「それ以上進んだらぶん殴るぞ」
「…………」
「あー、こんなことになってるんなら迎えに行ったのに!」
だいたいどうして傘を買わないんだよ君は、と頭を抱える仕草をしながら足早に洗面所へ向かったフーゴの後ろ姿を見送ると、アバッキオは頬にべったりと貼りついていた髪を乱雑に掻き上げて足元に視線を落とした。汚れ落としのために敷いてあるマットがみるみる水浸しになっていくのが進行形で見てとれる。そこには僅かに濁った赤色も混じり込んでいるようだった。黒ずくめである自分では判断がつかなかったが、衣服に染み込んだ血液が流れ出しているのだろう。あれだけ雨に濡れてもまだ落ちないのだから、つい先刻殺してきた男によく似て執念深いむかっ腹の立つ血液だ。これではフーゴが怒るのも無理はない。綺麗好きのあいつのことだ、どうせこのマットは洗濯されることもなく捨てられるだろう。
一度ドアの外へ出てやろうかとも考えたが、それはそれで癇癪を起こされるかもしれない。なにせすぐに機嫌を悪くする奴なのだ。おおよそ温厚とは程遠い部類に属していると十分に自負しているアバッキオではあれど、あの少年ほど予兆なく、コインの裏表をひっくり返すようにブチ切れることなど容易には出来ない。今でこそ地雷であるとか前兆であるとかそういったものを捉えることが出来るけれども、出会って間もない頃はフーゴが何故そこで激怒するのかなどまるで理解が出来なかった。いや理解と言うならば、どうせ今でも出来てはいないのだろう。する必要もないと思っていた。
「ほら!これで頭拭いて。服はそこで脱いじゃってくれよ、ボウルに入れてやるから自分で洗ってくれ。勿論バスルームは綺麗に洗っといてくださいよ!血の臭いなんて残されたらたまったもんじゃない!」
「……おい、俺はそこまで頼んじゃいねえぞ」
洗面ボウルを無造作に足元に放ったフーゴにバスタオルを被せられ、犬か何かのようにがしがしと遠慮なく水気を取られる。流石に髪にまでは血は付いていなかったのが幸いといえばそうだが、彼にとってはこの長髪だけでも随分と気分を害するらしくしきりに悪態をついている。そうまでして拭いてくれずとも一向に構わねえんだが、喉元まで出掛かっている一言をしかし音にすることなく幾分か首を前方へ傾けてやると、見上げてくる色素の薄い双眸と目が合った。
その途端、フーゴは一瞬動きを止め、堪え切れないというように面立ちをじわりと揺らがせように見えた。
「? ……おい、どうした」
「えっ……ああいや、何でもない」
かぶりを振るなり虚をつかれたように色を失くしたかと思うと、ふいと視線を逸らしてタオルをアバッキオの肩に掛け、フーゴは逃げるように踵を返した。汚したところは全部そのタオルで拭いておいてくれよと念押しされる。どうせこのタオルも破棄される運命に在るのだろう、と頭の隅で考えつつ、それよりも彼のどこか気まずげな、戸惑いの垣間見える仕草に疑問符を浮かべる。俺の顔に何かついてんのか、細い背中に投げかけた声色は想定したものよりもひどく弱々しいもののように聞こえ、大分雨で冷やされているらしいと今さらに自覚した。いらえの代わりにキッチンで湯を沸かそうとしているらしい物音が微かに届き、アバッキオは何に対してか己でもいまいち分からぬ舌打ちをすると、雨水と血で重たくなった衣服を脱いでボウルに詰め込んでバスルームへと向かった。


お前のとこに寄らせてくれ、
夕暮れ時を過ぎた通りに佇む公衆電話から雨音に掻き消されんばかりの低い声でアバッキオが電話をかけた時、フーゴはまたか、というような調子でいいですよと簡単に返事をした。俄雨にやられるのは今回が初めてではない。事務所からそう離れていない通りにあるフーゴのアパルトメントが、仕事帰りに雨に降られたアバッキオにとって都合のいい避難場所であることを、数秒のうちに彼は心得ていた。以前ずぶ濡れになって報告に戻った時にブチャラティがひどく親身になって世話を焼いてきたのが大変に申し訳なかったことをアバッキオはよく覚えていて、同じ轍は踏むまいと考えていることも。聡い彼には当然のごとく分かっていた。唯一の誤算は、そのずぶ濡れ具合が予想の遥か上を行っていたことだろうか。
「それにしたってあれは酷いよ、テロ並みだろ」
「悪かった」
差し出された熱いコーヒーを受け取った相手が存外素直な態度を見せたのが、彼には意外であったらしい。テーブルの向かいでぱちぱちと子供じみたまばたきをするチームメイトに比較的穏やかな目線を向けてから、砂糖の入っていないそれを嚥下する。シャワーで存分に温まったと思っていた体にもやはりそれはじんと沁みて、吐き出す息とともに身の強張りが流れてゆくような気がした。「…寒くない?」「ああ」コートによって水浸しを免れたパンツのみを穿いてあとは肌を剥き出しにしているからであろう、呟くように投げかけられた問いに短く返すと、そう、とやはり短く頷いてフーゴもコーヒーに口をつけた。砂糖とミルクが入っているであろうそれ。彼ひとりならば進んで淹れようとはしないそれが何故いつでも彼の自宅にあるのか、尋ねたことはない。

屋外では今でも小糠雨が降り続いている。昼過ぎから止むことなく街を濡らしている冷たい水が今もまだ腹の底あたりに溜まっているようで、カーテンの閉じられた窓のあちらを睨むように眇めてから必要以上に深く息をついた。雨は取り立てて好きでも嫌いでもない。だが冷えた体が温まっていく過程が、あまり好ましくないのだった。肉体的には文句なしにありがたいことであるのは承知しているのに、惚けていくのにも似た緩んだ感覚が時折りひどく気持ち悪い。場違いに思える。おそらく誰にも会わずに済むのならば、服だけ脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだだけで仕舞いだろう。それくらいが自分には調度良い。しかしあのブチャラティという男はアバッキオのこのような姿勢を良しとしない男であるようで、前回はまるで母親のごとき剣幕で世話を焼かれたばかりかいたく真剣な顔で説教まで食らった。あの日の困惑は、ちょっとこれまでの人生で類を見ないものであったろう。感謝すべきところであり決して迷惑がってはならないし、実際迷惑だったわけではないのだが、想定外の申し訳なさと奇妙な感覚が残ったのだ。…そして結局回避のために訪れたフーゴのところでも、似たような感慨に襲われている。
「お前は説教なんかするなよ」
「はあ?」
「いや。ところでフーゴ、なんでさっきから俺を見ねぇんだ」
訊けば、ぎくりとしたふうに肩を揺らして彼はカップを置いた。
「……ルージュがとれてる」
「あ?」
「君のその顔を、随分久しぶりに見た気がしたから――それで」
頬杖をついて行儀悪く下唇を突き出しながら喋るフーゴに、一寸噴き出しそうになった。微笑ましかったというよりは、馬鹿らしさが勝っていた。決してこちらを見ないようにしている瞳は、行き場のない苛立ちを湛えて部屋の隅を睨みつけている。目元のあたりが微かに染まっているのが見てとれる。玄関で間の抜けた顔をしていたわけが、ようやっと知れた。たかだかそれだけのことだ。それと気付いていたらもう少し別の反応をしてやれたかもしれなかったが、かといってフーゴがそんなあまやかさを望んでいたのかは分からなかった。恐らく違うだろうなと内証し、カップの底に残っていたコーヒーを飲み干す。ぬるくなっていた液体は胃によく馴染んだ。
ああまたあのかんじだ、アバッキオは目の前で外見通りの幼さで感情を持て余している少年を見つめ、内心でごちる。こいつももしかすると、場違いな感覚にもどかしさを抱いているのかもしれない。あるいは恐れているのかもしれない。ほんの些細な、ありふれた日常と地続きのことがらひとつで大きく揺さぶられるような、この感覚。まるで生まれる前に戻ったかのような所在無さ。

しばらく雨音の中で沈黙を育ててから、直接的な返答をせずにいるとフーゴに手を出せと言われた。眉をひそめながらも右手を差し出した。奴はそれに左手を伸ばして、真綿で締め付けるような下手糞さで指を絡める。こちらのぎょっとした強張りに気づかなかったふりをして「やっぱり冷えている」と恨みがましくぼやくので、お前も似たようなもんだと返せば一回り小さい手が咎めるように爪を立ててきた。