陽差しと芽吹きの匂いを織り込んだ風を吸い込みながら、あてが外れたなとミナキは小さく呟いた。落胆はさほど含まれていない。ただほんとうに意外であったというニュアンスで、それを瞳にも浮かばせた彼はきょろきょろと視線を動かしながら歩を進めていた。およそ半年ぶりに訪れた古都には目にみずみずしく眩しい新緑が満ち溢れ、古きよきものと初々しいものが混在した、どことなく浮き足立った温和さを漂わせている。植込みのヒメリがライムグリーンに近い明るくつやつやした葉をいっぱいに生やしているのを脇目にとめつつ角を曲がると、馴染みの商店街に連なる街路樹はみな爽やかな黄緑色に染まっている。中程に在る花屋の前で立ち止まって品揃えを窺ってみたところ、ガーベラやカーネーションが旬だといって色とりどりに売られているようだった。景観のために色味をおさえられたエンジュの街並みの中で、その花々は滲み上がるように鮮やかで馥郁としている。やはりもうすっかり春は来てしまったのだな、とミナキは思った。
「着いたぜ。しかし桜はとっくに散ってしまったようだな、ちょうど満開かと思っていたんだが」
『お疲れ様。今年は急に暖かくなったからね』
「ところでどこに居るんだ? 花見をしているというから寺かと思ったが……あちらも葉桜じゃないか。からかったのか?」
「違う違う、だから着いたらまず電話くれって言っただろ。せっかちだな」
スズねの小道だよ、そう言った電話口の声に思わず聞き返そうと足を止める。こちらが眉を顰めたのをまるで見ていたようにマツバはひといきふたいき笑ってから、いいからおいでよ、と続けてポケギアの通話を切った。ツーツーという音に混じって若い葉が風に揺れている音がする。ちょうど今しがた通り抜けてきたばかりの寺の通用口を振り返って、ミナキは息をつくとすぐに踵を返した。木戸を閉めようとしていた坊主に声をかけると不思議そうな顔をされた。




「これは驚いたな」
ぽかんと子供みたいに口を開けて上方を見上げているミナキの横顔を満足そうに確認すると、そうだろうそうだろうといってマツバは幾度か頷いた。この男にしては珍しく面白がるような顔である。それから腕を組んで同じように頤を上げると、折よく吹いた風に薄紅色の花びらがひらひら飛んで空に飲まれてゆくのが見えたので、笑みのかたちのまま双眸をまぶしげに細める。これをきみに見せたかったんだよ。感嘆をまじえた呟きにミナキはああ、と生返事をよこしただけだったけれども、それがなんて相応しいのだろうという空気がこの場には流れていた。しんとした底から押し上げるように卯月の息吹きが、放射状になってその一本の樹木を取り巻いている。一面の紅葉の中で、この一本だけが桜を咲かせているのだ。
「きみはどう思う」
「春が来たんだろう」
「ホウオウがいなくなったから?」
「――そうかもしれん」
どちらともなく見合わせた顔は、すぐそこに在るのにも関わらずひどく遠い。互いのあちら側になにかを捉えていた。風が吹かない筈の小道ににおやかな風が横切って、桜の花びらをさらいあげ青空に光の粒のようにして飛ばしている。ざああと強い風がマフラーをはためかせた。それを抑えながら再び桜をあおいだマツバは、もう笑みを潜ませてしまって、まなこを開いたまま静かに眉根を寄せるとしばらく黙っていた。ミナキは外套をひるがえるのに任せ、その名伏しがたい横顔をじっと見つめていた。
この場所は長いこと神域であった。伝説の息がもっとも色濃くかかった、人間にはとても解き明かせないほどの甚大な力が働いている一帯はいつでも必ず秋色に染まって、他のなにものも受け容れぬ高貴さと潔癖さを備えていた。音もなく風もなかった。美しく温かい色に染まっているのに、どことなく常にひんやりとしていた。少なくともミナキはそう感じていた。そうしてこの静謐に、いとおしさとおそれをマツバが抱いてこれまで生きてきたことを知っていた。今の形容しがたい表情が、だから先程までの可笑しむような相好と剥離するものではないことを、知っている。
「胃がぞくぞくするんだ、空を飛んだときみたいにさ」
「ふふ……覚えがあるよ」
抑えの利かない変容を見つめているのだと、胸に手を当てながらゆっくりと息を吐き出してミナキはぐるりを見渡した。もみじ葉がするすると落下を辿ってしまうあえかな風の中で、かろやかに舞い上がる桜に託されているものとは何だろうか。杳として移ろわなかった小道に訪れた、掬いあげるような春の暖かさによろこびおびえている。いつかのハナダで私が感じたのと同じ喪失感と高揚感をいっしょくたにこみ上げさせて、マツバはこの桜をどれほどの間見上げていたのだろうか。ミナキはそう思案してそっと手を伸ばすと、桜木のざらざらとした幹に触れた。硬いのに不思議と優しい、生きている触り心地がする。
「この花が散って葉っぱが出てきて、それが紅葉して、全部落ちたらまた、こうやって花が咲くんだぜ」
「うん」
「なんて……そう、目まぐるしいんだろう」
「うん……ほんとうだ」
「……きっと変わっていくな、これからもっと」
語尾が震えてしまわなかったかどうか、自信がなかった。喉の奥が狭まったように感ぜられた。食い入るように空を見上げているマツバがもういらえを発しないのを横目に見てとってから、光のなごりを押し出すように瞼を伏せて、髪もスーツの裾もこまやかに震わせている風に身を任せる。ざあざあと花房を鳴らす音色には、包みこむようでいて置き去りにするような、しがらみのない澄んだ響きがそなわっている。
待ち続けることもなく、追い続けることもないだろう。この先ずっとこうやって、開きながら散ってゆく春に触れてはいくつもの感慨を湧き上がらせて生きていく。それらを剥離しないままにいっしょくたにして居られる、それがなんて心許なく尊いのか、きっと自分たちは誰よりもよく分かっている。抑えの利かない変容に泣き笑ういとなみはまるで命そのものだ。こんな世界で生きていたのだと、たったひとつの憧れに生かされていた自分たちは、ほんの今しがたまで気がつかなかったのだ。

「ようやく僕も、動き出せる気がするよ」

薫風に溶かしこむような声に意識だけを向けながら一度頷いて、ミナキは手袋を外すと空に手を伸ばし、ひらひら舞い踊る花弁を掴もうと指先を泳がせた。傍らでマツバが笑った気配がした。