか見えない彼を静かに見下ろしていると唇はひとりでに歪んだ。それが不快を意味しているのをブチャラティは自身でよく理解していたのだが、向け所の無いたぐいのものであることも知っていた。短くかぶりを振る。

「……フーゴ、大丈夫か」

ぐるる、と鳴いているのか呻いているのか判然としない音が、半透明のパープル・ヘイズから滲み出た。はたとして恐らくは逆光の中に居るであろう自分を認識したフーゴの目がいつになく怯えたものであったので、ブチャラティはまた無意識に舌打ちをしていた。「終わったのか、」尋ねながら数歩歩み寄ると、ぎくりとしてフーゴが来るなと叫んだ。そののち、引きつった呼吸音が耳に届いた。
動きを止めて眉を顰めて見ていると、パープル・ヘイズの舌がべろりとフーゴの頬を舐めた。涎が白い肌を伝う。短い悲鳴じみた声をあげたものの、もうフーゴはほとんど角に追い詰められていたため四肢の動かしようがなかった。カプセルはまだ残っている。先程から抵抗する様子さえなかったのは、もしも今カプセルに罅を入れるような真似をしてしまえば世界一間抜けで悲惨な死を迎えることが分かっていたからだろう。つまりフーゴは今、自身のスタンドをコントロールしきれていないのだ。戻そうと思っても戻せない。だから来るなと言ったのだ。
「おい、落ち着けフーゴ。血をとってやりたいだけじゃあないのか。舐めさせてやれ」
「な、なにを呑気なこと、ひっ……」
「お前が怖がってるせいで、そいつも引っ込みがつかねえんだ」
「う……っ」
顔を背けて決してパープル・ヘイズを見ようとしないフーゴは、それでももがく手足を無理矢理に押さえつけるようにしてその場で縮こまった。言うことを聞きいれてくれたことに息をつく。どうやら頭では理解していても、本能というか気持ちの面で拒絶反応が出ているらしい。しかしそんな本体の内心など全く知らぬ存ぜぬといったような読めない顔つきで、分身はふたたび顔を寄せた。
ぺろぺろと主人の頬を舐めている人型のそれは異様な光景には変わりないが、あのカプセルさえなければこんなに拒絶されることもなかったろうに、そう黙って距離を置いたまま、ブチャラティはもどかしさと共に内心で呟く。ぎゅっと瞼を閉じてしまったフーゴには見えなかろうが、パープル・ヘイズは何かを訴えかけているように見えなくもない。だがそれを告げることはしなかった。仮にそれがフーゴに伝わることでコントロールが戻るとして、今のフーゴに目を開けてそいつを見ろと言うのは良策ではないことは直感で分かっている。冷静でいるようで唐突に決壊するあの少年のアンバランスな精神では、この状況を克服する形で打開するのは難しいように思われた。
「――フーゴ、目を開けてこっちを見ろ」
「ぶ、ブチャラティ……?」
悪臭がわだかまる地面に膝をつく。可能な限り表情を歪めないよう努めながら、そろりと片目を開けたフーゴと目線を合わせた。恐怖と混乱によって濡れた瞳が訝しげに、しかしどこか縋るような色を帯びてこちらを見つめている。その頬に口付けるようにして汚れを舐めとっているパープル・ヘイズもまた、鏡面に映したように視線だけを向けてきた。殺意と無為を濃縮したごとき眼差しに、背筋がひとりでに粟立つ。

「――ゆっくり俺のほうに来い。何も考えるんじゃないぞ」
「あ、は……はい……っ」

瞳孔さえ捉えきれない鋭すぎる双眸から視線を外すと、じっとフーゴの目だけを見つめながら片手を伸ばす。それに惹き付けられるように這ったままでゆっくりと彼が動きだすと、パープル・ヘイズはまた唸り声に似た音を発したものの一緒に動こうとはせず、電池が切れたロボットのように路地の隅に向かって身を屈めたまま硬直した。ブチャラティ、とわずかに震えた声でフーゴが呼び、それに頷いてやる。ずりずりと膝を石畳に擦りつけて這ってくる少年の顔つきには、怯えと安堵と罪悪感と情けなさと、他にもいくつものやり切れない感情が乗せられている。
(フーゴの中で無意識のうちに、自分自身を守りたいという願望と自棄になる衝動が擦り合わさっているのだとしたら。そのためにパープル・ヘイズとの折り合いがつかなくなっているのだとしたら)
この子はまだ幼いのだった、と思い出す一方で、ブチャラティは彼の中にひどく不完全ではあるが自立した男の片鱗を確かに見ている。自立しようとしていると言ったほうが適切だが、何が何でもブチャラティには迷惑をかけたくはないという意志が痛いほどに伝わってくるために、過大に捉えてしまっているのかもしれない。この少年は意地を張りやすいのだと最近気がついた。そうと分かっていればもっと早く様子を見に来ていたのだが、信じてやりたい気持ちが拮抗していたのだ。つまるところ、これは己の認識不足が招いた事態とも言えるだろう。
「は、はあッ……すみませ、ブチャラティ……」
「いいんだ、いい子だな……とにかく落ち着け、va bene?」
手を掴んだフーゴを引き寄せて抱きしめると、彼の背後でゆらゆらとパープル・ヘイズは霧状になって消えていった。それを確認してから背を撫でてやる。腕にしがみつくようにしているフーゴは己の惨めな姿を恥じ入っているが、この頑なさがブチャラティには場違いながらも面映ゆかった。小さく震えている肩をぽんぽんと叩き、もう大丈夫だと繰り返してやると次第に落ち着いてきたのか呼吸も穏やかになり、しがみつく手の力も緩んできた。そこで俯いたままのフーゴの顎をすくい、上向かせてやる。あっと焦りを含んだ声とともに涙が流れ落ちた。
「……っぼくはあんたの部下失格だ」
「どうして」
「だって、自分のスタンドすら満足に扱えないなんて!」
「……お前はターゲットを問題なく消した。任務は完了していた」
「でも……」
「まだ発現して日が浅いんだ、そういうこともある。俺がお前を必要としていることは、フーゴ……勿論忘れてねぇだろうな? 二度とそんなことは言うんじゃあない」
涙を舐めとってやりながら頬に口づけると、ぎくりとしてフーゴは身を固くした。今しがたの状況がフラッシュバックしたのだろう。それを承知で幾度か位置を変えていくと、やがてわかりましたから、と身じろぎと共に腕を突っぱねて遮られた。顎を解放してやる。そうして見上げてきた顔には戸惑いと照れが色濃く浮かんでいたが、もうあの怯えと悲痛さは鳴りを潜めていた。眉をちょっと下げがちにして何か言いたげにしている部下に、ブチャラティは静かに笑みを落としてやった。




「いいか、パープル・ヘイズはお前の血を拭ってやりたかっただけだ。それをしっかり認識しろ。お前に敵意を向けてくるはずがないんだからな」
「はい……すみません、」
「なあ、俺は頼りないか」
「え!? な、そんなこと有り得ませんッ! あんたは凄い人だ、本当に頼りになる!」
朝焼けに染まりつつある裏通りで並んで帰路に着く道すがら、ついでという風に付け足した問いに、薄らと伸びているフーゴの影がわたわたと大仰に動いた。舗装もろくに整っていない石畳の道のうえで細長いシルエットが自分のそれと重なりそうになって、また離れていく、その一連の動きを眺めているとまるで見知らぬ誰かの人間模様を観察しているような気分になる。輪郭だけになった影芝居を見守るのはどこか滑稽で、われしらず胸が軽くなる心地がした。
くっくっと笑いを込み上げさせながらブチャラティは背を丸めて、じゃあもっと俺に頼るんだ、と顔を向けないままそっけなく告げると歩を緩めることなく歩き続ける。それに対して一寸立ち止まっていたらしいフーゴはまたあっと声をあげると、小走りに隣に着いてちらちらと横顔を窺いながら、しかし結局頷く以外の返答を寄越すことは出来ないらしかった。気配と影からそれらを承知したブチャラティは、かすかな笑みを浮かべたまま色素の薄い髪を撫でてやり、そのまま事務所に帰るまでフーゴに視線を向けることはなかった。