紙を捲る音と軽く机を叩くような音、それらのほかにはほとんど何も聞こえないうえにひどく殺風景な室内で机に向かっていたダイゴは、ちらと明るい色の瞳を一角に置かれたソファに向けて、それから慎重な様子で溜息をついた。空気の流れがほんの僅かに変わる。固めだがしっかりとした弾力をもつ椅子の背凭れに体を預けると、小さく軋んだような音がして顔をしかめた。勿論軋んだのはやたらと高級な椅子ではなく、自身の背骨のほうである。集中力はあると自負しているが、長時間じっとしているのは好きではない。それがやりたくもないデスクワークなら尚のことだった。

「もう休憩? ちょっと早すぎるんじゃないか」
「だってさミクリ、僕がここに座ってどれくらい経ったと思ってるんだよ」
「うーん、一時間くらいかな」
「倍だよ……きみってそういうところ鈍いよね」
「きみに言われたくないよ」

ボールから出したココドラとダンバルを飽きもせずに構ったり、ダイゴの仕事部屋にある持ち主でさえたいして読まないような本をぱらぱらと眺めていたミクリは執務机に顔を向けるとやれやれというふうに笑って、飽きたと全身で物語っているダイゴの訴えかけるような視線をものともせずに優雅に立ち上がる。普段纏っているマントがないのでやけに縦長に見えるシルエットは、片手を腰に当てて片手をひらりと宙に浮かせるという、ひどく見慣れたポーズを形作った。この仕草がこんなに似合うのはミクリしかいないだろう、そう思いながらダイゴは依然として椅子に寄り掛かったまま脚を組んだ。卓上を見れば書類の山。チャンピオンを降りてから父親に頼まれるようになってしまった会社の雑務が、こんなところで自分を拘束するとは思いもしなかった。しかも、よりによってミクリに監視まで頼むなんて。

「お父様も必死なようだったよ。どれだけ溜めこんだか知らないけど、優秀なくせにダイゴは偏りすぎなんだ」
「カナズミに戻る暇がなかっただけだよ。書類を持って洞窟には行けないだろ」
「暇って、きみはいつでもヒマなんじゃないのか? ふふっ」
「うるさいな……ひょっとしてまだ怒ってる?」
「まさか! 私はそんなに執念深くはないよ」

いたずらめいた笑みを浮かべて、ミクリが机の向かい側に軽く体重をかける。その格好にそそられてしまった自分はずいぶんと長いことこの男と会っていなかったのだな、とダイゴは目を細めた。誤魔化すように溜息をついて瞼を下げ、これ見よがしに首を回すと予想外にごきごきと嫌な音がして、ああほらデスクワークは向かないんだよと改めて内心で悪態をついてしまった。ミクリがやけに機嫌のいいこと、それだけが救いと言えば救いである。暫くチャンピオンを代わってほしいと頼んだときにはそれはもう、自分達にとって前代未聞なほどの大喧嘩をっして散々だったのだ。割れるグラス、容赦なく殴られた頬の痛み、ついつい他人行儀にミクリさんとか呼んでしまったあの忘れ去りたい期間、それらがしかしどういうわけか鮮明に蘇り、うっかり苦い気分に沈む。まあもっとも散々だったのは、怒りにまかせて美しさをかなぐり捨てたミクリにバトルで滅多打ちにされた四天王かもしれない。あの後ダイゴは四人からこっぴどく叱られて、挙句の果てには夜通し飲み会に付き合わされ奢らされたのだ。財布はべつに寒くなんてならないが、それでもあの時は心に冷たい風が吹いたのを良く覚えている。ミクリをキレさせてはいけない、長い付き合いではあるがあの事件からダイゴは胸に刻んでいるのである。

「……それにしても嬉しそうだな、僕がへばってるのが楽しいの?」
「違うよ、まあ少しはいい気味かなとは思うけど」
「ミクリ、本当は怒ってるだろ」
「違うってば。……だってダイゴ、こうやって二人っきりで居られるのって久しぶりじゃあないか」
「え、うん」
「まあきみは寂しくないのかもしれないけどね……わたしは」
「いや、僕も同じこと思ってたよ」

立ち上がってもやはり高級椅子はひとつも音を立てることはなくローラーを転がし、顔を寄せたダイゴの低められた声を遮る者は何もなかった。ミクリもまた机に体を預けたまま微かに身じろぎをしただけで、あまり表情を変えないまま身を乗り出したダイゴに呆れを含んだ笑顔を見せる。そのまま軽く唇を合わせたものの、ダイゴの手が伸ばされる前にひょいと退いて慣れた足取りできれいに体の向きを変えてしまうと、大窓を背にして不満そうな顔をした御曹司がつまらなそうにミクリ、と呼んだ。

「お預けだよ」

歌うような笑い声につられたのかふわふわ浮かんで寄って来たダンバルを撫でながら、ミクリはチャンピオン戦で見せるような余裕のある笑みをつくった。ダイゴは拗ねたように椅子に沈み込むと、あとで覚えてろよとぼそり呟いて頭を掻いた。ミクリは僕を操るのが上手いのかもしれない、とこういうときには思う。少し間をおいたのち、「コーヒー淹れてあげるよ」と隣の部屋へ向かった背を上目に見やりながら、一刻も早く終わらせてやろうとダイゴは静かに眉根を寄せた。もしも今ミクリが自分を見たなら、こどもみたいだと大笑いされる自信があった。