箱庭のようなカルデラの底から見上げる丸く切り取られた空に、白くまたたく無数の星が帯状になって横たわっている。ミクリは自宅のバルコニーから少し身を乗り出す格好で手摺に重みを預け、そのちかちかと細かに明滅を繰り返す夜空を透かすように見上げていた。ルネはだだっぴろいホウエン南側の海にぽつんと浮かぶ旧火山であるので、気圧が低いとすぐに雲が上空に発生してしまうのだが、どうやら今夜のルネは天気に恵まれたようで雲がひとつも見当たらない。ミクリはひとりでに緩んだ頬をそのままにして、風に揺れた髪を直すような仕草で横髪をいじった。本当は風など吹いていなかったけれども、ミクリはそうやっているとあたかもそよ風を感じているような心地になるのだった。

ベガとアルタイルを男女に見立てた伝説というのは、カントーやジョウトほど此処ホウエンでは浸透していない。それに代わるジラーチ伝説のまさしく星粒のような輝きを、人々はずっと夜空に探し続けてきた。一年に一度と千年に一度、数字だけを見てしまえばおそろしくかけ離れているように感じてしまうものだが、後者はもし訪れれば必ず願いは叶うといわれている。対して前者には確実性など何もなく、短冊を吊るすなどといった慣わしは単なる願掛けだ。どちらにロマンと希望を抱くかは人それぞれとしか言いようがないけれども、ミクリはこの七夕という日が昔から好きだった。引き裂かれた恋人たちが一年に一度だけ逢瀬を楽しむことを許された日だなんて、なんとも切なく美しい。
ちょうどふたつの星を結ぶラインをなぞるように手を伸ばして星の海に浸すと、さらさらと流れる天の川の音が聞こえるような気さえした。雲のない空ということは、おそらくは恙無く逢瀬は果されただろう。
するとその星雲を切り抜くように、視界にひとつの影が降りた。

「お邪魔だったかな」
「……いいや?」

ふわりと下降してきたシルエットに息をついて肩を竦めると、バルコニーから一歩下がって来訪者を迎えた。久しぶり、と手をひらひら振るダイゴは夏でも相変わらずのスーツのまま涼しげな顔をしている。片手を軽く上げて見せて、それから彼が悠々と腰かけているメタグロスにもこんばんはと声をかけてやれば、赤い目がじっとこちらを見てからくぐもった鳴き声が返ってくる。今日はエアームドではないんだねと眉を上げて問いともつかない言葉をかけると、だってどうせ君と飛ぶんだから乗り換えることになるんだし、とこともなげにダイゴは笑った。

せっかくだし星が見たいと零したら、「じゃあ空の散歩でもさせてあげるよ」とダイゴはグッドアイデアとばかりに声を弾ませて笑った。それが数日前に電話で話した時だ。次に会えるのはどうやら七夕らしいと分かった時には年甲斐もなく嬉しくなったりもしたのだが、ダイゴというのはあまりロマンを理解しない男であるから(石に関しては別である)ミクリが言い出さなければ特に何事もなく夜を過ごしていただろう。それでも構わなかったけど、と内心で言い置いて、しかしミクリは随分と長い間このバルコニーに佇んでいた。それをダイゴも分かっているのだろう。満足そうに笑っている。どうせ楽しみにしていたことはとっくに見通されているのだろうから、改めて何か言ってやることはしなかった。

「さあ、お手をどうぞ」

手すりにメタグロスの体をくっつけてギリギリまで寄ると、ダイゴはひどく型に嵌った仕草でこちらに手を差し伸べた。ああずるいなと思う。普段そんな素振りは見せないくせに、悔しいくらい彼は格調高い空気を纏うときがある。照れとも苦笑ともつかない面差しをつくってから、ゆっくりその手を取って手すりを越えると、一瞬の浮遊ののちに硬質なメタグロスのボディに足を着けた。わずかに揺れた拍子にダイゴの腕を握ると、腰に手を回して窺うように見遣ったアイスブルーが星をうつして煌めいた。なにかがこみ上げるのを感じたが、特に言葉は交わさなかった。そのまま穏やかな上昇を続けてゆくうちに、二人はやがてルネを取り囲むカルデラの頂上を越えていた。

(ふちのない空だ)

茫洋と横たわる水平線を恐ろしいと言って震えていたのは、一体どれほど幼い頃だっただろう。
白壁に守られて生きていくようにできている島民にとって、あてどもない水平線はそのままどこかへ落ちてしまうようで妙な胸騒ぎがする。今でもそう言っている人間は多い。ミクリも初めは外の海がどちらかといえば嫌いだったし、この胸の奥が筒抜けになってしまうようなゆきすぎた解放感が怖かった。外の海には拠り所が何ひとつなかったからだ。
そんなミクリを、初めて空からルネの外に連れ出したのはダイゴだった。あの日もダイゴはエアームドの背でミクリの手を握って、心配なんてひとつもないと言わんばかりに笑っていた。今とまったく変わらない。ダイゴは少しも変わらないのに、私は随分と変わったものだ。そう声にはせずにひとりごちると、今度はポーズではなく本当に風にあおられた髪と帽子をおさえつけながら、息だけでミクリは笑った。

「ありがとう、ダイゴ」
「ん? どういたしまして」

心地の良い声がすぐ傍らで和らぐ。全部分かっているような声色はやはりずるい。一面の海と星雲を泳ぎながら、ダイゴと一緒なら天の川に沈んでみてもいいなと考えていることなど、きっと彼はいつまでも知ることはないのだ。そう思ってミクリは楽しい気分になった。