走れども、走れども走れども闇である。ふる霜の冴え冴えとした冷たさが、一足踏み出すごとに増してゆく心地がしていた。ひきつった己の息遣いばかりが頭の中で響いている。吐き出すごとに白くけぶる吸気は、視界をたちまち濁らせたかと思うと、すぐに後方へと流れて消えてしまう。かきわける寒風のために、鼻のかしらの感覚がない。喉の多くは焼けるように熱いのに、空気に触れているところは目の表面に張っている水までことごとく冷やされて、痛むほどに寒かった。
ざざざざっと枯れ草が音を立てる。霜柱が割れて潰れる。よく晴れた空であったのに、月が失せたかのように辺りは暗かった。速度を緩めぬまま視線を動かしても、木々の真っ黒い輪郭ばかりがあてどもなく続き、人の手による灯りは見えない。それに安堵しながらも、言い知れぬ絶望が胸を覆っていた。右も左も分からない。
(待っていてくれ、必ずぼくは)
抱えているのが一体何であるのか、自分でもよく分かっていなかった。どうやら土と血の臭いでひどいものだったが、この寒さで鼻はとうに麻痺している。縋りつくように抱き締めるとまだ温かいような気がして、叫びだしたい衝動に駆られた。一瞬息が吸えなくなった。誰かひどく大切だった人の声が耳元で聞こえた。開いたままの眼前が赤く塗り潰され、こみ上げる苦しさと吐き気に唇を強く噛みしめ、それでも足を止めることはできない。生き延びろ、生き延びろ生き延びろ、優しい声がどこまでも背中を押している。
(必ずきみを……!!)
右も左も分からない。夜の帳は明けやらない。それでもひたすらに走り続けていた。この意識がはたらくからには、どうしたって生き延びなければならなかった。こんな体ひとつ命ひとつに長らえるだけの意味など見出せずとも、抱きしめたこれを綺麗な水で洗ってあげなければ気が済まないように思われた。ゆえに、何が立ちはだかろうとも走るのを止めてはならない。夜が明けるまでは。この闇が晴れるまでは、何があろうとも――



燭台の明かりがぼうやりと浮かぶ中に、ディオが笑みを浮かべて立っている。室内はひんやりとして薄暗かったが、彼の赤い瞳が爛々と輝いてこちらになにごとかを伝えようと紅い唇をぱかりと開いている様が見える。そういう夢を頻繁に見るようになっていた。夢と言えるかも曖昧なほど初めは閃く一瞬の光のようなものであったが、次第に彼を認識できる時間が伸びていき、今では彼を見つめながら瞬きまでも出来るようになっている。ジョナサンが自分を見たことを確認すると、彼は懐かしい呼び名でジョナサンを呼んだ。懐かしいのだが記憶にないような声色であった。それに対して何かを考えるとか感じるとかいったレスポンスが叶うほどには長いこと目を覚ましていられなかったので、ジョナサンはただ彼の名を呼んで再び目を瞑るのだった。

ディオが現れない間は、あの暗くて寒い夜の夢を見ている。どこかへ辿りつこうとひたすらに走っている。幾度も幾度も同じことを繰り返しているのだけれども、走っている最中はそのことに気がつかないのだ。ディオがぽっかりと闇に穴をあけるようにして姿をあらわす時にだけ、ああそういえば暗く果てしのない夢を見ていたのだったと思い至る。相変わらずジョナサンは、自分が何を後生大事そうに抱えているのかをずっと知らなかった。知ろうという意志のはたらきを有さなかった。

そうしているうちに、目の前に現れるディオは夢の産物などではないことに気がついた。次におのれはどうやら首から下がなく、ディオの首から下に継ぎ足されているものこそかつての自分の肉体であるらしということを直感的に知った。それまでにも幾度もの再会と瞑目があり、一度もあやまたずに彼はジョナサンを呼んで注意深く瞳を見つめてきた。ジョナサンは彼とまなざしを重ね、重ね、重ね、そのたびに深い悲しみと憐れみを抱くようになっていた。次第に瞬きが二度出来るようになり、ディオが徒名のほかにもいくつか言葉をかけてくるようになっても、暫くは何も返してやることが出来そうになかった。
意識がどこか夕暮れめいたほろほろとしたほの暗さの中を漂っている時間というのが、ごく偶にあった。覚醒と夢のちょうど中ほどであるらしかった。目を開くことは出来なかったが、音を聞くことはできた。そういうときに時折り遠くのほうで何か正体のわからぬ物音がしたり、話し声が届いたり、またあるいは誰か見知らぬ人間らしき気配があると、ああどうやら彼はひとりではないのだということだけ分かって何故だか安堵した。何故だかは分からない。ただその相反する心の動きがおそらくはあの暗い夜の夢に関わりがあるのだと、繰り返しの中でジョナサンは確信するようになっていた。

「夢を見ていたよ」

或る時ディオが口を開くよりも先にそう伝えると、彼は驚いたように目を見開いてからそうかと嬉しそうな仕草でこちらに手を伸ばした。触れられたと思ったときには意識が薄れ、またどれくらいか経ったあとに彼の姿を確認するとディオはやはりジョナサンの頬に触れていて、夢の話しをしてくれよと言うのだった。そのかんばせはかつてふたりが人間として生きていた時代のどれよりも穏やかであるようにジョナサンには見えたが、それこそが彼はもうヒトではないのだと静謐に物語っていた。そしてまた、おのれもヒトではないのだということをどうしようもなく突きつけるのだった。ジョナサンはディオの催促にいつかね、と眠たげないらえを施しながら、ディオの首から下に納まってしまったかつての肢体、そして覚えうる限りのすべての尊いものに呼びかけた。

ああどうか、どうか彼を再びの眠りにつかせたまえ。




「8秒だ、ジョジョ」
「なにがだい」
「世界を止められた時間さ」
どれくらいの月日が流れただろう。そのとき目覚めると、ディオはどこか常とは異なった顔つきで虚空を見つめていた。ジョナサンを見ていなかったのは初めてだった。ジョナサンが視線を巡らせると、自らの置かれた何らかの液体の器にいくつもの睡蓮が浮かべてあるのが分かった。澄んだエーゲ海のように美しく、しかしこの世の全ての憂いを吸い込んだような深く神秘的な青色をしていた。古代エジプトの時代からこの地で愛されてきた花だった。お前なら喜ぶと思ってな、とそれを信じてやまないといった顔でいつの間にかジョナサンに意識を戻していたディオを見上げ、そうかいと言って目を伏せる。彼がなにを考えているのかなど到底分からなかったが、この頃にはひとつの確信が心に芽生えていた。それは魂ともいうべきところでのみ感ぜられる、血脈が伝えるひとすじの希望だった。
「次に目覚めたらディオ、君に夢の話しをするよ」
睡蓮の香りを肺腑もないのに吸い込んだ心地がして、その時初めてジョナサン・ジョースターはDIOの前で笑みを浮かべた。今ではもうあの暗くて寒い果てしのない夢を見ることもなくなり、代わりに夜空に煌めく星のような、小さくてそれでも決して消えることのない泣きたくなるほどの尊さで呼びかけてくる声を聞くようになっていた。それはふたりが海底に沈んだ日から細い糸を紡ぐように受け継がれてきた命が、長い時を経て自らの宿命に立ち向かうべくあげる生命の叫びだった。
ディオ、きみには聞こえないのだろうか。あの決して折れることのない意志の咆哮が。幾度も失い悲しみを掻き抱いてそれでも繋いでいくことをやめない、人間という限りある儚く強いものたちを讃える彼らの声が。ああディオ。きみがぼくとひとつになったのならば届いてほしい。どうかこれが、君を貫く最期の光となるように。ぼくはきみとひとつになった体とこの世の全ての尊きものに、祈っている。


「おやすみ、ディオ」